これからの観光はただその国・地方の名所旧跡を尋ね歩いて記念写真を撮るというようjなものではなくて、ますます深く人々が交流するようなものになると私は思っています。
「観光立国」などといってもインバウンドの落とすお金を計算するばかりではとても21世紀をリードアする「観光を」を作り出すことはできなくて、結局は後は野となれ山となれという式のものになってしまうと思います。

事実、京都で進んでいる観光は、そうした旧態依然たるものでしかないように私には感じられています。
市民生活の表層を人々がただ慌ただしく流れて行って、そのために受け入れる側は町と伝統と市民生活を壊しゴミばかりを残していく。
人々の交流や友好は深まらずお互いの多様な文化の理解と敬意は深まらない。

大げさで目新しい「文化」ばかりをステージにのせているのではせっかく世界中の庶民が地球の裏側までやってくる時代になったことの人類史意味がありません。
京都市政からはそういう展望は感じられません。

その時その時の観光資本の要求に振り回されて規制を緩めたり補助金を出したりして、時にその反動として市民や心ある人々の批判にこたえる少しばかりの政策をイチジクの葉としているだけのようです。

観光を盛んにして収益を上げるのならばあげるで、それを税収や雇用増、賃金増につなげていかねば意味がありません。市民生活にしわ寄せをさせるばかりで国民健康保険料は上がりっぱなし・・・です。市民税も安くありません。
保育料も高いし、子供の医療費の無料化も決して高い水準じゃありません。

閑話休題
楽器の演奏ができたり、外国語ができたり・・・・そういうことは交流のために大いに役立つと思いますし、そういうことができる人はとても羨ましいのですが、一番羨ましいのは言葉ができなくとも、何か芸がなくとも、にこやかな笑顔をして一歩二歩近付いて行ける力ですね。

その点では「大阪のおばさん力」に学ばねばならないかもしれません。
私はカメラを力にがんばて見ようと思います。
- 2019/12/01(日) 00:00:05|
- 楽しいね
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