七宝焼きをしている職人さんです。
この人との出会いは、もうかれこれ6,7年前になるでしょうか。

なかなかお会いできなくなってしまいましたが、それでも私のこのブログやFBは気にしていてくれていて、「あの時のベレー帽の女性が魅力的で良かったですね。」などと言ってくれるのです。
そして、会えそうな機会があると教えてくれてこうして撮らせてもくれるのです。

彫金もされるのですが「やっぱり七宝焼きが好き。七宝焼きをしているときには時間を忘れて没頭する。」とのこと。
ここでは彫金で実演をすることもあるのですが今日は七宝焼きです。
七宝焼きへの需要は減っていますから、なかなか大変です。

素晴らしい工芸の技術なのですが着物文化と結びついていたこともあってか、また比較的高価だということもあってか販路の獲得が難しいようです。
スキルを高める意味でも、またそれを結晶させるためにもある程度高価なものを作ることも必要なんですが。

できたものは華があり上品でいいものなんですがねぇ。

なんでも韓国の人が良く購入するとのことでここのところその韓国からの来日者が激減していることも大きく響いているとのことでした。

つい先日30代半ばの人に撮らせてもらったのですが・・・・ただブログやFBでの公開は「お断り」で個展での展示だけしか許されないという人なので皆さんにはご紹介できないのが残念ですが。 是非来年5月の個展においでいただいて「ご尊顔」を拝してください。がっかりしないと思いますよ。・・・・この人は三十台の戸口の人です。
それで20代前半の人たち、後半が二人、三十台の二人、そして44歳の二人と「女性ばかり」展は少しづつ格好がついていきそうです。

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- 2019/10/31(木) 00:00:28|
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この方による差し入れのカボチャのてんぷらの甘いこと甘い事。
盆にてんこ盛りのせられている。

私より小学校二回りも上の方なのにお元気なことこの上ない。
詩について語るときの熱い言葉、鋭い思索。
二十歳前に上京してたくさんの大先輩と交わった経験をお話しいただいたけれど、私などは本でしか知ることのない、しかも戦前から活躍されていた著名人、憧れの文学人たちがつぎからつぎへと登場するので、私の時間軸がずいぶん揺れ動いて錯綜してしまいました。

基地建設現場のゲートをくぐって入る大型の生コン車の運転席には若い女性たちもちらほら見える。
「あの若い女の子が、こちらに『ファックユー』の指の形、中指を立てて行ったよ。かなしいね。あの子たちネット上の右翼的な情報にまみれて、自身が「ネトウヨ」になって投稿してるんだよ。 沖縄に仕事が無いのがこういう事態を招いている面があるね。」

沖縄に全国の七割以上の米軍基地を押し付けて、その反面莫大な公的資金がばらまかれている。
その資金が沖縄の若者に職を保障する方向に向かっていないし、常に沖縄の相対的・総体的貧困は維持されてきている。それが原発立地と共通する仕掛けになっている。
そして投じられる資金と、しかし総体としての貧困は、一部の人の知性や良心を麻痺させ、病ませ、住民を分断する役割を果たす。

関西電力にとっての 福井県高浜町の元助役、森山栄治氏(故人)のような人物がきっと沖縄にもいるに違いない。
埋め立て工事にまつわる関連事業には潤沢に公的資金が投入されるから。
そういうことが沖縄にさらなる痛みをもたらす。そうした中でも熱ある冷徹な知性を保持して思索することの精神の強靭さを思う。

言葉は、古来戦う武器の有力な一つだ。
「ペンは、剣より強し」は日本の現実の前ではあまりに説得力がない。が、しかし、言葉が人を掴むや否や思わぬ力となることは歴史的にその例の枚挙に限りない。

人々がそうした言葉を手に入れることを恐れる政府は国語の授業で、事務的な言葉の習熟にその教育目標を変えようとしている。
言葉は自らを語り、対象を分析・把握し、人々と交流・連帯する武器であるのに、その翼をもぎ取ろうとしている。
詩人たちは、芸術家たちは、今何をなすべきなのか。
「詩人でも無ければ芸術世界を一知半解にしか知らぬお前が何を分かった振りして声高に言うのか!」と自問したところで夢から目が覚めた。
沖縄から帰るといつもしばらくはこういう心理状態が続く。
- 2019/10/30(水) 00:00:48|
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沖縄辺野古米軍基地建設現場前には建設に反対・抗議する人たちが毎日詰めていて生コン車などの入るのを少しでも食い止めようと頑張っている。
沖縄は米軍基地ばかりではなくて、かつて沖縄を本土(天皇制護持)のための捨て石とした日本皇軍の生まれ変わりともいえる自衛隊基地建設でも揺れている。

与論島や宮古島、石垣島に建設されている、又建設とされようとしている自衛隊基地が地元住民を二分し、生活や生業を壊している。
だが本土のマスコミはそうした事態を人々に知らせないし、そもそも関心を持たないから記者が現れることも極めて少ない。

今度の19号台風で各地に水害が発生して大変な事態になっているのですが、こうした水害があの東京電力福島原発の周囲では何の問題も生じていないのかどうか、それを追求して報じるものを寡聞にしてほとんど見聞きしない。
汚染地下水の海洋放出が問題になるほど、「もう満杯だ、防ぎようがない」と東電が責任放棄の嘆き節だ。例年の気象の時でさえ、それほど地下水が手に負えないし、汚染水が流れ出すと言っているのに、今次のような台風の際に、大丈夫だろうかと考えるのは当たり前だろうに、まるでその辺りに近寄ろうともしない。
汚染土を積み上げている現場は大丈夫?

