少子高齢化が進む以上、多くの分野で後継者不足は否めない。
しかし、案外こうした工芸的な分野にはある程度の後継者が集まるのではないかと、ふと思うことがあります。
それは現代の「ポストモダン」な高度化した社会の裏返し的な意味で。
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「飯が食えるかどうか。」は重大な問題です。
しかし、今や自分一人が「飯を食う」のでさえ困難な社会で、一馬力で「妻子を養う」などという事は、もはや難事になりつつあります。
かつて賃金は「男は外で働き、女は家庭を守る」という価値観を維持するために支払われなければならないという社会的規制がある程度働いていたと思います。
しかし、自公的な「男女雇用機会均等」や「一億総活躍」が目指すのは、女子並み賃金に男子を引き下げることをも意味し、 しかも、それだけでなくて男子や正規雇用者には際限のない企業への忠誠・従属を求める梃でしかないのです。
規制緩和の名のもとに進む柔軟かする労働規制は、働く者の従属性・「社畜」性をさらに極限まで進行させているのです。
かつてマルクスが資本主義の一面を「賃金奴隷制」と称したが、そのことがますますあからさまに証明されていると思います。
そうした状況が眼前で進行するとき青年はどう生きるのでしょう。
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陶器に絵付けをしています。
先ほどまで友人と思しきお二人と歓談されていたのです・・・・。
が、今カメラを向けられて黙々と作業をしているこの人の周囲には静寂があります。

いえ、実際には今日は普段よりいくらかお客さんが多くて見学のために覗き込む人がちらほらおられますか「静寂」とは言いがたいのですが。
けれども私は写真では「静寂」にしようと思うのです。
ジャズの演奏などを撮るときには「音のする絵」にしたいと思うのですが、逆に「音を消す」にはどうすればよいかを考えながら撮ります。
まあ、リアルな問題としては、どっちにしても写真から音はしないのですが。

「嘘をつけない写真は芸術になることはできない。」と言った著名な画家さんがいます。
私はこの言葉は一面の真理を突いているなあと思って、いつも意識の片隅にこの言葉を置いています。
しかし、実は写真は嘘の塊でもあるのでして、むしろ事実さえも撮る=定着することができそうにないとさえ思えることがあるのです。
事実をさらに真理とか本質という言葉に置き換えると、話はなお一層ややこしくなるのですが。
「嘘が付けない写真」と「事実さえ撮れない写真」との矛盾の中に写真はあるという事でしょうか。

そういう禅問答のような「行ったり来たり」の中でシャッターは切られます。
そこで決まって「大山鳴動 鼠一匹も出ず」に落着するのですが。

「頭でっかち」は小中高生の頃から変わらない私の性根ですね。

そのことが人生を生きづらくしたり、行き易くしたり・・・・・・・。
「たかが写真、されど写真」 ・・・・ ですか。
- 2016/02/25(木) 00:00:26|
- 伝統工芸
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