西陣織でも最も手間暇がかかり豪華なものがこのつづれ織りです。
一日集中して作業しても1,2センチの幅しか織れないと聞いたことがあります。

杼が一体何本あるんでしょうね。それだけたくさんの色を緯糸として使うという事ですね。
どれだどれやらわからなくなりそうですが、これがいわばパレットに取り出した絵の具みたいなものでしょうか。

経糸の下の原画が敷かれていて、それを見ながら糸を選んで、必要な本数の経糸を潜り抜けさせて杼を通します。
そうしておいてその緯糸をくしの歯状に削った指の爪や髪をくしけずる櫛のようなもので掻いてぎゅっと押し詰めます。

京鹿の子の本びったと同じようにとにかく根気と辛抱の塊のような仕事です。
そしてこういう仕事は大概女性が専門です。
男女差別をするわけではないですが、少なくとも歴史的な事実として男はしてきていません、というかできないのだと思います。
新たにこの色が必要なようです。それでこれを杼に組み込みます。
- 2019/09/30(月) 00:00:40|
- 伝統工芸
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あるギャラリーを訪ねた時です。
その建物の窓は開口部が広くて、秋の午後の陽射しが溢れていました。
その光の散乱の中にこの人が椅子に掛けて在廊していました。

それで元来作品を見に来ているのに、私の眼は、これは「どう撮るのがいいかの眼」になってしまって・・・・。
その光がどう作用するのかをこの人の力を借りて「研究」してみました。
この人は会場に油絵を他の写真家などと一緒に展示している人です。

向かって左側が窓です。
室内は白いクロスが貼られています。 ですからひかりは部屋中に回っています。
反射光がこの人の左ほほ…向かって右側の頬にも、豊かに当たっています。
窓からの入射光は胸元が白飛びするほどの明るさです。

顔の向かって左側に髪と手のひらで影を作って右側の壁からの反射光を主体にしました。
入ってきている光の強さは季節感を示しますので、わずかに残しています。
顔にまだらの光が落ちると「汚い」と言って許さない「講師」がいますが、私は賛同しません。
まあでもこういう複雑な形をした光が鼻にあるのは良いかどうか、そこは考えるべきところでしょうね。
上の一枚より下のものの方が顔に立体感があります。

レフ板で光を当てすぎたほどの反射光があります。

こういう時にピントをきちんと当てて画面をシャープにすると目に痛い光になるような気がします。
それで最初の一枚目が捨てられません。

よく話題になることですが、適正露出というのはどういうものなのか、これまた難題ですね。
ピントもあっていればいいというものではなく・・・。
でもこうすると訴求力はありますね。

最初の写真と同じ人かなと思う位人柄が違って見えます。
光をよむって、露出って、写真ってやはりとても難しい。
- 2019/09/29(日) 00:00:23|
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私は雅楽の知識がまるでありませんので、ちょっと良い体験をさせてもらいました。

賀茂川の堤には草が長く生い茂っていますが、市から委託を受けた業者の方たちでしょうか、上流からずっときれいに刈っています。
こうして美観を保つのもまたお金と労力を必要としますが、とても大切なことだと思います。

ある方は「一か月ほど出張で京都を離れていたけれど、2日前に帰って来て『鴨川に行きたい、鴨川に行きたい』思い続けましたよ。」とおっしゃっていました。
その方はジャンベを叩いたり名前は忘れましたが、ずいぶん長い管のラッパ上のどこかの民族楽器を吹いていました。ジャンベが主なんだそうですが、楽器は変わってもお酒を少しずつ飲みながら、ほろ酔いで鴨川の風に身を任せながら楽器を奏でるのはいつもおなじで、この一時が至福だと言います。それは本当にそうだろうと思います。
「ただし昼にね、これがいいんだよ。」と。

京都市民は、いや鴨川べりの人々は本当に鴨川が好きで大切にし、この環境を楽しんでします。
市外、府外、さらに国外の方たちも楽しんでいます。

貴重な景観、環境ですね。

パブリックな空間がなければ文化は育たない、私はそう思います。
そういう意味では、こうした空間の使い方をもっと熟成させていかないといけないなあと感じます。
京都にはそういう空間が少ないですから。
- 2019/09/28(土) 00:00:44|
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「いちひめ神社」の雅楽隊(いちひめ雅楽会の事でしょうかい。)に所属しているのだそうです。
大学に入り一回生の頃から雅楽を学び始めて今日に至るのだそうですが、まだ丸3年がたっていないというのに…素人耳には・・・大変お上手だと思います。

先ほどまで龍笛を吹いておられました。
それを袋にしまおうとしていたので、もう練習はおしまいですか? 雅楽の笛なので珍しくて聞いていました。それで写真を撮らせてもらおうと思っていたのですが、・・・。」

すると別の笛、この笛を取り出されました。 まだこれから練習を続けるようです。
それで、撮影しても「いいですよ。」と

篳篥は縦笛で、龍笛は横笛。
雅楽は管楽器、弦楽器、打楽器で構成されますが、指揮者がいません。 それでお互いに拍を計るための独特な奏法もあるようです。

少し気温がおさまってくると鴨川はまた音楽の練習場になります。
貴重な場所ですからね。

こういう音色が300メートルも離れたところからかすかに聞こえます。
それが京都のこの辺りの良いところだと思います。
さすがに三条辺りから下は、そういうわけにはいきませんが。

秋の風に沁みる音です。
- 2019/09/27(金) 00:00:30|
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何枚見てもとりたてて代り映えのしない写真です。
こういうのをアップすることに意味があるかどうか、ちょっと難しいところがあると思います。
そもそも論から言えばそもそもこうして写真をアップしてどうするの?ということがありますが・・・・・・。

この写真を撮るときにはこの人といろいろやり取りをしているのです。
ですから、私が何を試みたいかをこの人は知って撮らせているのです。

ですからこの人は私にとって得難いフォトマヌカンなのです。
絵を描く人たちはクロッキーをしたりします。そして対象を捉え、それを栓や面で描く「プラクティス」をしているわけでしょうが、写真にもそういうことが必要です。

