もしリタイアした時に、郷里に帰っていたら、今とはずいぶん違う生活をしていたことでしょうね。
写真を撮るようになる可能性はとても小さかったと思います。(私は旧職に就く前から、退職後ににやろうと思うことがあったのです。そしてそれは、もし郷里に帰っていれば十分意味のある選択肢だったと思います。)
カメラを取り出すことは多分あったと思いますし、撮るならやはり人を撮っていたとは思いますが、被写体のジャンルは随分違っていたのではないかと思います。

こうした職人さんをたくさん撮ることができるのは京都にいるからだということができるでしょう。
「人間 万事塞翁が馬」「禍福は糾える縄の如し」

畳を縫う時に下から針を刺して、上に糸を抜くときに肘をてこにして「クィッ くぃっ」とするものだとばかり思っていましたが、「そのやり方は関東のものです。」なんだそうです。
私は静岡県の生まれですから、「多分関東圏なんでしょうね。」
それに畳床が昔は藁で強い弾力性・強度があったからこそ、そうしてけれど、今それをすると畳床が凹んでしまうのだそうです。

時には畳の長さが通常の1.5倍もの物を作ることもあるんだそうです。
京都には様々な神社仏閣がありますから、そういう中には色々<特別>があるんだそうです。
その「特別」は畳だけではありませんね。 その特別は全国にある末寺末社との「特別」のためでしょうから、まあ私なんかからするとそこが鼻持ちならないというか・・・・・。
田舎者ですから。

でも京都の職人さんはその特別にない並みならない技量を注がなくてはならないわけで、自ずと職人の腕も磨かれていくわけです。
ある別の場所で、各別な技量をもって神社の仕事をしている職人さんが、神社仏閣が「なかなか金を出さん」と嘆いておられたことを思い出しました。つける注文はやたらに多いし無理難題も多い。そこに権威に任せた応対があるから、実にやりにくい、と。

本寺、本社の多い京都ですが、それぞれが「御用達」の店や職人を抱えているわけですね。
私はそういう内側の事は、ほとんど全く知りませんが、とにかく出来栄えばかりを見て、ほーっとかへぇーとか言って感心ばかりしているわけです。
畳表に使うイグサも、良いものを手に入れるのは、もはやなかなか難しいことになっているのだそうです。
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- 2021/03/31(水) 00:00:03|
- 働く人々
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工業の分野で生産力を上げるためのカギは「分業」ですよね。
アダム・スミスやカール・マルクスの議論でもこの「分業論」は大きな比重を占めます。
スミスはマニュファクチュア、マルクスは機械制大工業の時代を対象としていると、・・・・ごく大雑把に・・・いえると思うのですが、大概の、職人さんの分業はそれ以前の「分業」・・・・いやこれは良し悪しの問題ではないのです。

扇子も竹の生産は勿論ですが、その竹の油抜きとか、骨づくり、扇面の紙加工、その扇面の折加工、そしてその扇面に仲骨を通して、仕上げになります。
この方のお仕事は仕上げです。ですから扇面に仲骨を通して親骨で挟み、全体を整えます。
扇面は紙を貼り合わせていて、その紙の間にできる中空に仲骨を差し込むのです。

親骨で挟んで・・・。

仕上げの成形をしていきます。

スピーディーに仕事は進みますので、
次の扇子の仲骨に糊を塗布して・・・・、

今この方が作っているのは茶道に使う扇子です。
ちょっと小ぶりですね。暑いから涼をとるために扇ぐものというより姿、景色のために持つものですね。

京扇子です。
- 2021/03/30(火) 00:00:04|
- 工芸
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もう2020年度もほぼお終いですねぇ。何とも言いようのない一年でした。
私がリタイアして満10年が過ぎようとしています。 昨年の3月28日に記録した撮影累計人数が1600人でした。昨年10月から11月には1700人を達成して・・・・なんて考えていた時期がほほえましく感じられます。今年に入って3月いっぱいで1700人達成は無理かなあと、まあそれもしかなないなあと考えていたものでした。
これまでの9年の一年平均が177名ですから、それが一年で100人撮れないということはまさに「SARES-Cov2の年」だという事ですね。
さて、しかし、今日のこの方で1710人となりました。年間110人ですね。う~ん、なんと言って良いか。(28日から29日じゃあ、一日おかしいですけどね。)
2000人達成までにあとまる2年はかかりますね。 2年かあ。生きてるかなあ。α900もまた生きてるかなあ。
ということで、新たな第三次5カ年に突入する日は近いという訳です。
・・・・・・・・
さてここは、久しぶりの哲学の道です。
大学短大などの卒業旅行の着物姿のお嬢さんたちの姿はここではあまり見られません。
まだ桜は、所々でわずかな木が満開ですが、大方はこの時には一部も咲いていません。でも多分、実際の今日はあちこち満開でしょうね。

この方は鉛筆画です。

桜の木には花も葉もありませんが、その枝の姿が描かれていきます。
向こうに見事に満開になっている桜の木があるのですが、花のない木々を描いています。
いい感じです。

絵が白黒ですし、私も白黒で。
春に白黒も悪くない。

この人は描いた絵をここで販売していますが、描く場所が様々ですから、販売する場所もその都度なんでしょうね。

それにしても右目の状態がよくないなあ。
芸能人には歯が命なんでしょうが、写真を撮るものにとっては目が命です。厄介なことです。
せめてあと5年はおかしなことにならないでほしいなあ。

鉛筆で書いたものを手でこすっちゃまずいから、なるほどの工夫ですね。
向こうに見えるのがこの人の描いた絵ですね。
ハガキもありますね。
- 2021/03/29(月) 00:00:02|
- 絵画
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この場所は駅の喧騒の外にありますから、弾く人にとってはいいでしょうね。
ただ、音楽を通じて人と気持ちを通わせる、ともに楽しむという点で言えば、やはり、次善だとは思いますね。

それにしても半年前にピアノを弾くことに一念発起して、というのは意欲的ですね。
私たちの世代は皆元気です、という感想を抱いているということ自体がお元気な証拠です。
確かに私の周囲の60代70代そして80代の方々も元気で行動的、創造的なことは呆れるほどですが。

そしてこの人は、昨日書いたように、お兄さんの遺品を受け継いで写真も撮ろうかなとさらに趣味を増やそうというのですから。
それが団塊の世代と、そのしっぽたちの心性でしょうかね。
まだまだ先は長いぞ、そんな感じです。

経験してきた右肩上がりの経済生活は、しっかりと心性にまで沁みついて、どこまで右肩上がりに思考するのでしょうね。
それは悪くないなあと思います。
20年くらい以上若い人たちから見ると、それがどうも「いや」なんだとも聞きます。私にはそれも頷ける面があるのですが、しかし、 それはまあお互いさまということで。

コロナなんぞに負けちゃいられません。

麻生財務大臣に身ぐるみ引っ剥がされないようにしながら、ちゃんといい高齢人生を形作ることが私たち世代の人類史的責務なんですから。

この点、・・・・団塊の世代やそのしっぽたちの・・・・・・多くの人が自覚的になるといいなあ。
- 2021/03/28(日) 00:00:03|
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この人が教えてくれたのです。この辺りで自由に弾けるようにとピアノが置いてあるところが五カ所あるんだと。
一つがここ京都駅ビル。 二つ目が駅ビルのすぐ近くのヨドバシカメラの二階。ここのピアノはスタンウェイです。三つめは京都芸術文化会館。ここのピアノは少し可哀想。ちょっと風通しの良すぎるところに置かれています。四カ所目は地下鉄京都市役所前近くの地下商店街ゼスト。そしてJR笠置駅。ここはさすがにちょっと遠い。

