ドレスデンの町は第2次大戦いの終わりころに連合国軍によって文字通り完膚なきまでに破壊されたことで有名です。
ウィキペディアにも写真が出ていますからご覧ください。街の85%が破壊されたといいますが、まさに残されたのは瓦礫と死体のみといった感じです。
観光ガイドさんはそこからの復興に力点をおいて話されていました。そしてそれはそれでとても貴重なお話でしたが、こうしたジェノサイドが許されるのかどうか、私たちは考え直してみたいものだと思いもしました。発想は原爆投下と通じるものです。
そのドレスデンの街は見事に再現復興されたのですが、その街のたたずまいはとても魅力的でした。
この方はある武勇伝を作ってくれた愛すべき我々のバスのドライバーです。
ドイツの労働者は労基法によって厳格に守られています。そしてそれは単に守られているというよりまさに労働権とより基底の人権をお互いに行使しながら社会を健全なものにしていくという意識に支えられています。
彼らは一定の労働=運転を継続すると必ず休憩を取ります。そして休息し、超過する労働=運転をしません。
それは彼らの労働の質を保ち乗客の安全を保障します。日本のように安価な商品の提供ために長時間、休憩も保障されない運転を強制されるようなことを許しません。それは働く者の威信にもかかるのです。
客もまた安かろう悪かろうを求めない理性を必要とします。日本人の苦手なところです。
彼も含めて俺はエキスパートなんだから「俺に任せておけ」という傾向が強かったようにも感じました。
それが高じてでしょうか、ちょっと・・・いえちょっとという程度のものではありませんでしたが・・・・失敗をしてしまいました。

ドレスデンの町は聖母教会の前に広場があります。そこにはマルチン・ルターの像があるのですが、私たちが訪れた日はこの辺りは「歩行者天国」状態で路上にまでたくさんのテーブルやいすが出されて昼間から大いにジョッキが空けられていたのです。
普段ならば、あるいはランピッシェ通りからもホテル前へとアクセスできたのでしょう。しかし、今日はそうはいきません。そのもう一つ向こうの筋のザルツガッセ通りでないと通行が出来ないのです。
添乗員が、もう少し先の通りから行く方がよいというのに「大丈夫分かっているから。ほらホテルはあの先だよ。」とランビッシュ通りに入ってしまったのです。何かおかしいぞと皆が感じ始めた時にはもう遅い。辺りはビールジョッキとご機嫌の人だらけ。細い通りは無論Uターンなんかできませんから突き進むしかありません。道路に張り出して椅子に掛けている人たちは、巨大なバスがどんどん乗り入れてくるのに驚いて「何事やらん。」と驚き呆れて見上げています。
バスには勝てませんからのろのろ動くバスのためにジョッキ片手に椅子をもって道を開けます。
しかし、困惑した表情や驚きの表情は見せても怒声を浴びせるようなことはありません。
バスの中の東洋人たちも何やら困った顔をしているし。
ドライバーは強引にでも広場を突っ切ればホテルに行けると踏んでいたようですが、今日は広場が酔い客で満杯です。どうにもなりませんからゆっくりと旋回して、もと来た道に戻るしかありません。
我々のバスは大観衆から注目されていました。
先ほど道を譲ってくれた男性たちがまたもやジョッキ片手に避難です。
こちらは申し訳なさでいっぱいですが・・・・。
それにしてもこの狭い狭い路地と、時に駐車中の車をかろうじて避けてよくぞバスを通したものです。
それでも何としても約束通りホテルの前に車をつけるのだと言って、やり切ってくれました。そもそもこの旧市街には特別に許可のある車しか入れないのだそうで、われわれのホテルが旧市街の真ん中にあるので、このバスがここを走れたというわけです。
この武勇伝をしでかした彼は、しかし、とても人懐こい好人物でした。ここに来るまでの運転を見て『うまいなあ。』とひそかに感じていましたが、さすがに彼も広場を走るときには冷や汗ものだっただろうと思います。
さて、
ドレスデンにはラべ川(エルベ川)が流れます。
その岸近くに立つ雰囲気の良いレストランで食事です。
JTBと関係が深いのでしょうから、皆さんの中にも利用された方がおありかもしれませんね。

Italienisches Dörfchenというお店です。
ドイツの夏は夜9時くらいまで明るいのです。
お店のテラスから見た対岸の景色です。
この写真は少々暗めです。 対岸を散歩する人、何か遊びに興じる人がまだまだたくさんいます。
ですから遅くまでの演奏会などが各地にあるんですね。
レストランからはツアーのお連れたちは三々五々ホテルに向かいます。
私は、こういう時にこそ街の空気を感じたいと思い、疲れて早くホテルに戻りたい妻を呼び止め呼び止めぼちぼち行きます。

だってこの景色を満喫しカメラに納めねば来た甲斐がないというものじゃないですか。

そして、そうしたからこそ・・・・・・。
聞こえてきました。

これでなくちゃいけません。

日本では今日8月15日を「終戦記念日」としています。
ここにはその「終戦」時から企まれた歴史の偽造があります。
そしてその偽造を梃子にさらに新たな歴史の「修正」を図ろうとする人々がいます。
書店にはそうした書物がたくさん平積みされています。
ポツダム宣言受諾・降伏の受け入れは14日。交戦の終了は9月2日。そして戦争の終わりは1952年4月28日。ただしそれは「片面講和」として。ソビエト連邦などの「東側」諸国、「中国」やインド、インドネシアなどの国々とは各国ごとの平和条約締結が後日なされる。
ここに偽造され隠蔽されていることは一つや二つの事ではない。
終戦と降伏、戦争責任の所在、対戦相手国≒降伏相手国は何国か、誰に対してか、・・・・。
そして沖縄は1972年(昭和47年)5月15日に至ってようやく「終戦」を迎えた?
閣僚の靖国参拝を中国や韓国の反応問題、外交問題に矮小化しているマスコミの不見識と無責任の付けがじわじわと国民を、東アジアの平和をむしばんでいる。むろんその本源は別にあるが。
- 2016/08/15(月) 00:00:02|
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