「が」は格助詞、「は」は「副助詞」。
どちらも格助詞のように意識していることが多いように思う。
有名な文章に「象は鼻が長い。」がある。この場合、文の主語は「鼻」であり、長いのは「鼻」である。そして、鼻が長いということが問題にされているのは「象」についてだということになる。「つまり象に関していえば、鼻が長い。」ということになる。
なぜこんなことを書いているかと言うと、この人にはそれ…なぜ書いているのかという事情が・・・が分かるからです。

もともとあまりこうして注目されることが得意でない人ですから、写真の「モデル」をすることは苦手なようです。
大学のミスコンに「他薦」されそうになった時にも断りました。
そんな人ですが、私は無理をお願いして撮らせてもらっています。
さて、実は私はこの人のおかげで、普段あまり使わない脳を時々刺激してもらっています。
この人が大学で学んでいることを時々話題にしてくれるからです。
そして日本語の文法や語彙について自分の知識や日常の使い方を反省させられるからです。

以前は、私自身が「相手は日本語を外国語としてテキストで学んできた人だから、教科書的な文法にのっとって、省略表現や、慣用句を控えて話したほうが分かりやすいだろう・・と直感的なコントロールが働いて、オートマティックな話し方ではなくて、いったん…無意識のうちに・・・文法的なフィルターにかけて会話をしていました。
そのこと自身が非常に新鮮で驚きのある体験でした。

そのある種の抑制的な働きは職業柄「わかりやすく話す」という身についた機能から出ているのだと思っていましたが、それだけではないことに気付いたのです。
どうやらダブルで自分のしようとしている会話にチェックが働くのです。
文法的に正しく、使う語句についても意味に紛らわしさのない適切さを自分の意識が求めるのです。するといつものようにナチュラルに、オートマティカル話せなくなります。発語が遅くなるのですね。

私たちが外国語を学び会話しようとするときに「文法的に正しいか、語彙は適切か、と無意識にチェック、いえ、かなり意識的にチェックして、話がゆっくりになってしまうのと似ています。

そして日常の会話は実に「文法違反が多い」ということにも気づきました。
意識して人の会話に耳を傾けていると、文法書に書かれている通りの日本語を話す人は滅多にいません。
ひっくり返して考えれば・・たとえば英語の場合・・・私たちは一生懸命文法を学びましたが、米英加などの人々は、その通りには話していないので、かえって我々の英語での話し方はナチュラルではないのだろうということです。はたして実際にはどうなんでしょうか。
(ただ私は、だから文法を学ぶことに価値はないだとか、英会話ができるようになるためにはリスニングだけでよくてグラマーを学ぶことは妨げになるという意見には賛成ではないのですが。)

ただ最近は、この人(たち)の日本語力があまりにすごいので、私のチェック機能が次第に休眠状態になりつつあります。
私はこの人(たち)から知性の成長の仕方を大いに学びます。
- 2015/01/28(水) 00:03:51|
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