最近よく見かけるのが「ヨサコイ」の練習風景です。
詳しいことは全く知りませんが、どうやら複数のチームがこの鴨川河川敷で練習をしているようです。
今日もそのうちの一つが練習をしていました。
「パート練習ですか?」

黒い服の彼がこの振り付けを考えたのだそうです。
彼はかつて別のチームの一員だたのだそうですが「チームが解散して、こっちに助っ人です・・・。」とのこと。

こうして太鼓を持って練習をしていますが、音はほとんど出しません。
「ご近所に迷惑はかけられませんから・・・。」
音だしの練習はどうされるんでしょうね。

ひとしきり練習をして一段落つき、小休止しようとしているときに「写真を撮らせてもらってもいいですか?」と声をかけると、「じゃあ普段通りの練習でいいですか?」と休憩をそこそこに練習を始めてくれました。
練習再開を、しばらく待つつもりだったんですが、ありがとうございます。

モバイル端末の音と映像で練習をします。
少し前にはラジカセがほとんどでしたが・・・今やこうした練習の風景も変わりました。
向こうでは傘を持って女子たちの一群と、大きな旗を振る連取をしている男子たちがいます。
このチームは「あまり大人数じゃないんです。」

この黒い服の彼は「社会人ですから余り練習に参加できなくて・・・・。やはり学生を中心にしたグループが多いんですよ。」

衣装、化粧、演出、大団旗の様は旗、音楽に小道具など・・・・青年たちの心を惹きつけるものがコノ「ソーラン」にはあるようです。
源流は「金八先生」にあるんでしょうか。
「これくらいにしようか。」
撮影のためにわざわざサラッてくれました。
どうもありがとう。

ブログ「カッパのあしあと」さんが「10月20日発売の「アサヒカメラ」誌11月号では、『肖像権時代のスナップ撮影』という特集を組んでいます。」とスナップショットなどのケースでの肖像権問題に触れておられます。共感するところが多い記事です。皆様にも一読をお勧めします。
つい先日のことあるギャラリーで写真をを見せていただいた時のことです。
そのグループ写真展は「組み写真」「スナップ撮影」が共通項で、とてもレベルの高い、意識的な作品群でした。
会場を回り終えたあたりに、もし写真に映り込んでいる人物について何か問題があれば申し出てほしい。取り下げさせていただくという趣旨の掲示がありました。
わたしは、適切な配慮だなと思う反面、こういうやり方には一面で納得出来ないものを感じるなと思いました。
作品の水準も高いし、こうした掲示もしていて写真文化の在り方についてこのグループの意識性を感じましたので、できればどなたかとお話しできたらいいなあと思いながら見ていました。
すると会場の出品舎のお一人が「いかがでしょう?」と声をかけてくれましたので「失礼ですがあなたの作品はどちらですか?」とお尋ねすると、なんと私が一番優れているなあと思った作品群の作者でした。
頭をガクッと前に落として肩も力なくベンチに腰掛ける男性、結婚式の引き出物の包みであろう荷を片手に路地を行く式服の男性の後ろ姿・・・・どれも素敵です。5人の男性の顔は識別できるようには写されていません。後ろ向きが基本です。
作品について感想を述べ、制作の工夫や意識をお話していただいて、「ところで・・・。」と切り出しました。
会場の掲示についてです。 もし問題があればすぐに対処するという掲示は配慮が行き届いているといえなくもないが、現地・現場で了解を撮らないでおいて、こうして掲示してしまってから「異議申し立てをしてくれ」というのは問題ではないかと指摘したのです。写された人は写されたことを知らず、この会場に展示されていることを知ることは、まず万が一にもないでしょう。つまり「異議申し立て」の可能性はないに等しいのです。写す側のアリバイ作り、言い訳でしかない掲示になってはいないか。
こうしたことをお話しするとその方は現代、問題になっている肖像権問題についてとてもよく整理されたお話をしてくれました。
その方は大学でも教鞭をとっておられる専門家の方でした。
どうやら「またこの話か!」という気分もあっての事かと思うのですが、いくつかのお話の中で
「撮らせてもらったときには、後で目礼ででも必ずあいさつ・お礼をしている・・・。」とのことでした。
私は「了承無く撮ってしまってから、撮ったけどいいかというのは問題があるのではないか。もうこちらのカメラに姿は捉えてしまっているが、不満があるなら応じようというのは撮る側の論理が優先してしまっているのではないか。」
撮られる側の論理・気分と撮る側の論理・気分が懸隔したままの現状で「法律的にはもう片がついている。判例も出ている。」という議論のし方をすると『撮られる側」からの理解・共感は得られないのではないかとお話ししました。
私は撮られる側のあまりに過敏な反応や対応にも問題があると思っています。それは単に肖像権を守るとか人権の問題だとかに限らない社会的雰囲気、大衆感情の病理も含まれていると思うからです。
またセクハラ問題にも出てくる「本人が不愉快だというならそれはセクハラだ。(肖像権の侵害だ)」という判断基準も妥当とは思っていません。
ですが、私たち撮る側が「そんなことを言われたのでは街中の情景を写すとこができなくなるじゃないか。生き生きとした人々の姿をとらえることができないじゃないか。」というのですが「別に写さなくたっていいんじゃないですか、写してほいしとも思っていませんし。」といわれる人たちをどう納得させることができるのかは撮る側に課せられた課題だと思います。
それを法律論で返してもきわめて不十分だと思います。文化論としても人権論としても市民的な生活感覚としても幾重にも議論をしていく必要があると思います。
その時に芸術的な写真を撮っているから偉いんだ、特別に許されることが・・・・あらかじめ・・・・あるんだという立場は絶対にとってはならないと思います。
あちこちであまりに無造作にカメラを向ける現状がある中で、撮る側の自己防衛に急で「法律的には・・・」と片づけていると、企業内などであまりに性的なハラスメントが横行している現状で、ただハラスメントだといわれることに不満を漏らしているだけだとセクハラファシズムみたいなことになりかねないのと同じ轍を踏んでしまうと思います。
わたしはまだアサヒカメラ11月号を読んでいませんので、是非一読してみたいなと思っています。
- 2015/10/27(火) 00:00:57|
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