清水焼の絵付けをされています。
多くの職人さんは、普段はご本にお一人で工房にこもっておられたり、せいぜいご家族が並んで製作にいそしんでおられる場合が多いのです。
そこが機械制大工業と違うところで「朝の用を済ませて自分の場所に座ると昼まで誰とも一言も口を利かない。ラジオが話し相手。」みたいな場合が少なく無いようなのです。
(ちなみに機械制大工業が生まれて協業の中に組み込まれる多数の労働者が現れると、新たな人格が誕生するわけですね。つまり多数と眼前で協業するわけですから、常に他者との話し合いや意思の疎通を必要とするところから生まれる人格です。工場内の分業と協業は、工場外の分業と協業についても結びついて、人類の社会性を、それまでの歴史的段階では得られない高い段階に引き上げます。そうすることで、人類を「国民国家」を形成し、やがては地球規模で連帯することを可能とする存在に自己形成することが可能になるわけですね。ただしそれあくまで可能性で、それを現実的に達成するのが早いか、「利己心」に媒介された「(地球的規模の)社会性」[・・ですから、繋がっているからこそ対立するという疎外された社会性]の段階で自ら滅んでしまうかというのが現在の世界の状状況ですね。)

神祇衣装のように通常一般の消費者を相手にするのではない方々は別にして、
こういう器などを作っておられる方にとっては、果たして自分の作ったものがお客さんにどのように評価してもらえているのか、知りたいけど分からないというのは、ちょっと隔靴掻痒の感があると思います。
直接の小売りをしないで問屋などを通す場合が多いですからね。

農業の世界でも『生産者の顔が見える』というコンセプトが広がっていますが、それは生産者・消費者の両方からの「人間らしい経済関係」を望む気持ちの表れだと思います。
大工業でだって開発者を露出したり、工場で働く人たちをミニコミに出したりして消費者とつなげることが増えてきていますが、なおその間にある壁が取り除かれて、生産と(流通と)消費が人間的なつながりを回復すれば、社会は大きく変わると思います。
という様な話は少々大きすぎますが・・・・・。

互いの仕事を互いが理解しあい、敬意を抱きあうという事は、現代社会でとても必要なことだと思います。
震災などで「失われてみて」初めて気づくことがありますが、「復興」でそれを忘れてしまわねばいいなあと思います。
そして何がそういう見晴らしの良いつながりを阻んでいるのか、もう少し意識的に気づくことも大切だなあと。

器の内側にも絵を描いていくのですが、筆の扱いが難しそうです。
それでも龍のうろこの一枚一枚が「べたっと塗られ」ているのではなくて微妙に描き分けられ、桜の花びらも、一枚一枚の花弁の中に色の濃淡が描き分けられています。

こうした絵柄は先人たちの手になる過去の様々な作品を見て、改めて描き起こして下絵にします。
下絵に鉛筆などでなぞってそれを転写することもあるそうですが、今日は目で見て描き写しています。
いわゆる芸術作品のような一点ものではないですから、逆にセットとして精度高く「同じものを作る」力が求められます。
繰り返せば習熟しますが勢いが失われがちでしょう。そういう矛盾を克服しても行きます。そこが腕の良い職人ですね。

私たちは店頭で出来上がった製品を見ています。
この製品がどのような人によってどのような技術で・工夫で出来上がったものかを知りません。
それは、大工業製品だって同じです。
TVなどで、なぜこのことを人々に伝えないのでしょうか。

人は人生の活動的な時期の大半を「仕事・労働」に費やします。それは人生そのものと言ってもよいものです。
しかし、その姿をお互いに認め合えるような情報は発信されていません。
食べたり、飲んだり、遊んだり、人の隠したい情報にばかり群がっています。
こういう社会は真に人間的と言っていいんでしょうか。
- 2016/04/03(日) 00:00:26|
- 陶芸
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