年末の過ごし方は、半世紀前とはずいぶん違ってきているように思います。
社会の状態が変わってきているのですから、それに合わせて良くも悪くも、又好むと好まざるとにかかわらず変化するのは仕方がないでしょうね。
年末の京都に少なくない観光の人たちの姿を見ます。

大掃除をして、お節料理を準備して、家族や親せきの来訪にそな得るというような、歳末の生活は次第に減ってきているようですね。
「私が楽しむ」ということがすべてに優先するようです。
何故、お正月なのに家族や親せきや・・・のために私(僕)が働かなくてはいけないの?

私の従弟は、・・・「本家」の次男ですが・・・もういい年齢になったので人との付き合いを整理したい、ついては「年賀状も出さないので、よろしく。」という事です。 さて来年の元旦に彼からの年賀状が届かないかどうか、それは注目すべきことですが。
私は、親の育て方もあって「長男」としての自覚が希薄です。 弟も正月だからと言って同じ京都に住みながら、姿は勿論電話一本の便りもありません。別にだからと言って仲たがいをしているわけではないし、話す時には大いに意気投合する仲なのですが。

自民党の守旧派の人たちが「こども家族庁」という名に固執したり、選択的夫婦別姓にしがみついたりしていますが、建前的イデオロギー的にはともかく、実態としての家族、親族観はとめどなく崩れて≒変容してきていますね。
だからこそ、年末年始の温泉やディズニーランドなどは大盛況ということになるのでしょう。
観光業・宿泊業界がそういう人々の意識を掘り起こして≒肯定して経営戦略を立て直しているのですから、その業界のために、石を投げられても「Go To」キャンペーンを実現すべく奔走している自民党はその党の業界から、家族イデオロギーの崩壊を促進するという形で「御礼」をされているという訳で、皮肉なものです。

わらび餅を舌触り易しく練り上げるためには丁寧なしかもかなりきつい仕事をしなくてはなりません。
この仕事を始めたころには手のひらにも手指にもマメを作ったことでしょうし、毎日、腕が、腰が痛かったことでしょう。
工場で生産した、わらび餅とは「やっぱり舌触りが違うねえ。粘りも滑らかさも、やっぱり手作りだね。」と言われてこその和菓子屋のわらび餅ですから、職人は大変でしょう。

道路に面した大きなガラス窓の向こうで仕事をする姿を見ることができます。
こういうのも営業的な工夫として今やそこいらじゅうにありますね。
常に人目にさらされて働くのは心理的にきついんじゃないかなあと私は想像するんですが、慣れてしまえば・・・なんでしょうかね。
そして私のようなものが何人もいるんでしょうし。
- 2021/12/31(金) 00:00:02|
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今ではスーパー(我が家はCO-OPです)の魚介コーナーで魚を買うことが多いですが、京都には意外にこうした魚屋さんが多いのです。
皆さんの地域ではいかがですか。

「今日のお勧めはこれだよ。」とハマグリを手に持って見せてくれました。
100グラム700円。熊本産です。
お隣には250円のもあるんですが・・・・。

「今日はなにがあります?」お客さんが来ると、すぐにお勧めのいくつかを指さします。
多分「この前にお勧めしたのは・・・・」とか「あの人の夫君は○○が好物のはず」とか、懐具合さえみんなインプットされているんでしょうね。
地元の方に重宝がられているお店だということがよく分かります。

「わざわざ遠くからきてくれるお客さんもあってね。」と。

「もう剥がそうかなと思っていたんでけど・・・・・。」

働いている姿がなんだかすごく生き生きとしている感じで、とても心に残ったので、いったん離れてから戻って来て、「お忙しそうですが・・・。」とご無理を言っているのです。

私の初心は「働く人を撮る」だったはずなのになあと。

- 2021/12/30(木) 00:00:05|
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師走です。年末です。歳末です。
「もう三つ 寝るとお正月」です。
皆さんの周囲は年末ムード 高まっていますか。

ここは京都の中でも有名な商店街の一つ、枡形商店街です。
もうギャラリーはどこもお休みですし、寒風の吹く鴨川で楽器の練習をする人もいません。
それで「歳末探し」です。

お客さんがひっきりなしにくる中を、お願いして撮らせていただきました。
私が京都に来て驚いたことの一つに「棒鱈」があります。 市場だと軒などにずらっと吊るして販売していますが、そもそもそれが何なのか知りませんでした。
沼津や焼津のある静岡県では、というより近くにも小さな漁港がありましたから、魚は生で・・というイメージでした。
魚屋さんの情景がまるで違いました。 でも今は流通革命で、京都の魚屋さんも随分変わりました。

大きなウナギです。 予約が幾つも入っているようです。
京都の魚屋さんの店頭にはウナギのかば焼きもあるし、穴子の焼いたものもあります。そうした焼いたり煮たりした魚が並ぶのが魚屋という様子だったのには驚きました。 もう半世紀前ですが。
京都は内陸ですから、新鮮に手に入るのは淡水魚だけでした。

棒鱈を戻すには手間がかかりますから、戻してぶつ切りにして販売してくれます。
京都の人はこれを煮付けて食べているようですが、私は妻も郷里がほぼおなじですから、そうしたものは食卓に上がりません。
もちろん?正月の「雑煮」も白みそは使いません。 長い間「角もち」でした。
そう言ったこともあってかなかなか京都人にはなれません。

言葉も京都弁を使いませんしね。
仮に「・・・のような言葉」を話しても、すぐに「ネイティブじゃない。」わかってしまいます

散歩に出るときに、家からの道を歩いていて「どうしてここにいるのかなあ。」「自分のいるべき場所はどこなんだろう?」「認知症が進んだら、『磐田の○○に行く。』なんて言って周囲を困らすんだろうなあ。」なんて思ったりしています。
- 2021/12/29(水) 00:00:04|
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皆さんのところにはクリスマスプレゼントは届きましたか?
世界中の子供たちに・・・クリスマスプレゼントが届くわけではない現実がありますが・・・プレゼントが届きにくいことになっていますね。
私も届きません。 まあ、私の場合は・・・・子供じゃないし・・・・届かなくても文句を言う筋合いじゃないのですが。
このところ次のカメラ探しの事をしつこく書いています。
本人以外にはどうでもよいことなんですけどね。

先日、家電量販店のカメラ部門のスタッフさんと最近のカメラ事情について話して、大いに意気投合して、日ごろ溜まっていた鬱憤をお互いに吐き出し合って、長話になってしまいました。

金に糸目を付けなくっても、適切なカメラが見つかりません。
まして、大幅にきつい「糸目」を付けるのですから、これこそというものが見つかるはずもないのです。
こんなな場所、状況では「静音」もしくは〔無音」シャッターが欲しいですが、そうなるとデジタルミラーレスカメラになりますね。
ただレフ機でも背面の画面で撮影をすればミラーレス機と同じ仕組みになりますから、電子シャッターが痞えて無音になる機種もあります。ただそれだと肝心の「ファインダー」が使えない。まあ、これは我慢するとしても。

感度を高めるためにはあまりがその多いカメラではなくてソニーのα7Sのように1200万画素くらいでもいいのです。
多分あのカメラで撮れない場所は、私たちの普通の行動範囲にはないんじゃないでしょうか。
私には2000万台を超える画素は必要ありません。
キャノンもニコンも画素数を競い合ってきましたが、最高がそのものが高級機と位置付けられますから、それ以外は差別化のしわ寄せで、わざわざファインダーなどの性能も落とされます。不合理極まりないです。

ソニーのように動画特性の高いモノ、画素数が高くて高精細なもの、感度特性が格段に高いモノなどと道具としての特性を明確にして、単純にその間に高級、普及などという差別化をしないのが・・・ソニーも必ずしもこういう傾向がないわけではないですが・・・良いと思います。 あれもこれも積み込むのは消費者にとっては良いことではないと思います。
消費者も悪いと思いますが。

