
ここは、北側はガラス張りですが南側は柱があるだけの空間です。
ですから案外に風が通ります。
それで時々スコアが暴れるときがあって難儀される方がいます。 この時もそうでした。

この方もよく来られるそうで、熱心に弾かれます。
そして一人につき10分間というのを良く守られて、一旦ベンチに戻り、他に弾く人がないのを確かめて、また練習です。

この人がベンチに戻った時にある男性が、ピアノの前の椅子に腰を掛けて、ポケットから折りたたんだ楽譜を取り出しました。
その楽譜は開くと一枚になるのですが、ずいぶん何度も折りたたみ、開きしたようです。
そのかたに「写真を撮らせていただけますか?」と声をかけますと「私はあまり上手く弾けないのでダメです。」とのお返事でした。

断られる確率は高いなという空気をまとった方でしたので、すぐさま撤退です。 ご無理をお願いしているのですから、さらに無理にはお願いしないのはエチケットだと思っています。
そして演奏の様子を見ながら、先ほどの・・・つまり写真の・・・方に声をかけました。
すると快く「いいですよ」のお返事をいただきました。

曲が変わったのでしょう。先ほどは滑らかに弾いておられたのですが、今度は確かめ確かめ弾いておられます。
当然?体ごと曲に乗って演奏されるのとは違います。
目を見ていただくと、それが分かると思います。

時々風が楽譜のページを進めてしまうので手で押さえなければなりません。
クリップは準備されていたのですが、一つ足りませんでした。

楽譜は「坂本龍一」氏の曲集のようですね。
坂本龍一氏は優れた作曲家だそうですし、私より二つ若いだけですから、ほぼ同世代なので、もっと関心を持っておけばよかったなあと思うことがあるんです。が、既にお亡くなりになったんですよね。
そういう、もっと触発されておくべきだった方がたくさん亡くなられてしまっています。迂闊すぎる私です。

このあと4人ほども若い女性たちが「猫踏んじゃった」や「ジブリ」の映画音楽などを弾いて楽しんでいました。

ピアノの愛好者はずいぶん多いんですねぇ。
- 2022/03/02(水) 00:00:04|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
今日から3月ですね。国の内外が大揺れに揺れています。
さて昨年11月はお一人の方にしか撮らせていただけなかったという、私にとっては大参事でした。それはまさにCOVID-19の広がりとそれに対応する政策の影響である訳ですが。
それが今年の2月は【2月1日から明後日の3月2日までの30日間では】 25人もの方の協力をいただく結果になりました。かつてない人数で、どうしてこういうことになっているのかその原因、背景を知りたいと思います。何か社会心理学的なことがあるんでしょうかね。まん延防止措置が出され、とても寒い毎日だったのにこの数字です。(以前、年間200人のペースの時は月平均が約17人ですから「25」という人数の多さが際立ちます。)
一先ず備忘のために書いておきます。
・・・・・・・・・・・・・・
山の中腹に配置されている校舎は複雑な道を作っている。
それで学生に「7号館に行くにはどう行けばいい?」と訊くと「ここを出て本館の中を通って、向こう側に出るとピンクの建物が見えますから、その右手に沿って行ってもらうと、その奥にあります。」とのこと。
「ということはピンクの建物を越えたところにあるんだね?」「はい。」
その説明は間違っていませんでした。あとから考えてみれば。
ただ、「ピンクの建物の『奥』という言葉の取り違いがありました。

言われたとおりに進んでいくとそれらしい建物がありませんでした。 そのあたりにある掲示物を見つけて、その指示に素直に従えばよかったのですが、学生さんの言葉で作った私の「脳内地図」に従ったので、ピンクの建物の奥手=背後には何もなかったのです。
ただ、さらに山の奥に続く上り道があるだけです。 その右手はクジャクやオナガドリ?などを飼うケージがあって、鶏が甲高く、正調日本語で「コケコッコー」と鳴いています。
そして坂道のずっと奥には鳥のケージより何倍も何倍も大きなケージが見えます。
そしてその前に一人の男性が・・。

それが何なのか、その人がどういう方なのか興味津々で坂道を登っていきました。
卒展の時でなければ、私は既に不審者でしょう。 「ちょっと迷子になりました・・・。」
そのケージは「鹿の飼育」用のものでした。 雄鹿が2頭にメ雌鹿1頭がいました。
そしてこの方は鹿の世話を含めての「用務員」さん。

私の旧職場では「用務員」という言葉は廃されて、「技術職員」と改称されていました。
この方自身は別の仕事で社会に十分貢献されて、さらに何かできないかと応募してこられたんだそうです。
ここの鹿事情についていろいろお話をしてくれました。 この裏山には野生のシカもいるんだそうで。

飼われている鹿はこうして土を落とされ刻まれた餌を与えられますから、野生のシカのようにケージの外では生きるのは困難だそうです。
ですから何かの拍子に鹿が逃げ出すと、その鹿は・・・・。

子供の頃からバレーボールをしていて中、高、大、そして卒業してからは自らクラブチームを作って常に府下のトップクラスで活躍してきたそうです。
長いバレーボールとの付き合いから学び取った蘊蓄も披露してくれました。
通った中学では「その頃既にうさぎ跳びなんかさせなかったな。生徒を指導するのは先輩で変な強制もなかった。」と。当時は東京オリンピックの大松監督の暴力的で支配的な指導が天まで持ち上げられていた頃でした。私たち中学生は毎日の様ぬうさぎ跳びをしていましたし、隣の女子バレー部員は顧問の先生のビンタをくらわされていました。(その先生は生徒思いで、他の点ではよい面をお持ちの先生でしたが、スポーツ界は、なかんずくバレーボールの世界は暴力支配が当たり前でした。過去形にできるかどうかわかりませんが。)
この方の通った中学は京都の、いや日本の教育史に名高い旭丘中学です。
今でもそうして運動をしているためでしょうね。身体の動きは力に満ちていて肌艶も若々しいです。

さて、そろそろ下界に降りてまた学生諸君の作品を見せてもらいましょうか。
ありがとうございました。 ではまたお仕事をお続けください。
続きを読む
- 2022/03/01(火) 00:00:04|
- 働く人々
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0