まだまだ暑さの残る京都。出町柳でこんな青年を見つけました。
厚い黒っぽい表紙のノートを広げると賀茂川と高野川に架かる橋をスケッチし始めました。
ちょうど三角州を挟んで二つの橋がかかる位置ですからちょっと絵になります。

夕方には時々ここに来てスケッチするのだそうです。
「夏のこの時期は人もたくさんいますけれど、10月ころになると人の数はずっと少なくなるんですよ。」と彼。
流れに足を浸して涼をとりながらのスケッチです。
彼の目線の方向に向こうむきに飛び石に腰をおろしている白いシャツの人物がいますね。あれは読書中の外国から来ている若者です。
彼もまた暑い京都に苦しんでいるのかもしれません。
できることなら彼の目線の先の風景をも画面に取り込んで彼のスケッチの様子を伝えるところなのですが、それをしようとすると膝まで水に入って撮影しなければなりません。(「しなければいけません。」て泣き言をいう前にやるべきでしょ?!という声は聞こえそうですが・・。)

今日はご存じのように「防災の日」です。1931年の9月1日に神奈川沖を震源とする巨大地震が起きました。この時に地震の揺れで倒壊した家屋が昼食を準備する七輪やかまどの火から燃え広がり多くの人々の生命と財産が失われました。
この震災の後東京は復興を遂げていたということになっていますが、住民の生活の復旧・復興が大切な柱になっていたかどうかについては検証が必要だと思います。阪神淡路大震災の時も経済的開発の経済的な発展の千載一遇のチャンスとしか見ないようなリーダーの姿にうんざりしましたし、その人たちのまき散らす復興の幻想にやすやすと乗っかる人々の姿がありました。震災の教訓とはなんなのかを考えたいものです。 また関東大震災では朝鮮民衆に対する市民・警察・軍による大量虐殺がありましたが、あのころの日本人の心性や政治意識と現代のそれと明確に異なっていると言えるかどうか私にはあまり自信がありません。
警察と軍による大杉栄夫妻・甥の無法な虐殺、南葛飾の労働運動家の虐殺などの権力犯罪について「反省」がされたかどうか、教訓が国民の共通の財産になっているかどうかも考えたいものです。
- 2011/09/01(木) 00:04:15|
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