そんなことをいくら言っていてもそもそも半導体がないので「注文していただいてもお手元に届くのは半年くらい後になります。」というのが現状です。

ですから、今年はサンタさんも困ったんではないでしょうか。おもちゃ、なかんずくゲーム機などは手に入らなかったかもしれません。
炊飯器やエアコンや・・・家電製品も皆半導体不足で生産ができず供給が細いようです。
家電量販店もクリスマス、正月商戦で一見は派手にしていますが、内実は「売るものがない」「供給が期待できない」ようですね。

原発商売でアベノミクスの片棒を担がされた東芝のように半導体ばかりか経営基盤・経営倫理さえ怪しくなっている日本を代表する企業の状態に見るように、半導体ウ不足もアベノミクスの一つの現れです。
ただ不足している不足していると言っているのでは話になりません。
経済安保の名のもとにやおら台湾から半導体企業を読んでこようとして企業に補助の名の税金を投入しているようでは経済運営をとても任せられないわけで、私は次のカメラを見つけられなくて呆然とするだけなんですね。
- 2021/12/27(月) 00:00:04|
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どうもご無沙汰でした。
COVID-19の所為もあって、永くお会いしていませんでした。
私が京都写真美術館で個展をした時には、わざわざ足を運んでくださいました。

11月にした写真展のご案内をしなかったので、不義理を叱られてしまいました。 「センセイ、必ず連絡をくださいよ。」と。
この方自身が高い評価を得ておられる職人さんですのに、しかも間もなく80歳にもなろうとされる方に、こういわれるよ本当に恐縮してしまいます。

この時には白いハンカチに梅などの絵を描かれていましたが、すでに書き終えたものの中に来年の干支である虎が描かれたものがありました。
猛々しさのある強い虎です。 だけら他の人の絵を採って描かれたものだそうですが「自分の絵ならもっと良かったんだけでど、どうぞ。」とおっしゃって下さいました。
実は私は寅年なのでず図々しくも「譲ってくれませんか?」とお願いしたのです。
お金を払おうとすると「いや、これでお金を得ようとしているのはなくて、人にプレゼントするために描いているんだよ。」とのこと。
えっ、伝統工芸士の方が直筆で描いたものをですか? プリントじゃないんですよ。
この場の机の横には「伝統工芸士」の証明の盾が置いてあるんですが、「会場がね、どうしても置けというので置いたのだけど・・・。」
その盾は机の陰に隠れてひそやかに立っています。木下さんらしいなあと思いました。

固辞しても木下さんに失礼なので喜んでいただきました。
マスクを外しているのは「遺影」を撮ってくれというので、分かりました、と。そう言う訳です。
自分という存在を一番象徴しているのは、やはり描いているときだからというのです。私もまったく同感でしたから、喜んで撮らせていただきました。

「先生は、私とよく似てるんじゃないかと思うんだけど・・。」とおっしゃいます。
う~ん、どうなんでしょう。
自分のやりたいことをするのに「カミさんが経済的に助けてくれて…。」と言いう点は全く同様なんですけどね。

私の写真生活も少しずつ変化しています。
- 2021/12/26(日) 00:00:00|
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11月の写真展以後は、自宅から遠いこともあってなかなか京都駅にまで足を延ばせませんでした。
加えて、写真展をしてしまったので「駅ビルピアノ演奏」を撮るというモチベーションが下がったことは否めませんね。

それでも駅ビルピアノ30人、(まあそれは50人だっていいのですが)を実現してみたい気もありますから、また、寒い中を、ぼちぼち出かけてみたいと思います。
京都駅近くには家電量販店が2つあって、そこにカメラを見に行くという現実的な理由もありますし。

私のメイン機であるα900の2台目がもう青息吐息で「そろそろ勘弁してくれ~」と悲鳴を上げているのです。 やはり中古で手に入れたのが災いしているのでしょうかね。
そうなると「メイン」を担う新たなカメラが必要になるのですが、やはり何年検討しても行く着く先は「解なし」あるいは『該当するものはこの地球上にはありません」です。
全く途方に暮れてしまいます。

ある量販店でカメラ部門の若い女性のスタッフさんと・・・・この方はとてもカメラに詳しいのです、しかも実践的に、そしてものすごい熱量です・・・・話したときに。「そうですよね。ないですよね。売る側がそういうことを言ってはいけないんですが。」というのです。
例えば私がこうした他宗の多種類のカメラが展示販売されているところに来て、スタッフさんに「光学ファインダーの・・・」といった瞬間にこのカメラたちの98%は対象から外れてしまいます。まあ、希望的に96%がと言い換えておきましょうか。あるメーカーが右顧左眄することなくレフ機を作って言いますから。
「ない」という意味の中に手に入るものがないというのがあります。そう言う意味ではこの地上に「ない」というのはいいすぎなんです。

最近発売されるカメラは半端でなく「高価!!」なんです。高価すぎるんです。ですから私にとっては「無いも同じ」なのです。
画素は2000万台でいいんです。
動画機能はなくていいんです。ついている分には目をつぶりますが。
光学ファインダーでマニュアルでのピントの山がつかみやすいモノ。視野率100%。・・・この条件はフィルカメラ時代に満たすものがたくさん作られていました。
まあ、そういうことを並べてもただの愚痴になりますが、今は新たにカメラが手に入らなくなっていますね。
それは半導体不足ですでに生産が途絶えて在庫もすっかりなくなっているという事です。
ですから、今年大いに話題になった新機種も「欲しい」を散々掻き立ててたまま「ご注文をいただきましても半年、いえ1年先になりませんとお届けできません。」ということになっています。
家電全般がそう言う状況ですね。
政府は、大慌てで半導体工場を作るように企業に湯水のように補助金を注ごうとしていますが、東芝などの半導体企業を今日のような状態にしてしまった反省は何もありません。反省がなければ、又のど元過ぎれば・・今はモノづくりの時代じゃない、金融で稼げというばかばかしい声に押されることになるでしょう・・・・元の木阿弥になってモノづくりのできない国へまっしぐらになるのでしょう。
カメラ≒写真文化は日本が世界的に負った使命になってきていたはずなんですが、カメラメーカーなどの写真関係企業を見てもそう言う文化に対する責任感など全然感じられませんね。
フジフィルムがフィルム生産を止めてしまったことなどそのよいというか悪い例です。

今まさに若者を中心にフィルムカメラ時代が起こってきていたのに、フィルムメーカーとカメラメーカがその芽を摘んでしまおうとしているのです。 オジサンの話ばかり聞いてんじゃないよと声を大にして言いたいです。
そのことでフィルムカメラも、それに合わせたレンズもただのゴミか骨董品になってしまいます。
フィルムをなくすなんて、デジタルで絵を描く時代だから「画用」の紙生産を止めようというのに等しいです。
文化の破壊です。
文科省や文化庁が、また各芸術大学や専門学校が黙っているなんて信じられません。
経済効率や「利潤を上げられないのだから仕方がない〕なんてことを言いだした時点で、語るに値しません。
この国は貧して「鈍して」しまっているのです。
- 2021/12/24(金) 11:19:37|
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このギャラリーでは、この奥庭で立体作品を展示するようになっています。
庭の向こう側に高いビルが建つようになり景観が変わってしまいましたが、ギャラリーオーナーのHさんは作家たちの要望に応えて頑張っておられます。
一方またギャラリーは作家たちに支えられるという訳ですが。
木の枝から落ちた葉は「木から独立したのだ、解放されたのだ。」と石山氏は言います。
決してただ死んだ、終ったというのではなくて、地上に落ちてもなおそれぞれの個性をもって存在し続けているのだと。

屋内に展示された木の板を切り抜いた「葉」たちが床に寝かして並べられるのではなくて、ことごとく姿勢は様々でも「立てられ」ているのは、そのためです。
もう存在として意味が無くなったり、役割を終え切っているのではなくて、依然としてそれ固有の「存在」を保っているのだというのです。
それでそれぞれ太〔屹立〕しているわけです。

葉の形に抜けた『跡』もまたただの空虚ではないというのです。そこから見える世界を与えているというのです。
例えば私の父が亡くなった。そのいなくなった跡が以前として私に問いかけたり、世界を見る目を与えたりしている。『跡』にもその葉の痕跡があるというのです。