思いほのか弾くつもりで来られる人が多いようです。
列を作っているという程ではないのですが、誰かが弾いているときには次の人が柱の陰に見え隠れしています。

この人もここで弾くのは「八回目くらいかな。」
ピアノを弾くようになって半年だそうです。 ポピュラーな小曲を幾つか弾いています。

ギターはずっと弾いてきたので和音は何とか分かるし・・・・だからギター式に弾いているよ。自己流でね。という事でした。
でもこうして楽しめるのが何よりですよね。練習は毎日1時間くらいだそうです。

私より4歳年下の、ほぼ同世代の人です。ですから同じような時代の空気を吸ってきたわけです。
団塊の世代や私ぐらいのものたちのとばっちりを食らったというか、まあとにかくやることを見てきた世代です。
ですからギターやフォークソングやスキーやカメラやオートバイや・・・・・という世代ですね。

この人自身は、なぜかカメラには手を出さなかったなあと。お兄さんが写真をしていていくつものカメラやレンズを処分したけれど、まだ少し残っているから、ちょっと惜しいので写真もしてみようかなと思っているのだそうです。
多趣味な活動的な方です。
持っているのはミノルタのレンズだそうです。

この時私はα900にミノルタの85ミリを付けていましたので、お互いに親近感が湧きました。
- 2021/03/27(土) 00:00:08|
- 音楽
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数日前の記事でここのピアノの置かれた状況があまりにひどいじゃないかと書いたので、気になってもう一度見に行きました。
すると前回と違って・・・・チェーンは変わりませんが・・・周囲がすっきりしていました。
これならいいんじゃないですか。

前回はたまたま出店数の関係でギリギリまで迫っていたのでしょうね。
この左手には大きなスクリーンがあって様々なCM動画が連続して流れています。 上のお二人のうちの女性の方がその中のある動画と関係があるということで撮影に来ているという事でした。
お互いにそうした事情を話していくうちに、「あなたピアノ弾けるじゃない?! 私、聞いたことがないから聞かせて!」と、話は、まるでシナリオがあるかのように、私の望んだ方向にころがって・・・・。

「大改造!劇的ビフォーアフター」という番組で聞いた曲を演奏してくれました。

とても優しい青年です。
今はまだマスクが外せないのがとても残念。

それにしてもやはりピアノ演奏を撮るのは難しい。
「ワンパターン」の連続。 プロ演奏家のステージ動画だと、なるほどなあというのをよく見るんですが、私の現状は、なんとも情けない限りです。せっかく撮らせてもらっているのに、申し訳ないなあ。

まあ、もっともアマチュアの方でプロのように演奏される人は少ないということもあるのでしょうが、しかし、やはり撮る方の問題ですね。カギの一つはワイドレンズかなと思うんですが。

とにかくやはり正面から撮れないのが辛い。

こうして好意的な人たちと出会えてまた一つ経験を積みます。
- 2021/03/26(金) 00:00:04|
- 音楽
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「一矢 報いる展」という命名、なかなかいいですよね。
今度の個展に拝借しようかな。
まだ大学を卒業して、そうは経っていないお二人の作品展です。

同じギャラリーの隣では「外出武装」という貴志在介さんと、菊池ルイさんのインスタレーションがあって、それを見に行ったのです。
で、その会場の奥に?この写真の方と、もう一人、友人の作品が展示されていて、興味を持ちました。

同時代ギャラリーのホームページにはこの人のこんな文章が書かれていました。
「当たり前にくる今日、明日は決して当たり前のことではなく奇跡みたいなものだと思う。人は皆この世に生まれてくることに意味があると思う。だとしたら私に何ができるだろう。私の描いた作品をみて沢山の人の気持ちを動かしたいと思い制作を進めている。」

筆や手指で厚塗りされた抽象画ですが、ところどころ顔や体などと判別できるものも描き込まれていて、人間が置かれているというか巻き込まれている生あるいは生活の状況が描かれています。
大変にエネルギッシュで、人を驚かせる力がありますが、しばらく見ていると作者の優しい心がじわっと見えてきます。

殴り描いているような画面の下に丁寧に筆を使って部分があったり、毛糸を塗りこめたような工夫も見られます。
向かって左手の作品(あるいは上の写真の作品)は大学在学中のものだそうです。
絵の勢いを見ていると、作者のこの人とがすぐにはぴたりと一致しませんが、先ほど書いたように、絵からにじんでいる優しさを捉えると、なるほどねと思います。


このギャラリーの、私の好きな窓辺で。

- 2021/03/25(木) 00:00:19|
- 絵画
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曲は聞いたことのないものでしたが、本格的なクラシック。
これを暗譜で弾くのですから、やはりよほど練習したことのある人でしょう。

ここはご覧の通り、南も北も大開口。光がたっぷり・・・・過ぎます。
どちらから撮っても大逆光。
せめてもっとずっと日が傾いてからの方がよさそうです。

実はこの場所である人を撮るつもりにしていました。
その人も小学生のころから大学生になってもピアノレッスンをしている人ですので、きっと周囲の人も喜んでく入れるだろうと思いますし。
その人にはシベリウスの「モミの木」を弾いてくれませんかと注文しました。
「シベリウスは弾いたことがないけど挑戦してみます。」と言っていただけました。そもそも、「モミの木」は小品だし、取り組んだことがないかも知れません。

けれどその撮影に機会がよんどころない事情でキャンセルになってしまいました。希望的な観測では春の終わりか、夏の初めころにはチャンスがあるのではないかと。それだと・・・聞いてみたくはあるのですが・・・「モミの木」ではちょっと合わないでしょうから、また何かリクエスト曲を考えておかねばなりませんね。
その人は身長もあるし、ピアノの前で映えるでしょうね。
ここならSARE-Cov2感染防止の点からいっても好条件です。

さて、初めの逡巡が融けた(解けた)この人は、ダイナミックな演奏を披露してくれました。

駅ビルの下の方が雑踏。
まるで空気が違います。
だから、これはまたこれでよい・・・と今のところはしておきましょう。

今度は、ここの光の状態を頭に入れて、多少の工夫をして出かけてこようと思います。
ただその時にはこうして演奏してく入れる人がいるか、いないか・・・・どうでしょうね。
そして撮影を快諾していただけるかどうか。

演奏が終わると、この人はまたステージ上の奏者のように右腕をお腹の前に斜めに交叉して、一礼をして静かに立ち去っていきました。
きっと子供のころからそういう経験をしてきた人なのでしょうね。
- 2021/03/24(水) 00:00:02|
- 音楽
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「ディアパソン183E」
置いてあるピアノです。スタンドピアノではなくてグランドピアノ。 以前はもっと人の多く通る、床のきれいな場所でした。
こちらの方が静かで落ち着いて「物怖じしないで」で弾けるから、移動したそうです。
分かるけど、だから反対まではしないけど、何か残念な気がするし、賛成できないなあ。 歯がゆい。

私がエスカレーターで上がってくると、ピアノの音が流れてきました。 おっ、やってるやってる。
それでここの到着すると、それまで弾いていた四十がらみのキャップを被った男性が、曲の終わりを演奏していました。
かなりの腕前のそのキャップさんが立ち去ると、しばらく静寂。
そこにこの人が現れました。
私の見るところ「弾けるな。」という感じでしたが、一方、しばらく逡巡するのではないかなという予感も当たりました。

私が順番を待っていると誤解されてはいけないし、その人の逡巡を破るためにも、ジャスチャーで「どうぞお弾きください。」と。
初めは指の動きを確認するように一音、一音確かめながら。