ただ私は、単なる練習、初めから練習だから没にするというような気持で撮っているわけではありません。
こういうものを撮りたいと思ってどうすればいいのかと手探りさせてもらっているわけです。

人だって風景だって鳥だって列車だって・・・・撮るのは難しい。
難しいのはなぜなのか、何が難しいのかがそもそもわからないと、その難しさに挑戦することもできない。
何を撮りたいのかの自覚もないといけない。
やはりなかなかの難事なのです。

この人はそういうことを考える暇をくれます。
そしてその難しさに付き合ってくれます。
かわいい人、きれいな人、魅力的な人・・・を見つけてそこにポーズしてもらって撮る。
それができたからと言って、そこが終点ではないのだということを少しづつ気づくようになってきています。

なかなかおもしろい世界に入ったものだと思います。
- 2019/09/26(木) 00:00:12|
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雲が秋のそれですね。
でも、まだ草が翠だし(こういう時にまだ青いと書くのが日本語でしょうか)。

この日の前日も、又翌日も今一つの天候でしたが、この日はこの時点頃までは青空もあって気持ちの良い日でした。
が、これから30分もすると次第に雲が広がりだして、湖面の色もくすんでしまいました。
広角レンズ・・・ここでは20ミリですが・・・・人体のプロポーションも変えてしまうので、なかなか取り扱いが難しいなあと思いながら・・。

女性ファッションの広告写真を見ると、頭が丸くて小さくて、胸がとても豊かでウエストが極端に細く胴は短い、お尻も豊かで太もももそれなりに肉付きが良くてすのうえすらりとしていて、膝から下はずいぶん細長くてつま先まですっきりと細い。
10頭身で足が体の半分以上というのがモデルが出てきます。

こんなモデルの着た服がセクシーで可愛くてしかもクールでスマートで…だと来れば、それを見る女性は我が身を振り返って実に大変なコンプレックスを抱かざるを得ないでしょうねぇ。
でもそれらは画像編集ソフトによる修正があることは明確で、誇大広告?として、あるいは虚偽広告として取り締まるべきだろうと思いますね。まあそのモデルを売り出しているのではないから、そういう訳にもいかないでしょうが、とても健全なやり方とは思えません。


この人の顔はもしこのままかつらを付ければ昔の役者絵のようになるのじゃないかと・・・時に思います。
現代流行の顔じゃないけれども、「昭和顔かなあ。」などと言っています。

- 2019/09/25(水) 00:00:52|
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日中はまだまだ暑さが残りますが、さすがに風は秋の風に変わっています。空気も透明度が高いですし、空の雲も高くなっています。
そんな日琵琶湖に出かけて撮りました。

今年は夏の景観の中で夏らしい写真が撮れませんでしたので、大分心残りです。
そんな私の気持ちを組んで、じゃあせめてと時間を割いてくれたというわけです。
この人にもちょっとした岐路が生まれましたから、気晴らしも兼ねて。

いろいろあっても実に情緒が安定している、頭のいい人です。
きれいだとかカワイイだとかだけだとちょっと「写欲」が高揚しきれない私ですので、そういう意味でずいぶん助けられてきています。

広角レンズで撮るのはとても面白いのですが、「なんでも全部は言っちゃう!」ので難しい面がありますし、画像のゆがみに注意しないといけません。
ある写真家が「(町撮り)写真はプラクティス プラクティス プラクティス」だと言っていますが、なるほどその通りだと思います。
「バスケットするにはプラクティスが大事だろ?! ゴルフにもプラクティス・・・・・・・・。でも写真はカメラのシャッターボタンを押せば足りるって?! いや、それは違うよ!」

咄嗟の構図選び、露出の設定、ピント合わせ、などなど…いくつものことを瞬時に的確にやるには「プラクティス プラクティスさ!
そうじゃないかい?!」
ごもっともだと思います。

写真撮影は5分で終る・・・そうでなけりゃ写真家とは言えない。
うん、写真家はそうかもしれません。既に写真家の域に達した人は・・です。
ですから私には、やはり「プラクティス」が一番の薬で栄養剤。

一回の撮影機会で、一度のシャッターで決定的写真が撮れる・・なんて私にはないこと。
その一枚にたどり着くためには繰り返す「プラクティス」が肝要。
その時に「人物写真」に挑戦するものにとっての最大の悩みが「フォトマヌカン」を得ることです。
ほんと、これがとても大きな問題です。
- 2019/09/24(火) 00:00:23|
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円柱というか逆双円錐のような和ろうそくの表面に絵を描くのはなかなかの難事だろうと思います。
水平線を核にしても横に回り込むのをどこから見ても水平になるように描くのは案外難しいのだろうと思います。しかも筆ですからね。

大きな筆の方はいったん置いた絵の具を水で広げてボカシを入れるためのものです。
平筆のようになっているのですが、丸筆の筆先を唇で整えているからです。

「長年の間にはずいぶんと沢山の絵の具を食べてきましたねぇ。」と私。
「そうだねぇ。身体には悪いね。昔はいろいろな金属が混じっていたからね。」

「まあ、しかし、もっと悪いことをしてきているから、そっちの方が問題だね。」と。
お酒やたばこのことを言っているのです。

口を真一文字に結んで描いておられるので一見気難しい職人さんかなあなんて感じなのですが、実はとても気さくな方で、楽しいお話をされます。
職人=気難しや 無口 などというイメージがありますが、それはあくまで仕事上のこだわりの事。
「気難しいと言われると、まあ当たってる面があるけれど。」と多くの方がおっしゃいます。

でも写真を撮らせていただくときにいろいろお話を伺うのですが、大概の方が、気さくで明るいです。
もっとも私がお会いしているのは公開実演に出かけてきている方ですから、それは当然と言えば当然で、一本の木から森全体を説明するのはいけませんね。

手元を照らす灯りがこちらを向いていると、こんな風に苦戦します。
- 2019/09/23(月) 00:00:41|
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友禅の手描きをされる瀧さんです。
これまでも何度か撮らせていただいていて、「ご無沙汰しています。お元気ですか。」というあいさつになります。
すでに娘さんも同じ仕事についておられるのですが、瀧さんにという仕事が来るのです。