「自分ももういい年やしな。そういうことを考えるようになったんやろな。」
この木かて個性があるし、葉をより遠くに飛ばして、その地の滋養にしようとしている。とんで行った葉もまたその役割をもって落ちるんやないかな。
道路に広がった葉たちを見てもそれぞれに色も違えば形も違う。それが一緒くたに掻き集められて燃やされたりするのは、なんとなくいたたまれんなあと思うんやけどね。
そうした葉たちを描いた屋内の絵が何とはなしに優しく暖かみをたたえていたのはこういう石山さんの気持ちの反映なのではないかと、「そう言う訳だったのか。」と思いました。
石山さんが「老いを生きる」私たちに対して「まだまだ」と言っているように思いました。

「生き生きとした枯れ葉」というyの葉形容矛盾かも知れませんが、どうもそういうことのようです。
どうです、この若々しい生き生き感は!
- 2021/12/24(金) 00:00:06|
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枯れ葉というか落ち葉というか、それが取り上げられた作品です。
ちょうど晩秋のこの時期、ギャラリーの奥庭は落ち葉が敷き詰められています。
そんなかに板状の、又筒状の陶器に表現された枯れ葉たちが混じります。


普段はあまり作品の写真を載せませんが・・・。

作者の石山さんです。

作品について・・・・実は建物の二階の展示場には木製の作品が展示されているのです。やはり枯れ葉をテーマにした。・・・いろいろお話を伺い、この枯れ葉を取り上げた思想の深さに感銘しながらの「写真を撮らせていただけませんか?」でした。

正直に言いますと後付けの説明になるかもしれませんが、室内にある油絵の感じ・・・・落ち葉が硬い乾いた感じではなしに、肌合いのガサゴソした感じではなしに
・・・・確かに枯れ葉であり落ち葉であるのに?何かどこか優し気な感じで描かれていたこと。

私が二階のベランダから見ていた時、そしてこうして降りて来てお話をしているときに氏から感じる空気が、いわゆる芸術畑の人とは違うものを帯びている感じ、その理由が(本当に理由として繋がっているかどうか怪しいものですが)、お話を伺って合点がいったように思いました。

この方、油絵もされますし、木で立体も作りますし、こうして焼き物の作品もおつくりになるのですが「私の本業はこれではないんです。
「友禅染」の「糸目糊置」の職人さんだそうです。(赤字部分は石山さんにご指摘をいただいて訂正させていただきました。石山さんありがとうございました。西陣は「織」で友禅が「染」です。)
なるほど「職人さん」のにおいがしたのか!

私はたくさんの職人さん、多少の絵や立体の「芸術家」たちとお会いしてきて、どことなく空気の違いを感じるのです。
職人さんの中にもただ注文を受けて「高い技術を発揮する」だけではなくて、自分自身の作品作りをする方が何人もおられますが、多くはその個性的な表現や手法について見せることについて気持ちが控えめです。 思いが弱いというのではないのですが、あまりこれを見よという風が濃厚な方は少ないように思います。
- 2021/12/23(木) 00:00:00|
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昨日の記事を書いているときに、12月の事だから「ベートヴェンの交響曲第9番」を聴きながら書こうとと思い、ネット上で演奏を探したのです。
そしたらこの曲を解説するユーチューブ番組を見つけて勉強させてもらいました。
極入門的な話で私にはぴったりでした。こういう話を知って、改めて聞くと鑑賞はますます楽しいものになりますね。

≪ファゴット奏者:西堀 健祐さん≫
インターネットが切り開いた世界はすごいなあとつくづく思います。
私たちの生活は格段に変わりましたね。
で、そのユーチューブ番組を聞きながら書いているうちにそのお話が終わり、そのままにしていると次の別の内容が流れてきました。

≪クラリネット奏者:泉 祥さん≫
私が見ている画面は昨日の記事の画面ですから、流れてくる音の正体は確認できません。
流れてくる音はベートーヴェンの交響曲第5番です。 私に「つもり」では今日は「第九」を聞くという事なのに「5番」では、調子が狂います。

≪オーボエ奏者:森永 昂熙さん≫
それで、チェンジしなくてはという意識はもたげたのですが、その番組から離れられません。
5番の演奏が異常に素晴らしいからです。 私が最初に5番に出会ったのは先に書いたように視聴用のドーナツ版でした。それが誰による指揮でなんというオーケストラによるものかという記憶はありません。そもそも指揮者やオーケストラによって演奏が変わるのだなどということも知らない幼い聴き方でしたから。

少し意識した頃に聴いたのはワルターとカラヤンでした。
ですから私の5番はドーナツ版とワルターとカラヤンでできていたのです。それとははっきり違うテンポで「遅い」のです。
その遅さの中に稠密に構成されて研ぎ澄まされた音が輝きをもって鳴っている演奏にその番組から離れることができませんでした。
その演奏の指揮者は、ご存じフルトベングラー、オケはウイーン・フィル、録音は1954年です。

≪フルート奏者:杉澤 光咲さん≫
それで、そのまま最後まで聞いてしまいました。
先に書いたユーチューブの解説者が上げていた第九の名演の筆頭は1951年、バイロイト祝祭芸劇場でのフルトベングラーの演奏でしたが、今のところネット上に音源を見つけることができていません。演奏や録音についてはいろいろな評価があり高度な知識を持った方々がいろいろな評価をしていますので、そういうことには立ち入らないようにして・・・・。

≪ホルン奏者:池松 由良さん≫
で、今は第九を聞きながら書いています。 演奏は朝比奈さんでもいいし小沢さんでもいいし、無論、ワルターでもバーンスタインでもショルツでも・・・・まあ誰でもいいのです。
気になるのはソロの歌い手の声質だけです。

≪ピアノ奏者:安達 優衣さん≫
- 2021/12/22(水) 00:00:03|
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第九と言えば、第一楽章の初めの部分は、まるでオーケストラが演奏の初めに音合わせをしているような入り方です。
私は、第九を始めて音楽ホールでライブ演奏を聴いた時には、うかつにも「あれ?! いつまで音合わせをしているのかな?」と思って聞いていたことを思い出します。
それまで音楽をレコードやラジオで聞く以外にはありませんでした。ライブを聴く初体験は、高校2年生の時にお隣の町・浜松の体育館でロシアアカデミー合唱団でした。生演奏を聴くのはそれ以来のことで、音楽専用のホールに入ることは初めて、・・・なんでも初めての事には尻込みをする人見知りの私は・・・前から5列目くらいの、右にずっとよった席で緊張して席についていたのです。第九は初めて聞く曲でもないのに。導入部さえ聞き分けられなかったのですね。

学生時代は大学中の最貧困層を形成する一人でしたので、こうしたライブ演奏を聴くなどということは、以来一度もなかったわけです。
とにかく同じ寮の仲間がもっていたステレオとベートーベンの五番のレコード、それとラジオのFM放送が楽しみという生活でした。
で、実に不作法であまりに親しさを発揮する寮生に対して、部屋の扉には「運命でさえ扉をたたく」と張り紙をしたものでした。
ただそれも無類の音楽好きなどというような高尚なものではなくて。

クラシック音楽と言えば交響曲か協奏曲しか知らなくて、こうした小編成の弦楽四重奏曲などについては無知そのものでした。
後はブラスの行進曲でしたものね。
ですから大学を卒業してとある書店の若い責任者がモーツアルトのオーボエ協奏曲がいいと言った時に、私はと言えば協奏曲にはピアノとバイオリンしかないと思っていたくらいの無知だったのでした。そしてこの人の精神世界はよほど広くて深いのだろうなあと、彼を大いに尊敬したものでした。

就職すると、それなりに一生懸命に仕事に入り込みましたから、毎日の持ち帰り残業で、土日もなく仕事の準備をしていましたから、せっかく手に入れていたそこそこ優秀なステレオは音も出さずに埃をかぶっていたし、レコードも増えないままでした。
ですからリタイア後にはそれを取り戻そうをとしている自分に気付きます。
写真も同じですね。
そう言う訳ですから、前半生を否定する気は毛頭ありませんが、リタイア後に今一つの人生が始まって重なっているという感じはします。