一曲の終わりころにはかなり動きが滑らかになって来て、起伏も出てきました。
終ると、拍手。 すると舞台上で紳士がするように例の挨拶。 なるほど。
それで「力強い演奏でしたね。キャリアはどれくらいですか?」とお訊ねすると、「子供のころから弾いていましたが、ここ2年はブランクで・・・・。」

次に弾きたい人がいれば場所を開けねばなりませんが、どうもいないようなので二曲目に。
そこでその途切れた時を利用して「写真を撮らせてもらっていいかな?」
「マスクをしていて顔もはっきりわからないだろうから、いいですよ。」
「ぼくが撮るとブログやFBなどで公開するけれど大丈夫かな?」
「ええ。」

この手指の形作る姿、肘、腕、手指の連動した動き、できるな、お主!
と、素人の評価。
- 2021/03/23(火) 00:00:03|
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演奏の形、姿態の動き、表情などにこそ気を配らねばならないのに、露出だなんだに注意が言っているようでは初心者もいいところです。
こういう基礎・基本を滞らずに決定できないと、よい機会を取り逃がします。という訳で、私は未だに初心者。

まして道具に足を引っ張られているようではいけません。
今日は光の足りないところで撮ることになるんじゃないかと思って持ち出したカメラが徒ですね。
でも、そういう予想も立てないとダメだし、どのカメラでも対応できるスキルと知識の不足が問題です。
報道カメラマンなら状況に文句なんて言っていられませんからね。

私もその場で与えられた条件で撮るというのが原則ですから、好機を逃さないで済むように技量j向上を目指したいものです。

これをフィルムでやっていた人たちがいたのですから、ほんと、大したものだと思います。

そう言えば京都市内にあるちょっと有名なラボでリバーサルフィルムと白黒ネガフィルムの自社現像を終了にしてしまいましたね。
今後はフジフィルムに送ることになります。不便になるわけですね。
白黒フィルムで撮ろうかななんて気持ちが起こっていたのですが、早々と挫けました。

なりゆきでしか形成されない私の人生。
- 2021/03/22(月) 00:40:54|
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初めて見ました。
ドラムスの演奏者が向き合って練習中。
脚でペダルを踏んで鳴らす太鼓と、もう一つのセンター太鼓が共有。

右手の人は時々ここで灰皿、鍋蓋、フライパンやプラスチックのバケツを叩いていたりします。 パーカッショナー・・なんて言葉があるかどうか知りませんが。

近いうちにライブがあるんで練習中なんだそうです。
この場所は条件がいいので先着順で取り合いです。
ドラムス喫演奏の瞬間をとらえるのは難しい。
しかも今日持ち出したカメラがEVFでミラーレスへの移行形態のものですから、レスポンスが良好ではありません。どうもうまくありません。余計なタイムラグがあります。
やはりOVFの一眼レフがいいなあ。

オートフォーカスに頼るのもやはりよろしくないようです。
コンティニュアンス・オートフォーカスを活用したことがないので、今度それをやってみようかな。
でもそれだと顔なら顔、スティックならスティックと決めてかからなければならず、どういうものでしょうね。
でも、一度、試してみる価値はあるかもしれません。

ご覧のとおり陽が高いところにあり、ドラムスが白いので、白飛びしてしまいます。
こういう時の露出の見極めがなかなかうまくいかないですね。
- 2021/03/21(日) 00:00:04|
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京都の町は道路に沿って建物が連なっていて、・・・・毎度同じように嘆くのですが・・・・広場というものがありません。
そんななかでは京都市役所前などは幾分空間があるのでももっともっと開放したらいいのになあと思うのですが・・・・。

岡崎公園(平安神宮前)はとても良いところで国立と市立の美術館があり、動物園があり、コンサート、劇場のホールがあります。そして見本市などができる大きな建物。そしてそれらの建物が囲むように広場があります。
でもここでは販売や飲み食いが絡んだ何かしらのイベントでない、自由な芸術交流空間にはなっていません。
「許可」がハードルです。 役人は「許可」が好きですからね。
市民や芸術家たちの自由や自治的な取り組みをあまり信用しません。 もっとも、そういう自覚ある自治を経験を通して学ぶことをネグレクトされた多くの人々は、時々未熟さを露呈してしまいますので、問題は簡単ではありません。
が、大道を見失っての行政ではそうした自治的市民が成熟していくことは望めませんね。

それで鴨川は格好の演奏場所だし、パフォーマンスを見せる場所です。
三条小橋などもいい場所なんですが、警察も気乗りのしない取り締まりを強いられるようです。
電気的に増幅などしない「生」音くらいは受け入れる街であってほしいです。

街中に、要らないアナウンスや、ガサツな音が溢れています。こういうことに無神経なのも日本中のあちこちの町と同じです。
店内も同じですね。音に鈍感でガサツな国民です。 無用な音で空間を埋めようとするのは止めにしたいものです。
回転ずしやで行進曲を流していたのには呆れました。 きっと消化が進むことでしょうね。

こうして拍手を受け入れて演奏してくれる人に感謝です。
まして写真撮影を受け入れてくれるのは・・・・[個人の都合です]
鴨川で出会ったミュージシャンたちの写真展を鴨川でするのは私の義務かなと思ったりしないことはないのです。
- 2021/03/20(土) 00:00:02|
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私が鴨川べりを走るときは耳がダンボになっているかもしれない。
おっ! いい音がする。これはサックスだな、どこだろう?
振り返ってみると、雪柳がきれいに咲いている繁みに隠れて?ソプラノサックスを吹く人がいました。
アメージング・グレースを吹いていました。

「いい音で吹いていたねぇ。」
拍手しながら近づくとお友達と一緒でした。
写真を撮らせて欲しいとお願いすると、お友達の方は、何か理由は分かりませんが、残念なことに「このギター、今は、弦がないんです。」とのことで、今日は見送りでした。

この人は本来はアルトサックスを吹いているのだそうで・・・・このソプラノサックスは知人の遺品だそうで、故障を直して引き継いだのだそうです。
それを吹いているところを・・・私に見つかって・・・撮るということになり 何か、奇縁を感じておられました。

とても上手なのになぜか?陰に隠れて吹いています。
お友達の話では、どうもそういう性格だそうで、もったいないですねぇ。
- 2021/03/19(金) 00:00:03|
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皆さんはFBを利用されていますか? 今、何かと問題を抱えているFBですが、それはさておき、私はFBをしています。
私は最近のデジタル世界にはとてもついていっていないので、何がどういう訳かは分からないのですが、・・・・まあCMが飛び込んでくるのと原理は同じことなのでしょう・・・・・チェリストのヨー・ヨー・マが
世界的に著名な演奏家とともに演奏する動画が配信されてきます。
ヨー・ヨー・マとお友達になっているわけではないので、なぜ私に配信されるのかは、分かりませんが、これはとてもありがたいと思っているのです。

野外でチェロを弾く人をあまり多くは見ません。
勿論、ないわけではないのは、拙ブログにも数人登場していただいていることからわかりますが。
でも、やっぱり珍しい。

鴨川で楽器演奏を楽しんでいる人は様々です。
楽しんでるってわけじゃない、もっと真剣で人生がかかっているんだって人もいます。
アマ、プロ、学生、勤労者、リタイアした方・・・・・。
この春らしい陽光のもとで、気持ちのいい時間。
それでカラーが主体です。