今日は、直しながらの仕事だからと言われますが、どこを直さねばならないのか私のようなものには分かりません。
今は金色の絵の具で縁を撮っているのですが、赤紫の木のみが俄然浮き出てみずみずしい艶を発揮するのには驚きです。
無論実はにじみやボケを生かして細やかなグラデーションで描かれているのですが、それがまさに輝き始めるのです。
それも派手にならずガチャガチャとして落ち着きのないものになるのではなくて、生命力が出てくるといった感じなのです。

後日若い方のものを見たのですが、それはもう雲泥の違いと言っていいほどに差があります。
やはり一朝一夕で追いつくものではないのだなあと、そして優れたモノがどれほど優れているかは、比べてみると歴然なんだなあと思いました。

使われているのは「面相筆」というものなのですが、これを作られる職人さんも既に本当に数が少ないのです。
「この筆も傷んでしまって…だましだまし使っているけれど・・・。」
いくらかは備蓄もあるそうですが、これからは入手も大変だねとおっしゃっていました。
大原の方にこの面相筆を作っている方がおられますが、事情は厳しいようです。

皆さんお気づきでしょうか。瀧さんが左手に握っているものが何なのか。
この中には絵の具が入っているのですが、「縁で筆を整えたりするのにちょうどいいし、直す時(片付けるという意味)に絵の具が漏れないので重宝している。」とのことでした。
昔はできたものを写真に撮るプロの方がいて、その人からもらったのだけれど、今はそういうことがなくて、困っている。ひょっとしたら持っていないか?と尋ねられたのです。
そうです、フィルムキャップです。

昔はやたらと溜まって始末に困ったものですが、今私はデジタルカメラでしか撮りませんので、果たして部屋のどこかにあるかどうか。
「プロの人に聞けば持っているかもと思って、会えたら訊こうと思っていた。」というのですが、誤解はともかく、何かの役に立てればと思って帰宅すると家探しです。

幸い数個を見つけましたので翌日そのキャップとこの日の写真を届けました。
伝統工芸のすぐれた職人さんたちだから何か相当高価で特殊な道具を使っているのだろうと思ってしまいますが、皆さん日用雑貨や百均の店先に見られるもの、そうしてこんなものをうまく工夫して使っておられるのです。
高いレンズばかり欲しがるのも能の無いことだと思わされれマス。

なんでも既にどこかの会社が製品化したモノをカタログや宣伝の動画などを見て、これさえあればうまく撮れるなどと思い込んで主体的な工夫のないところにいい写真は生まれないのかもしれません。自戒自戒。
- 2019/09/22(日) 00:00:21|
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こんなに陽射しが強いと、いつもながら、撮影には苦労します。
上半身は天との中ですし、下半身には直射日光が降り注いでします。
顔に露出を合わせればワンピースの下半分は白飛びしてしまいます。
デジタルカメラにはこうした大きな明暗差をカバーする機能がありますね。これを使いこなさなくてはならないのですが。

先月はまさに盛夏の時でした。
今月は残暑厳しき折。
でも、来月は涼しく秋晴れの澄んだ空気のもとで気持ちよく演奏できるでしょうし、お客さんもたくさん来られるでしょう。
私も宮古島から返っているときなので、忘れないように来るようにしましょう。
ただ出番が分からないので、それを確かめねばなりませんね。
そういう点がいつも私のぬかるところなんです。 詰めが甘い私です。

これで息子さんがカホンか何かを叩いていたら・・・・・申し分なしですね。

お父さんには来年8月のグループ展委向けて工房でのバイオリン制作の様子を撮らせてくださいと、お母さんには来年5月の「女性ばかり写真展」に向けてフォトマヌカンをお願いしたのですが、果たしてお返事はどうでしょうか。
お引き受けいただけると、どちらの写真展もぐっと良くなると思うのですが。

未来のエンターテナーー・・でしょうか。
それともチャイコフスキー・ピアノコンクールを目指すでしょうか。
- 2019/09/21(土) 00:00:45|
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友達が何とかランドに行こうと、ディズニーで遊ぼうと、あるいはハワイ旅行の土産話をしようと、本当に子どもと一緒に遊んで楽しく喜んでいる親と一緒に裏山の河原で遊ぶことは子供にとっては最高の幸せな時間だと思います。
親が本気で楽しいということが、世界中で一番楽しいこと、というのが子供の思いだからです。

親が自分たち家族の「楽しさ」を他と比べて卑屈だったり、ひけらかすようなことでは、その子は一番の楽しみを全心で楽しむことができないと思います。
子供は親の喜びを喜び、悲しみを悲しむのだろうと思います。

子供にとって親の存在は絶対的です。
それであまりに不憫なことどもたちが世の中に少なからずいるということが心痛いですね。
親が大人に、親になり切れずに、親になってしまうことが、おおいようなのですが、そんな未熟さは昔からあったことだろうし、・・・・それがあまりに非道いという面はあるにしても・・・・その親の未熟さを補い、支える力が衰弱してきているのでしょうか。
それを行政やシステムの問題として強化し豊かにすることは絶対的に必要だろうと思うのですが、それだけでは決して届かない部分があると思います。

血縁、地縁、そして働く場での支え・・・そういうものが多角的に必要なんだろうと思います。
特に企業が親たちから、人々から家庭力を強奪していることがもっともっと問題視され話題にされるべきだろうと私は思っています。
父を父たらしめない、母を母たらしめないのは、資本主義企業の強欲さです。
企業に向かって私は言いたい。父を、母を子供に返せ! 家族を返せ!と。

写真とは遠ざかってしまいましたね。
「耳をすませば」というアニメーションの中で主人公の月島雫が友人の天沢聖司クンと「カントリー・ロード」を演奏し、歌っているところに聖司クンの祖父とその友人たちが帰って来て古楽器で演奏に加わる場面があります。
家庭内や友人関係に音楽があることの素晴らしさと羨ましさを感じましたね。
しかも楽器を作るという知識と実際があり、楽器の歴史さえある。
私にはない環境です。