演奏会に行ってステージに現れる人たち、黒い服に身を固めた奏者たちは、私にとっては天井に招いてくれる特別な「使途」のように感じられたこともあります。
第九の第三楽章など、よく天上を思わせると言いますが、まさにその通りでこうした曲を書くことのできたベートーベンは人を超えた天才だと感じることがあります。
まあこうした言いようはあまりに「詩的」で、私はあまり好まないのですが、しかし、私たち聴くものをそうした天上的な感興にいざなってくれる演奏者たちは特別な人だと思う訳ですね。

縁があってこうして若い演奏家たちと出会うことができ、時にグラスを片手に話をする機会も生まれるとやがて、その人たちはとても優れた地上人だということが分かってきました。
で、却ってそうした地上人が天上さえ彷彿させる演奏に立ち向かう、しかし一方で現実の生活者であるという存在、姿を撮りたいなあという思いがさらに増してくるのでした。
- 2021/12/21(火) 00:00:02|
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ご覧になってお分かりのように、撮影しているのはゲネプロの様子です。
本番をという気持ちも、誘ってくれたメンバーにはあったようですが「お客さんのためにやめておいた方がいいんじゃないかな。」と私が言いました。
ただ、本番ではこの人たちの演奏の密度と熱は一挙に高いものになりましたので、無論それを撮れないことは、お互いに、とてもとても残念な事なのですが。

この演奏会はオーボエのMさんを中心維企画されたようで、そのMさんが私に案内をくれたのです。
それで「じゃあリハを撮らせてもらえないかなあ・」とお願いしたら快諾してくれたという訳です。
というのもこのMさんとクラリネットのIさんとは既に以前にお会いして演奏を聞かせてもらっていましたし、写真も撮らせてもらいお送りしたという縁があったのです。

それで、他のメンバーにも撮影の事を話してくれたので機会を得ることができました。

クラシックの演奏でも演奏者はとてもよく動きます。
それで昨日書いたようにISOを上げてシャッター速度を上げないと、手振れだけでなく、被写体ブレを起こします。
なのに私はISOを上げないで、光の足りないために絞りを開けてしまうものですから、なおのことピントが外れがちになります。

曲についての知識はありませんが、それなりに曲に付いて撮ることになります。
というよりそれはかっこよく言い過ぎで、実は体の動きですかね。
頬、唇、眉間のしわ、指、肘、片、頭、背中、足などなどの動きを見て、そして他の演奏者とのバランスを見ます。
見ますと言っても見ている「つもり」だけかもしれませんが。
本番では女性たちは華やかなドレスを着ますが、リハではこうした服装です。
ファゴットは私が中学の頃にはバスーンと習いましたね。
バスーンが英語、ファゴットはドイツ語だと思います。 通常は、楽器名は英語で呼ばれることが多いですから、中学ではそう学んだのでしょう。
ダブルベース(英)もコントラバス(独)と言ったりしますね。
写真を撮るようになり、音楽関係の人たちと出会う機会が増えて、中学時代の知識が大きく修正される機会が何度もありました。
名称にも流行がありますしね。 シャッターは切るのか押すのか。(まあ押すのはレリーズボタンですけど。ま、どうでもいいか。)

とにかく会場には演奏者以外には2,3人しかいないわけで、客席から、ステージ上から好きなところから撮れるのですから、こんな有難いことはないわけです。
- 2021/12/20(月) 00:00:11|
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クラシックの演奏家たちを撮るのは久しぶりです。
このホールでは以前、トラヴェルソフルート、トチェロ、バイオリン、チェンバロのグループ、アルモニー・ダボロンのCDジャケット用の写真を撮ったことがあります。

あの時は撮影の時にはスタッフが気を利かせてくれて、照明を明るくしてくれたのですが、今回は本番のままで、少々暗かったです。
私がちゃんとお願いするべきでした。
私はISOを1600以上にすることが、心理的に、できなくて、それでシャッタースピードを上げられないし・・・ということになるという過去の失敗経験が生かせません。

こうした会場では照明自身がやや赤みを帯びていますが、この会場は壁の色がまた赤に振れていますから、色調整がとても難しい。
完全に調整してしまうとこうした会場の雰囲気が出なくなってしまいますから、やや赤みを残さないといけませんし。

でもやっぱり被写体の表情をとらえて、かつポップアップするには白黒か、あるいは がいいと思います。
こういう時にソニーのα7sだったらどうなんでしょうね。
あるプロのカメラマンが言っていました。自分たちはプロなので撮れなかったとか、思う画像にならなかったでは済まされない。だからそのカメラの対する情緒的な思い入れなどではカメラを選ばない。あくまでできるかできないか、より確実で安定度の高いカメラを選ぶ、と。
そうなんでしょうね。
私は次のカメラを、やはりファインダーで選ぶのだと思います。そうするともう時代遅れになりつつある一眼レフ気になるのでしょうね。 プロも多くがミラーレス一眼を選択する時代に。
話は変わりますが、どういう訳か私は音楽関係の写真を多く撮るようになってしまいました。
最初の思いとは大分違っています。
それでも、幾分は音楽を楽しめるように自分が形成されてきましたので、その点は良かったと思います。
それについては親にうんと感謝しなくてはなりません。

中学生の頃にステレオを買ってもらい、その時に視聴用のレコードがついてきました。ドーナツ版でドボルザークやチャイコフスキーの交響曲やおイアの協奏曲の一部が録音されていましたが、それを何度も何度も聴きました。というのもそれ以後長いこと二枚目のレコードを買えなかったのですから。
でもその影響は本当に大きかったと思います。楽器演奏に向かったわけでも特段の音楽通になったわけでもないのですが、今でもジャズやクラシックの曲を楽しめるのはそのおかげだと思っています。
そしてそれに加えることができるのはレコードジャケットからの影響です。
今のCDジャケットと違ってレコードジャケットは大きいですし、クラシック音楽には古典絵画が採用されていることも多かったのです。また写真も素晴らしものが使われていましたし。
そういうことを通じてある種の美感覚というか美に対する欲求が育てられたと思います。
- 2021/12/19(日) 00:00:02|
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全国にはいくつの寺社があるでしょうか。
本寺末寺、本社末社・・・
文化庁によれば仏教系寺院は全国で77,206ケ寺だそうです。人口10万人あたり60.82寺だそうで、寺院数が最も多いのは滋賀県で人口10万人あたり227.39寺、。2位は福井県で215.35寺、3位は島根県(189.57寺)だそうです。寺院が無茶苦茶多そうな京都は全国13位だそうです。
これは人口10万人当たりですから絶対数で言えば愛知県がトップの4,589寺。それに対して京都は3,076ケ寺でかなり開きがあります。

多分、京都は権力とのつながりで本寺だとか総本山だとかいう大規模なものは多いんでしょう。
私の住まいの周囲300メートル以内には3ケ寺有ります。神社も1社。1キロ以内にはどうでしょうね。
等持院、竜安寺、仁和寺、妙心寺、金閣寺以外にも寺員、塔頭がたくさんありますから全国13位というのはちょっと意外でした。

この方の仕事はそうした寺社に使われている各種の幕の刺繍の修理です。
地方の寺院からも仕事が入り、それぞれが高価で、中にはとても長いこと使われていたものがありますから、そこに施されている仕事はかつての職人さんの、しかも幾度も補修されていれば幾世代もの人たちの仕事を受けたものになります。

補修しながら技術を学ぶと言います。
時にはガラスケースの中でしか見られないものを直接触るだけでなく糸をほどき、作業をさかのぼって体験するのですから、貴重な仕事です。
その当該の寺院は勿論その檀家さん、信者さんの思いがこもったものもたくさんあると思います。
昔何かあって寺院を新たに建てたり再興したりした時に村や町の人々が皆よってその寄進によって遠い京都から求めたものがあったかもしれません。
それが例えば寛政年間だったり、あるはさらに昔のモノだったりしたら、それだけにその寺院にかかわる人々の思いがこもるでしょうね。
豪華だというのもその村、町の人の誇りに繋がっているかもしれません。
今、金糸を縫い付けていますが本金だそうです。

