最近私の愛機の調子がどうも不安定なので困っています。
というか、多分、写真緒の礎基本を着実に学んでこなかった私の「技術の不安定さ」も原因しているのだと思いますが、外すことが多いのです。

ドイツでもひどい写真をたくさん撮りました。
近く大切な撮影が控えているというのに困ったものです。
露出の決定もホワイトバランスもめちゃくちゃでした。

さて、人を描くという事にはどのような意味があるのでしょうか。
ご存じのようにレンブラントなどにはたくさんの人物画があるわけですが、その時代に生きる人々、ことに新興のブルジョアジーなどの要請もあって描かれています。
そういう時代とはまた違った人物像になると思うのですが、新たな要求、作家の作画欲求はどこにあるのでしょうか・・・・・。

私も人物写真を撮っているものとして、現代社会においてなぜ人を撮るのかを考えてみます。
ただ私が撮りたいというだけでは自分のすることの普遍性を見出すことはできません。
私が無反省にただ自分の要求に沿っているとしても、その要求形成には時代の反映が必ずあります。そのことを自覚的に認識しないでは、何故、どういう写真を撮るかなどという事は問題になりようがありません。

そういう事に頓着しない人々の間には優れた博物館や美術館も又生まれようがないと 今度ドイツに行ってつくづくと思いました。
また旅行会社が企画提案する訪問先も、世界遺産巡り、おいしいもの食べ歩き・・・・からそう大きく外れることはないのだろうなあと思いました。
欧米からの若い旅行者が京都の路地まで、大衆料理屋まで、日本人旅行shが訪れない小さな神社仏閣、酒造蔵や職人の工房まで自ら探訪するする姿勢とはかなりの懸隔があると思いました。
この人の作業、また作品を通じて私たちが啓発されること、また交流すること・・・・もっともっと私自身、そして国民的教養は耕されねばならないなあと思いました。

8月6日。
言うまでもなく広島に原爆が投下された日です。
戦争被害は広島に限らず沖縄戦もあれば東京など都市空襲もありました。
私たちはそれを「被害」の観点で話題にするだけでなく、加害に対する反撃の観点からも反省する必要がある立場です。
沖縄戦や東京「大空襲」はジェノサイド的な作戦でもあり、沖縄ではそうした事態に立ち至らせた日本軍の責任もまた追及されるべきですし、空襲の真実を知らせずバケツや竹ぼうきで焼夷弾の被害を軽減し得るかのような「真実を隠す政府」の在り方も又今日的な問題として話題にすべきと思います。
そうした問題の中で、しかし、核兵器の問題はその破壊力の桁違いの大きさや放射線被害の深刻さ、残酷さの観点から、ことさらに、世界中で共有する問題として取り上げられるべきだと思います。
そして、広島、長崎で被害を受けた日本国民が、その後またビキニ環礁でも核兵器による被害を受け、それでも核武装は合憲と主張する政党によって長期政権が続けられていることについて日本j国民の責任は大きいと思います。
アメリカの核の傘の下にいて、そのアメリカの世界の置ける核配備の変更(軽減)に反対する日本。常にプルトニュウムをため込み続けている日本。その日本が北朝鮮の核開発を批判できるのかどうか、そのダブルスタンダードについても日本国民はご都合主義的発想を続けるのでしょうか。
広島・長崎はヒロシマ・ナガサキへと世界の問題となってきましたが、案外日本人だけが核兵器に関する認識を旧世紀のままにしているのではないかと案じられます。
- 2016/08/06(土) 00:00:04|
- 絵画
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0