三月四月は年度の切り替わり。
いろいろなところで顔ぶれが変わる。 ニューフェースにお目にかかる機会でもある。

最高学年が卒業すると、もう3月中に昨日までの1年生が2年生になる。
そして彼らは卒業年度に入ったことを自覚し始める。

卒業年度の最大課題は、当然のことに卒業制作。
2年生のカリキュラムは早い。慣れるのに精いっぱいの年を終えれば、学びの成果を示す制作に取り組まねばならない。
先輩たちの卒業制作の展示を身近に見ながら自覚を深める。

現職の頃毎年「最後の挨拶」をされる先輩諸氏の姿を見ながらいつか自分もああして皆に別れを告げ自分なりにそれまでを総括するんだろうなあと、その日の自分を想像していた。

そして、それぞれに人に対する人物や仕事に対する評価はともかくとして、人生の一区切りを迎えた先輩に対してはしっかり敬意を示したいと思ったものだ。
自分もあとに残る人たちのそういう眼差しを裏切らないように区切りを越えたいと思っていたのだが・・・・。

そういう区切りは遠い昔になり、自分に対する意識としては、毎年訪れるこの時期に対する感慨も次第に薄れて、時間の進み方、展開の仕方の違う「今」を大切にしようという意識が湧いている。
日曜日が他の曜日に対して特別な意味を持つ生活は終わり、毎日が同じ顔をするようになった生活のメリハリは強いられたものではなく、お仕着せられたものではなく自分で設計していくことができる。
そのことを楽しみたい。

ここにいる職人の卵たちを見ていると、一層自分の立ち位置を意識せざるを得ない。
ここに写真を撮りに来るのは彼らを激励する気持ちとともに、自身の姿を見るためなのかもしれない。

「少年易老學難成 一寸光陰不可輕 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」
の句は、若者に対して「うかうかと時を過ごしたらいけないよ。」という諭として引かれるが、そういうことを言われても、凡庸な私などは、言われた時には到底実感できず、何ほどか実感を込めて理解するのは色づいたあお桐の葉を眺める今更になってなのだ。
だから、いま人生の先輩たちが言う言葉に耳を傾けることができる人生の季節となっているわけだが、そこで「後悔先に立たず」を苦くかみしめることになるわけなのだろう。
先に立たなかった「後悔」の苦さを感じることで、残された時間の愛おしさが増すというものだ。
- 2017/04/27(木) 00:00:25|
- 工芸
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