何だか、お地蔵さんが仏師の手の中で誕生までの時間を完全に任せ切って安らいでいるように見えます。

仏像を見るときにいつも不思議だなあと思うのは、そのお顔と性別です。
お顔についていえば、結局衆生が求めるお顔になっていくのでしょうが、それが蒸留・結晶していくのが仏師を通してというところなんですね。
芸術というのがそもそもそういうものなんだと私は思っているのですが、問題はそれを具現するその人(の技)です。

象を彫るのに誰かをモデルにしているという場合ももちろんあるようですが、直接もモデルがない場合も、またたくさんあるでしょう。そういう中であの柔和であったり、何事か沈思している様子であったりする表情を形象出来るのはすごいことだなあと思います。

私たちは人の顔をずいぶんたくさん見ています。しかもかなり意識してみています。だって人の「顔色を」うかがわないと円滑な日常生活はできませんからね。
子供を育てている人は子供の健康や心持を顔の表情を観察することで読みとっていますし、多くの女性は毎日ご自身の顔を数十分丹念に見ています。

ですから人の顔を見る達人たちが、こぞって拝む仏像に何か不自然さ、歪みがあれば見逃すはずもなく、そこに作象の高いハードルがあるように思います。
えがお好きだという事で書いている趣味の絵描きさんたちの人物を描いた絵の多くが、まずその点で成功していないのはよくあることです。
難しんですね。

その点写真は苦労がない・・・・ように思えるのですが、だからこそその先に行かなくてはいけないのが写真の課題なんでしょう。
- 2015/08/18(火) 00:00:33|
- 伝統工芸
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