指物師の「卵」です。
工芸の諸分野他の仕事はいずれにもため息をつかされますが、さしものの仕事には肌感の気持ちよさを、私は感じます。
そしてそういう仕事を日常の中の事ととしては建具や家具を通じて感じたいのですが、今やなかなかそうもいきません。

若い人が育っていくのは良いものです。
この人が通っている学校からは多くの若い職人、工芸作家たちが輩出しています。
まだ学校の課題に懸命に取り組むところから見られるのは、相撲で言えば序の口や序二段辺りから見ていることになるでしょうか。

私はこの人たちの様な職人の仕事にそれな入りの需要があることが、日本社会の豊かさの一つの指標になるのだと思います。
経済を数量でしかとらえないような「経済」学では捉まえられないことだと思います。
株価や為替レート、利子率や先物指標などばかりに目が行く経済学が大学で「経済学」の看板を掲げているうちは、幸福の科学にはならないと思います。
経済学は「経世済民」の学ですからね。・・・・ただしこの言葉も元来は為政者視点ですから、それを国民主権的に建て替えする必要がありますが。
ほぞ穴を作り、ほぞを削ります。

次の制作物で用いるほぞとほぞ穴の練習をしています。
意外と・・・・・・と言っては失礼ですが、この学校では❓・・・・・かなり良い材を使って制作をしています。
ですから、いろいろな技を十分練習してから本番の材を使って制作をするのではないかと思います。

「失敗をするのが修練だ」と言っても良い面があります。挑戦すれば、そこにはおのずと失敗のリスクが増します。失敗は不可欠です。それなくして腕の上達はないと思います。
問題はどういう意識で取り組んで失敗し、その失敗をどう意識するかだろうと思います。

だから若い教師などを「一年目から一人前」的に突き放すのは、安心して失敗できないという事でまずい育て方だと思います。
ベテラン教師が若い教師の失敗のしりぬぐいができる余裕のない今の学校の在り方は最悪です。
親も「(それは分かるけど)うちの子で失敗されるのは絶対に受け入れられない」なんて言うようじゃダメです。
(むろんそのためには決定的な失敗を起こさないようなセーフティーネットが張られていなくてはなりませんが。)
別の産業でも同じ。その失敗を柔軟にカバーできる仕組み、人的力を社会がもたないと心豊かな生活には、成らない。
客である以上は、消費者としては完全な商品、完全なサービスを要求する権利があるなんてふんぞり返っていると、その付けは結局自分の労働現場に返ってくる事をお互い知るべきですよね。

こういう点でもやり直しがきく、修正を柔らかく受け止めるという社会でないと人がぎすぎすして激しいやり取りばかりでいたたまれない世の中になります。
そして〈未熟な〉青年が大人へと成長していくことに委縮してしまう。その場にたたずんで「居直るしかない」ようにしてしまう。

試験ごとに振り分け、振り落とすのではなくて、失敗や未熟さを見つけたら、課題が見つけられたことを喜んで「もう一度やり直してみよう」と思える世の中でないといけない。
人はただの「人『材』」じゃなくて、企業の儲けの道具ではなくて、成長し生きていることを楽しみ、苦闘する道すがらを眺め、そして達成を人とともに喜べる主人公なのだから。
- 2017/01/25(水) 00:00:18|
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