最近お会いしたある作家さんがこんなことを言っておられました。
「世界のいろいろな国の様々な人たちが異なった文化をもっているのは知られたことだけれど、例えば人と人との間隔についてどういう感覚を持っているのかも違うんだ。」
例えば人は自分の周囲50センチメートル以内は極めて個人的な空間だから人の侵入を拒む感情が湧く。逆にその範囲に入れてもらえるということはとても親密な関係だと認めている、と。

これを本やネット上の記事で読んだとしても、その記事を一体どこの国の人が書いたかを確認しなければ日本人に当てはめて良いかどうか判断ができないということになる。
私は高校生の頃初めてフロイトの学説を紹介したものを読みましたが、これはキリスト教が自分の誕生以来の文化として刷り込まれた人たちにしか通用しないと思いました。
なぜ日本人の学者たちが、これをヒントに日本人についてあらためて虚心坦懐に研究しようとしないで、これをずいぶんありがたがって、そのまま何にもかににも当てはめようとするのかが疑問でした。

だから私は写真を撮りながらこの人からいろいろな気配を教えてもらいます。
人として尊敬しあうためには、お互いを知らねばなりません。そこには、共通点も相違点もあります。
『そんなのは人間としておかしい』 というのは、日本人の感覚、道徳感情・意識とは違っているということを意味するだけです。相手からも同じことが言えるということをまず認めねばなりません。

欧米や中国・韓国の若者は今や年々世界に出て学んでいますし、働いています。
若者が触れ合えば一生を誓うことになってもおかしくありません。無論、娘や息子が外国人と結婚するということを経験する人もまたそれに比例して多くなります。
そしてそのことの幸福と軋轢もまた多数経験して、人類総和として人々のつながりの多様性について経験的に習熟していきます。
これは世界史的必然です。
世界の結合、それが資本主義の歴史的使命なのですから、資本主義を元に戻さない以上、このことはいやおうなしに進んでいき、そこに人類の未来が垣間見えるのです。
いくら中国人や韓国人を悪しざまにののしってもこのことを押しとどめることは絶対にできません。

私はこの人のような若者に出会い、話す機会を得、写真まで撮らせてもらうことになると、大げさに言うと世界史の先端を見ているようでドキドキするのです。


先日もバスの中で十代の可愛らしい外国人の女の子たちと隣り合わせになりました。
私が小銭を手にして数えているのを目の端でとらえたのでしょう。 バス停が近づくとさっと立ち上がって通路をあけたのです。
中国の留学生に聞くと、交換留学に来てそういうエチケットを教えてもらったというのです。この時の子たちは二人が白人で一人がアジア系の子でした。

よその国に来て・・・その国の若者の十中八九ができていないエチケットですが・・・・この国では、と言われた「エチケットを実践できたことが「うれしかった。」と、その中国からの留学生は言います。
そういうふうに謙虚に学ぶ力のある国民こそ尊敬できるのだと思います。
- 2015/07/13(月) 00:02:30|
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