先日あるところでこういうことが話題になりました。
ヨーロッパに行くと、日本の芸術大学を卒業して・・・・例えばそれが大学院だとしても・・・・高い技能を持った演奏者でもなかなか向こうの機関に迎え入れてくれない。むしろ東大や京大の別の学部で学び、並行して音楽の勉強をしてきた人の方がチャンスがある、というようなことです。

私は少しそれが分かるような気がします。絵などの学生を見ていて思うことがあるからです。
同じことは写真の雑誌を見ても感じます。

ごくごく乱暴に言えば、テクニークはあってもフィロソフィーに欠ける、あるいは希弱だという事でしょうか。
私はその点若いころから写真に取り組んできていないし、これから「写真家たらん」という覚悟にも欠けています。フィロソフィーは勿論、テクニークもまた備わらないので、自分の事は棚に上げっぱなしでの、トーチカの中からの批評で申し訳ないのですが、そういう事じゃないかなと感じるのです。
この写真のように素人の手慰みモロだしのものをアップしていたのでは、大きなことは言えません。(こういう言い方はフォトマヌカンをしてくれている彼女には申し訳ないのですが)

私は結構、東大生、京大生に期待している方だと思うのですが、東大、京大に行ったからフィロソフィーを持っているだろうと必ずしも言えそうもないところが、残念なところですが。
それは中江兆民の指摘した時分から本質的に変わらない日本の思潮の特徴でしょうから、学生だけの問題じゃないわけですし、他人のことを指摘したら済むというものでもないのです。自分に返ってくるわけですよね。

私が加えてもらっている京都ファインダー倶楽部の創立者の一人であるF氏が「写真は芸術にならない」と言われていますが、単に即物的に「『写真』であるしかない」と言うことだけをいっているのではなくて、周囲の写真を見ていて「写真にフィロソフィーが感じ取れない」という事を言おうとしているのかななんて私なりに曲解をしてもいるのです。

こういうことは、私のように考えもなくボカシたり、ブラしたりすれば何かモノ言いたげな写真になると思っているようなことじゃだめだということで、そことははっきりしているでしょう。

だからこそ、この人のような文化的素養を持つ人との交流が私には楽しくもありうれしくもあるわけで、またほかの若い方、年配の方たちとの交流を通じて、ないものねだりの手探りを続けていこうとも思う動機になるわけなのです。
写真は人を見、人を考える窓ですから、撮り続けることが何かの役に立つはずです。それに、それはとても楽しいのですし。
- 2017/03/14(火) 00:00:16|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0