「福島第一原発から約10キロ圏内に位置する福島県双葉郡浪江町は、今も放射線量が高く帰宅困難地域である。震災当時を伝えるこの新聞は、浪江駅近くの販売所に、配達されずに放置された2011年3月12日と13日の新聞だ。紙面では、東日本巨大地震の規模の大きさや津波の被害、避難する人々の混乱した状況が記されている。中でも、福島第一原発一号機の爆発を伝える緊迫した記事からは、震災直後の生々しい記憶が蘇る。
あれから4年が経過した現在、日常から失われつつあるものは様々で、時が進むほどに薄れていく記憶の風化は止められない。しかし、私達の周囲の時間の経過、その動きを刻む行動、その知識に意味を与えるためには、社会に問いかけ事実をつなげる活動が必要だ。[2011312313]は、記憶=存在=認識を視覚化することで、現在も近未来の社会でも起こりうる危機的な現実が立ち現われてくる。」
個展に向けてのメッセージを引用させた頂いた。 これはもうこのままお伝えすべきだと思ったからだ。
「絵画」に分類できるわけではない、いわば写真であるが、・・・・。
作品は黒く濃く焼かれていて目を凝らさないと、そこに何が描かれているのか判然としない。

大きく引き伸ばされた新聞が展示されているのだ。 それが先のメッセージにあるように、2011年3月12日と13日のもの。
東京電力福島原子力発電所が深刻な損壊状態になって大量の放射性物質を放散した。
政府も東電も被害の実態をつかめないばかりか、被害を小さく見せよう、でき利だけ隠蔽しようとするほとんど本能的な対応に終始して、人々は被爆被害からの非難を遅らせてしまった。

私は11日の夜ある仕事のために10人を超える人たちとある会議室に待機していた。
そこに東北の大地震と引き続く巨大津波の襲来、さらに福島原発の深刻な…と言ってもその実態は不明だったが・・・損壊の様子がテレビジョンから伝えられてきた。
私と同じテーブルの同僚たちは、私とともにその深刻さの予感から、じっとしていられない衝動に駆られていたが、他の100数十人の人たちの冷静というか無関心というか泰然自若とした反応には信じがたいものを見る思いだったことを覚えている。

福島の新聞社もテレビ局も、それ自体が深刻な打撃を受けていただろうから情報は錯綜し、確認できる情報量は極めて限られていた。
だから翌日の一方は東北全体での死者数が30余人と報じられている。
しかし、新聞社の記者たちも編集者もおそらくは決死の形相で責務を果たそうとしたのだろう。

そして震災の翌日には新聞は印刷所から各新聞配達所に運ばれたのだ。仕分けするものもトラックで輸送するものも、配達所で受け取るものも、集まらない人員で足りないトラックで、今日やらねばならないことをやり遂げようとしていたのだ。
原発はその時メルトダウンに向かっていたし、破壊された建屋からは放射性物質が大量に拡散し降り注いでいたその福島で。
新聞は13日にも配達所まで届けられている。ただしかし、そこから各戸に配達することはできなかったようだ。
非難を急がねばならない状況下で、記事を書き、編集をし、印刷そして、トラック配送に携わった人たち・・・。
しかしそれを手にすべき人たちはすでにいなかったかもしれない。

吉田さんは、この新聞の内容や、状況について声高な物言いはしていない。
しかし、その後の犠牲者の数を知る者にとって、避難の実態を垣間見る者にとって、この黒く焼き付けられた、見出しぐらいしか読み取ることのできない巨大な新聞の陰を見てることは、見るものと震災の今日的事実との対話を迫られざるを得ない。
今日の写真の初めの4枚は彼の「凝視」を意識して撮った。
- 2015/07/26(日) 00:00:40|
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