沖縄の米軍基地・自衛隊基地建設の問題でも同じ事だ。
とにかく基地問題や原発問題については多くの人々の関心を引きたくない、触れられたくない・・・そういう政府機関の態度がありありとしている。
「依らしむべし、知らしむべからず」が基本政策の安倍自公・維政権。

そういう沖縄にあって詩を作る人の決意は並大抵のものではないだろうと思う。
詩壇にしても芸術界にしても「甘く夢見心地」の作品ばかりがもてはやされ賞をとる。深刻ぶっても「内面を深く掘り下げ」てばかりで、外には出て行かない。
妄想を描いても真実を描くモノは流行らないと「批評家面」が言う。
若者たちはその辺の読みが鋭く、君子でなくとも危うきには近寄らない。
小人もまた、危うきに近寄らず、だ。

「沖縄についていろいろ書く人はいるねぇ。でも、ここに、現場に来て書く人はいる?! なかなかいないよ。」
- 2019/10/29(火) 00:00:57|
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沖縄本島・石垣島に行って撮影し、写真を整理して事務所に送らねばならない予定があったから、そしてそれはかなり期日がタイトな予定だったから・・・・ブログアップの時間はないだろうと予約投稿をしておいた。
案の定、今日になってようやく時間が取れるようになった。
海外への旅行では飛行機に乗る時間が長くて、その分クルーたちと多少のお話もできて、時には撮影もさせていただけることもあった。

でも国内旅行では移動時間はさほど長くはないし、その時間にクルーたちは接客サービスをしなくてはならず、なかなか近づく機会を捉えられない。
しかし、いつものことながら彼女・・時には彼もいるけれど・・・たちの働きぶりには感させられ敬意さえ感じる私は「撮らせてもらえませんか。」というわがままな客への変身欲求を抑えがたい。

わがままな客が少なくないし、その理不尽で横柄なふるまいにはた目にも腹が立つことが少なくないが、彼女らは忍耐を柔和さで包んで、常に丁寧に笑顔で接する。
しかも狭い機内での長い緊張の続く立ち仕事で・・・・ハイヒールを履くことも強いられて・・・肉体的にもハードな仕事ではあるので、なおの事彼女らの仕事ぶりに目が行く。

ふるまい・言動のきれいさもまた魅力の一つだ。
仕事中の撮影だから手間を取らさないで終らねばならないが、彼女らから様々な話を聞くのもまた興味の尽きないところがある。
「こういうお願いで困ることがあれば断ってくださいね。」と何度も繰り返すのだが、・・・・・・・。

「働く女性たち」をテーマに撮りたいということは何時も潜在的に持っている願いなのだが、それはあくまでこちらの都合であって、そういう事を持ち出してお願いするときにはいつも何か無理やり理屈をつけているように受け取られるのかなあとしり込みする。

ひところはプロ野球選手とスチュワーデスということで・・・・今は女子アナかな・・・・かなり憧れ度の高い職業だが、飛行機に乗っての移動、旅行が大衆化するにしたがって客の質も多様化して対応が難しくなり、又飛行機会社の競争は激化し利潤追求はコスト削減≒人員削減と待遇劣化で仕事は年々ハードになっている。

そういう中でも誇りと自覚をもって仕事する彼女たちを応援したくなるというのは・・私の撮りたい病の合理化だろうか。
- 2019/10/28(月) 00:00:19|
- 働く人々
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この人の訃報を聞いた数か月前に、リタイア後に知り合ったあるギャラリーのオーナーで仏文学者のN氏の逝去を知らされた。
最近、大学時代に同じ寮に生活した後輩と連絡が取れて少しばかり周辺の人物の消息を知った。すると物故者が案外に多い。

写真はある人の人生が私の人生と交差したところに生まれる。
(数学的の意味でのではない)線分と線分が交差すればそこに「ひし形」ができる。写真はそのひし形のようなものだ、と私は思っている。
モデル写真でも同じ事だ。

写真を撮ることで、その人をこちらに引き入れてしまう。
この人との間で描いたひし形が私の手元にあることの不思議。
確かにその人と私はあの時に時間を共有したのだという事、写真を撮らせるくらいの受容性を見せてもらったということによって。

これは案外とんでもないことをしているのではないのかと最近ときどき思うことがある。
いつでも「人物写真てなんだ。」と思いながら撮っているが、何かぼんやりとした霧が晴れまを垣間見せているようにも感じる。

私の写真生活の代表作の一つが、この人の写真だろうと思うことがある。

何を大作家ぶっているんだと人は言うだろうが、誰にだって代表作はあるものだろう。私の中にあって相対的なものなのだから。
ただそれを世の人々がすぐれた作品だから心に止めよう、人にも知らせようと思うか思わないかはまた別の話だ。
「どんなポーズで撮るのがいいかなあ。」

「そうだ、漱石でやってみよう。これでいいかな。」
- 2019/10/27(日) 00:40:14|
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もし仮に私が彼の境涯だったらとても人に会えないし、ましてやレンズなど向けられようものなら絶対に平静ではいられない。
だが私は敢えて「専属写真家としては今こそ撮るべき時だ。」と念じつつレンズを向けた。

彼は虚勢を張って撮影に応じたわけではない。
描いているとき、あるいは構想を練るとき、彼はこの空間から少しずれた別の世界に入る。そこでは彼はいつも創造的作家なのだ。

「すまん。描きたいものが浮かんだから白い大きな布を準備してくれないか。」と彼は言う。
「この辺りじゃそんなものは手に入らないから我慢して。」
「そうか。じゃあここにあるカードでイメージを広げてみる。」

「物語とルールを作るから一緒にやろう。」と彼は言う。
「ちょっと待て、写真家としては今撮影に専念しているのだから・・・。」「そうか。それもそうだな。」

前日彼を撮った写真を持って来て彼の展示作品の横に並べて貼っておいた。
すると私が席を離れた時間に、その写真を並べ替えてしまった。「この方がいいだろ?」という。写真自体は気に入っているだが並べ方がうまくないというのだ。
それで「私も(写真)作家なんだから展示法も私の領分だ。元に戻すよ。」というと少し残念そうな顔をするので、そのままにしておいた。
海外でも大きな作品を展示し高い評価を受けてきたし、実際私も彼の作品が好きなのだ。
彼は自負心が強いし作品に自信もある。だがだからと言って横柄に私を否定することはしない。

無邪気さにあふれる一方で、作家としての「我が道を断固行く」強さがあるし、また生活においてもその「我がままさ」は人をして閉口せしむることが一再ではない。
一面実に単純だかしかしその反面で大いに複雑だ。

