
若いということは大いに可能性があるという事だということがよく言われる。
それはその通りだろうと思う。しかし、そのことはこれから膨大な「選択」をしていかねばならぬという事でもある。
可能性は常に現実化を求めるのだから。
自分を振り返れば、そこが岐路であることにさえ気づかずにいたり、あまりに軽率な、あるいは愚かな選択をしてきたことに、今更ながら冷や汗三斗の思いがする。
また思いばかりが強すぎて、大言壮語の空回りを続けてきたようにも思う。

秋には、冬、春、夏が帰結する。
それを人は「実りの秋」だという。
なるほどめでたい一面としてはその通りだろうが、実らないばかりかたち枯れていく春、夏もあったろう。ただこの失われたものは既に目には見えなくなっているから注目はされない。
そういうことが多少とも分かってくると実りや花開くことが、一層眩しく見えてくる。

そしてそれとともに若いという事、可能性を持つという事の厳しい切なさのようなものも感じる。
そう言うことに多少とも気づくということが年を重ねると言うことかも知れない。
その厳しさに立ち向かっていくために、たくましさや美しさが身にあふれているのが若者の特権だろう。

ところで、この曼珠沙華(彼岸花)は、最近のように注目されるようになったのは何時頃からなのだろうか。
私が子供の頃には鑑賞するような花として意識されていなかったようにおもうのだが、それは私の家族内でだけの事だったのだろうか。
むしろ避けられた花だったような記憶があるのだが。
- 2016/10/23(日) 00:00:05|
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