無論それは絵や造形やダンス・演劇といったものでもよいとおもうのです。
ただ、「オリンピック(甲子園などなど)を目指します。」と言わせて育てるのは、私には共感できにくいですがね。

とても穏やかそうなお父さんは黙々と伴奏されています。
でも?とてもうれしそう。
- 2019/09/20(金) 00:00:55|
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朝晩の風はもうすっかり秋なのに、日中は30度を大きく上回る盛夏のように暑い日でした。
この手作り市のセンターでは毎回、ギター演奏などが行われていましたが・・・・、今日は珍しくご両親とお兄ちゃん、妹さんのユニットが演奏をしていました。
珍しくというのは、これまでも何度もここを訪れてはいたものの私がたまたまこの一家を見ていなかったというだけの事で毎月演奏をされているのだという事でした。

お父さんは実は・・・バイオリンづくりの職人さんで、こういう時にはギター伴奏の担当なんだそうです。

お母さんは、かわいい目鼻立ちですし、舞台慣れもしていそうですので、若い時にはご自身が歌手活動をされていたのかもしれません。これは私の全くの推測ですが。
あるいはお子さんのデビューを後押しするために頑張ってご自身も歌われるということをしているのかもしれません。
今度その辺も聞いてみたいものです・・・。

先ほどまでお兄ちゃんはギターを弾きながらお母さんと一緒に歌っていましたが、この暑さでもうちょっと疲れたようです。

演奏中でしたので、ちょっと局と曲の間に「(お子さんはまずいでしょうから)お母さんだけでも撮っていいでしょうか?」と声をかけると「むしろ子供も一緒に撮ってください。記念にしたいので。ぜひ写真もいただきたい。」とのことで、撮らせていただきました。

それでメールアドレスを伺ったのですが「歌っていると写真を撮られる方がたくさんいるのですが、どうされるんでしょうねぇ。お話ししないまま行かれるんですが。」とのこと。
こうして「露出しているんだから撮られるのは当然だろう。」と撮っていく人が多いんですね。
そういう考えにも一理あるとは言いながら、・・・・、撮られる方は素人は素人なりに、又、プロはプロなりに事情もあるので最低限、撮影の了承はとりたいものですね。

お母さんとおそろいの衣装ですね。
子供さんにはそういうことはうれしいものでしょう。
- 2019/09/19(木) 00:00:03|
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西陣織の図案は図案を描く職人の「図案」を問屋が買い取る仕組みです。
印税のように売り上げに伴って支払われる仕組みではありませんから、いくら売れようが売れまいが、それにかかわりがありませんし、またその図案の色を替えたり一部を取り出して組み合わせようが反転させようがお構いなしです。

図案を描く方たちの多くはご自宅に図書館並みに図案を研究収集した本、図鑑がそろっています。
歴史的に過去にさかのぼって図柄は探され参考にされていきます。

ですからこの方たちの知識の集積は膨大です。
季節、吉兆、高貴な図柄などなど・・・・意匠に伴う様々な文化的な知識や習慣を幅広く知っていなければいけません。

そして何より絵が描けなくてはいけないわけです。
もうありとあらゆることが試みられているような世界でなおかつ新奇な、創造的な意匠を生み出すことは並大抵ではないと思います。
ですから過去の作品やほかの職人の作物から剽窃と紛らわしいものを描いて済ますような人もないではないのです。

そこに職人や問屋としての矜持を保てるかどうかということはなかなか難しい問題かもしれません。
が、職人同士にはすぐに分かってしまい、そういうことに「人の口は戸は立てられない。」原則が働きます。
何十年も続けていくのは本当に大変なんだろうなあと思います。

この方は帯の下絵を描かれていますが、そうした下絵の原画を掛け軸に仕立てたりして、作品化されていました。
それにしても手の込んだ下絵です。
下絵の意匠は膨大な量がすでに過去のものから現代のものに至るまでスキャンされてデータベース化しています。それで問屋はこうした下絵職人に仕事を出さないでデータベースから豊富に取り出して、改作して商品化しています。
職人の仕事は減るばかりです。
問屋が目先の利益のために西陣織の根を切っているのです。

それを「生き延びるために仕方がない」と言えてしまうのでは、もうこの世界は終わりです。
- 2019/09/18(水) 00:00:37|
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この一枚は来年の写真展に出そうと思います。
11月に京都写真美術館でミュージシャンたちの、来年5月の上旬には魅力的な女性たちの写真をギャリエ・ヤマシタで、そして8月下旬のファインダー倶楽部では京都の職人たちを取り上げて展示しようと思うのです。その一枚です。

私はものぐさで優柔不断で努力とは対極にいる人間なのです。そうした人間に何かをさせようと思えば何らかの縛りを課すしかありません。
その縛りの一つが計画を口外してしまうという事です。
そうでなければ、ああでもないこうでもないと言い訳をして、計画は永遠のかなたに先延ばされ、決定すべきことについていつまでもいつまでも行きつ戻りつの逡巡をするのです。
それで精神的な不安が増して情緒が安定しなくなるのです。

もう長いこと自分と付き合っていながら、そういうことになかなか分別を付けられないのが私です。
それでここに書いてしまいました。
来年はもうひとつ2月から3月の間に写真展がありますので、当面これから4回が控えていることになります。
まるでいっぱしの写真家のようですね。

そういえば先日一枚のはがきが我が家のポストに届いたのですが、あて名は「蒼樹」でした。
これは勿論、本名ではないのですが、最近はこの名前で届きます。おかしいですね。
それで「これは本名じゃないはずだけれど、果たしてこの名で届くかな?」と思われたのでしょう、差出人さんは( )してその中に「写真家」と書いてくれたのです。郵便配達の人は、私が写真を撮っていることなど毛の先ほども知らないのですから、何の足しにもなりませんでしたね。

この一枚のはがきによって郵便配達の人が、所番地とともに「写真家様」とでも書いた郵便物をわが家に放り込むようなことがあれば、これは大事件ですね。
まあ逆立ちしたってそういうようなことにはならないでしょうが、郵便局の人たちのサービス、心遣いは相当なものですからまかり間違うとそういうようなことも起きかねません。そのような学習のご苦労をおかけしないようにしなくてはいけませんね。

