京都は学生の街でもあります。
何しろ花街のスナックのカウンターの向こうにも現役の学生がいるくらいですから。(いえ、これ否定的にいっているのではありません。)
全国他の地域の実践としてもよく見られますが、地元の商店街のシャッターに学生が絵を描く活動があります。
学生の構想や技量と商店主や商店街の趣味や要求とが簡単に一致するかどうか、現実的には様々なハードルがあるとは思います。
ですがそれを結びつける大学の教員たちと商店街・商店主の好意的連携が学生に実践の場を提供します。

学生は大学の中だけで育つわけではありません。
地域も学生を育てます。それは小・中・高も同じです。
学生・生徒に期待を持って役割を負ってもらうことは社会の中の「学び」を自覚する上でとても重要なことだと思います。

地域も学生の実情を知ります。

学校という存在が人々の生活的な願いからすっかり切り離され遊離しています。学習の内容もまた然りです。
小中高のあり方はより上の学校に向かって試験の問いに答える力をつけているだけで、知性も、理性も育てる気がありません。そもそもそういう問題意識さえないのです。問題集を解ける力を形成することと、自然や社会の仕組みや運動を理解してその知識や知的力量・技能を人々の幸福を拡張するために役立てようとする精神を育てるということとはほとんど別モノです。そのために仲間と共同して学ぶ喜びを体感させようなどという問題意識など虫眼鏡で探しても見つからないのではないかとさえ感じられます。

しかし、学生たちには社会と結び付いて有意義な知識や技能を得たいという要求は確実にあります。
大学と地域が連携する必要がそこにあります。
企業の青田刈りの別名になりかねないインターンシップなどを通じてさえ、少なくない学生はそのことを見つけよう、感じ取ろうとしています。

学生を取り巻く現実が、彼らを促しているからです。何故まじめに働いても人間らしい生活ができないのか。なぜ働くことが人生をすりつぶすことでしかないようになっているのか。なぜ大人も子供もこんなにストレスフルで飲酒にばくちに薬物に・・・依存するような社会なのか。企業では人権など見向きもされず、労働者保護法など紙くずにさえならないのはなぜなのか。人類の生存のためには人々が働くことが是非必要で、そこから生み出されたものが人々をより幸福にしてきたはずなのに、今働くことは人としての尊厳を足蹴にされることに我慢させられ、使い捨てられ、互いを傷つけあい、自分が失われていくことになってしまているのはなぜなのか。なぜ人は労働現場で死に追いやられるのか。
学生たちは、直感的にそうした疑問と不安を抱えています。そして学校や学びから、そして職場からの逃避も少なlくありません。その中にいることは自分を失うことだからです。そういう子どもたち学生にとってみれば
日の丸を国旗として掲揚しなければいけないだとか愛国心を育てなければいけないなどというようなことは、生徒や学生の成長の要求と何ら関係がありません。何も、どこにもクロスしていないのです。
- 2014/09/01(月) 00:03:00|
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