今年は太陽暦ではうるう年という事で、2月は29日まででしたが、もう3月です。
今日からは暖かくなるようです。春の兆しが感じられますね。
今日は三月三日で『桃の節句』です。
桃は「3月下旬から4月上旬頃に薄桃色の花をつける。」とされていますから季節が合いませんね。旧暦3月の最初の「巳」の日が、その『桃の節句』の日で、太陽暦とはおおよそ一か月のずれがあります。
旧暦時代の節句などの言い方を、単に数字上だけ合わせて継承していますから、実際の季節感とは大きくずれるのですね。
こういうことにどんな意味があるのか朴念仁の私にはよくわかりません。
まあ、現代生活では梅や桜の様には桃の花を身近に見るという事もそう多くはないのですから、『桃が咲く季節になったなあ。』という感慨をリアルに抱く人も少ないでしょう。ですから、例えば東京の放送局のアナウンサーが「ずれ」を感じることも又ないのでしょうね。
ひな祭りというくらいですから「お雛様」を飾ります。
そうするといつも話題になるのが「お内裏様(男雛)はどちらに・・。」
すると、 「親王は向かって右ですよ。」と京都の方はおっしゃる。
あるところでひな壇を飾っておられた。それを、観光客を含めたお客さんが、それを見ては「右だ」「左が正しい。」などといろいろおしゃるので、親王と親王妃が日毎におろおろされていました。
京都以外では、親王が向かって左に坐することが多いようです。
「明治」期の天皇制の洋式化というか日本のグローバル化≒欧米追随の結果ですね。
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こうしてみるとやはりモノクロにも大きな魅力がありますね。
この人は目が大きく開きますから、こうした写真がとても魅力的になります。
それで?アウトドアで撮るといつも「眩しい!」とおっしゃいます。
小口径の私の目とは違って、F値が小さいのでしょう。憧れのF1.2くらいかな。

それに、建物が新装直後で床もまだまだきれいだとはいえ、こういうポーズを抵抗なくしてくれるのでありがたいです。

ユーチューブをいろいろ見ていると海外の方が写真の具体的な撮り方や、何故この写真がいいのか、どんな点に注意が払われているのかなどといった内容のものを見つけることができます。
言葉の壁があって、理解が到底追い付きませんが、「日の丸構図は避けるべき」とか「黄金分割」を解説した程度で、何か説明したかのようになっているモノとはだいぶん違います。
プロが自分の撮影の様子を解説づきで見せているものにもよく出会います。

それらの動画のスポンサーが日本のカメラメーカーであったりもするのですから、もっともっと日本の写真作家に登場してほしいなあと思います。(もし私が見つけていないそうした動画・・・意外とたくさんあるのでしょうか・・・・をご存知の方がおられたらぜひお教えください。)
技術論ばかりでない写真論も聞きたいですね。

先日、京都花見小路にあるライカの店で「ロベール・ドアノー」の写真展があり、そのレセプションにお邪魔しました。
会場にはドアノーの二女のフランシーヌ・デルディルさんが来られてスピーチをされました。
このレセプションへの参加を誘ってくれた同行の方と「素敵な人だなあ。」と意見が一致しました。

ドアノーとライカカメラとは長いお付き合いがあったことは周知のところですから、話の中でその点が触れられるかと思いきや 「ドアノーは使用したカメラのこととか撮影の技術的なことはほとんど話しませんでした。たくさんの現像されたフィルムが残されており、またプリントされたものも多数あるが、それを見てどのカメラで撮ったのかを判別することは難しい。ドアノーは技術の事より『どのような気分にな』って撮るのかという事をより重視した。」という意味のことを話されていました。

「そして写真家として歩み出した頃も、それからしばらく後にもライカカメラではなくて他のカメラを使っていた。何故ならまだ有名になっていなかった彼には高価過ぎたからだ。」と。
ライカ京都のフロアでこんな風に語れる人の自律した精神は素晴らしいと思いました。そしてドアノー自身の写真についての考え方も。
フランシーヌ・デルディルさんは終始、柱に肩をもたれさせて話していましたが、それも、何か「儀式」のように有名人を取り巻く日本人たちの緊張をほぐし、飾らない正直な話をしようとする態度のように思えました。

会場でドアノーの作品を見て、よく知られた作品群でなかったせいか、今一つ「素晴らしい」とは感じられませんでした。
同行された方は「写真がなぜ、どうして(他の絵画などに比肩するようなという意味で)よいものなのかがわからない。」とおっしゃっていました。
実は私にもそういう意識があります。
同行された方とは違うギャラリーのオーナーさんで、元仏文の大学教授も、私が写真を撮っていることを百も承知で、同様の考えを話してくれたことがありました。
しかし、ドアノーに限らず、ひとたび見れば忘れがたい写真がいくつもいくつもあります。そしてそれらは絵画で表現することは難しいだろうと感じられるのです。
だからこそ私は写真を撮っているのですが、何があるがゆえにそう感じられるのかがまだ捉えられていません。
- 2016/03/03(木) 00:00:56|
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