アジアやアフリカでは人を撮ることはたやすいが、日本では困難だ。 ひょっとしたら欧米でより難しいかもしれない。
海外に行ったことのある多くの人がこのことに同意するでしょう。
しかし、そうだとして、ではこの日本の状況についてはどう評価すべきなんでしょうか。
そのことのプラス、マイナスをきちんと評価する必要が私はあると思っています。

そして写真家やジャーナリストたちはもっとこのことを広く議論すべきではないかと思うのです。
「これなら安全」とか「法律の許す範囲」とかいう、『問題を起こさない』で安全でいられるノウハウだけを意識しているように思えてならないのです。
その一方で、実に乱暴に人の写真を撮って(公開して)いる人が、実にたくさんいるのです。
このfc2ブログの人物ジャンルのランク上位ブログを見ても、それは明らかです。

私自身、議論することの虚しさみたいなものを感じてきていますから、議論するより「人の写真は撮れるんだ。」
人と人とはもっと信頼しあえるんだということを実践的に明らかにしたいというおもいでこのブログを続けています。

むろん一般に言われている「難しい」事態は現にあるわけです。
私は人の肖像権をはじめとする人格権はもっと丁寧に尊重されるべきだと思っていますので、写真を撮る人たちに(ことにつまらない低俗な週刊誌やテレビのカメラに対して、また下品な盗み撮りをもっぱらにしている人たちに対して)世の人々はもっともっと厳しく当たるべきだと思っています。もっと『難しい』状況になることが望ましいとさえ思っています。

しかし、そういう厳しくあるべきだという思想が単に気分と風潮としてしか広がっていないせいなのか、何もかもごちゃまぜにして「写真を撮るな」とか「写されたら大変だ」という気分として広がっているように思います。
街にあふれる監視カメラが私たちの日常の隅から隅まで観察しているのにそのことには少しも警戒しない人が、個人のスナップ写真に対して、すぐさま警察沙汰にするほど過敏に『怒り』ます。
そして、問題は、どうもそういう空気があることに対して、これは必要な制限で、お互いが相互に尊重しあうルールであって、しかし、その一方であれは許されてはいけない人権侵害だということを明確にしないで、とにかく触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近づかずとばかりにやり過ごそうとする傾向が強い。そうでなければ好き勝手に無視して匿名を利用してやりたい放題にする。
それが日本人の少なくない人たちの対処の仕方のように思えてなりません。

その反面、私は、もっと成熟した考え方の人たちがたくさんいると思っています。互いに人に対して敬意を持ち、例えば写真表現についても理解し共感してくれる人がいると思っています。
「人の写真を撮るのは難しんじゃないの」と言われる現実は広範に存在します。確かにそうです。そういう意味では私は非常に危険な地雷原を毎日歩いていることになります。
ことにこの1年くらい増えているのは「若い女性に声をかけて撮る」という写真ですが、それはとても危ない橋を渡っているといえるかもしれません。
けれど、こんな素敵な人たちが「じゃあ一緒に良い写真を作りましょう」と快諾してくれているのです。
これも現実の疑いようのない一面なのだといっていいと思います。
「人間にとって最も本質的な存在は人間である」 人を撮りましょう!!

そもそもどうすれば戦争に加担しなくて済むか、どうすれば世界の火種を小さくできるかと考えるべきところを、あえて火中にクリを拾いたがる安倍政権は日本と世界の危険度を増している。
安倍首相は日本と同様の地震国に原発を売り込みに行った。 それ自体危険な誤った行動であると私は思うが、それは翻って言えば日本列島の地震など原発の安全性にとって大した問題だとは考えていないということだ。
同時にその国はテロの拡大する地域でもある。そこに攻撃されれば甚大な放射能被害が広がる危険のあることを無視して売り込んだ。日本でもテロに対して原発の危険であることを彼は真剣に認識していない。おそらく自衛隊と米軍はテロに勝ると夢見ているのだろう。
彼はオーストラリアに日本の潜水艦の技術を売り込む商売に熱心だ。
日本の原子力産業や軍事産業の番頭を務めることには実に熱心だ。 文字どおり、彼は死の商人と化している。
- 2015/05/21(木) 00:01:45|
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