私はこうして写真を撮っておいてよかったと心底そう思う。
おそらくこんな写真を私に撮らせる人物はまたと現れないだろうとも思う。
- 2019/10/26(土) 00:00:34|
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麻谷宏さんが突然亡くなられた。
事情はよく分からない。
私はこうして人を写真に撮る活動を初めて8年半ほどが過ぎて来て、1500余名の方々を撮ってきた。そのうちのお一人で、出会いは4年余り前になる。

彼の個展会場でお会いした。
その時の写真をアップした方が良いのかもとも思ったのだが、その2年後に撮った写真にした。
ある不幸が彼を襲ったのちの写真だ。

今年の京都ファインダー倶楽部の写真展には「アラウンド団塊の世代±α の男たち」を取り上げたが、この人の写真だけ2枚その中に入れた。
たまたまそうしたのだが、その2枚はとても好評だった。アメリカ青年が「これは売ってくれないのか?」と尋ねたのがこの人の写真だった。
その時にはまさかそれから2か月ほどで彼にさらなる不幸が襲うなどとは思ってもみなかった。

最初に会って、彼と話し、そして彼を撮った。
彼に「描いているところが撮りたい。」というと「じゃあ頼まれている作品があるからそれを画こう。撮るがいい。」というjことになった。
彼が描く準備を終えると彼の意識から私は消えた。

翌日、撮った写真をプリントして彼に届けると「お前は俺の専属写真家になれ。」というので、応諾した。
「ただし『専属』というからにはあくびをしていようが苦虫をかみつぶしていようが何時でも好きに撮るから覚悟せよ。」というと、「それが専属ということだろう、好きにせよ。俺は怒らん。」

そうした会話は彼が私を写真家と認めたということだと私は勝手に解釈していた。
今日掲載している写真はある町屋を改装したギャラリーで彼が個展をしているときのものだ。

このとき彼は大きな不幸に襲われて、ま文字通りのどん底と言ってよい状況にあった。
その事があるまでは彼の作家生活は輝かしいもので作品もまた光っていた。
- 2019/10/25(金) 00:00:46|
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昨日の写真だと、「盗み撮り?!」なんて思われてしまうかもしれませんので・・・・。
今日は少し前に回った写真も。

人物を撮るときには大概の場合に設定を「ポートレート」にしています。
今日は・・・・ソニーのカメラですので・・・「ヴィヴィッド」にしています。光の強さ、それによる色の鮮やかさを出そうと。

人を撮るにはやはり少しやわらかめがいいという場合が多いです。
スタンダードも使うことがごくごく少ないです。
やはり、ヴィヴィッドは色的にくっきりはっきりですね。

この人たちの撮り方について、あまり話しかけることはしていません。
だって<お楽しみ>ですから。
それぞれの世界がありますよね。
むしろ黙って学ばせてもらっています。

世代の違いや性の違いで思いや感性が違ってきますから、気づかされることがいろいろあります。
おじさんが「知ったかぶって」講釈を垂れれば、それだけおじさんが学ぶチャンスは減ります。
どうせこちらは大したことが無いのだし、若い人から教えてもらう方がずっとお得です。
先ほどは瓶を透過する光を、今度は湧き上がる白い雲を背景に。
意識的に工夫していますね。


お一人は京都の方で、もうお一人は大阪の方、だそうです。

男性同士でこうして撮影を楽しみ合う姿はあまり見ませんね。
男性同士だとたとえ一緒にいても別々に撮っているという場合が多いように思います。知らず知らず競っちゃうんでしょうかね。そして密かに「おれのほうが・・・。」と。
- 2019/10/24(木) 00:00:11|
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「カメラ女子」などという言葉は使わない方がいいのかな。
通りかかると何やら川面に顔を近づけて覗き込みながらカメラを構えているのが見えます。
小魚でも見つけたのでしょうか。

私が飛び石を渡って近づいていくと、道を開けてくれましたが、
「いや、あなた方が二人ともカメラを二台も持って写真を撮っているので、そのことが気になって・・・・。」
そうなんです。お二人ともそれぞれフィルムカメラとデジタルカメラを一台ずつ持っているのです。これは本格的です。

聞くと写真サークルに入っておられるとか。「メンバーにはプロの人もいるんですよ。」とのことです。
アルミ箔をかざして光の反射を利用しようとしているようです。 小道具がいろいろあるようです。

「撮っているところを撮っていいですか?」とお願いして、撮影を許してもらうとともに、楽しみ方を「盗もう」と思って・・・。
何やらオシャレな瓶ですね。それをただ写そうとするのではなくて光理の透過の仕方や反射の仕方・・・いろいろに試しています。
水の中、空にかざして・・・・。
私がモデル撮りをするときにこういう工夫をすることが無いので、ちょっと反省。
道具が増えるとレンズをあきらめることになるのでついつい楽な道を行きます。担げる重量も年々減りますしね。

フィルムカメラは手間がかかるし失敗も多いけれど、そしてランニングコストもかかるけれど・・・・それだけに楽しいとおっしゃっていました。
瓶に着いた雫も撮ろうとしているのでしょうか。
二人で取り組めばできることも増えます。
- 2019/10/23(水) 00:00:12|
- 写真
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「建て込み」というんでしょうか。
イベントがあるらしくステージを制作しています。

私のこの写真部ブログの、というか私の人物写真の撮影の一つの柱が、もともとは「働く女性」だったはずなんですが、何時のまにかずっと後景に退いてしまいました。
職人さんという意識で見ていて、働く「女性」という意識が薄れているために、確かの働く女性を撮っているのに、意識が薄いというのは同事でしょうね。

ただ、伝統工芸の分野以外にはほとんど手作り市の出店者しか「働く女子性」を見つけていないのが大きな原因ですね。

不確かなんですが、この方たちは多分デザイン・設計からしている方たちなんだと思います。

何だかこの人たちの動き自体が舞台上の演者のように見えて、一層撮りたくなったわけです。
この日はミノルタの85ミリ f1.2を付けているのですが、「立ち入り禁止表示の内側に入れないのが残念なところです。

