作家という存在が「全体重をかける」「覚悟の定まった」ものだという事を、この方から感じます。
絶望的な体験もされながら、「自分は何のために台湾から来たのだ?」と自問自答をされ、どんどん焼き物作家としての自分を純化してこられたように思いました。

私が瀋陽に行った時に、当地には「日本人教師の会」がありました。
日本人同士で交流し情報を交換しながら助け合い、また日中友好のための様々な取り組みをされていました。
どこの九人も人々も海外での生活は心細くも不慣れですからこうした『会』を作るのでしょう。

この方も台湾出身者の『会』で、私に紹介をしてくれた方に出会ったのだそうです。
そして「写真を撮る人がいるから出会ってみないか?」と声をかけられて
その方が私に「こういう陶芸作家がいるが写真を撮らないか?」と張さんの名刺をくださったのです。
勿論私に異存があるはずがありません。
さっそく連絡を取り合って、こういうことになったわけです。

すでにこれまでも幾人もの写真家さんたちが張さんを撮っているのだそうで、そうなると私がそうした方々の作品に比べて特段の収穫があるとは思えませんが、とにかく私の撮影歴的個人史としてエポックですから、これを十分満喫させていただくのが何よりの礼儀だと思いました。
できる写真は実力を越えることはないのですから、他の方のそれと比較してみても始まりません。
高台の底の面取りをされています。

まあそういう心境に、多少ともなることができるだけ、年はとって来たという事でしょうか。歳をとるのもまんざら悪いことばかりではないようです。
どうやらできたようです。
ご自身の制作作品に対する厳しいまなざしです。

轆轤に据えていた時に回転からずれないように粘土でとめていましたから・・・、まだ仕上げがあります。

仕上げをしながら縁の口当たりにも細心の注意を払います。
こうした器は手になじみ、肌合いがよく、熱伝導も適当で、飲み口などの口当たりも快適・・・でなどなど私の期待事項もたくさんあります。
周囲から見た姿も勿論ですが、飲み干したりしたときに覗く中の世界も気になるところです。

そして「落款」を押します。
「明」と刻まれた落款もご自身の作だそうです。
私の写真にも「蒼」の字をデザインした落款がほしいところです。
- 2015/11/27(金) 00:00:32|
- 陶器
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