現代では背広を「誂える」ことができるのは富裕層だ。それは確かだと思う。
私は仕立て職人だった父にスーツを誂えてもらったことはある。結婚式の時の服が最後だったと記憶している。
が、その後の生活では無理な話だった。
生地を選び、寸法を採り、仮縫いを体に当て、そして仕上げる・・・注文して手に入れるまでには数週間も一月もかかる。
月給の一月分もはたくのだし、何日もたつのだから、いつ注文したら、その服がいつ着られるのか計画しなくてはならない。その日が楽しみだ。
今のように、今日見つけて今日買って明日着るというようなサイクルではない。

このKnitも注文性だから、次の冬に備えて今・・・・ようやく冬の寒さを脱して暖かくなってきた桜の季節に・・・・展示販売をしている。
高い技術で丁寧に編むためには時間を要する。「ポチっ」として数日後に届くという消費行動とは相いれない。
そういう面でも今の消費文化を意識的に変革する努力を伴わないといけない。

だから、単に良いものを作れば売れるだろう・・という話ではなさそうだ。

私の息子は、自分でシナリオを書き、一緒に劇づくりをする役者、スタッフを集め、箱を借り、演出して、時に自らも演じ、上演している。
東京で「劇団82-party」という劇団の名前を見たり、聞いたりしたら少し関心を持ってやってください。
親父がこういう事を書いていることを知るとあまり機嫌は良くないだろうが、まあ5年にして初めて書くのだからいいことにしてもらおう。たまたま同い年で夢を抱いている青年に会ったからの筆の滑りだと思って。

既にいくつもの面で父親を越えている息子だが、母親からすれば毎日の心配の種であることは間違いない。
息子の将来を思うと夜も寝られないと、時につぶやく。
「同じような、息子を持つ親としてどんな風にお考えですか?」と尋ねられた。
子は子として親のことを思うのだろう。
しかし、我が身を振り返っても「親の心子知らず」がいつまでもの真理だろう。それは仕方のないことだし、それでよいと思っている。

「親になって知る、親心」だ。
いつも亡くなった親を思って心が痛む。これも順繰りの事だろう。
やむをえまい。

親は未来を語る息子の目の輝きを誇りにも思い、うれしくも思うものだ。
息子たちよ、娘たちよ ガンバレ!!

ある方がブログ上で「大丈夫ですか」という言葉の使われ方、(使い方)について違和感があると書かれていた。
同感です。
例えば学生たちがしている写真展や絵画展では大概アンケートが準備されている。私は考えが有っいつも記入をお断りしているのです。
その際
「アンケートをお願いします。」
「ごめん(と、お断りのジェスチャー)」
「大丈夫ですか?」
?????「大丈夫」(?)
断るなんて気は確かですか、正気ですか? 断って不利益を被りませんか? 断って後で後悔しませんか?
大丈夫ですか???
もし断る側が「大丈夫です」と返事したら、件の受付学生は「アンケートを頼んだら、何か心に傷を負ったり、気落ちしたりしたようだが、何とか耐えられるようだ、よかった」というのと同じような感情を抱きながら、「どうぞごゆっくりご覧ください」というのだろうか。
私の日本語理解では上のようにしか続かない。 大丈夫に決っているだろ! アンケートを断ったくらいでなぜ君にそんな心配をしてもらわねばならんのだ! と、この辺りは「キレやすい中高年」現象さえ出てくる。
いつごろから、誰から、こんな脈絡で使われるようになったのか知らないが、気分が悪いったらありゃしない。
で、やさしく丁重に言葉を選びに選んで「君、『大丈夫』という言葉の使い方がおかしくないかな。」と懇切に話しても「???」としているばかりだ。
「大丈夫じゃないぞー!」
- 2016/03/31(木) 00:00:49|
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