桐の木を削って正座の時に・・・例えばお茶会でのように・・・お尻の下に置く簡便な椅子を作っています。なかなか好評を得ているのだそうです。
よく研がれた鉋が気持ちの良い音で桐の木を削ります。「けずります」という様なガサツな音ではなくて滑るようなきれいな音です。
高価で名高い一品の鉋より、よく研ぐこととその腕の方が肝心だね。ことに我々にとっては鉋は消耗品だからあまり高価なもの使わないね。 木口に垂直に刃を当てるのではなくて、やや弧を描くように鉋を引くのだそうです。そうしないと刃で繊維をひっかくことになるのです。弧を描く様に引けば刃で繊維をスライスすることができます。刀で物を切るときも同じですね。

鉋は「刃」はもちろん大事ですが、さらに「台」がよくないといけない。それで「台」はいいものを手に入れるようにしている。稠密な組織で硬いものでないといけないからね。
この鉋の台の底面が際立って平滑で平らでなくてはいけません。

鉋屑が美し。
- 2019/09/17(火) 00:00:24|
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この人が演奏に集中すると素晴らしく魅力的な表情をされます。
それでいつもそれを撮ろう撮ろうとするのですが、いろいろな制約もあっていまだ実現していないのです。
今回もまたすんでのところで撮り逃しました。 そうです、腕が追いついていないのです。

まあ愉しみはまたとっておこう・・・ということになるのですが、この人は良い撮影条件を作ることができないで申し訳なかったというように考える方なんで、大変恐縮します。
門外漢の私の演奏評にさえ耳を傾ける実に謙虚な誠意溢れる方なので、演奏の度毎にファンが増えるのです。

私はそうしたファンからつまはじきされないようにできるだけ目立たないようにはしているのです。
今回も通常のお客さんと同じ条件で席について撮っています。ただし会場入りは最も早い方で一番良い席は確保していますが。

背後にはお客さんがたくさんいますから、あまり大きな動きは出近ませんし、長い時間カメラを構えるような無粋なことも避けます。
それが有料で入られて音楽を楽しもうとする人への礼儀ですしね。
この眉間のしわも魅力の一つですね。ご本人には言っていませんけど。

音楽を演奏する人に写真を喜んでもらえるととてもうれしいのです。

後日、電話でお話をした時に「実は宮本文昭氏が演奏するカッチーニのアヴェ・マリアが好きで・・・・。」と話しますと「え~っ! 私も宮本さんのオーボエ演奏のアヴェ・マリアがとても好きなんです。 」と共感し盛り上がりました。

音楽演奏の写真は音や曲想に共感が無いと、またその人となりに敬意を感じられないとなかなかいい写真にはならないと思います。
だいぶ前にある歌手がこの曲をその人の訳詩で歌ったのですが、もう全く受け入れられなくてひどい写真になってしまいました。
写真を撮るのは、やはり難しくて奥が深いです。
この人で何時か決定的な一枚を撮りたいものと思っています。
- 2019/09/16(月) 00:00:22|
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カッチーニ作曲アヴェ・マリア(実はヴァヴィロフ作曲だそうですが。)。
私の好きな曲の一つです。 短い曲ですが演奏者の技量、音楽観を試される曲でもあると思っています。

宝塚で演奏会をするので来ませんかというお誘いをいただきました。
「今回の演奏曲目にカッチーニのアヴェ・マリアを入れました。」と。
それを聞いてはいかないわけにはいきません。

常々京都盆地の外と言えば琵琶湖周辺くらいにしか出て行かない私が兵庫県宝塚市という遠い(・・えっ宝塚が遠いですって?!と誰かの声)ところまで演奏会に音楽を聞きに行くなんて・・・・。

この二胡演奏者は以前にも拙ブログでご紹介したことのある楠田名保子さんです。
昨年の「音楽の祭日・清水寺100本のトランペット」の際には第三部として同寺の成就院で二胡の演奏をされた方です。
それ以前にもこの人の演奏は聞いていたし、それ以後にも打ち解けた場所で何度か聞いています。
大変表現力豊かでかつ節度のある品のある演奏をする方です。

それで何時だったかのワインパーティーか何かの時に「カッチーニのアヴェ・マリを二胡で聞いてみたいなあ。」なんて言うおねだりをしたのです。
それを実現してくれたわけで、これを断ったら罰が当たります。

ご自身もこの曲がお好きでこれまでにも演奏したことはあるそうなんですが・・・。
私は先ほどの「100本のトランペット」の際にも撮影させてもらいましたが、片手に余るほど何度も撮らせていただいてきました。それは皆この人に送っているのですが、ずいぶん気に入っていただいていて、今回も「静止画については演奏中の撮影をしてもらってもOKです」と会場アナウンスをしてくれたのです。
ちょっと異例ですね。

アヴェ・マリアの時は撮影を置いて演奏に集中してくれたらうれしいですと事前にメールをいただいていましたので、勿論カメラは置いて耳を澄まして聞きました。
良い演奏でした。
- 2019/09/15(日) 00:00:48|
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夏 が 行き~ ♪ 今は、もう秋~♬
もう秋めいた風を感じるようになりましたね。
季節の移ろいの速さがいや増しになって・・・、それは老いの所為だと言われますが。
こうして自分のしていることに何か意味ありげな物語を作らないと、夜「ああこのまま死んだら俺の一生は何だったのか?」なんて実存的な問いに苛まれて目が覚めることになりかねません。

多分人は各々の物語をもたねば生きられない動物じゃないかと思います。
宗教的な「信心」も政治的な「信条」も一面ではそういう事ではないかと思います。
「美しい日本」「日本の心」などというのはまさにそれでしょう。そんな幻を口角泡をためて自身も他者も信じさせることでようやく生きる意味と手ごたえを見つけた気になることが必要なほどそのこころの実態はあやふやであいまいで希薄なモノなんだろうと思います。
つまりは「リア充」じゃないんでしょう。

この人は多分そんな虚言は必要のない生活をしている人だと思います。
写真を撮るからと言って人相見ができるわけではありませんが、何しろ<実績1500人>ですから。
うん? それで根拠のある話になった?!