ただまあ、私個人の考えとしては寺社が豪勢だということはそれに反比例して庶民は貧しさの底にあったんだろうし、あるのだろうなあと思います。
京都の有名寺社を見学するときにその豪華さや秘匿性に感激してやたらと喜ぶ人がいます。が、どうも私はそういう人たちに共感する感性は私にはないようです。
そういうものを作るための富が吸い上げられる仕組み、そしてその富を享受する階層の人々について私はシンパシーを持つことを良しとしないからです。

工芸の粋を集め、職人たちの高度な技と熱意と汗とを結集したものは当時の権力者の力なくして実現しなかったわけですから、そういうことをただ忌避しても仕方ないし、そこにあるものは確かに私たちの祖先の精華だと思います。ですからいろいろ見学したいという気持ちはあるし、大切に継承しなくてはならないなあと思います。ですが、それがことに京都などでは民衆のものではなかったという事、民衆の収奪の上に成り立ってきたことを忘れることはしてはいけないことだと思います。
それにしても坊さんたちはなぜあんなに豪勢な衣に身を包みたがるのでしょうね。高位高僧になればなるほど。
人には欲を絶てとか慎めというのに。

京都の大伽藍を言見るときの感想と地方の村社や末寺を見ると感慨とは大きく異なります。
いわゆる「コロナ禍」にあって寺院や坊さんは何をしていたのでしょうね。
「疫病退散」と書いたり口にしたからと言って何も解決しないのにね。
そう言う思いを込めて人々が投げ入れた賽銭の全てをこのコロナ禍で生活の基盤を壊した人々に、あるいは医療関係者に施業したという寺社や僧侶の話を寡聞にして聞きません。(きっとあるのだと思います、そういう徳のある行為をする寺院や僧が。ただあまり街頭に出てこないのですね。)
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- 2021/12/18(土) 00:00:02|
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木管五重奏にはフルート、オーボエ、ファゴット、クラリネットに金管に分類されるフォルンが入ります。
ホルンの音が木管にとても近いからだそうです。
楽器の分類の「いい加減さ」はずっと前にも書いたことがありますが、まあ分類が便宜的なもの以上の意味がないからでしょうね。
現代フルートは金属でできた管楽器なのですし、たたいて音を出す楽器が打楽器ならばピアノも打楽器でしょうにね。
でも多分ピアノの人は断固として打楽器に括られるのを拒否するでしょう。・・・かな。 弦楽器でもなくて鍵盤楽器?!
別にピアノに恨みがあってこんなことを書いているのではないのです。ただ分類がいい加減なのに小学校で「次の楽器はどんな仲間に入るでしょう。」などと、試験で問われて大人(先生・教科書)に不信感を持ったからです。
(実際のところ楽器の分類はその来歴や構造を見ると外観などから簡単に区別、分類できるような生易しいものではなさそうですね。)

この人がチャイコフスキーの曲の一説を、そしてそれが何となく陰鬱な表情もったホルンのソロ部分を吹いていたので、近づいて撮らせていただきました。
所属は「ブラスバンド」なのですが、オーケストラ曲も好きなので・・・、ということだそうです。

中学生で初めて、中3の時にマイホルンを両親に買ってもらって・・・・。
中学の部活選択は大事ですよね。その後の人生を決める。
私は野球部の入部を希望してグラウンドに行ったら学外指導者の方に体が小さいからダメだと言われて(この人は何の権限があってそんなことが決定できたのかいまだに不明ですが)、仕方なくバレーボール部に行きました。が、まあそれはそれでよかったかな。指導者に縛られて自由に楽しめない部活ではなくて、大して強くはなくとも、みんな自分たちで考えてやった愉しい部活でしたし。指導者のいる学校を破って郡大会準優勝まで行ったのですから立派なものです。

この人のも楽しい中高時代の部活動と今があるのでしょう。
今はなかなか全体練習や公演ができないから、なんと言っても可哀想ですが。
カメラを向けると「緊張しちゃうなア」と。
なかなか「そのまま、先ほどと同じように練習していてくれればいいですから。」などと言っても、それはなかなかそうはいきませんよね。
そこにこの人の真面目さが出ているんでしょう。

もう空気はだいぶん冷たくなってきていますから、指先も冷たいでしょう。
金管は夏は野外では焼けてくるし冬は冷たいし。
せめて晴れて陽に暖められて楽しんでください。
- 2021/12/17(金) 00:00:01|
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金彩は最後の過程です。ですから失敗は許されません。
松の絵に松の葉を描き入れています。

三角錐状に作られたものに金を混ぜたものが入っていて筒金から押し出しながら描いていきます。
糊で伏せて白抜きになっている線に重ねていくのですが、全く迷いなくスッスッと描いていくのは、長い経験故に当然と言えば当然のですが。
いちいち逡巡しているようでは線が死んでしまいますからね。

それでも長い工程を辿っていよいよ最後の仕上げだと思えば、私ならビビってしまいます。まあ、それも慣れなのでしょう。
親指と人差し指とではさんで、ちょうどケーキにクリームを絞り出してデコレートするときのように描いていくのですが、中の絵の具の量は次第に変化するんですしね・・・力加減が難しいでしょう。 線の太さや盛り上がりは一様でないといけないし、かすれても揺らいでもいけないわけです。

このところ小学生の見学が多かったようですが今日は静かです。
「修学旅行」も、一段落したのでしょうか。

ここは白色の蛍光灯に電灯色の蛍光灯などが混じりあっていますから、色調整がとても厄介です。
人間の目も当然そういう影響を受けているはずなのですが、よくできているんですね。
それがカメラのホワイトバランスを撮る段になって痛感します。

最近のカメラはその点でも格段と進歩しているようですが、私はいつも苦労しないといけません。
ちゃんと基礎基本を学んでいないバチが当たっています。

今回はたまたま布の色がバッチリと決まっています。
多分。
- 2021/12/16(木) 00:00:05|
- 工芸
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新聞を読んでいると様々な情報が伝わってくるが、それはある程度落ち着いて受け止め穏やかに考えることができるがネット上で情報に触れるとその落ち着きや穏やかさが半減される感覚があります。
そして下らなさに塗れなくてはならないというぞっぞわとして汚濁感にまとわりつかれます。
いわゆる「リテラシー」というものの中には見分け、聞き分けるという知性の部分と自身の心持を平静にむやみに泡立てないとで保つ心理的な面とがあるように思います。
さて、はや12月の半ばです。昔ならば16日に給与が出て25日ころだったかな賞与が出たと思います。今はもうすっかりそういう感覚がうせてしまい、ただひたすら家計防衛に走っているのです。それでクリスマスだ正月だったと言っても心浮き立つことはないですね。

でも家族にプレゼントを用意するというような楽しみがあります。
粗末なものであっても何がしかそれを準備する過程で暖かい気持ちになれます。

今年はたまたま年の途中で、必要もあって「これが今年のクリスマスプレゼントだよ。」と上げてしまったので、その楽しみもありませんが。
まあ、それでも街に出かけたら何か小物でも探しましょう。 まだ10日ほどありますし。

私はクリスチャンじゃないですけど、日本のお歳暮やお中元は「家」から「家」というニュアンスが強いですし、何か風呂敷に包むような感じがあります。。
それ以外では日本では贈ることが苦手なような気がしますので、クリスマスはその苦手の幾分の解消の種になるので利用しています。
ハロウィンなども「楽しみたい」「集まりたい」というような心理がオシャレ感に刺激されて広がっているのかな。日本にないものはなんでも取り入れて換骨奪胎するのが得意ですしね。

それにしても2021年は何だったかのか。
「良かった」をあのオリンピックにすがりついたように取り出そうとする気持ちには同調できませんし、衆院選はなおさらです。
香港情勢もひどいし、世界の環境破壊は踏みとどまることが難しいし、日本経済は先進国からずり落ちそうだし・・・。
世界史として、日本史としてじっくり考えてみたいと思います。
- 2021/12/15(水) 00:00:11|
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今日は「狐の嫁入り」です。
私の郷里では「天気雨」と言っていました。