中高生の時にチェロに親しんで、それ以降は「あまり触る機会がなくて…久しぶりかな。」
仕事も忙しそうです。
でも楽器は人生の伴侶みたいなもの。 羨ましい限り。

チェロは優しくて深い音です。
カザルスとか ミッシャ・マイスキーとか、先ほどのヨー・ヨー・マくらいしか知りませんが、・・・ロストロポービッチを知らないのかですって?! はい、それで、今、聴きながら書いています。・・・・チェロの魅力は深いと思います。
今日はこの上流に三線の方、サックスの若者がいます。
が、私は下流に向かいます。
この写真を撮らせてくださった方へ。お話した時にe・メールをくだされば写真をお送りできるということをお伝えするのを忘れてしまいました。もしこのページをご覧になってくださったら、是非カードに記載してあるアドレスまで、メールをください。お待ちしています。
- 2021/03/18(木) 00:00:02|
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会場が暗い。 予算の関係もあるのかな。照明が明らかに足りてない。
作品の色が黄に傾いている。 自然光とはあまりに違う。
こういう会場で、たくさんの努力と工夫の結晶を展示させるというのはちょっとひどいと、私は思いました。
「京都アート・クラフトマーケット2021春」でのこと。

確かめたわけではないので、的外れの推測になりますが、一般出店者からの出展料収入が少ないからでしょうか。
SARES-Cov2の影響で多くの出展者を募ることができないで、緊急事態宣言が解除されて急遽「予定通りやろう。」ということなったからではないかと想像するのです。
やめてしまえばこうした職人や作家が作品の展示販売をする大切な機会がまた失われてしまいます。
会場の方の収入にも影響するかもしれません。 キャンセル料を心配したかな。
本当に判断が難しいところですね。

さて、暗いものですから・・・・、
それでレンズの解放値、f1.2とかそれに次ぐf1.4で撮ります。
色かぶりがきついので、ケルビン値を調整します。 かなり黄色いです。

こうした作品は色が大切なのにこの照明ではね。
でも、それほど気にならないという方もおられます。 人間の目の調整機能の優秀さなのか、慣れてしまうと自然光との色との違いを忘れてしまうのか。
機械的に見るとこんな風に見えるのですよとケルビン値を5300にして撮って見せてあげます。
そうすると驚かれるのですが、あまり不平不満を言わない。皆さん案外おとなしいですね。
いや、どこかでちゃんと主催者に対して声をあげているのかもしれませんが。
この日は今にも雨が降りそうなくらいに曇っていたのでなお室内が暗いという事情もあったでしょう。
日曜日には晴れますから、少しでも改善されるといいなあと思いながら見て回りました。
暗いと目も神経も疲れるだろうになあ。
- 2021/03/17(水) 00:00:02|
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久しぶりに味わう空気感。
京都文化博物館(文博)で、開かれた「京都アート・クラフトマーケット2021春」に行ってきました。
緊急事態宣言で開催が危うくなっていましたが、開けたようです。 ある馴染みの出店者から前日夜に「もしよければお出かけを・・。」とメールが入りました。 声をかけてくれたその人とお会いするのは、もう半年以上ぶりですかね。
写真の方は、会場で初めてお会いした、型染の方です。

型染めは沖縄の学校で学んでこられたそうですが、琉球紅型という風には意識されていないようでした。

今回は・・・・と言ってもこのイベントが始まったころに比べて出店者の数、ブースの数が次第に減ってきてはいるのでしたが・・・・出店の数が少ないし、開催が周知されていませんので、初日は、天候も良くなくて、客足も寂しめでした。
まあ、込み合わなくてお客さんとの交流が「密」になるので、これはこれで歓迎だという声もありましたが。

月に何度もある手作り市も、皆、中止・中止でつまらなく思っていましたが、ようやくその空気を感じました。
このイベントは一般の手作り市に比べると、推薦作家を中心に作品のクヲリティーが高いので・・・そこに企画の狙いがあるのですが・・・・別の楽しみ方ができます。 わたしに声をかけてくれた年来の若い知人も今回は推薦作家でした。その人は七宝の作品を中心に彫金のモノを出しています。

型染めというと、その型を切る職人さんで、もう亡くなられた和田禅さんを思い出します。なので、なんとなく親和感を感じて話しかけます。
型染めについて熱心に話をしてくれます。
若い作り手が登場するのはいいものです。 が、一方、熟練の高い技術を持った方たちの姿を見つけられないのは、それはそれで寂しいものです。

それにしても皆さんそれぞれに職人であり、作家ですからマスクも工夫されています。
私のように使い捨ての不織布マスクを「つけてればいいんだろ?!」的におざなりにしている人はいません。
やむを得ないことはやむを得ないこととしてうけ入れながら、そこにまた新たな愉しみや美しさを作り出していく人々の活動はすごいです。
この人は目をパッチリ見開いているとき、目をやや細めて笑っているとき、わずかに開けて細めているときなどそれぞれ魅力ある目をしています。
それを「少ししつこい撮り方になりますけどいいですか?」とお願いして撮りました。
こういう時には目が語っていますよね。

マスクで顔半分が覆われているとき、目の果たす役割は大きい。
と、もう一つ、最近よく言われるのですが声と話し方、それがその人を評価するうえでとても大きな比重を占めるようになっているようです。
幸いなことに私には声と話し方のアドバンテージがあると幾人もの方から指摘されました。一般論としても私個人の事としてもあまり気にしていない面でした。 これも新型コロナ環境での新たな発見でした。

ある男性が「女性にもてる声だ。」とおっしゃってくれましたが、そう言うことはもっと早く言ってくれないと・・・・と思いましたね。
雨が落ちてきました。この場所は中庭で周囲を囲む屋根の下ではあるものの、いくらか雨粒が舞ってきますし、何か冷たく寂しい感じになってきました。
明日は晴れるといいですね。 ( 実際、翌日の開場時ころには青空が出てきました。 )
感染予防対策や医療体制を作る政治がもたもたとして、しかも余計なことばかり考えに入れているので、なかなかすっきりとした展望は持てませんが、生活者としては、しなやかに、工夫を凝らして質の良い生活を作りたいものです。
- 2021/03/16(火) 00:00:05|
- 工芸
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結局、何曲も聞かせていただいて・・・。

ニューヨークでジャズマンとして活動していれば、写真を撮られることも一再ではないでしょうし、ご自身撮る方もされるのですから、ちょっと、プレッシャーを感じますね。
私はプレッシャーに弱い。

まあ、それでもこの間、海外からの演奏家や、海外で演奏活動をしているプロミュージシャンや画家たちを撮ったりした経験も多少はありますから、昔ほどはビビらなくなりましたかね。 どうでしょう。
まあ、撮り始めからその人が如何に大物であるかを知らないで撮り始めるからいいんでしょう。
先日の中国人書家などもそうです。
何ほどかの共感から始まれば、基本は皆同じことです。 お互いのリスペクトですね。

最近は頬を膨らまさない奏法をする人を見かけますが、この人は・・・・私の印象の中にある・・・・あのルイ・アームストロングとか日野 皓正のように頬を膨らませます。
ニューヨークスタイルでしょうかね。

ジャズなので? 白黒で撮ろうという気持ちがあったのですが・・・・そして白黒に変換すると、やはりぐっと良くなるんですが・・・この日のこの雰囲気を尊重してカラーが多いです。

この日はキヤノンの85ミリだけで出かけてきています。 なので、これ以上下がると足が水に浸かってしまいます。

今日はトランペッターの休日ということで・・・・。

ありがとうございました。
- 2021/03/15(月) 00:00:01|
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元来、日本の方ですから「from New York」というのはおかしいかもしれませんが、すでにニューヨーク在住15年という人ですから、この表現でも、あながち、おかしくはないでしょう。

ニューヨークでジャズマンとして食べていると言います。 それはおそらく相当に「大したこと」なんだろうと思います。
京都盆地を出ることのない、わたしからすれば桁は二つも三つも違いますね。
鴨川で吹いておられたのを、私は一段高い堤の上から自転車にまたがったまま、眺めていたのです、