と言っていつも135ミリや200ミリを携帯するわけにもいかないですしね。
出番はほとんどありませんし。
でも、こんな時には85ミリでは著と迫力に欠けますし、位置取りの自由度が低下します。 それに先日、高瀬川の岸に植えられている柳の選定をしている方たちを撮ったのですが作業の邪魔にならないことや梯子に上って高いところを切るのを撮るには300ミリが欲しかったですね。

まあ、その時の条件の中で何とかベターな選択をするようにプラクティス、プラクティスです。
やっぱりこういう被写体でこそ気持ちが盛り上がりますね。

「働く女性」 これからも意識していきたいと思います。

- 2019/10/22(火) 00:00:03|
- 働く人々
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薄く雲の広がった曇り空では空にメリハリが無く、水面の色ももう一つです。
でもこの辺りはあまり来たことが無いという事なので・・・。

この辺りを熱心に継続的に撮っている写真愛好家も多いと思います。
確かに良いところですよね。
池の水抜きなんかもありますしね。
ここは元来灌漑用のため池です。

春夏秋冬に魅せてくれる場所です。

これからもどんどんきれいになりそうです。

レアなポーズですね。でもこれが案外にいい感じです。

出会った頃にはこういうポーズで撮ることは考えられませんでしたね。
これはちょっとした成果かも知れません。

意識してこういうポーズをお願いしたことがありませんでしたが、意外に難しいかもしれません。
今度初めての人で試してみましょう。(初めての撮影の人かあ。何時になることやら。)
- 2019/10/21(月) 00:00:56|
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多分この人自身の中に「笙を吹く姿」のイメージアがあったと思います。
背景についても。
でも、私の貧相な指示に従ってポーズしてくれました。

写真を撮る側は監督でもありますから、そういう身で責任は大きいです。
沖縄・石垣島での差杖では撮られる側にも注文がありますから、歌手の川口さんの求めにもよく耳をみをかたむけるようにしました。 が、 しかし、現実には私自身がフレイムを決めアングロを決め、背景の取り込みやその瞬間の切り取る表情を決めているのですからやはり出来不出来の責任はやはりこちらにあります。

印象的な写真が撮れたら「雅楽教室の宣伝に使いたい。」と言っていましたが、果たして使う気持ちになるような写真になったでしょうか。



- 2019/10/20(日) 00:00:33|
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この時の撮影はいろいろな点において考えるところがありましたね。
それだけに楽しい撮影でした。


この人は自らオーナーとなって古民家を改装され、そこでヨガ、書、陶器制作などのワークショップなどを主宰されています。
そしてその中には「雅楽」もあって、この人自身「笙」を吹かれます。
今回の撮影に当たって「たぶん誰もしたことがない、「鳥取の大砂丘で笙を吹く」を撮ってほしい。」と準備されました。

これは意想外でした。
雅楽の先生に「笙がだめになると叱られるかもしれないけど。」といたずらっぽく笑いながら撮影に臨みました。
こういうところに、これまで自分や状況に限界を設けずに挑んでこられたこの人の面目が躍如としているように思いました。

私に「否やはあろうはずがありません。
ただ、私の瞬発力のある構想力に「限界」があったことは残念でしたが。

古楽器である笙の音は予想外に解くまで届いたようです。
三日月の日に、ここ砂丘に雅楽の人たちに並んでもらって、演奏したらどれほど幻想的でしょうね。
ぜひそうした演奏会を催してほしいものです。
「空前にして絶後」かどうかは知りませんが、素晴らしいものになるのではないかと思いますね。(あまりに気象条件に制約され過ぎて計画する人がいないかもしれません。)

- 2019/10/19(土) 00:00:09|
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背景に見られるようにこの撮影の頃でも桜の木の枝には色づいた葉がちらほら見えますね。
まさに初秋といった感じです。
紅葉と言えばモミジ、カエデの色づきを言うことが多いですが、何もそれだけが色づくわけではないのです。

でも京都の紅葉は、少なくとも観光的にはモミジですね。
それが本格的に色づくのは11月の終わりころ。
その時には私の写真展(『音楽・人・人生』 京都写真芸術館 11月12日~17日)は終わっていますが、写真展の頃には既に様々な広葉樹が綾錦を競っているはずです。
ぜひ京都においでになって、私の写真展にもお運びください・・・・と宣伝しておきます。

そんなかで着物を着てもらって撮影をしたいものです。
この人の親友で、これまた魅力的な人がいるのですが、ツーショットでソフトクリームを食べようという宿題がまだ実現していませんしね。

この人には京都の街歩きもしてほしいし。

写真の順番がおかしいでしょ?! パソコンがそろそろ寿命かも知れないのです。
最近こうしていろいろな場面で不調を訴えます。「末期ですよ、覚悟してください!」と。
ダメ! とても覚悟できない、と言っているんですけど。

この人も、親友さんも「好きな人ができた」とか「いない」とかいうことを実に率直に言ってくれるのですが、これくらいの年齢の人は、突然境遇が激変して」「これから撮影は難しい、」ということになることが多いのです。
かつて、そのことは秘密にしておいて、駆け込み的に撮らせてくれた人もいたりして・・・。

そうして撮れなくなる・・・・「だめ! とても覚悟できない」なんて言えませんしね。
- 2019/10/18(金) 00:00:39|
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多分無事に沖縄・石垣島から帰って来ていると思います。
実はこの沖縄・石垣<出張>に備えて予約投稿をしています。
というのも、その前後はこの撮影に集中したいからなんです。
趣味を仕事にしたという面が幾分あるからということもあるのですが、何よりその撮影を通じて平和や民主主義の前進のために針一本、毛一筋でも貢献したいという思いがあるからです。
そういう撮影を受けられるものこの人たちがこうして撮影に協力してくれて、少しでも印象的な写真を撮るために機会を与えてくれるからです。

来年五月にこの人も含めた女性たちの写真展をしますが、そういうことを通じて私が世の中煮込みとする窓を開いてくれているのもこの人たちです。
有難いことです。
8月の写真展の時にこの人を最初のページに入れたアルバムを置きましたが、やはり目を引いていました。

