何事も、そうなるにはそうなるだけの理由があるということは本当だろうと思います。
だが理由があるということと必ずそうなるということとは別で・・・・。
この人が渡欧すれば二度とお会いすることはないだろうと・・・・・・会う理由が、ほとんど全くと言っていいほどないのですから。

私は誰かに会いに行くという意識的な行動をとることが非常に苦手で、ばったり会うことしかできない人間なのです。
案外、人が苦手なのかも・・・・と自分では思っているのです。
多分そうなのです。

しっかり分析すると、私はあまりよい人には属さないのだろうとも思うのです。

ここで撮ったら面白いかもしれないという場所探しが難しくも楽しいのです。
そこに誘ってフォトマヌカンをしてくれる人が心をワクワクさせてくれた時に、あるいは情感をロケーションに添わせてくれた時に、いい写真が撮れるように思います。
私たちのような素人同士にはことのほかそういうことが大事な要素なのかなと思います。
それにしても若い女性たちのファッションに対する気遣いは相当なものですね。
いえ、いま私の服装を振り返ってみると「もう少し何とかならないの?」という感じです。
こうして撮っているときには…デートしてるのでも何でもないですから・・・・役割分担がっはきり明示されていて却っていいのかなとは思うのですが。 服装は一面では、ある意味で「記号」ですからね。
よく言う「それらしい服装」ってやつですよね。
私が風采の上がらない風貌と服装で、重そうなカメラバックを担いでいれば、それに対面している人は「モデル」というわけで、周囲に対して記号的にはっきりするんですですね。
そうして周囲が了解してくれれば、素人の私でも案外開き直って「カメラマン」ができてしまうわけです。

世の中のサギ(だまし)は大概そういう仕組みを利用するんでしょう。
(選挙の時など自転車にのぼりをつけて荷台にスピーカーを括り付けたりして、「私は何の既得権益、既成勢力ともつながっていない。金の力や組織の力ではなくて個人的情熱で政治をするんだ」と強調している人は大概それを記号で演じているだけなんです。 私同様あんまり信用できません。何とか言う政経塾出身者などがよくやる「手」ですね。)
おかしな方に話がそれました。
記号的な服装は、ここでは私にとっては肯定的に働いている・・・と。
自分自身がそれに騙されて、いっぱしの「カメラン」だと思い込むと、落とし穴ができそうです。
- 2015/06/19(金) 00:01:38|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0