一二度目があって、それでこの人から「何か(楽器を)されている方ですか?」と、多分同じようなジャズメンでと思ったのでしょう。いやそんなわけはないか。私にそんな「オーラ」はかけらほどもないでしょう。
ただ、音楽好きだと思ったのでしょうね。
「楽器は全くできないのですが、何か楽しそう案事をしている人を見ると写真が撮りたくなって・・・・。」
「そうですか、私も写真は好きで・・・。」
と、腰の革製のホルスターからGRを出して見せてくれました。 これがストリート撮影には良いのだそうです。
(帰宅してからこの方のFBを覗かせていただきましたが、とても魅力的なニューヨークの写真がいくつも出てきました。相当、やってますね。)

「どうぞ好きなように撮ってください。もし、要望があれば場所も移りますよ。」と。
私は、大方のケースでそうであるように、そこに与えられた条件のままに撮りました。

ジャズなんですが、柔らかで流れのある音です。あまり強く張った音は出されないようです。
この日は暖かな春の陽射しがあり、、鴨川の水もキラキラと光り、そして落ちる音が気持ちいいです。
そんな空気にマッチした音です。

中学2年生の時に見聞きしたジャズの演奏によって「これだ! トランペットをやりたい!」と思い立って、学校の理解ある親切な音楽の先生の計らいでトランペットの独学が始まったのだそうです。
ユーチュ-ブを見ると、この人を招いてこの人の音楽生活というか、体験というかそいう話や、海外での音楽活動について話を聞くという動画が見つかります。

佐々木亮さん、お名前をご存知の方もあるかもしれませんね。
お連れの方ツゥーショットで。

佐々木さんがトランペットを吹いている傍らで何やらノートに書きつけておられたので、お連れの方は、詩でも書かれるのかなと、帽子もペアルックになっていますから、きっとそんな音楽年の結びつきかななんて勝手に想像して・・・。
いや~、仲のいい・・・。
- 2021/03/14(日) 00:00:08|
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ボーっとした写真です。
ぼんやり山のぼんたろうなんて本がありましたが、今の私の脳みそがこういう風にぼんやりしているのでしょうか。
春霞、のつもりもないわけではないのですが。
背景の桜を意識し過ぎましたかね。

この日は甲斐扶佐義氏の写真展を初め、5か所も写真展でした。
中に学生有志の展示がありました。京大の学生を中心としたもので、大学によって部活が大きく制限されているので、やむなく自分たちでと・・・・。

この人も、同じ状況で、こうして自主練です。
この大学の交響楽団のメンバーの中の管楽器の人には何人か交流のあった人がいるのですが、弦の人はほとんどいなかったでしょうか。

桜のある状景と、マスクのある事情。

とても丁寧に音を確かめながら弾いています。納得のいかないフレーズは繰り返しくりかえし。
私も納得のいかないときは、これじゃ違うなあと正直に繰り返して、撮るとが大事かな。 そう思います。

それにしても、たまにこのカメラ(α99ですが)を持ち出すとカメラに振り回されます。
何か被写体に食い入る感じがしないので、いけません。
この人のように耳(j心)を澄まして自分のすることを研いでいく必要がありそうです。
昨年一年間だけではなくて、今年もまたSARE-Cov2によって・・・・しかも菅自公政権ではそれが過剰されてしまうので・・・制約の多い生活を送らねばなりません。その2年がその人の人生のどの局面にあたっているかによって影響に違いはあるでしょうが、大切な時間には違いありません。
学生も高齢者も諦めることなく自分の人生を形作りたいものだと思います。
いろいろ不満をいだいていても、こうして自ら可能性のあるところで活動している若者を見ると、そう思います。
- 2021/03/13(土) 00:00:02|
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皆さんの中には音楽がお好きな人も少なくないのではないかと想像します。
ご自身で楽器を演奏する方もまた多くいらっしゃるのではないかと。
私はこの点でも「不調法」を絵に描いたようなものです。

まことに寂しい人生ではあります。そうなったについては暗い経験があるのではありますが…ハハハ。
ということはさて置いて。

このピアノが河合のものなのかヤマハのモノなのか、確認はしていません。
高級ピアノと言えば1000万円をはるかに超えるものがありますね。 しばらく前から日本のヤマハも河合も大いに健闘しているようです。でも、門外漢にはスタインウェイ&サンズがダントツに有名でしょうか。コンサートホールで見るのも多くはスタインウェイの印象ですね。
世界三大ピアノと言えば、このスタインウェイと

ベヒシュタイン、ベーゼンドルファーと言われます。聞き比べてみるとそれぞれ個性があって、楽器の世界の驚くべき奥深さを感じます。
そうした中で、私が最近知って驚いたのがFAZIOLIの音ですね。
たまたまユーチュ―ブで色々見聞きしていて出会ったのですが、

若いピアニストである「フォルテ/Mr.Forte 」が清水の舞台から飛び降りて購入したピアノがFAZIOLIのフルコンだったわけです。そして、私がそれより以前から楽しませていただいていたユーチューブ動画発信者の、ピアニスト森本麻衣さんが買い変えたピアノがまたFAZIOLIだったという訳です。
その音の豊饒さには驚きます。

楽器によって演奏者の意図なり感性なりの表現が違ってくるのは、考えてみれば当然ですよね。それでこの音の出るこのピアノで弾きたいとピアニストが考えると千数百万円の決断となる・・・・
カメラの場合ならLeica M モノクローム ボディ TYP 246にレンズを付けても、なんだ、わずかに200万円か?!
という冗談はさて置いて、・・・・・。(私が出すか出さないか10回も20回もカメラと我が家を往復して迷ったあげくに断念するのは20万円なんですからね。)

フィルム撮影で印画紙に焼き付けた白黒画像と、デジタルカメラ+インクジェット印刷したものを比べると、後者は、はるかに未だし!という感がぬぐえません。
早く、白黒撮影においてもフィルム写真に匹敵する高品質カメラに登場してほしいものです。 技術者たちは、そんなことは百も承知してるよと言うかもしれませんが。 (それより、撮る方の技術の方を考えたほうがいいんじゃないか、とも)

いずれにしても「道具」は大事。
弘法は筆を選ばないかもしれませんが、いやきっとちゃんと選んでいたと思います。
物欲との葛藤のために、こういう妄言の間を一体何度往復してきたことか。
- 2021/03/12(金) 00:00:06|
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いわゆるストリートピアノ・・ですかね。
地下鉄・京都市役所駅のある地下街です。 ここにスタンド・ピアノが置かれています。
通りかかると一人の青年が弾いていました。

BSの番組で世界各地の空港や駅などに置かれているピアノを囲む人たちの様子が伝えられるものがあります。ちょっと好きな番組です。
日本でも、都庁のピアノとか、浜松駅のピアノとかが有名ですね。(浜松駅の場合、新幹線の構内ですから最低でも入場券をもたないと弾いたり聞いたりできません。最高級に属するピアノを置くこともあるようなので、「新幹線に乗るような人」にその利用の機会を提供するということについて、当然と考える人も中にはいるかもしれません。が、そもそもそういう思考・文化観でピアノをフリー(?!)で弾けるように置くということについて、私はものすごい違和感を感じています。ピアノの町が聞いて呆れる、と私は感じています。)

私がここに着いた時には曲の途中でしたし、写真を撮っていいかどうか確かめることでできませんでした。 ピアノは前に回り込んで「撮っていいですか?」とサインを送ることもできません。こういう点で厄介です。全くこちらのご都合ですが。
それで、撮り始めて、後で確認しようと決めて撮り始めました。 でもそういうときは、やはり何か踏み込めない中途半端な写真になってしまう様な気がします。
(演奏しながら「勝手に写真を撮っている!やだなあ。」と思わせてしまっていたら、きっとピアノを弾いていても気持ちがよくないでしょうしね。)

演奏が終わって立ち上がった際に、「お許しなく撮り始めてしまいましたが、大丈夫でしょうか?!」とお訊ねすると、笑顔で「はい」と答えてくれました。
ピアノは10年ほど続けているんだそうです。

周囲には次第に人が集まってきていて、曲の終わりには結構大きな拍手が寄せられました。
この人が席を離れると、ご高齢の女性が弾き始めました。 やや指の動きがぎこちないところもありましたが、こういうところで弾いてみたいなと思われて弾けるというのは実に羨ましいことです。きっと長く音楽を楽しんでこられた方なんでしょうねぇ。
音楽は人生を豊かにします。

それにしてもこのピアノの置かれている場所の雑然としていること。
おかれた「様」の美しくないこと。 置いていること自体についてはとても賛同しますし、歓迎します。が、何を思ってこんな場所に、こんな置き方をしたのか。これを検討した人たちに尋ねてみたいと思いました。
美しくない!!

