この写真は、ファインダー倶楽部のグループ展の翌週に同じ建物の6階で行われた個展で撮らせていただいています。

はじめてお目にかかったころに比べて少しお痩せになっていますので少々おからだの状態が心配です。
大好きなお酒を控えて、「食事も満足に摂られへん。」とこれまた好物のステーキを食べられなくなったといわれます。
「えろうてかなわんのや。」と来場される人ごとに話されていますが、声も話すことも、なかなかどうして意気軒昂です。

先の戦争をくぐって少年時代を過ごし、戦後期に青年期を過ごしてきたこの人は、当時芸術家や学者たちがたむろした喫茶店に入り浸って京都文化の薫陶を受けてきた方です。
六曜社がその一つです。
当時の高校生や大学生は、学校のみならず町の喫茶店や映画館で裏も表も世界文化を吸収していたのです。

ネットやモバイル端末の無い時代は人々は顔を合わ互いの呼吸を感じならが生の声を交わしあって討論してきたのです。
それを取り囲む少年たちにその熱が伝わるのです。言葉が脳髄の奥深くに届くのです。
そうして形成された精神の一つの在り方を示してくれています。
(印刷物になった作品の一部が見えますね。)

実を言えば、私は旧制中学や高校に憧れて、地方でないものねだりに苦しみ悶えた青春期を送りました。
遅れてきた世代だったのです。
私の憧れは団塊の世代のもっと向こうにありました。
この方などは、そういう憧れ世代の終わりの年代の人と言っていいでしょうか。
来客に囲まれ、マスコミのインタヴューを受けているのですが、「写真、いいですか?」とお尋ねすると、「うん。」とうなづいてくれました。
私が人物写真を撮っていることは重々ご承知ですから。
あるマスコミの記者さんに「これだけはきちんと書いてくれよ。」とご自分の芸術観の核心を話しています。

「嘘が大事なんや。芸術は嘘なんだ。その点では写真は嘘が付けんからアカン。」と写真の同好会を創立して20年も続けておられながら、そういうのです。
この考えには私は大いに共感し思うところがありますから、お話に耳を傾けます。
私の角度からすれば「リアリズムとは何か。」というテーマになるのですが。

「写真で嘘をつけるのか?」「しかし、写真にとって嘘は本質的なものだ。」「だがその嘘とはいったい何なのか、真実の表現とその嘘とはどう交わるのか。」 難しいですねぇ。
まあ嘘をついている自覚なしに写真を撮っていては、この方に「君は芸術が全く理解できてないねえ」と一蹴されてしまいそうです。
直接のやり取りではなくとも、こうした対話をイメージとして喚起されることが、私がこの会に入れていただいた最大の誘因なのです。
そういう意味では、良い会に入れていただいたと感謝しているわけです。
今度の忘年会(いや新年会になりますか)と、
二次会が楽しみです。 きっとまた、六曜社でしょう。
- 2015/09/24(木) 00:00:12|
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