洗濯物は入れたり出したり。 南の空は晴れていて、北側の家の瓦は濡れているという具合です。
この季節、自転車で外に出ると、こういう風に降られることを覚悟しなくてはなりません。
自転車では傘がさせませんから濡れることを勘定に入れます。

昨日のコンサートでは若い演奏家の写真を撮ったわけですが、ほんの短時間言葉を交わすだけでもなんとなく、こちらも若い気分になりますね。
それにしても工学部物理工学科を出て、音楽を志すという人のいろいろな思いを改めて聞いてみたいですね。
「二刀流」という言葉が注目されるようになっていますが、教育の中で「才能は一つ」という固定観念は早く捨てたいですね。

高い学習能力があれば「力に余裕があるから」いろいろやってみてもいいという風に言われがちですが、実はそこが逆なのではないかと思うことがよくあります。
スポーツの世界でも「余計なことを考えたりやったりしないで一つの事に打ち込め。」などと言われることがありますが、発達論として根本的な反省が必要だとかねがね思っています。

費用対効果などの視点でしか人の発達成長を見られない価値観は貧しいです。
学校教育から芸術教育がどんどん削られています。
それであんなお粗末なテレビ番組がたくさんまかり通るようになるのでしょうか。
- 2021/12/14(火) 00:00:28|
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師走ですが、なぜかその実感がわきません。
現役を退いて「毎日が日曜日」の生活が長くなり、繁忙期も行事も何もないからでしょうね。

そう言う意味では、自分で季節をかみしめるようにしないと一年が顔なしになってしまいます。
忘年会、新年会もないですしね。 うん? ひょっとしたらファインダー倶楽部の新年会の知らせは、届くかな。

昨日は、「Ensemble-EN」の~木管五重奏とピアノの響き~を聞きに行ってきました。
お知らせをいただいて、「出来ることならゲネプロを撮らせてくれない?」とお願いしたら、歓迎してくれて撮ってきました。
クラシックの演奏のリハを撮るのは久しぶりです。
こういう撮影はとてもとても楽しいです。
さて、下のような表情。
この人の知性が見えるような気がします。
一般的な「女性ポートレート」に欠けている要素です。 大方の写真展の女性たちはこういう表情をしていませんし、またそれを撮ろうともしていないと思います。

いろいろ考えることがありそうです。
- 2021/12/13(月) 00:00:27|
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知人の写真愛好家は京都のあちこちをバイクで訪ねて紅葉を撮っていました。
季節を満喫しているようです。
ですが、私は・・・・。
そこで随分前の写真ですが、これまた懐かしい方です。

才媛ですね。しかもとても主体的自律的な方です。
学外にとどまらない広い世界を見、聞き、体験しながら成長しようとしていました。
それで私の写真にも協力してくれたのだろうと思います。

栴檀は双葉より芳しという言葉をこの年齢の人に言うのは本来の意味とは違うのでしょうが、後々素敵な女性になるのだろうと想像できます。

先の総選挙でもジェンダー平等が争点となり、全く遅ればせではあっても日本でも女性が社会的に活躍する入り口には立ってきているように思います。
それは制度や習慣の面としてではなくて現に女性たちがそう言う実態を作り上げてきているという意味で。

問題は「おじさん」たちですね。あまり世代論は意味がないし時に危険ですが、いわゆる保守的志向を持つおじさんたちがどうにもなりませんね。いや急いで補足すれば、そう言うオジサン的な志向を内面化した女性たちもまた、もはや漫画的なまでに時代遅れです。 例を挙げろですって、天照大神の生まれ変わりだと言われて悦に入っているような人とか労働貴族の最も悪い姿を体現した人だとか、ですかね。

私は、日本社会の総体に対して、ことにジェンダー問題についてはかなりシビアな評価しかしていません。が、この人のような女性に出会うと、うむ、そうはいっても歴史はジワリとは動いているなあ、それを個々の人格として結晶しているのを見るのは実に愉快です。
- 2021/12/12(日) 00:00:05|
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12月も中旬に入り街はクリスマスの飾りでいっぱいです。 でもジングルベルの音に浮かれるような雰囲気はあまりないような感じです。
忘年会、新年会もかなり自粛・忌避されることになることでしょうね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大阪府は会食は2時間程度までにしてほしいと府民に求めていましたが、維新の松井市長は先の衆院選で議席を得た青柳氏の「選挙の反省会」として称して2時間半から3時間の会食をしていたそうです。
それで松井氏は記者の質問に答えて、府が2時間程度にと要請している中で、それを越えたのは「反省すべきことかなあと思っていますけどね。(実際はもっと大阪弁的な言葉ですが)」と答えていました。「反省すべきことだと、思っています。」としているわけではなくて「ことかなあ」「思ってますけどね」という言葉に彼の本音がよく現れています。ですから「府市民に対して申し訳ない」とか「謝罪します」とかの言葉が続いて出ないわけです。
記者のインタビューに答える表情も「失敗だったなあ。」のニュアンスが恐縮や反省の顔ではありませんでしたね。
青柳氏も「誤解を受けるような会食のやり方は」まずかったと言っていますが、誰がどう「誤解」しているんでしょうね。「府が2時間程度にとどめるよう要請しているのにそれを越えた会食をしていた」というのは彼らも認めている「事実」なのに・・・そしてこういう時に出てくる数字、つまり「2時間半から3時間」というのは大抵は「少ない時間だと印象付けたいので2時間半といい、それでは事実がはっきりするとあとで困ることになるので3時間くらいだと言っておくという心理も見えます。会場に確かめればわかることなのに。記者も記者ですね。「誤解を受けるような」というのは「本当は要請の範囲内でやっていたんだ」と誤魔化したい心理の現れで、まるっきり反省していないことを表していると思います。松井氏は維新の代表でしょ。軽すぎるし誠実でないですね。
橋下氏はよく国会議員らに対して「特権意識」云々と言いますが、彼も含めて維新の人たちのマインドとはこういうものです。
・・・・・

銅心さんに会うのは久しぶりです。 と言っても一か月も立っていないかもしれませんが。
京都市美術館や京都写真美術館、京都メッセなどに来た時にはできるだけ立ち寄るようにしています。

民間療法などという言葉がありますが、銅心さんは相当なカウンセラーです。 人の心の機微に通じていて、かつ心を動かす方略に優れています。 言葉も巧みでウイットがあります。
彼のもとにはいろいろな人が寄り付きます。

人は出会う人、目の前にいる人に応じて自身を変えます。人はいくつもの自分を持っていて時と場合に応じてその中のどれかの人格を引き出します。
話鬨の言葉の選択、そもそもジャンルもまた選別して取り出します。
私もある高校時代の友人と電話で話す時にはやれ唯物論だとか弁証法だとかいう単語を使いますが、彼以外の人とは、まず99%そうした言葉は使いません。 ですから、半年くらいは私の頭の中にない単語のようになっています。そんな単語、話題の中にはもう一生使われない、表出させられないようなものも少なくないはずです。

銅心さんは私にとって、特異なチャンネルを開かせる人でもあります。
その特異なジャンルの言葉が実用的に脳を駆け回るのは案外心地いいものです。
だから、ここに足を運んでいるのかもしれません。
銅心さんも、私には話しやすいらしくて、最近では挨拶と世情についての「情けないねえ」の話の後には、大して時間を置かずにその話題に入ることがあります。
その話から汲み取らせてもらうものはかなり大きいと私は思っているのです・・・。

銅心さんはよく「ワシは幼稚園しか出ていないけれどそんなワシにもわかることが・・・世間の人や、あの政治家連には分からないのだ」と言いますが、実に見る目がありますし、評価の軸は真っ当でぶれません。世間の表の顔やおためごかしの言葉をしっかり見透かします。
そして人間愛があります。 それも地べたにしっかり腰を据えた見方です。

人を見て法を説くといいますが、誰彼なく同じ話をするわけではないのです。
その中で私はとっくり言い聞かさないといけない人間に見えるようです。
いろいろなところで「絵の、写真の、○○の先生なんですね。」などと大間違いの評価を受けることがあるのですが、この銅心さんお目はお見通しなのです。
銅心さんには 「先生と呼ばれるほどのバカ」に、私は見えるのでしょうね。
- 2021/12/10(金) 00:00:05|
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長谷川敦子さん。人形作家です。
その人形が、何時も一円硬貨に並べられて・・・・。つまり小さいのです。
無論モノによっては大きいものもありますが、人物はせいぜい5センチ以内です。
ご本人のお許しを得てご紹介します。