多分色々考えたんだろうと思います。いろいろな声に対して「忖度」したんだろうと思います。
その結果、何とか実現するためには「これで仕方ないよね。」と納めたんだろうと、勝手な想像をします。
いかにも日本的なというか役人的(これを「役人がしたということではなくて役人的なという意味です)な発想だろうと私には感じられます。
使用可の時のこの鎖の始末の仕方、使用にあたっての注意書きの置き場所、手指の消毒のためのアルコール容器の置き場所・・・・みんな、どう見えるかについて「美的」に考えられていない。

ピアノは弾いて楽しむ、聞いて楽しむためのもので「写真を撮る人間の意見など聞いていない。」という声が聞こえてきそうですが、問題はそういうことではないのですね。
ここに子供たちが来て、ピアノに接するとき、音楽に接するときに肌で吸収する文化についての配慮がないのです。
これが文化庁を招いて「文化」を前面に押し出して「観光行政」をするような、そんな京都の町の一状景なのです。
京都も一進一退。
でも何よりこうして弾いて楽しむ人がいてこそ、聞いて拍手する人がいてこそ、文化・・ですね。
そしてそれを喜んで撮る人がいることも(笑い)
- 2021/03/11(木) 00:00:02|
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中学校の修学旅行は京都、奈良でした。あまり記憶はありませんが、新京極通りを回った時にある買い物をして、それが後刻、ちょっと問題になりました。
私が修学旅行のお小遣いで購入した物は一本のバナナとミロのビーナスの石膏像でした。お小遣いは学校が定めた1000円。ミロのビーナス像は1000円で、バナナ一本分規定を超えて、友達に借りて使ってしまったのです。バナナを先に買ったのが間違いでした。
京都、奈良に行った土産というか記念品がミロのビーナスというところに中学生だった私の気負いが感じられて、我ながらほほえましい思い出です。
少し前後した時間に、同じ場所でクラスのO君もまた同じミロのビーナス像を買ったのですが、彼は帰りバスの中をずっとそれを抱いて帰ってきました。気持ち、わかります。
学校に帰ると、私は、小遣い規定違反の咎で呼び出されて、職員室前の板敷きの廊下に正座させられました。
さんざん悩んだ挙句に、でもどうしての欲しいと思っての事でしたから、当時の私はあまり後悔・反省はしていなかったように記憶しています。
そのミロのビーナス像は今でも私の目の前に立っています。
さてその?新京極商店街の振興組合の方に出会いました。
この方は「150年記念事業実行委員会」の副委員長さんです。
この通りが新京極通と命名されたのが「明治5年」すなわち1872年の事なのです。地券が発行されて土地の私有権が法的に認められた年、福沢諭吉が『学問のすすめ』を世に問うた年です。

新京極通ができたのが150年前?! そう聞いて、「意想外に新しいなあ。おかしいなあ。」と感じたのです。私のこれまでの貧弱な知識と整合しないのです。が、地元商店街の方にそう聞いては、一知半解が基本の私に反論できるはずもありません。

それで調べてみてわかりました。「新京極通り」と命名されたのが150年前。当時の京都府参事だった槇村正直によって、この辺りの振興のために命名されたらしくて、それから150年という訳でした。
この地は、西側一帯が寺町通とその通りの東側に集められた沢山の寺院とのゾーンが南北に帯をなして続いていたわけです。
こんなことをしたのはご存じ豊臣秀吉でした。 その後、寺院の盛衰があり、又、元来、寺社の境内は参詣の人出を当て込んで見世物小屋や出店が並んでいたわけですが、この一帯は元は鴨川の河原ということで低湿地ですから、まあ極、庶民的な歓楽街へと成長したわけです。

そこに目を付けて、件の京都府参事です。都が江戸に遷ってさびれてしまいかねない京都の活性化の一つの策として、この通りにちょっと京都らしい名を付けたという訳です。 元来、鴨川を東の京極と言ったりしていましたからね。
と、まあそういう訳で、命名される前はどのように呼ばれていた河分かりませんが、劇場や飲食店に挟まれた小径はあったわけです。
合点がいきました。
少し前までは、新京極通は観光客が集まる通り。その西を並行して通る寺町商店街は地元の人の行くところでした。だいぶん雰囲気が違いました。正直に言うと新京極は土産物屋が中心でしたし、小中学生相手みたいな、一見の観光客相手ということで何やら騒々しく安っぽく、品に欠けるという感じでした。寺町はそれに比べると落ち着いて大人な感じで、でもっちょっと寂しい。
それが最近随分と変わってきたのです。

寺町にも観光の人たちや若者が流れ込んでにぎやかくなり明るい感じになりました。一方、新京極はこざっぱりして清潔感が増し新しい感覚の店舗が目立つようになりました。おそらく組合の方々を中心として取り組みがあったのでしょうね。 ずいぶん変化を感じます。
そしてこの度、命名150年を記念して一層、盛んにしようとしている中心人物のお一人がこの方。
このギャラリーのオーナーはそうしたイヴェントの仕掛けにおいては元プロですし、今も「血気盛ん」ですから、おおいに啓発されることがあるだろうと思います。
今盛んにお話しています。
私も協力できることがあればと名刺を交換しました。
「170店舗とも言われる商店街の人たち全員の写真を撮って冊子を作りましょうか。」などと冗談を飛ばしながら盛り上がっています。楽しい企画が生まれるといいですね。
- 2021/03/10(水) 00:00:05|
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啓蟄は過ぎたのですから、私のような人間がもぞもぞと動きだしても、おかしくはないでしょう。
春は目に暖かくても、存外空気が冷たいことがあります。 それで「春だなあ」と感じます。
つまり冬が残っていて、そして、でも暖かくなったぞとというか、なるぞというか。

公立高校の卒業式は大概、3月1日で、会場が寒く、床が冷たかったことを思い出します。
それでも4月の入学式には、ずいぶん変わります。もうソメイヨシノは散ってしまうころです。 京都(市)では。

非常事態宣言は感染予防対策として一つの手段ですが、しかし、これは自由と民主主義にとって大きなリスクがあります。
万国の労働者団結せよ!と言いますが、団結が目に見えないと、敵、味方の双方にたいして迫力がありません。
明治政府が、自由民権運動に対して集会条例やら、保安条例を出して、人が集まることを禁止しましたが、支配者にとってまして圧制政府にとって、民衆が集まることは脅威です。
それはミャンマーを見ても香港を見てもよく分かります。
今の日本ではこんな愚政、悪政をしてもあらかじめ「集会禁止、5人以上集まるな」と決めていますから、安全至極なんでしょう。
ただ、まあ、昔と違ってネットという代替ツゥールがありますから、いくらかましです。が、しかし、完全に取って替えるわけにはいきません。