数日前にアップした鳥取砂丘での撮影の写真と並べて、そのエネルギーがそん色のないようなモノをまたこの人で撮りたいと思います。(すでに候補何枚もあるのですが、更に濃密で力のあるものにしたいと思います。)
そしてそのことはこの人にも言っているのできっと力を合わせられるだろうと期待しているのです。

とにかく人物写真は 一人×一人= 爆発だぁ になることが期待されますからね。
そこが楽しさのカギです。
ただなんといってもフォトマヌカンの存在が決定的ですから。

11月の初めころにある人の写真展があります。
その人はもっぱら女性ポートレートを撮っている人なのです。
一旦FBで友達になったこともあるのですが、関係を絶ちました。 とにかくその発言が女性に対して侮蔑的で、写真もまた・・・別にエロでもグロでも暴力的でもなくて、普通なのですが・・・・なんともつまらないと感じるのです。
けれどその人は花街にも食い込んで芸子や舞妓を撮ったりしているのです。
そういう写真に対するアンチも提示したいので・・・・ハハ、私は何様なんでしょうね。・・・・来年の女性ばかり写真展を成功させたいなあと・・・・。

自分なりに、担えもしない課題を立てて、大げさに取り組むわけです。
人生『物語』ですから。
身の程を知ってしまったら、つまらない。
ネズミ一匹だって出ないよりましなんですから。

この人の写真を見てなんだか楽しいような嬉しいような気持ちになれるだけでも幸せじゃないですか。
浜(崎伝助)ちゃん的に言えば「僕が幸せになれるので、結婚してください。」ですよ。
- 2019/10/17(木) 00:00:22|
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この日は別の場所でも手作り市があって、そこでも音楽のスペースがありました。
若い方たちが歌ったり演奏したりしています。 自身で作詞作曲をして歌い、CDもリリースされている若い女性も歌っていました。
私はついつい、「ちょっと低い、上がり切れてない、・・・。」などと批判的に聞いてしまいます。
歌詞に注意すると「なぜそんなにも私小説的なの?」と。

向こうを通る子たちが気になって撮りました。
私の側にも同じくらいの子たちが何人か取り巻いています。
何を感じているのでしょうね。
この子たちにお母さんはどう見えているのかな。
『私たちのお母さん、かっこいいなあ。』かな

おかあさんと一緒がいいね。

お父さんは後ろでバックアップ。


- 2019/10/16(水) 00:00:59|
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先日、別の手作り市で演奏をしているところを撮らせていただいて、「29日にも演りますから…。」とお知らせいただいたので。
今日はフルートも演奏されるようですね。
このご夫婦は音楽つながりだったのかな。

お嬢さんは「アマデウスの再来!!」
ちゃんとお行儀良くもひけるのです。
「写真撮っていい?!」と聞くと、コクッと頷いてくれました。

今日はお兄ちゃんも機嫌よく演奏に参加できそうです。
前回もとても暑い日でしたが、今日も暑くて湿度が高い。テントの下でもなかなか厳しい日ですが、頑張ってます。

さて曲が変わって、どうやら歌も歌うようですが・・・。

「あ-、あ-」
音響の状態を確かめるなんて、なかなか一流ですねぇ。

うん、なかなか上々のようです。
- 2019/10/15(火) 00:00:16|
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写真は男子の本懐にあらず・・・・かな。

まあ、しかし、ないものねだりをしていても始まりませんから、・・・。

一番の問題は私の写真がまだまだ人の気持ちを動かさないというというだけの事です。


日暮れて、なお道 遠し。

それにしても魅力的な人ですね。
この人の力を借りているのに・・・申し訳ないなあ。

ドンマイ!
- 2019/10/14(月) 00:00:47|
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衣装替えです。
帽子の黒いリボンがよくマッチしています。
上から羽織る白い服を手にしていますが、これも画面では効果的ですね。いいセンスですね。
手にしているケースには・・・・が入っています。

私はフェイスブックもしていてそちらにも時々こうした写真をアップします。
フェイスブックでは一枚一枚の写真について「いいね」を示すことができますので、どの写真が好評だったかわかります。
つまりどの写真が不評だったかもわかるわけです。
こちらはブログです。しかも「写真ブログ」ですので見ていただいている方の少なくない人が「写真」に興味関心を持たれています。
その点フェイスブックは違います。個人的なつながりが基本です。 ですから何を食べた、どこに行った、「いいね」と同じ地平で私の写真についても評価されます。
そして「いいね」をされた方がお名前で特定できます。

この一連の写真、ことに下の写真のようなものに「いいね」をされるのは画家などの一握りの芸術関係の方です。
この方の友人知人の中にも芸術・芸能に携わる方々がいて・・・そこがこの人の魅力の一つでもあるのですが・・・そういう方が「いいね」をされますが、全体としては一挙に減ります。
まず顔が写っていなければ「あっ、〇○さんだ。やっぱり美人だなあ。かっこいいなあ。がんばってるなあ。」などの感懐が起こらないので、「いいね」はしないのかもしれません。
写真を作品としてみるということが少ないのかもしれません。

「いいえ」の数が少ないと不平を言っているのではないのです。
風景を撮った写真に対して「あ、ここは清水寺だ。私も行ったことがあるよ。あそこは、いいね。楽しかったでしょ。『いいね』」といわれると、ちょっと「なんだかなあ」と思うのと同じ心理でしょうか。
そういう事じゃないんだけどなあ、僕が撮っているのは、と。

先は長いなあ・・と。
- 2019/10/13(日) 00:00:23|
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彼岸花は球根によって増えるのだそうですが、田んぼの畔などに列をなしているのはそうかなあと思うのですが、こうして他から離れたところに「突如」として現れるのはなぜなのかなあと・・・。
彼岸花からしてみれば「突如」としてではないんだと思うのですが。

オオイヌノフグリやヘクソカズラみたいに、命名でそのイメージが凹んでしまうものがありますが・・・・もっともヘクソカズラは葉をすりつぶしたりすると林田さんも鼻を曲げるほどの匂いがするようですが・・・・この彼岸花もあんまりnなという様な別名があるようですね。
名前で彼岸花の毒性から人を忌避させようと仕向けているのでしょうかね。