この都点ではギャラリーに臨時工房を開いて制作の様子も見せてくれています。

作品が小さいので、ずいぶん目を酷使されるのだろうと思いますが「明るすぎると素材が光ってしまって見にくかったり疲れがひどくなったりするので・・・。」と案外照明を落として作業をされていました。
以下、FBに私が書いた記事から・・・。

高瀬川四季AIRでは長谷川敦子さんが個展をされています。平家物語に題材をとった人形などを展示しながら、ギャラリーを工房にして 祇園祭船鉾の場面を作っておられました。ギャラリーオーナーの前川さんに「洛中洛外図屏風 上杉本」を模した人形群を作ったらと勧められたようです。その洛中洛外図屏風にある船鉾の再現を試みているのですが、既に綱を引く町衆はできていました。屏風絵の一部を拡大して参考にされていましたが「この絵を見て制作者を喜ばすことがあるけれど、気が付きますか?」と訊かれて「????」で分かりませんでした。
教えていただいて「な~るほど。」と思った次第。会場で是非種明かしをしていただいてください。
平家物語は・・・きょう撮った写真にはありませんが・・・琵琶法師の語りの様子から始まります。平清盛がいて、この清盛のもとになったのは六波羅蜜寺にある伝平清盛座像ですが、体の傾きや経文の広げ方など素晴らしい再現力です。鹿ケ谷の秘密の集まりで「瓶子」が倒れたと快哉する後白河以下の面々の様子、平氏政権が洛中の動静を探るために放ったスパイ役の「禿」の姿、瀬戸内海の渦潮の中で繰り広げられた戦闘や悲劇の場面などなどなど見ていて飽きません。
【禿】の髪の長さは史料を見ても長短があり、あまりはっきりしませんね。
今日の写真は制作中の長谷川さんと作品の一部です。
12日(日)までの期間です。どうぞご覧になることをお勧めします。
題材は「平家物語」 会場には歴史的順序に従って展示されていますが、私の写真は順不同








西行の体格や馬の脚など敢えてつけたい注文も無くはないのですが、しかし実際見事なものです。
- 2021/12/09(木) 10:47:30|
- 工芸
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先週でしたか、私が写真展をしたギャラリーで立命館大学写真部の人たちがグループ展をしていました。
1回生を含めて、皆、私よりうまいなあと思いました。 1回生も高校で写真部を経験しているような意識の高い人のようで、被写体にも撮り方にも「写真をどう撮るか」についての積極的な意識が感じられました。
元来この写真部は安定的に良い写真を出してきたのですが、今年は一段と優れていたと思います。

それぞれに後世倦愛とが明確にあって、おじさんとしては大いに交流したかったのですが、どうも煙たそうでしたので話は短く切り上げてきました。
アンケートを・・・・いつものように・・・・断ったのがいけなかったのかな。

それにしても長く続く受難の毎日ですねぇ。
ワクチン、経口薬品・・・いろいろ出て来ていますが、ようやくあまり慌てず騒がないで対処できる段階になってきましたかね。
それにしても政府は相変わらずPCR検査を広範囲にするということについては消極的なようで、何時も「必要があれば」を付けて、最小限にしようとしているような気配ですね。何故なんでしょうね。 検査に消極的な尾身さんたちのメンバーを入れ替えない限り「積極的な検査」と何度言っても基調は変わらないのでしょうかね。 それにしてもこの頃、尾身さんの姿をTVで見かけませんが、どうされているのでしょうね。

これから本格的に冬に向かいますが、正月が過ぎて春光が溢れるようになる頃には、「ああ、第6波は低い山で終ってよかったですね。」と言い合えるようになりたいですね。

そうしたらこの人はますます明るく輝くことでしょう。
- 2021/12/08(水) 00:00:03|
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この人の写真は既に幾度もアップしているんですが、SARS-CoV-2に負けないなどと歯ぎしりしても実際にはまだまだ様々な困難があって「人を撮る写真」を進めることが難しいのです。
それでこうして意識的に協力してくれる人に頼るしかない面も。
それにこの人を見ていると元気をもらえますし。

先週終った個展で「『人を撮る』活動支援金」を募ったら、なんと!15、302円が寄せられました。
驚きですよね。
まあちょっと誘導した面がないとは言えませんが・・・・。
それにしても中には5000円札を投じてくれた人もあったのです。 多分その人は京都財界を構成する人だと思いますが、ずいぶんと写真を喜んでいたでけて。

このブログで皆さんからいただく「拍手」などと思いに大いに勇気づけられるわけです。
四条大橋のたもとなどで「投げ銭」箱を置いて演奏している若者たちをみて「写真を見ていただくのに『投げ銭』をお願いする覚悟はあるのか?」と常々思っていましたので、今回挑戦してみたわけです。

しかし、こちらからご案内のハガキを出して、来ていただいたらそれで「大変ありがとうございます。」のはずで、その上「支援金」迄求められたら、どういう気持ちだろうかともおもぅ訳で・・・・・。
時間を費やし、交通費を費やして迄来ているのに・・・、と。
路上パフォーマンスはおいでくださいと入っていませんよね。そこに義理やしがらみのない関係の上で「投げ銭」をお願いしているわけで、そこがどうも大きく違うので、次回については考え直そうかなあとも・・・・・。

で、(義理やしがらみで来ていただく方はあってもよいのですが、)私はしばらくの間DMを作っていなかったのです。
でも今回その義理やしがらみがなければ、会場はずっと閑散としていて私はまるで軟禁されているだけのような状態だったかもしれません。
下の写真などは意識してこの瞬間にシャッターボタンを押しています。いえ、決して背比べを意識したのではないのですが。
- 2021/12/07(火) 00:00:06|
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「素敵な人たち・・」の人ですよね、と覚えてくださっていました。
マスクに帽子の私ですから顔を見てというより声を聞いて私だと気づかれたのかもしおれません。 想像ですが。
大して特徴のある声でもないのですが、ときどき声のことを言われます。

絵筆を置いて先ほどさしていた染料の乾き具合を指先で感じ取ります。
下の電熱器はその乾燥の調整用です。

絵具がしっかり布の裏まで透ってほしいし、けれど広がり過ぎて広がり過ぎてもいけないし。

初めに糊を置いて染料が浸出しないように「ふせる」手法もありますが、この方の場合は糊は置いていません。
糊が浸出を止めてくれれば多少は気楽なのかもしれませんが、この場合はより神経を使うのではないかと・・・。

ここは公開実演の場ですから「自宅の工房に来てくれればもう少し本格的な仕事を見てもらえるのでけれど・・・・。」と。
ここではタペストリーのようなものを制作されています。
油絵のように塗り重ねて修正していくようなことはできませんし、変に色が重なると汚くなりますから難しそうです。
フリーハンドで「つゆ草」からとった液で下絵を施し・・・これは水洗いをすると落ちます。この液の生産≒つゆ草の栽培も下火だそうです。・・・・それに手描きしていきます。

私が撮っていると、その間は集中を切らすことなく描いてくれます。
わたしがしつこいので、「まだかしら・・・」などと思われているかもしれませんが。
他の方でも気を使ってずっと描いていてくれたりします。有難いことです。ご迷惑もお掛けしています。
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- 2021/12/06(月) 00:00:03|
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向こう岸をはしっていると勢いのある調子のよい音が聞こえました。
その音のもとはここでした。
この方はよくここから少しだけ離れたベンチでお連れの方と演奏している、まあ、常連さんです。
ただ、遠目にいかつい風貌をされているので声をかけそびれていました。 私は人見知りですから。

いつも演奏しているときには、私がこれから鴨川の下流に向かって「素敵な人」を探しに行って、いくつかのギャラリーを見て回って、洗濯物は夕立に合わないかなと心配しながら帰るときに、まだ演奏しているというようなことが多いのです。