花見をバーチャルでなんて言われても少しもうれしくありませんね。
音楽だって演劇だって、ライブ配信なんて言っても、それで当座は我慢して・・・という以上ではありません。ライブが何より。

肉声を聞き、当意即妙な拍手を受けてこそです。

感染を広げないようにして、でもやはり人が集まる、話をする・・・・・ということについて、もっともっと工夫しましょう。
それは自由と民主主義の要だから。
政府や自治体はそんなこと面倒見てくれません。
- 2021/03/09(火) 00:00:03|
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とてもうまい歌い方だったので「プロですよね。」と聞いてみました。
「まあ、これで食べているんですけど・・・。」と。

ようやく春めいて来て背後に河津桜が満開です。
圧倒的に多いのがソメイヨシノですが、最近早咲きで色も鮮やかな河津桜が増えつつあるとか、ないとか。

お住まいは京都のようですが全国でライブをされているようです。
それで、普通はあまり京都に居ないのだけれど「何しろこの新型コロナでね・・・・。」
ここにもSARES-Cov2の影響が。

先ほどまで、少し先で絵を描いていた外国人女性が、画材を片付けて去っていきましたが、その時に投げ銭をしていきました。
絵を描いているときに演奏を耳にしてはいたでしょうが、取り巻いて聞いていたわけではありません。
そしてつい先ほどは若い男性の外国人二人連れ、自転車で通りかかったのですが、この前で停まるや否や、投げ銭です。
文化意識の違いですね。

私などはケチなものですから写真だけ撮らせてもらって、演奏は聞いているのに無銭視聴で帰ってしまいます。
今回は「まあ、多くは言わないけど・・・・。」と言われたせいもあって財布の中のコインを掻き集めて・・・・1円も5円も十円もという訳ではないのですが。

こんな時には助け合わないとね。
- 2021/03/08(月) 00:00:01|
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「私は性の問題に直面することが多くある。それは現代がそう思わざるを得ない社会であるからなのと、私が敏感に性を認識してしまうからである。社会に対して私が何を考え思っているか、あとなぜこれ程まで私が性に執着しているか、その心理を知るため私は作品を作っている。」と作者自身の「展覧会の内容」という文章がありました。

数年前に、やはりここでこの人の個展があって、同様の作品を見せてもらいました。
表現は、一見なかなか衝撃的ですが、ポルノでも際物でもありません。

写真に写っているのですから、当然、作者自身と少しばかり対話をさせていただきました。
例の、森発言とそれに関する自民党のお歴々、そして女性議員たちの言動を見ると、ここでこの人が考え、発していることなどまるで受け入れられないでしょうね。

とにかく小学校での性教育を、花の雄しべ雌蕊でしか考えられないような、へたをすればコウノトリが運んできたということでいいじゃないかとしか考えられないような、方々ですからね。

ギャラリーによってはこういう作品を忌避するところもあるようです。
逆にこういう展示をさせてくれるギャラリーを評価しないといけないというのが、今日の日本の文化状況です。

作品を見て多くの女性たちが共感して笑ってくれたり、分かる分かると言って話しこんでくれたりするのだそうです。
男性は、一歩下がってみるか、ポルノ扱いをして、それにしても今一つ卑猥さがないなあと言ったりするようです。(彼女の言葉の意訳ですので、文言の責任は私にあります。)

ある高齢の男性が「勃起したペニスは描かないのか?」などと質問していました。
「私自身の内面、意識を描いているので、そう言う限りでペニスも描いていますが・・・。」という彼女に答えの意味をなかなか理解されない様子でした。

女性の裸体は彼女自身の隠喩であり、背景は社会の隠喩。
先ほど引用した「展覧会の内容」という文章の初めで、彼女はこう書いています。
「これまで様々な作家が、女性のヌードをそれぞれ思い思いの美の形で表現してきた。
ギリシャ神話の女神のような神秘的なヌード、個人的な視点でのヌード、装飾としてのヌード…何の疑いも無くヌードを美の象徴として用いてきた。
しかし実際の女性の身体が、その様な美しいものとは私には思えない。それらのヌードは、男性目線の男性が理想とする男性優位の幻想の女性像である。そこには女性の目線は全く入れられていない。
また私たちは、現実社会でもこの様な幻想を押し付けられている。誰もが、あるいは私自身も、知らない間にそれが当たり前だと信じ、また別の同性に、異性に、幻想を押し付ける。
私の作品の裸の女性は、私がイメージする女性の身体、ネイキッドとしての裸体である。
世の中が思い描いている女性の裸体と比較すると、かなり醜く滑稽な姿に見えるだろう。」と。

私より先に、彼女の旧知の青年が来ていて話されていましたが、同世代に、彼女の活動を理解する人たちがいるということを力強く感じました。
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- 2021/03/07(日) 00:00:03|
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ここで作業をしてる中で、どうも責任者らしい方がいて、まずその方に「仕事中ですが写真を撮らせていただけますか?」と「社」としての考えをお訪ねしました。
そうすると、どうぞどうぞという事でしたので「では、それぞれの方に同意していただけたら撮らせてもらいます。」ということに。
すると社長さん、私が作業をしましょうか、と。

無論、大変ありがたいお話だったんですけど、その直後にこの方が、いいですよと振り向いてくださったので・・・・。
さて、話が変わりまして、
最近、庭師がいい仕事をしていないなんて風聞があります。
何故、唐突にこういう話になるかと言いますと社長さんの方からそういう話が出たんです。というのも・・・・私の憶測から言うと・・・・この樹木医という仕事は大変有意義だとしても、従来の庭師からしたら二番手扱いがあるからではないかと。

「しかしね、それは職人の責任ばかりではないんですよ。」
というの職人に良い仕事をさせるような「発注者」がとても少なくなっているということ、お客さんの求めることが水準の問題があるという事です。なるほどと私も思います。
西陣の職人さんたちも同じことをおっしゃいます。画家たちもまた同じです。

文化のパトロン論というものについては根本的に論じられるべきですが、今まあ目先の事としていえば、日本の金持ちたちの質が大きく劣化しているということが問題です。
いわゆる明治維新では薩長の田舎武士が権力を握り、その後の日本をバーバリックなものにしてしまった。そのことが基底にあります。・・・・中略・・・・・中曽根、小泉などの民間活力導入の裏にある新自由主義という資本のバーバリズムに魂を売ってしまった富裕者たちの「文化力」の減衰です。

稼いだ金はため込むばかり=内部留保は激増する一方で、決して賃金や社会保障、社会福祉には金を使わない資本家たちの貧しくなった思想が背景にあります。
こんどあのNHKが渋沢栄一を取り上げるのは、その意味で大変、皮肉なことです。
今様々な分野のl職人たちが歯を食いしばって技術や思いを継承しています。
それに現代の富者たちが応えることができないならば、資本主義的な致富は国民の生活・文化の存続発展とは相いれないということを自ら告白していることになるでしょう。
- 2021/03/06(土) 00:00:03|
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四条通りにある写真ギャラリーを訪ねました。すると3月中に予定されていた写真展は全てが、延期か中止。
そう言えば河原町通りに面してある写真ギャラリーも一か月「休廊」です。五条河原町近くのそれもまた長いお休みです。
非常事態宣言の影響は大きいですね。
と、そういう訳で、がっかりして帰る途中です。

もう河津桜があちこちで満開になっているタイミングですが、ソメイヨシノ開花を前にしてメンテナンスの時期なんだそうです。

この木もかなり古いようで枝を切られた跡がたくさんあります。 桜切るバカ、梅切らぬバカと言いますから、桜が切られているということは、やむを得ない事情があるんですね。

