私が写真撮りの意図をお話しすると、「じゃあ、今度うちに来て摺るところを撮れ」とおっしゃっていただけました。
「ただし一週間前に電話をくれ。」とのこと。
光栄の至りです。

浮世絵は、絵師、彫り師、摺り師の分業で成り立ち、それをつなぎ合わせるコーディネーターの(蔦屋などの)版元がいます。
それらが職人として対峙しながら協同しているところに妙があります。
最近は「作家性」が最も大事だとされ、職人仕事が単に創造性のないもののように言われることがあります。
しかし、「自分で絵を描き、自分で彫り、自分で摺るのでは、自分の腕に甘えが出て良いものは制作できない。」と摺り師・市村氏はいいます。
近代ヨーロッパ的な感覚で絵師ばかりにスポットライトが当てられ写楽や北斎ばかりがクローズアップされますが、それで良いのかということを問い直す必要があります。協業で成り立っている浮世絵なのに彫り師や摺り師の名前は出ません。
彫り師や摺り師の技術的限界が絵師を縛り、技術的可能性や創造性が絵師を刺激する関係も見る必要があると思います。逆もまた真です。
それを一人でやれば自分の一番弱いところに合わせる人間の弱さが生じやすいという指摘もまた一面正しいと思います。
市村氏の座っている石の足元にはビールの缶が。
いささか・・・・ご酩酊。
酔わずにこんな不条理な世の中で生きていけるか・・・というわけでもないのですが。

「逍遥遊」・・・胡蝶之夢
私が書いてきたようにあれこれ不平を述べ慨嘆するのは氏の本意ではないかもしれません。
むしろ氏は荘子的境地を楽しんでいるのかも知れません。
荘子といえば「知は閑閑たり、小知は間間たり」を私自身の戒めとしましょう。

いやいや少しでも関心を持ってくれればそれでいいんだよ。
あなたのできることをあなたの仕方ですればいい。

まあ、また遊びに来なさい。

ではまた蝶となって花を楽しむとしようか。
テーマ:ある日の写真 - ジャンル:写真
- 2014/05/23(金) 00:01:35|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0