「今日の試合についてはどのような展開になると思われますか?」
「まず先取点を先に取ったほうが有利だと思いますね。」
プロ野球の実況中継番組でのアナウンサーと「評論家」とのやり取り。こういうことを言っていて「評論家」として世に出ていられるのだから呑気なものです。
何故又こんなことから書き出したかというと、多くのジャンルで「評論家」の不在を感じるからです。
政治評論家は言うに及ばずスポーツも美術も・・・。そして写真の評論家の不在ですね。(文字通り数学的に「不在」というのでは勿論なくて、あまりに少ないのではないかと感じているというのです。)
世の人が評論家に対してもっているうさん臭い存在だなという評価もこの状況ゆえに生じていると思います。(もっともこれは大半がTVの影響でしょうが)

様々な活動の中で、私たち衆生が無意識の下で、あるいは高い自覚なしにしていることの良し悪しを意識化してくれる評論家がいないということを感じています。
感想を述べることと評論することとには天地の開きがあります。
(学校の課題として感想文の提出などがありましたが、「感想」を書くことの発達的意味が教師間でほとんど不明確・無自覚なので、その後何時まで経っても生徒に求められる文章は「感想」でしかない。…これもまともな教育評論家がいないためでもあるのだと私は考えています。)

優れた評論を目の前にしていれば、無頓着に誰でも何でもものを言っていいのだという今日のマス的心理状況はよほどましになると思うのです。
だれでも自由に発言していいという法律上の保障の問題と、だが、世に向けてものをいうにはそれだけの知的な準備が必要だという自覚がなければいけないという文化的な感性と意識を求められるという事とは次元の違う問題だと思うのです。
そういう感性と・意識を育ててくれるのも優れた評論の存在だと思います。

売文的評論家、応援団的評論家があまりにものさばってしまって、応援と非難はあっても「評論」がないから私たちがものを見る目を養えないのじゃないかと思っています。
それで写真についての状況もあまり芳しくないと・・・。

こんなところで、こんなことを書いていても自慰的な意味以上のものを持ちませんがね。

私は写真について、ずぶの素人ですから「感想」以上の「評論」ができません。
旧職の時には、写真についてとは違う程度にはモノが言えたと思います。 ですからその時に自分がしたのと同程度の質を持った評論を期待するのですね。
(もっともそのときの評論が周囲から歓迎されたかどうかは、これまた別の問題ですが)
有名な写真家の写真展を見に行って、「感じるままに見ていただければいいのです。」と言われると途方にくれます。
何故その写真が斯くも特別に高い評価を受けるのかがちっともわからないからです。あなたの表現しようとしたことは何?、私が感じたままでいいの?!
その写真が「裸の王様ではない」のは・・・・本人が言うと(日本ではなおさら)何かとその態度に対して(中身に対してではないのですね)否定的に感じられてしまうので・・・・こういう理由ですよと話してくれる方が他におられたらなあと思うのです。

それでいつまでも、「価格表」がついていないと、それがよい作品かどうかが、よくわからないのです。
- 2017/01/05(木) 00:00:08|
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