
ドイツのフランクフルト空港に降りたとこことは今でも鮮明に覚えています。
イタリアからの帰途でしたから、なおのこと印象が強烈だったんだと思います。
国が違うということはこういうことか、それぞれの精神文化がこれほどまでに鮮烈に異なるとは!!と。
むろんアジアとヨーロッパの違いは相当明らかですが、同じヨーロッパという地域にありながらこれほどだとは。

海外経験のごくごく少ない私は有頂天でした。
白と黒とを基調とし、垂直線と水平線がきっぱりと交差するドイツの空港のデザインは、イタリアのそれとは画然と違いました。
そこを行く、ドイツ男性のスーツ姿はその歩き方も手にしているアタッシュケースのデザインもここは「どいつだ」と言っているようでした。

ヨーロッパ半島のこの地域の中でさえこれほどまでに違う多様性と格闘して生成してきた「普遍性」という概念。
哲学的強靭性が求められて然りだと思いました。

多様性のそれぞれをそれぞれの異質性において厳然と屹立させ定立した上で弁証法的統合を思考するのと、多様なものの異質性を明瞭にしないまま、始原に還元し融合のうちに模糊とさせて溶かし込んでしまう思考とは、ずいぶん懸隔があるだろうと感じました。
日本には哲学がないといった先人がいましたが、それは全面的にではなくとも大勢を言い当てているだろうと思います。
ヨーロッパの写真を見た時に感じる濃厚さ、強靭さは日本人の好むところではないかもしれません。
彼らには自覚的ないと、意識がずっしりと潜在している、そんな風に感じます。

そんな文化土壌の異なる世界で、その世界の中から生まれてきたクラシックバレーに挑む。それは並大抵のことではないと思います。クラシック音楽の世界、油彩の世界などでも同じことが言えると思います。
しかし、イチロウが野球とベースボールの世界をまたいで活躍したように、小澤征爾がベルリンフィルでタクトを振ったように、現代の若者たちはその異世界に、それをわがものとして踏み込んでいく強さと柔軟さを持っているのだなあと、敬服するのです。
それは「手作り市」に集う一部の若者たちにも言えます。

いやこんなことは私の世代でも少なくない人たちがすでにずっと以前に踏み越えてきた問題なんでしょう。
ただ私が時代に遠く遅れているだけのことなのでしょう。
でも、まあ気づかないより、遅くとも気づいたほうがいいに違いないのです。

ことなった世界の人たちと交流して、お互いを認め合いながら、なおかつそこに「普遍性」を追究しあう。そういう交わりができればいいなあと思います。
ここが新たな世界への入り口です。
- 2015/01/22(木) 00:02:37|
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