河原町通りも花見小路あたりを除けば、観光客はあまり南にはくだりません。
最近は様々なインフォメーションが進んで雑誌で有名になったお店もいくつもあるけれど、それでも喧騒の程度が相当違います。
だから落ち着いた雰囲気で撮れるのがうれしいのです。
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オーナーさんはこうした道のベテランですから、2階の私たちをすっかり放っておいてくれます。
分かっている人の応対というモノをとても感じます。

で、どうかして、「よいのが撮れましたね。」と喜んでもらいたくなる。
こういうこと(写真を撮るというようなこと)というのは眼前にいる二人だけでできるわけではないということを感じるのです。
町で撮る(あるいはスケッチする、パフォーマンスをする)ときには町の中に、そういうことを受容し、あるいは芸術活動の成果に期待し、一緒に観賞できるというような文化の底厚い豊潤さがないといけないと思うのです。
絵画にしろ芝居にしろ、結局よい作物はその地の文化的肥沃度で支えられるとおもうからです。

伝統産業を支えてきている、しかし、もはや衰滅しつつある職人たちの苦境を、失業対策の小銭を撒いて伝統文化の保護だとしてお茶を濁しているような政治家たちには、ほとんどなんにもその価値が分かっていないと私には感じられます。 「美しい日本」を声高に叫んでいるあの人たちも同じだと思うのです。
「愛国心」を武器を持って血を流すこととしか理解しない野蛮な人々が大手を振って声高に叫んでいるような日本では、絹地に筆でにじみの線を描く価値を見捨てていくのだろうと心配します。

この町屋が廃棄されずに新たな息吹を持って生かされているのには優れた知性を持った人々の連携があります。この町屋を惜しむ町衆としての元来の家主さん、その方に依頼されて新たな持ち主を探していた見識ある不動産屋さん、そしてその見識の眼鏡にかない活用に意欲を見せる新たなオーナーさん。この町屋を改装したギャラリーの魅力を認めて活用する芸術家たち・・・そうした人々の存在があればこそだと思うのです。 文化はこうして守り育てられ、また成長していきます。
もし「日本に京都があってよかった」と言えるとするのならば、京都を巡るこうした人々の存在をぜひ想像していただきたいと思います。
私はと言えば、こういう写真が撮れてしまうとそれだけで大喜びしている写真愛好者でしかないけれど、
ちょっとそのはしくれに立ちたいとは思うのです。
・・・ちなみに触れておけば、こうしてこういう場で「モデル」をしてやろうとういう知性・感性を持った若い女性が育っているのもまた、京都(には限りませんけれど)の力ではあると思います。・・・・

- 2014/08/21(木) 00:00:40|
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