日本の青年たちが、あちらでトランペット、こちらでギター、さらに向こうではサキソフォーンなどと洋楽器を奏で、ここではアメリカ人が尺八を吹く。

この後、自転車で走ると若い女性が馬頭琴を弾いていました。
まだ入門という感じで楽器もごく新しそうでしたし、弾かれる弓も角度が定まっていないようでした。でも、いい趣味ですね。
それはともかく世界の音楽が混交していくのですね。

今度の写真展の「名前」を知らせてくださいとギャラリーの係の方から電話が入りました。(一か月前の話です)
「ふ~む、今まで『素敵な人たちと』でやってきたけれど、どうしよう。」
「『素敵な人たちと』はやっぱりもう一つじゃない?!ちょっとアピール力に欠けない?!」とかみさんが言います。
( おお、後ろからバッサリですね。まるで籠池氏の心境です。 )

どうしましょう。
この尺八の人も加えた写真展をアピールしようとしたらどういう言葉がいいでしょうか。

一方で若い女性の魅力を写した写真も出したいし。
あれもこれもというのがそもそも盛りだくさん過ぎて規格のピントボケになてしまい、やりすぎでしょうか。
昨年、個展をしなかった付けが回ってきています。そうはいっても今年二度することはできませんしねぇ。どうしたモノでしょうか。
桂枝雀さんはご自身の落語が一番好きで面白いと言っておられたようです。
そういう境地になれるように頑張りたいですね。

北朝鮮脅威論が盛んだ。
脅威は新たな段階に入ったと安倍氏や稲田氏は言う。
そして米国の軍事的先制攻撃をちらつかせて、脅迫を抑止と言い換えて盛んに軍事的選択肢歓迎の意を示している。
しかし、私は彼らの脅威論を認めない。 なぜか。もしそういう北朝鮮の現実的脅威があるのならば国民の生命と安全のために何故外務大臣なり自らが北朝鮮に乗り込まないのか。乗り込んで北朝鮮の言い分を聞き、世界の声、日本の主張を展開して核兵器の放棄を説得しようとしないのか。
自衛隊員に対しては自らの命を賭して戦闘が激しく行われている海外の地に行けと言いながら、自らは観桜を楽しんでいるような人物の言をその言葉通りに受け取れるだろうか。
相手がこぶしをふりあげるからこちらもと言う選択をするくらいならば誰でもできる。あなたたちはかりそめにも政治家を名乗っているのだ。庶民がつい浅慮でもって感情に走ってもさすがの洞察と政治的術策、交渉で戦火を避けるというのが政治家としての腕の見せどころではないか。それができないでアメリカの軍事的な攻撃を期待し、自らも手ぐすね引いて戦争への道を掃き清めるしか手がないのならば、「我々にはこれ以上手の打ちようがないのでもっとほかの戦争を回避して東アジアの平和を守る知恵や方策のある政党に政権を任せたい。」と政権の座を離れるべきなのだ。
全知全能を非軍事的方策の探求と実行に尽くすべきなのだ。
それが日本国憲法の基準というものだ。
軍事的にしか対応できない政権は政権として失格なのだ。
北朝鮮は政権と体制維持に汲々としている。フセインのようにアフガニスタンの様にまたシリアのように、アメリカの軍事攻撃や反体制派育成による政権倒壊が恐怖なのだ。
目の前にある韓国駐留、日本駐留の巨大米軍が恐怖なのだ。そういうことに少しも手を付けずに、我々はアメリカの核の傘に守られている、アメリカのプレゼンス=軍事的脅威の前面展開は必要だ、そういう日本の状況に毛筋ほども手を付けずにただ北朝鮮に対してだけ言いう事を聞けと言っても従うはずもない。立場を入れ替えればそれくらいの想像は容易にできそうなものだ。
北朝鮮のミサイルが仮に日本にとって脅威ならば、日本の巨大軍事力である自衛隊や米軍が北朝鮮にとって脅威だろうと何故考えることができないのか。
戦後70余年、ずっと軍事的アンバランスのもとに北朝鮮は置かれてきた。常に脅威を感じてきた。それは北朝鮮に味方するとかしないとかいうのとは別の、事実認識の問題だ。
今日の北朝鮮の脅威を言うのならばその脅威の一端は日本自身が作っていることを自覚しないではこの問題の解決はない。
問題は北朝鮮にだけあるのではない。北朝鮮が悪の国だからということでこういうことになっているのではない。
日本にもアメリカにも事態をこれまでに深刻にした責任があるという事。
そういう自己認識が全く欠けている安倍内閣はこうした事態に対処する資質も能力もない。
私はそう考えている。
- 2017/04/19(水) 00:00:52|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0