う~ん、やはりちょっと痩せましたね。
自分でもモニターを覗くたびに「痩せた!!」と叫んでおりました。

無理なダイエットをしているわけではないので心配することもないようですが。
ちょっと忙しすぎたのですね。

この人に送った写真だけでこれまでに数千枚にはなりますから、不思議といえば不思議な縁ではあるわけです。
送った写真はお母さんやおじいちゃんおばあちゃんにも喜んでもらってるようです。

- 2019/10/12(土) 00:00:28|
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予定であればこのブログの被には沖縄に向かっているはずです。
少し前の台風が来て沖縄を粗らしていましたが、さてこの日はどうでしょうか。飛行機は飛ぶでしょうか。
また、返ってこれないなんて困りますからね。

今回は珍しくオーバー気味に撮っています。
これはα99を使っているせいもあるんです。α99のファインダーは液晶画面で、光学ファインダーではないんです。
それで「撮れる結果を見ることができる」ファインダーのはずなんですが、これが同じではないんですね。
それでファインダー内の画面を見て露出を動かすと、できた絵は思うようなものとは違っているのです。
製造企業のいうところと実際は違っているのです。違っていればファインダー内の画像を調整して実像にできるだけ近くすればいいだけの話ですが・・・それがなかなか。

銃で弾丸を撃って着弾地が「幾分斜め上になるなあ」ということになれば照準装置を調整して着弾位置をずらしていきます。同じことですね。

まあ、今日は曇りがちだから、写真が楽しい雰囲気になるようにオーバー気味のまま行こう、という訳です。
- 2019/10/11(金) 00:00:21|
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このブログを始めたころはほとんど毎日α900に28-70 f2.8通しのミノルタレンズを付けて撮っていました。
それは長く続いたと思います。
ズームレンズですが…というとズームレンズには悪いですが・・・綺麗に撮れるので、ほとんど不満はありませんでした。
ただ一つ問題は、重い!のでした。

とうこともあり、またやっぱり単焦点レンズじゃないと・・という強迫観念?から50ミリをつけたり85ミリを付けて出るようになりました。
ズームレンズで、便利に解決することにある種の抵抗感が生まれていたからでもあります。
なぜ「単焦点レンズじゃないと」いけないのか、 何ゆえ『脅迫』されるのかということについて、深められたかどうか・・・・どうでしょう。

ちょっと一回りしてきたかな、という感じがしています。
らせん階段をぐるっと回って、元来た辺りに戻ったけれど果たして一段上がっているかどうか。

最近のレンズはオートフォーカスの合焦の速度が「超速い!」ようですが、私のような写真を撮るには、この古いレンズでも特に問題はないのです。
無論、もっと早ければというシーンにも出会うことはありますが。
それにマニュアルで合焦させることもまた多いですからね。

先ほど、読経をしながら若い僧侶たちが数人行きました。
その後ろを僧衣ではない服をきてついている、やはり若い方がついて歩いていて、我々浸りを認めるとなぜか棘のある視線を投げてきました。
時に立ち入り禁止地区にはいっているわけでも、この辺りの静穏を破るような大声で話していたわけでもないのですが、なんだったのでしょうね。
撮影禁止区域ともされていないはずなのですが。

それで「君の存在が若い男性の僧侶の修業の妨げになるからじゃないのかなあ。」なんて・・・・・。
ふ~ん、私はいつも思うのですが修行僧が自らの欲から脱するように随分難行を重ねるようなのですが、それって意味があるんでしょうかと。
それにそういう修業のための領域には美味しい食物も、寝所もなくして、まして女色はことごとく排除したところで修業をするなんて、倒錯しているなあと思うんですよね。
目の前にちらついている場所でこそ修業を積んで見事にその欲を脱してこそ私のような凡俗の手本となれるように思うのですがね。
安全地帯に入りこんじゃって、どうしたこうしたもないものだと・・・。
直指庵への道を探し中。 私が連れて来て迷子になってます。
- 2019/10/10(木) 00:00:47|
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京都の近くにはなかなかこのようなダイナミックなロケーションはありません。
いや、どこかに見つけたいですね。 鳥取はあまりに遠し…ですから。

私は二台のカメラをもってこの人を追いかけているわけです。
周囲は砂ですし、いくらかの気持ちの良い風が吹いていますからできるだけレンズ交換はしたくないわけです。
それで本当ならば三台態勢にしたいのですが、それではとてもこの砂の斜面を、この人について上ったり下りたりはできそうにありません。
写真撮影に必要なのは強い体力と敏捷性ですね。

「大丈夫ですか~?」と言っているわけではありません。 念のため。
それに指南としても水分補給が必要な炎暑の日だったら、これにペットボトルか何かを腰にぶら下げるかしないといけないわけですから、それは大変でしょうね。
助手が準備できるようにならないと・・・ ゴルフの場合はなんと言いましたかね。そうそう、キャディーさん。
そんな日は来ないでしょうが。

遠くに見える馬の背のような丘陵が本道でしょうかね。
人の大きさと比較すると規模が分かります。
でもこれだサハラ砂漠だとかタクラマカン砂漠だというものを見た人からすれば、ちびっこ広場の砂場❓!てなもんでしょうね。

露出は原則として手動で設定していますから、上の写真を撮った後でこういう風に設定を動かしてみたりします。

私はこういうのもとても好きです。

さて、ではちょっと移動しましょう。
- 2019/10/09(水) 00:00:40|
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この日はずいぶん眩しかったことでしょう。
この人自身のはつらつとした姿もまた眩しいものでした。
砂丘の稜線のセクシーなこと。 (そう思いませんか、小泉君?!)