まあそれはさておいて、来年5月の上旬に久しぶりに「ギャリエ・ヤマシタ」の2階で個展をします。
会場の予約をしましたが、なんと消費税は10%だそうです。予約時点ではまだ10月になっていないのにです。
「安倍君、何してくれるんや!」 という気持ちですね。 2%アップで計10%ですよ。
250万円の自動車を買えば25万円もの税を払いますし、3000万円の家を買えば、300万円を税として収めることになります。300万円って!!!!!
増税で必ず景気は悪化します。そしてその不景気の影響は賃金の抑制、福祉需要の増加(人々が経済的に困窮し、病院にかかることも自粛するようになれば福祉需要は急速に増加します)、給付の切り下げ、年金切り下げと掛け金増加・・・・。取り返しがつかないことになると思いますよ。

そんなわけで個展をするにもお金がかかり過ぎて「表現の自由」は実質的に大きく抑制されるのです。
・・・・・ちなみに表現の自由とか言論の自由とかを抽象的に論じるばかりではだめだと思います。それを表現し発言するためには媒体が必要ですし、伝える環境が必要です。そうした物理的な条件のためには・・・平たく言えば画材やカメラなどに金がかかるのですし・・・・施設の保証が必要なんです。それを税金で保障することなしに言論や表現の自由は文字通り「絵に描いた餅」です。

それで2020年5月の個展では「全壁、女性」でやろうと、言い出してしまいました。
モノの弾みですね。流れですね。ふとした気まぐれ、思い付きですね。
要は、自分で作った物語に迫られた自縄自縛というやつです。

40枚くらい女性ばかりを並べようと思います。
そして今度こそ「モデルしてくれた人集まれ!」と呼びかけて「おはなし会」をしてワインパ・ティーでもしようかなと思います。
面白いことになりはしないかと・・・恐れて、いや…楽しみにしています。 まあ、これの実現可能性は・・5%くらいでしょうか。消費税より少ない。
- 2019/09/14(土) 00:00:05|
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今この人が話しているお相手は「染」がお好きで、京都にも何度も来ておられるというご婦人です。
私がこの職人さんの話を聞きながらケめらを向ていたところに加わりました。

私が低い位置から撮ろうとしたり、あるいはお話を伺うのに立ったままでは「上から目線」になるのでそれを避けるために床に膝立ちで向き合うことが多いのですが・・・・。

その後婦人は私と同じように腰を低くして話に加わりました。
聡明な礼を知る方だなあと思いました。

広島を出て豊田市で開かれている「クリムト展」を見てこちらに来たのだそうです。
クリムト展を見終わったら「もう夕方で、明日はどうしようかしらと・・・・東京に行くはずだったけれど、京都にしたんです。この会館に来て見学もしたかったし・・・。」ですって?!
私とは180度行動パターンの違う方です。何と旺盛な行動力と判断の柔軟さ・・・・その点でも私とはまるで違うタイプの方のようです。

沖縄に行った時には数度この城間工房も尋ねたことがあるそうで「染」についての知識もかなりのもの様でした。
「(染料ではなくて)摩擦などに弱い顔料を使っているのはなぜかしら?」
「確かにそうなんですが、染料は耐光性が弱くて沖縄の強い光では、早く退色してしまうので・・・・。そういう点も含めていろいろ模索中なんですが・・・。」

この工房の職人さんたちが、この産業を主体的にになって「これから日本の人口は減るし、そういう意味で世界的な展開をしないと・・・・。」などという認識もしっかり共有しているのです。
だからこそこうして京都まで琉球紅型の普及のために幾人ものスタッフを高い交通費を捻出して送り出してきているのです。

こういう世代の方たちがたくさん高い意識をもってこの琉球紅型に向き合ていることは「希望」ですね。
京都の伝統工芸よガンバレ!というところです。

私はこの後、先ほどのご婦人としばし立ち話をしてしまいました。
珍しい経験でした。
そしてちゃっかり11月の写真展の宣伝をしますと「じゃあきっと見に来ます。」と言っていただいて
「えっ?!だって広島からでしょう?」と大いに驚いたのです。
宝塚まで音楽を聞きに行く…遠いしなあ
鳥取まで写真を撮りに行く・・・遠いしなあ
ついつい<ものぐさ、出不精モードに陥る私という人間が如何にダメなのかということを気づかされました。
- 2019/09/13(金) 00:00:24|
- 伝統工芸
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この城間紅型工房で働く職人さんの話を聞いて、少なからず感動するところがありました。
多分あの沖縄戦で徹底的に失われた地点から今日まで回復させてくるということから生まれたモノでしょう。

京都の伝統工芸はその多くが極度の分業体制によって担われてきました。
生産工程を細分化して分業することで、その部分部分の技術の極限までの高度化が果たされてきたし、一定の作業の効率化も可能だったでしょう。
そのことが、今やこの業界の足かせ手かせになっているという面があります。

ある分業の輪が、一つでも途絶えれば、全体が立ち行かなくなります。
分業のある部面では道具も仕事も特殊化され、汎用性がありません。しかも、多くの技術的な蓄積が家業として秘匿される面もありましたから、代替が利きません。

城間びんがた工房では職人の皆さんがどの段階の仕事も一通りはこなせるようにしているのだそうです。
そうなればこの産業として全体としてカバーしあって仕事を継続することができて永続性が保障されます。しかも構成員の全てがすべてに関して当事者であり工夫を発案できるという事でもあります。

何もかも失われた沖縄では道具の一つ一つを創意と工夫で復活しなくてはならなかったのです。
そういう背景もあってでしょう、例えば「びん『型』」をきる刃物も手作りですし、その軸は、なんと沖縄伝統の「箸」が使われているというのです。
「箸」と同じ素材とかいうのではなくて出来合いの「箸」を柄として使うのです。
刃先も自分たちで作り出すのだという事です。