キノコが生えてしまったりして傷んだ所などをくりぬいて手当てしています。
ソメイヨシノでも何もなければ110年くらいはもつんだそうです。
そうするとコドンが生まれた時にソメイヨシノを植えれば、その子の人生をずっと見守ってくれるのですね。

ただ都会に植えられている桜はそうはいきません。人間の都合で植えられているのですから、ただでさえ弱い根を人や車が踏みつけ、片方は川になっていて根がはれなかったりするわけです。
高瀬川沿いの桜の傷み方はひどいですし、それで次から次へと植樹しなくてはなりません。
柳も大分傷んでいるそうで、三条から四条、五条までの柳の大半は、状態がよくないと手入れをしていた職人さんに聞いたことがあります。

桜の健康のためにも、人の安全のためにもこうしたお仕事が欠かせないということになるわけですね。まさに現代のお仕事です。
- 2021/03/05(金) 00:00:04|
- 働く人々
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緊急事態宣言が、首都圏を除いて解除されました。
「でもね・・・・」と政府・知事たちは言います。 リバウンドが起こらないように自粛は続けてね、飲食店は9時までにしてね・・・と。
それにね、卒業謝恩会や卒業旅行はダメだよ。花見の宴会ダメだよ。普段から接触のある人4人までなら外食で会食してもいいけれど、それ以上はダメ・・・・。

でもね、でもね、私は思うんですよ。
Go Toのこと考える暇と時間があったら、その「人出分」を卒業旅行や謝恩会に回してあげたらどうなのと。
まして卒業式や入学式をダメにしてはダメです。実施するためには・・・・もっとも旧来型の「式」が必要かどうかについては私は大いに疑問視していて、この際、抜本的に生徒、学生本位の区切りの集まりにしてあげたらいいと思います・・・・どうすればいいかの検討には生徒・学生・現場の教師を中心において、学校が知恵を絞ることを支援するべきだと思うのです。 Go Toの予算は大胆に減らして・・・なくしてもいいと私は思います・・・・そういうことの工夫の保障に出費したらいいと思うのです。 出費したらお金が市場に回ることは同じなのですし。

この国の政治が、どんな政治家、政党が何を誰をどのように大切にしているか、この新型コロナ感染を通じてよ~く分かりますね。
日本の民主主義の在り方についてもほんの少し変化の兆しがあります。もっともワクチンの接種が始まったら菅自公・維政権の支持率が回復するようでは、国民はまたまた「舐められる」ようになることでしょう。
が、それでも新たな兆しは確かだと思います。

芸術・芸能というのは人が人として生きていくうえで欠くことのできないものです。
ぜいたく品だ、不要不急だというのは人々の生活を量でしか考えない時代遅れの考え方です。「唯物論者」は決してこういう風には考えません
政府が、国民の広範な声に押されていろいろな支援を渋々してきました。
しかし、お金は支給しましたが文化を「支給」することなど思いもよりません。それについては野党も、多くの批判勢力も大同小異です。
せっかくシンガー・ソングライターで俳優の星野源さんが「うちで踊ろう」を発信してくれた時に、そのことに気付くべきだったのにね。

あれを捉えることのできる政党があればポストコロナで大いに存在感を増したjことでしょうに。
あれを安倍晋三の情けない失敗というエピソードで終らせてしまったところに日本の政治文化の貧困が露呈していると思います。
様々なミュージシャン、演芸関係などなどが自発的にライブ配信しているのは救いです。

オリ・パラに群がる利権集団には湯水のごとくお金を使っても、国民に文化を届けることなど思いもよらない政権・与党は既にとうの昔に歴史的使命を終わっているのです。

春です、皆外に出ましょう。 必要なところで、マスクして。
- 2021/03/04(木) 00:00:04|
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私が向こう岸を下っていくときにこちら側でが若い男性がサックスをひいていました。
ずっと下って帰ってきたのですが、ここに来る前に外国の若者が小さな縦笛を吹いているのを見かけました。そして三人お若い女性たちがマンドリンを練習していました。多分学生のサークルでしょう。この人の背後には・・・・名前はよく知りませんが・・・電子サックスを吹いている男性がいます。
向こう岸では若い女性がバイオリンを弾いています。 あちこちに芽を出した蕗の薹みたいです。
緊急事態宣言が解かれたからでしょうか。それとも春だからでしょうか。

左利きで何かをしている人を見るととても器用なんじゃないかと思うこの先入観はどこから来ているのでしょうね。

私が目を止めたわけは、その左利きという点が一つです。
ギターの弦はどうなっているんだろうか、と。 そもそも左利き用のギターなんだそうで、無論上が低音用の太い減になっているわけで、右利き用のを左に抱えているわけではないそうです。

それにもうひとつ目を止めた理由があって、それはこの人のトータルファッションです。帽子から靴まで、いやギターのケースまで茶系で統一です。 勿論、ギターもです。 濃い明るいの変化もつけて。
楽しんでるなあ、と。

私も帽子から上下の服から靴まで紺で統一しています!!
が、それは極安物の防寒着だからというだけで。 こういうところで転がって撮ることもありますから、汚れてもいいものを・・・と一応の言い訳をした服装です。

学生時代にはサークルでギターを弾いていたんだけれど卒業しても時々こうして楽しんでいるんだそうです。
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- 2021/03/03(水) 00:00:02|
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王氏です。
書家であり、水墨画家でもあり、なんと言っても文人です。
私は、私のしていることについて、意味があると思って活動しているわけですが、自分が思っている以上に意味が大きいかも知れないと思う時があります。

岐阜県の旧 神岡鉱山にスーパー・カミオカンデという巨大な宇宙素粒子観測装置があることは皆さんご存じだろうと思います。
その装置には純水が蓄えられていて、宇宙から飛来したニュートリノが水の電子と衝突するときに発生する発光を捉える。その事からそのニュートリノがどの方向から来たものかなど、宇宙で起こっている事態をつかまえようとしている・・・・らしい。知らんけど。

話の規模は天と地ほど違うけれど、私のカメラのレンズの前で、それぞれ歴史を負った人たちが私の人生と瞬時の交差点を作っていく。
そしてその軌跡をこのカメラの撮像素子に捉え、記録媒体に残す。
それを読みだして、こうしてブログがFB、あるいは私の個展でプリントとなってその交差点がが生かして人々に共有される。

その交差点は単に、線と線が交差した幾何学的な点ではなくして、それぞれの生い立ち、そして負ってきた民族的な歴史・文化が凝ってそこに交差点を作る。

テレビにも書店の書架にも沢山の知識人・文化人もどきの多くの人々の冗漫な言葉があふれかえっている。
この人がここにいて・・・・実は自転車の籠にたくさんの書に関する本を積んでいるのですが・・・・本を広げ研究の準備をしているということに、東アジアの20世紀と21世紀が凝縮している。
無論この方の話を聞く私にも日本に生きてきた一知半解の高齢者として、この人の話に頷き、聞きいるだけの必然がある。

「見るべき力をもたない人には見えない。聞くべき素養の築かれていない人には聞こえない。」
芸術にはそういう一面が厳としてある。それは対話においても同じだと思う。
それが今、あまりにも廃れていることを悲しむことを共感できた。社会の苦い、実に苦い一面を異なる位置にいてみていることを知ることができた。
私は王氏に遠く及ばないが・・・そしてそれは謙遜でもなんでもない事実なのだが・・・・率直にこのような人がいて、レンズの前で交差してくれたことをうれしく思っている。
私は一個の真剣な「士」であり「義」の知識人に出会ったのだ。
- 2021/03/02(火) 00:00:02|
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