この人のお友達が少し距離を置いて一緒に来ているということで気楽さはあるとは思いますが、私とはほぼ初対面のような関係です。ですのに、こうした心からの笑顔を発散させられるというこの人の気持ちの強さというか、人間性の肯定感というか、そういうものが実にすがすがしく感じられます。
それはもちろん大前提として私の人物写真を見ていただいて、その時にモデルをしてもいいかなというインスピレーションを沸かしてくれていたということがあるのではありますが。

背景にあるアクティブな人生経験も物を言っているのでしょうね。
羨ましい限りです。
広角レンズでこんな隅に被写体を寄せちゃいけないというのが原則なんですが。

私もこの時裸足になればよかったなあ。気持ちよかっただろうなあ。
この人は、とっととサンダルを放り投げてしまいました。

もしこの人が私の注文を聞いていてくれたとしたらハイヒールも持ってきているのではないでしょうか。それで歩けるはずもないのですが、ヒールが沈まないように段ボールを用意しているんです。それを敷いてその上に立ってポーズしてもらいます。段ボールには砂を撒いて隠せば、砂丘にハイヒールで立つ姿が撮れたと思います。
しかし、首から二台の一眼レフを下げて重いレンズの入ったカメラバクを肩にかけてなおその上に段ボールの板やレフ板をもってこの砂丘を敏捷に上ったり下りたり屈んだりなど言うことは今の私には到底できることではありません。
でも、そのハイヒールに似合う服を着て砂丘に立つ姿はとても違和感があってよいと思うのです。何時か誰かで撮ってみたいと思います。
誰かと言ってもこの人くらいのプロポーションでないとなかなかね。

おそらくこういう写真ではプロポーションの良し悪しは相当重要な要因だろうと思います。
私はこの人のプロポーションについてはこの時に初めて気づきましたが、お会いした時に「姿勢の良い人だなあ。重心がしっかり腰の上にあって高い。」という印象は持っていました。ヒールの高い靴を履いても背筋が前かがみなどにはならず膝も曲がらない筋力もお持ちです。
そこに魅力を感じました。

それに私の団塊世代前後の男性たちの写真を見て、いいなと感じてくれる感性の持ち主ですから、なおのことです。
- 2019/10/08(火) 00:00:14|
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これ以上に下の位置から撮ると「ゴジラ」になっちゃいます。
曇りが基本の日なのですが、池の水面に背景がきれいに映っています。
少しでも青空がのぞくと・・・ほら、今だ!という感じです。
この辺りはよく時代劇のロケに使われるところですね。

本当に肩の力が抜けてきたなあ。
これも幾度も撮影に協力してもらっているおかげですね。
とてもプラーベート感が出てきました。

朝で描けてくるときに、「また服で悩んじゃいました。」と言いますが、いつも感じのいい服装で来てくれます。
事前にいくつかの注文を出すことはあるのですが、それを上手に取り込みながら・・・・です。

私の職場の大先輩でこうしたポートレート写真を撮ることもお上手だった方がいたのですが、その方は「モデルと一緒に服を選びに行って買ってあげている。」とおっしゃっていました。
そんなことは到底できないなあと思いましたが、その上に沖縄やその離島に行って写真を撮るというのですから、これは給料だけではない金蔵をお持ちだなと思いましたが、そうまでして撮った写真はとても抒情的ないいものでしたね。
でも私には絶対にできないことです。

「素人さん」なのですからこうして撮影のために工夫して服を準備してくれるのはとてもありがたいことだと思っています。

「撮影料、モデル料は発生しません。」ですからね。
- 2019/10/07(月) 00:00:45|
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しばらく会わないうちにちょっと雰囲気が変わりました。
ここは久しぶりの嵯峨野大覚寺です。大覚寺の大沢野池。

晴れれば遠出をする予定でしたが、今日は曇り空。そのために強い影もできないし、肌も白飛びしないので優しい感じで撮れます。
初秋の優しさが出るでしょうか。
この人の表情も少し大人なびた感じになったかな。

先日誕生日を迎えたばかり。
「もう○○才になってしまった。」と。
私から見れば「まだまだ○○才なんだね。」ですが。
私にしてもそうですが、前回からの数か月の間にでも、それなりに事件があります。ましてこの人たちの年代では人生の根本にかかわりかねない選択や事件がいろいろ起こるでしょう。
それだけに少し見ない間にいろいろな変化が表れてきたりすることもあるでしょう。

「若い人は遊んでばかりで呑気でいいね。」なんて言うのはとんでもないことで、「胸に棘さすことばかり」が青春時代でしたね。
それは今も昔も変わらないでしょう。
ただ異議申し立てができない、させないのが現代かも知れません。みんな自分の範囲で解決を迫られる。そして「勝か負けるか」で全てが測られるような。
そしてそういう風に振り分けられないためにはそもそもレースに参加しない・・・と。

私たちの世代に比べれば一層生きにくくなっているのかもしれません。
そういう事態に対して、それは
若者たちだけの問題ではなくて、それを批評しているおじさん世代が、そのことに対して何をしているかという事もまた大きな問題でしょうね。

それはだって若者自らが解決することで…なんてわかったような顔をして手を引く大人が「なんて多いことでしょう。」
実はそれをどうしていいか知らないし、する気概もないのが実のところなんじゃないでしょうか。
- 2019/10/06(日) 00:00:29|
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天気はよくとも、空に雲が無いのは少々困ります。
雲一つない晴れ・・であれば、砂丘のモノトーンな景観と同じくモノトーンな空とで背景が一挙に単純化して、モデルがポップアップしていいと考えるのも悪くはないのですが。

砂丘の砂が私の故郷の砂浜と違って明るい黄土色をしているという予備知識に基づいて「濃紺か黒の服で来てもらえたら・・」などとも言っていたのですが、この服は確かに青系なのです。
この人が先日写真展会場に来られた時の服も濃紺でしたが、服の裾がやや短くて膝上でしたので、長い方がと・・・・。
風で裾が翻るのを期待したからです。 そして、今日、適度な風があるのです。

風は髪を靡かせ、服の裾を揺らす演出の天才ですから。

砂丘は思った以上に魅力的な舞台でした。

私の写真は観光記念写真と大して変わらないものが多いですが、このロケーションで撮れば、どう撮っても何か印象深い写真になりそうです。

私たちが引き上げるときにすれ違ったお二人の初老の紳士たちが「モデルさんを連れて撮影ですか?」と声をかけられましたが、その方たちも写真愛好家のようでした。
その声の調子に「プロのモデルさんを・・・」という感じがありましたので、この人は言下に「いえ、素人です。」と。