上の写真の手前に何やら四角い板状のものが見えますね。
これは「型」を切るときの台になるのだそうですが、素材は「豆腐」です。木綿豆腐。これは木綿豆腐でないといけないのだそうです。
これを乾燥させて刃物を突き刺して型を切る上での「台」にするのだそうですが、何しろ豆腐ですからゴキブリは狙うしカビも生える。それを防ぐには「今は冷蔵庫があって助かるのですが・・・」、自動車のエンジンオイルに浸すのだそうです。
それで刃物の切れ味は使用しながら保てるし、カビやゴキブリよけに効果があるのだそうです。

そしてエンジンオイルが一番だということを発見するのも工房の皆さんの試行錯誤の末だそうです。
こうして「伝統工芸」だからといって道具もやり方も過去のモノを固守するのではなくて・・・それが無いということもあって・・工夫し・発見して「琉球紅型」の染を実現しているわけです。
これにはおそらく担っている若い人たちがワクワクとしてこれにとりくんでおられるのだろうと想像するのです。
手前の袋が見えます。中身は何だと思いますか。
- 2019/09/12(木) 00:00:37|
- 服飾
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「どこだ何処だ、どこに行った?!」
最近私が撮影の時に口走る言葉です。 いわゆるピントの山の頂がなかなか見つからないのです。
それで目にピントを合わせようとするときに「目がどこかに行っちゃった。 目はどこにある?!」などとも騒ぎます。

そんな私の言動を初めて見る人はびっくりするでしょうね。
「何?!この人危ない人?!」
う~ん、確かに危ないかも。

服がきれいな白の所為もあってとても清潔感の溢れた写真になっています。

服装や髪の始末は大切ですね。
私のようによれよれで一体幾シーズン着ているのだろうか、どれほど洗濯を繰り返したのだろうかという服を着ていたのでは、やはり色々<?>が浮かぶことでしょうね。
その点この人はとても良い感じです。

同じ場所で連続して撮っているのにこれだけ肌の色が違います。
少し光の当たり方が弱いところが一挙に赤くなります。
この場合レフ板が必要ですね。

ついアンダー目に撮る私の癖が、こういうところにも出てきます。

白い服なので古いレンガの壁の背景からポップアップします。
- 2019/09/11(水) 00:00:48|
- 人物
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突然「撮りましょう。」ということになったのに、この落ち着き。
「撮影の経験があるのですか?」「いいえ、ありません。あっ、そういえば一度。」

聞くと、それはこうした撮影とは少し違うものでしたが・・・・。

実年齢よりも少し大人びて見えるようです。
「ええ、よくそう言われます。」
まだ大学をこれから卒業という年齢だそうです。
先ほど「ちょっとそのリュックをこちらに置きましょう。」と受け取ったのですが、何を入れているのでしょう、かなり重かったのです。
体力にも相当自信があるのじゃないでしょうか。

ほんの少し角度を変えると写真の明るさだけではなくて色味も随分変わってしまいます。
この変化の理由は何なんでしょうか。
やはり写真は難しいですね。
まだレンズについても光についても少しも理解ができていません。

だのに何社製のカメラはなんだとかかんだとか、やっぱり○○社製の何々レンズじゃないとねとか言っている自分が恥ずかしい。
分かった振りとか分かっているつもりは自己満足、楽しいですしね。そうなりがちです。

いい感じでしょ?!

ねっ?!
- 2019/09/10(火) 00:00:12|
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「はじめてお目にかかります。」 そういう人の写真を撮ってきましたが、こういう出会い方もあるのかなと 不思議を感じました。
来年には「女性の写真だけで個展をする。」と決めて口にし始めたところ・・・・・でも、そういう写真に相応しい人にこれから一体何人出会えるのだろう。いやそもそも出会えるのかなあ…といささか以上に不安を感じている今日この頃でした。

先月のグループ展の際にお会いした方で、とても聡明で行動的な魅力あふれる方が「力を貸しましょう。」と言ってくれているので、そのことを力にして、とにかく頑張ってみようと思っていた矢先ではありました。
(そしてその方にご協力をいただけるということは、一段とステップアップを求められるなあとも感じていたのです。)
それにしても、とにもかくにも「『素敵な人』に人に出会わねば話しにならない!」のでした。

で、とあるところでこの人に出会いました。
話のとっかかりはまるで別の方面でしたが、何時のまにか?私の写真の話になり、そして「撮れせてもらえませんか。」になってしまいました。
この方と話し始めるきっかけとなった別の旧知の方が「この人は写真を撮っているんだよ。」と紹介してくれたので、それはいわば行き着くべきところに行きついたというか、これ幸いに話をそちらに持って行ったというか・・・・下心的にはそういう事かも知れません。
いつでもどこでも撮りたい病・・・ですしね。

けれど見境なくそうしているのでないことはこの人を見ていただければお分かりだろうと思います。
先ほどの旧知の人とこの人との話の内容、この人の話す態度というか姿勢にそもそも、この人はいいなと惹かれるものを感じました。

まあプライベートなことなので、そのことは書けませんが、それはともかくとして、お話の後でここに来ていただいて撮影をしています。
この白い服がいいですね。

夏を惜しんでいる私にまた夏を連れて来てくれたような人です。
- 2019/09/09(月) 00:00:54|
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伝統工芸存続発展のために必要なことの一つは、消費者に対して如何に情報を提供しまた求めるところを引きだすか、そして新たな商品開発のために様々な分野の生産者とのコラボレーションを豊富化・活性化するかということにあると思います。
活用できる資金はどこにあり、どうすればそれを集めることができるか、それも問題です。
そのコーディネートやプラニングがなかなか組織だってできないところに一つの隘路があると感じます。
その鍵を握る人がどうやらこの人のようです。

先ほど海外からのお客さんに流ちょうな英語で説明をされていました。
世界を視野に入れて琉球紅型を広めようと意気盛んです。

この工房の人たちは皆さん「志」を一にしているという感じで、前向きです。
今自分たちにとって何が大事か、何をしなくてはいけないかと共有していることがひしひしと伝わってきます。
こういう集団にいることは幸せなことだと思います。

