ずいぶん以前に「〇〇さん『を』撮る」なのか「〇〇さん『で』撮る」なのかという事を考えたことがあります。
これを厳密に二分することは、ついにできないのでしょうが、これは時々念頭に置きたいなあと思っている問題意識です。
『で』撮る方をしようとすると、フォトマヌカンをしていただく人にも、そこを汲んでもらわねばなりません。
そういうフォトマヌカンとなってくれる人がほしいのです。

この2枚のうち、どちらを採りましょうか。
そもそもどちらを撮りたかったのかといえば両方なんですね。
この人は上の方がいいと・・・。
私は下の方なんですね。

この場所はいいなあと思うところがあっても、なかなかそこで撮れなかったりするのです。
高野川という川があるのですが、その川が間もなく賀茂川に合流するという地点にバス停があるのです。
そのバス停は、その撮りたい場所なんですね。
その場に行きにくいという事と、そこでカメラを持った私がどこに立つかという事が問題で、「轢かれちゃいますよ。」という事になるんですね。
でも、そのバス停だけでも私にはなにか物語を感じさせるので、白いシャツの女性にバスを待ってほしいんです。

この人がいいなあと思う人はいたのですが、・・・・。
今日フォトマヌカンをしてくれている人も帽子が似合いますから、また少し味の違う好もしい絵になると思います。

少し前に私は不遜にも「僕は絵の具がほしいなあ。」と言ったのです。
そうしたらその人は「私もそのうちの一色になれますか?」と言ってくれたのです。

昨日、陶芸家さんの工房にお邪魔して写真を撮らせてもらってきました。
台湾料理店のご主人の紹介でした。
今度の個展にも12人の男性の働く人々・職人さんたちを撮った写真を出します。
このジャンルを評価してくれる方たちも少なからずおられます。私もそれが好きですから機会を見つけてできるだけそうした対象を撮っていきたいと思います。撮影をするときにいつも力が入ります。

その一方で、個展の際に来場される男女を問わない方が、女性の写真に見入っておられます。
こちらにも喜んでくださる方がいます。そして私も楽しい。
人を撮る写真も、いいものです。


「英語には「serendipity(セレンディピティ)」という素晴らしい単語があります。幸福な偶然、もしくは予期せぬ幸運な瞬間、といった意味です。そういった偶然は写真には不可欠ですが、準備なしにその瞬間を捉えることはできません。準備には、念には念を入れて突き詰める、という日本的な慣習が必要です。その心構えを何年も常に持ち続けていれば、特別な瞬間が来たとき直感が働いて、写真に収めることができます。カメラや他の装置も同じです。魔法の瞬間がきたら、すぐさま捉える準備はできています。何年もかけて追究した、視覚的な言葉が備わっているはずです。慣れ親しんだ機械はまるで手指の一部のようになじみ、カメラとの一体感が感じられるでしょう。こうしたことは不可欠です。バイオリンの練習と同じなのです。多くの人が写真は簡単で、カメラを手に取りさえすれば写真は撮れるものだと思っています。でもバイオリンのように、30年もしくはそれ以上練習を積み重ねて、ようやくうまく撮れるようになるのです。」( Jim Brandenburg ・・・USA) NIKON「世界の写真家たち」より
- 2015/11/22(日) 00:00:45|
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