右側にいる方はこの近所のお店の若主人。いろいろな民族楽器を演奏しておられます。
この太鼓も右のこの方のモノです。

いつも顔を赤らめて良い機嫌で音楽を楽しんでいます。
とても贅沢なお楽しみですね。
ベンチに置かれた入れ物の中には水やお湯や・・・・が入っているのです。
旧知の方です。
下の写真で、代って太鼓をたたいているのが、いつもご一緒に演奏している相方。
ちょっと俺も・・・。

私は写真で参加。

「写真を撮る」には盛り上げる力がある・・・・それを経験的に知りました(have+過去分詞)。

写真撮影は単に三者的、傍観者的野次馬的存在ではなくて、ちゃんと参加者なのです。
それで、逆にそれを嫌う写真家がいるのですね。

参加者となったがゆえに引き出せる〔自然〕というものがあると、私は思っているのです。
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- 2021/12/05(日) 00:00:03|
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織物の繊維に押し込むんですね。
豪華な帯になりますね。

西陣はそれだけの高級素材と手間と高い技術の結晶ですから、やはり結果、高価になりますね。

久しぶりにこういう被写体と前にして撮るので、ちょっと戸惑いますね。
先日の写真展を挟んで、もう2週間くらい撮影の機会がありません。・・・と言っても会場でお二人を撮らせていただきましたが。
撮影のもとの軌道に戻れるのか少々心配です。

寒くなった所為もあってか、外に出る気持ちの高まりがありません。
個展を過ごしてきたのちのテンションがどうも低いのです。
下の写真は経糸を仕掛ける「綜絖」と言います。

普段はそれぞれの奥さんと組みになって仕事をするんだそうで「ケンカすると仕事にならないね。」と。
今日は公開実演で、同じ組合の方と組みを組んでやっています。

この仕事は外には知られない非常に地味な、しかしこれからの過程の土台になる大事な仕事です。
まさに縁の下の仕事です。


- 2021/12/04(土) 00:00:05|
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緊急事態宣言が出て職人さんたちの公開実演も中止されていました。
それがようやく再開されました。
糸を糸巻に巻いています。

「糸」業界の色々なお話を伺います。

金彩です。
「真砂」を散らしています。

金や銀などが撒かれますが、作業台や畳に落ちます。
それが畳の目になど入り込みます。「お宝」ですね。都会の金鉱、銀鉱です。
最近金の値が高いですものね。

掃除機で集めて、吸い込んだ袋のまま特別の業者に売ります。それを業者が分けて再生するわけです。
この高さで撮ると落ちた金がキラキラ見えます。
この高さで撮ったらいいよと教えてくれたのはこの方です。 慣れてますねぇ。

このままでは空気が動けば飛んでしまいますので、後の写真のように丸く毛を束ねた刷毛で押さえます。

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- 2021/12/03(金) 00:00:04|
- 工芸
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この方は『絵を描かれる』
人に教えもしているそうで、電鉄会社が列車の中にこの人の絵を学に入れて飾ったりしたそうだ。

というのも京都の街並みや町屋、お店を描いているからだ。
割りばしのようなもので描くのだそうで線は逞しい。と言ってもがさつではなくてとても細やかな観察が行き届いた絵です。

今回の個展の来場者の方とのお話は、長い!のでした。
2,30分は短い方かな。

大変ご苦労して学校を出て、働いて、会社の吸収合併では苦労して・・・・と。
今どきの75歳以上80歳半ばの方は元気です!! いや90歳になるような方でも、ビックりします。
ということは、私はまだまだやれるはず。

それにしても新たな変異ウイルス、オミクロン株。いやですねぇ。
マスク生活がいつまで続くのでしょうか。 人を撮る私としては、全く困りものです。
今回の写真の中の人物は管楽器を吹く人はマスクをしていませんが、それ以外の多くは・・・・・。

時々山にでも入ってマスクをとらないと精神的に良くありませんね。
遠州の砂浜で深呼吸したいなあ。
- 2021/12/02(木) 00:00:03|
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秋ですねぇ。台風が心配です。どうも大きな被害をもたらしそうな気配。
TVの天気用の時に司会のアナウンサーが「このままいくと心配ですね。」と言っていたことがありました。
台風の予想進路が、グッと曲がって本州に向かうか、そのまま西に進んで琉球列島辺りで超7時間迷走するか、どうなるかまだ分からないと予報士が言って、東に折れるコースに進むとという言葉を受けて先の言葉です。
西に進んだら沖縄の人々が危ないわけでしょ。本土中心、関東中心にしか思考しないキー局の人々。
彼らの意識の中では、自公政権と同じで、沖縄なんて日本じゃないのかもしれない
下の写真は、先月の「文人・光画」展での私の写真の様子です。
この流木も、意外に好評でした。・・・・もっとも日本の文化では付表は本人に向かっては口にしないのではありますが。
せっかく「展示」しているのにね。
見ていると「義理」「会社関係」「お取引先」の方々の「お褒めの言葉」であふれています。
この倶楽部」の写真展に参加するのもあと2回くらいかな。 限界が見えてきたような気がします。

ボランティアだそうです。
「笹船を浮かべてみませんか?」

ここは哲学の道。流れるのは琵琶湖の水。
この疏水の流れに橋の上からそっと笹船を落とします。
「浮かべ!」と強く念じて手を離しましょう。

無事に着水して流れていけば「あなたの将来はきっと良いものになる!」と呼びかけます。
この船は笹を材料とはしていません。今では笹を手に入れるのも容易ではなくて、これは近所の河原に生える・・・う~ん、なんだっけ?
この人の家では何種類もの花を育てていて、その花びらを乗せて飾ります。
いいセンスですね。 そして人を喜ばそうとする心配り。

敷いてあるのはこの付近の親切な方からいただいたものだそうです。
うっかり落としてしまうことがあって、もう何代目かになると、とおっしゃっていました。
善意と善意のつながりですね。

通りかかりの人たちに声をかけます。
先ほど若いアメリカ人男性も呼び止められていましたが、素晴らしいコミュニケーション能力。

もう、7,8年しているんだそうです。
ここは何度も通っているのですが、気が付かないものですねぇ。
「オ・モ・テ・ナ・シ」

興味を持つ人が近づくと、「スマフォで撮ってご覧。 ポートレート設定がいいよ。」と勧めますが、ベストショットで撮ってもらわないと甲斐がないらしく、ついつい自身で撮ってしまいます。 分かります、その気持ち。
そして、スマフォの三つ主は画面を見て、「きれい!!」と驚きます。
今日な天気も良くて緑も水の流れもきれいですから、いい写真になったでしょう。

- 2021/12/01(水) 00:00:08|
- 楽しいね
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個展の会場に来ていただいた人です。
リュックの口からなんだか不思議なものが突き出ていました。それがウクレレだったのです。

あちこちを歩いて適当なベンチがあると取り出して弾くのだそうです。 公園で、道端で・・・・。
夢中になると1,2時間は弾くといいます。
上の写真は弾いているところです。
下のもそうです。

そうなんです、ウクレレをさかさまにしてネックの部分の弦を引いているのです。
フレットは押さえていません。 ですから解放弦のままです。

なんとなくそれらしく聞こえますが・・・・。
(何という曲か)分るでしょう?!と言われると分かるような気もしますが。

度々鴨川のあちこちで弾いておられるといいますから、週3日は鴨川の土手を自転車で上下する私が気が付かないのも不思議です。
ですから逆に言えば、私が撮らせてもらったことのある人たちの出会いはこれまた不思議な遭遇だという事ですよね。
ハモニカも吹かれます。 リードが割れるほど吹いたそうで新しく手に入れたハモニカです。幾本か持っているとのこと。
こちらはしっかりとした音程で、くっきりとした音が出ていました。 かなりの腕前というか唇前の方です。

自己流で吹いたり弾いたりしていることを何か擬態語でおっしゃるのですが、私にはよく分かりませんでした。
こうして個展をしていると、思わぬ方の来訪を受けて、楽しいお話が聞けます。
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- 2021/12/01(水) 00:00:02|
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