確かにモデル料はお支払いしていません・・・・・。
- 2019/10/05(土) 00:00:41|
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8月の京都ファインダー倶楽部での写真展。その時に会員のお知り合いで、見に来られた方です。
昨年も来ておられて「素敵な方だなあ。」と思っていましたので、その会員とともに私の写真を見てくれた際に「撮らせてもらえると嬉しいのですが。」とお願いしますと、意外にも快く「いいですよ。」とのお返事でした。
声をおかけしたものの大変お忙しい方でもありますし諸方面から注目されている方でもあるようでしたので、多分丁重に断られるのではないかと、・・・・。
三分の期待でした。

家人との会話で「今日、美味しいラッキョウがあるのだけれど食べる?」と聞かれて「ラッキョウ?! そうだ!鳥取の砂丘に行こう。」
という訳で、私の住まいからも、この人のお宅からもそれぞれ遠い鳥取行きを提案したのです。
すると「それは面白いですねぇ。ぜひ。」ということになって・・・・。
この小気味いい反応がいやがうえにも期待を膨らませました。

現地集合ということになって、私はここに来る前に長年行きたいなあと思っていた「植田正治写真美術館」に立ち寄ってきました。遠かったなあ。
でも見事な建物ですし、ロケーションもいいし、植田氏の演出写真の良さを改めて感じました。

リアリズムということがすべて演出を排することだとか、あるがままの自然な事だとか言っている人がいたようですが、それはまるでリアリズムを理解しない俗見でしかないし、時にはリアリズムを攻撃するために敢えてそのような皮相なリアリズム観を仕立てておいて、それを批判することで、リアリズムを否定した気になっていたような、今日も時として現れる類の考えです。
と、まあ、脱線をしないようにしましょう。
裸足で砂の上を歩くのは心地いいようです。とても気持ちが快活になっている感じです。

前後の日は今一つの天候でしたが、この日は前線が太平洋の方に下がって、ユーラシア大陸の東方の海からの風があり、雲も浮かんで絶好の気象条件でした。
実は一生館前の被か、この日かの選択肢があったのですが、前者が、良くないと判断して後者に賭けたのは当たりでした。

今回の写真い良い点があるとすればこの壮大なロケーションと天候、そしてそれに触発されたこの人の快活な高揚した気分のお手柄です。
そしてこの人の自らの行動に裏付けられた肯定的で積極的な人生観と自己認識からくる所作と表情。それでしょう。

私はそこからあふれてくる魅力をただ懸命に掬い取っていただけのような気がします。
というよりはそれを楽しんでいたというべきでしょうか。
- 2019/10/04(金) 00:00:30|
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京都、同時代ギャラリーで若い作家である笹岡由梨子さんが「太陽 Ⅰ」と題して作品を展示している。
搬入時には床一面に赤いカーペットを敷き詰めて「寝不足でおかしなかおかもしれません。」といいながらも撮影に応じてくれました。

作品の中にこの人自身が衣装を着けて登場しています。無論、名の無い存在としてですが。
それが・・・・この人がご覧のようにきれいでかつどこか愛らしい容貌の方ですから・・・・ある種、「おもしろ深いテーマ」を「おもちゃ可愛いもの」に仕上げていてなかなか妙なる作品です。
そこはご自身が意識していたかどうか、聞き逃しました。

私は毎週何か所の会場に絵などの美術作品を見に行きますが、その大半は思考停止というか、その作家の知性なり、生き様なり、洞察なり、決意なり、・・・そうしたものが感じられないものです。
芸術が政治スローガンを掲げないと「意識性が無い」などというつもりは毛頭ありません。
ですがその人の世界観がどの程度この現実世界と切り結んでいるかという緊張感はあってほしいものと思います。
(天に唾するような発言ですが)
「誰もが知っているパーツをつなぎ合わせて創り出された誰もが見たことのない世界で展開される物語は、すべて緻密な構成・モチーフを設定に基づいており、未知に織り交ぜられた既視、予想のできない結末は、観る者に能動的な理解と思考を促します。そこには社会へのクリティックな視点とユーモアを見出すことができます。」とフライヤーにはあります。

先品を見ていると、この人のお母さまが来られて、私の疑問とするところを話し始めたので、話に寄せてもらい、さらにいくつか話を聞かせてもらいました。

すでに大きな賞もj獲得し海外での活動もされている人ですが、高ぶり過ぎる気負いではない意欲を感じ、精神的にもバランスがとれていて、なお旺盛な成長への意思を感じる人です。

ビジュアル的にもすごく魅力的ですね。
目の中に白いラインが映っていますが、何だかこの人の作品世界に通じるような感じになったかな。
この人の展示は京都同時代ギャラリーで10月1日から13日(日)までです。
12:00-19:00(最終日は17:00まで 月曜休廊)
- 2019/10/03(木) 00:00:09|
- 美術
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ヴァイオリンは通常四弦ですが、五弦のものもあるのだそうで一番の低音部に弦が足されて音に広がりが出るのだそうです。
最近の音楽環境では他の電子楽器の音量や音の多様性に負けないような楽器への進化が求められるのでしょうね。

こちらでも筐体の中にマイクと増幅器が仕込まれたものを作られていました。
そういう楽器の場合には、替えてt楽器自体の音は抑え気味に作るのだそうです。
「そうしないとハウリングしてしまう。」のだそうです。

こうした白木のうちに幾度も調整し表面をさらに削ったりするのですね。
箱自体に構造的な剛性を作るためにも、この独特の曲線の組み合わせが必要なんでしょうね。 多分。
それとも弓が作る角度の制約をなくすためのものかな。 そこまでは質問しませんでした。

こうした時にふと出てくるのがヴァイオリンをいつくしむような笑顔です。

モノづくりの人に共通している・・・ように思います。

- 2019/10/02(水) 00:00:45|
- モノづくり
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