そうだ、昔おつきあいしていた彼は元気にしているのかしら。
久しぶりに彼を誘って出かけてみよう。 でも、はたして電話は今でもつながるのかしら。それに何と言ったって彼の生活も変わっているのだし、・・・・とうに私のことなんか。 でも、・・・・・、いいわ、とにかくかけてみよう。
「どう?元気にしてる?! ちょっと時間をとれないかしら。 えっ?! 本当?! そう、OKね!!」

パントマイムにも表現の方向性にはいくつもあるようなんですが、人間観察はうかつな私にはまねのできないものがあります。
ガスコンロの高さや棚の高さを乱さないできちんと保って表現するのですが、そこに何の意識も働いていないように自然です。
高齢となった女性の老い・衰えに対する意識や感情が微妙に表現され「女心の移り変わり」が見えてきます。
昔お出かけの時に履いた銀の靴。それを取り出して、そうこれこれ、「まだ履けるかしら?」

靴を片方ずつ履くときの、右の脚をくつに入れるポーズと左足に履くときの立ち位置の違い!!

パントマイムや演劇では、実在の人々の実際の動きを再現するのか、いわば「記憶色」を演じるのかが、問題になるように思いました。
絵や写真もそうですね。
「記憶色」を再現すれば「そうそう、その通りだよね。」という共感を得られるのでしょうか。
「記憶色」が「『記憶』色」である以上、人々の主観にはばらつきがあります。 共同幻想などという言葉がありますが、共感の根拠をどこに求めるかに悩まなければならないかもしれません。
一方、実在に忠実に再現した場合には「記憶」を裏切ります。その裏切りの中に「えっ、実際にはそういうことだったの?!」という新たな認識への誘い・気づきがあります。 人々の記憶をそのまま肯定し(あえて言えば迎合して)て演出するのか、「記憶」を批判して実在を突きつけるのかという、これまた大きな難問があります。

彼の待つ街にでかけていきます。

絵を見せていただき、描く生活を垣間見、そしてまたこうしてパントマイムの表現を見せていただくと、つくづく無自覚に写真を撮ているなあと気づかされます。
- 2015/06/27(土) 00:03:05|
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