お商売としては「古物商」ということでしょうか。
主として『昭和』のおもちゃを扱っているようです。
この人のことは本ブログの1月1日、2日に紹介させてもらった切り絵作家さんが教えてくれました。
私がこんな風に『人を撮る』ことをしているんだと言うと、ご自身を撮ることを許していただいたばかりでなく、・・。
その方が個展をしていたギャラリーを出てすぐの交差点を左に曲がると、わずかに100メートルほどのところに、「面白い店があるよ。その店の若いご主人がなかなかいいから、ぜひ撮ってみたらどうだ。」というお薦めでした。

私はそのギャラリーを出るとすぐその足で件のお店に回ったのでしたが、その時には
お留守番の妹さんしかおられなくて「ちょっと遠くまで買い付けにいっている。」とのことでした。
その時に妹さんから、このお店のご主人・・・・すなわちお兄さんのことなんですが・・・・のお話を伺いました。

お話から想像するのは「古道具屋の印象とはかけ離れた兄ですけど・・・。」とのことで、少しやせぎすの今風の男子らしいという印象でした。

で、その時には妹さんといろいろお話をさせていただき、来年の・・つまり今年のですが…初めころにもう一度うかがうということにしたのです。
「兄には今日のことを話しておきますので・・・。」
で、お店を訪ねたのですがやはり妹さんがお留守番をされていて、・・・・。
この妹さんが、これまた素敵な方ですので、前回お店にお邪魔した時に、ほんの数枚撮らせていただいたのです。
ただ、撮りだしたら間もなく別のお客さんがお見えでしたので、商売の邪魔になってはいけないと、退散したのでした。

お兄さんがお留守なのを幸いに「じゃあ、今日はあなたの写真を撮りましょう・・。」と言いかけたところで、間の悪いことに(笑い)お兄さんが帰ってこられました。
先ほどまで別のお客さんが値段表示のないものを取り上げて「これはいくらするんですか?」と尋ねていたのですが、妹さんが電話でお兄さんに値段を確かめていたのでお近くにはおられないと・・・。
でも帰宅途中だったんですね。
「古物商を営む男性」・・・・東寺の弘法さんや、北野天満宮の天神さんの「市」で見かける年配の方々とはちょっと、いえ、大分雰囲気が違いました。
幼い頃になかなかおもちゃを手にできなかった反動で…おもちゃの収集が始まってついには仕事になってしまったとのこと。
私が今写真に熱を入れているのも同じような心理でしょう。
高校生、大学生の時にフィルムを買う余裕もなく、現像代やプリント代が私には高価でいつもカメラはほこりをかぶりがちだったのです。
そして就職してからも。

「買い付けに行って売っていただくときに『一山いくら』というような値段付けができないんです。その一つ一つにそれまでの持ち主や、時には亡くなった方の思いや記憶がこもっていると思うと一つ一つに値段をつけないではいられないんです。ですからついつい高めに買ってしまうんですね。」
私ももう何十年も生きるわけではないし、おそらく二度と読みはしないだろう本がいくらかあります。それらを捨てるか古書店に持ち込めば、狭い部屋をいくらか快適に使えるようになることでしょう。
でも私の精神史を形作ってくれた書物、著者の苦闘が結晶した書物はひとくくりにされて雑紙と同じようにせいぜいのところ重さで引き取られていくのは耐え難いのですね。
この人はそういう気持ちをとてもよく理解し、丁寧な対応をしながら買い取ってこられるのです。
ですから、仕入れは高コストになるのですが「気持ちを汲んで買ってくれてあなたに引き取ってほしい。」と持ち込みされる人も増えているんですとのこと。
こういうのが近江商人などが家訓とした精神でしょうね。
そうしてこういう人と人との接し方、物への思いがとても痩せてきているというのが今日の私たちの社会ではないかと・・・。同感ですね。
- 2015/01/19(月) 00:02:46|
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