一企業の利益を越えた普遍的な目標を共有していることのすがすがしさも感じます。

この方の先祖は中国大陸からこの琉球紅型のもとになる技術を伝えられた方なんだそうで、そういう意味でも「自分がやるべきこと」に対する強い思いがあるのだろうと思います。
それにしてもこういうことを聞くといかにも琉球だと感じますね。

中国、韓国、日本、台湾、そして更に広く東南アジアの様々な地方との交易のネットワークの要にいて「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」という位置と歴史を見る気がします。

新しい世代が新しい意気込みを抱いて、しかしそれがしっかりと歴史に結びついているとき、力強さを感じます。
- 2019/09/08(日) 00:00:20|
- 伝統工芸
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京都、堀川今出川辺りはかつて西陣と呼ばれた地域。
そこには京都西陣織会館があります。
ここでは西陣織や京友禅の職人さんが公開の実演を見せてくれます。
そんな場所に、・・・・琉球紅型の職人さんが。

沖縄の「城間びんがた工房」の方です。
この工房が沖縄では最大の琉球紅型の会社だそうで、その総力を挙げて琉球紅型をメジャーなものにしようと打って出たのだそうです。

琉球紅型は沖縄の宝でもあり、日本の宝でもあります。そうであるはずです。
敗戦必至の情勢の中「もう一度叩いてから」多少とも相手(米軍に)にダメージを与えて、降伏条件をよくしようと、如何なる犠牲を生じても「国体(天皇制)を護持」しようとして戦争をいたずらに長引かせていた天皇以下、日本の戦争指導者たちは本土決戦をできるだけ回避し、本土の被害を軽減するために敵を沖縄に引きつける作戦に出ました。
そのために制空権をもたない=護衛機を飛ばすことのできない状態であるにもかかわらず戦艦・大和も片道の燃料で出撃させるという愚かな作戦に出ました。それで大和はほとんど米軍に損害を与えることもないまま多くの兵士たちとともに海の藻屑と化しました。
沖縄は敵に出血を強いるための本土≒天皇制(国体)の壁として敵の猛攻撃にさらされることとなりました。
多くの人々の命と生活が決定的に破壊されましたが、その際に琉球紅型のほぼあらゆる遺産が灰燼に帰しました。

かつて琉球は中国の冊封下におかれ、また一方島津藩の軍事支配のもとにもありました。
冊封は中国皇帝の支配に服属する各地の王が貢納品を差し出し(朝貢)、その見返りにそれぞれの地を支配する権限を中国皇帝より認められるという国際的な秩序でした。
琉球の貢納品の重要品目が琉球紅型で染めた布でした。(ですから庶民はこれを身に着けることができない)

1945年4月から6月23日までの「鉄の嵐」によって島の形が変わると言われるくらいの打撃を受けた沖縄には伝統的で高級な紅型染めの着物もその生産のための用具も資料も灰に帰して受け継がれることがありませんでした。
それを戦後、沖縄の職人たちやそれを愛する人々の営々とした努力で回復してきはしたものの歴史的な逸品は中国故宮など海外にしか現存しないという現状があります。

中国皇帝はこうした高い技術の工芸品を朝貢してくる王たちに下賜しましたから、それらは世界に広がっていったはずです。
当然シルクロードによってヨーロッパにも届き、きっと大英博物館などにも保存されているはずです。
そこで、琉球紅型が非常に優れた工芸品であることを改めて世界に知らしめれば、かつて行き着いた様々な地に眠っている最高級の琉球紅型の着物が再評価され表に出てくる可能性があります。

そういうものが見いだされれば現代の琉球紅型の発展に決定的な革新となる手掛かりが得られることになる・・・そう考えておられるようです。
全くなるほどと思います。
最高峰の浮世絵の逸品がアメリカなどの美術館、博物館に収蔵されているのと同じことです。
ただ違うのは浮世絵は日本にも多数保存されていますが、琉球紅型の着物は、「醜悪なあの侵略戦」に対する反撃のために、しかも国体存続の代償として焼き尽くされたという事です。
- 2019/09/07(土) 00:00:38|
- 伝統工芸
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毎月一度は辺野古に行き、土曜日曜は全国にいろいろな会場を走り回って歌っている川口さんです。
外見上はまさに「疲れ知らず。」

私はこれからも彼女に大いに活躍してほしいと思うので、川口さんに対して多少の注文もあるのです。
それで今度撮影するときにはそのことも話題にしてみようかなと思うのです。
それで彼女がどう考えるかは、また別問題ですが。
ここが、注文主の求めに応じて写真を撮る職業写真家と少し違うところでしょうか。

こういう暗い場所でも写真が撮れるのは現代のデジタル写真機のお蔭ですね。
この日は主としてミノルタ80-200 f2.8通しのレンズで撮るつもりだったのです。このレンズは明るいですし、とてもよく撮れます。
でも会場の遠くから角度を変えて撮るためにミノルタの100-300ミリ f4.5-5.6も持って行ったのです。

川口さんのステージは激しく動くので・・・・以前スタンドマイクを使っていることがあって、それだと魅力が半減するからワイヤレスマイクを付けたら?!と話したことがあったのです・・・・・どうしても被写体ブレを起こし安いのです。
それで多少ともシャッタースピードを稼ぐにはとどうしてもISOを高くしなくてはなりません。
明るさを稼ぐためには絞りを開ける≒被写界深度が浅くなる。

イベントスタッフはフラッシュをたいて撮っていましたが、そうするとどうしても被写体だけがぎらぎらと映ってしまいがちですし、、要らない背景もこまごま写ってしまうことがあります。私は使いたくないのです。

それでいてISO感度を上げて画面がノイズでざらつくのは嫌だとなると、二重苦、三重苦になるわけですね。
スポットライトが頼りですが、それが突然色を替えたりするものですから、「あちゃ~っ、やられた!!」ということになるのです。
そんなばたばた、おろおろ、どさくさを楽しむのも撮影の魅力です。

ただお客さんの存在を忘れてはなりません。
私の動きがお客さんの視界にどうしても入るのですから優雅にしなやかに動かねばなりませんし、忍者の如く素早く動かねばなりません。
一年に一度の機会を楽しみに見えているのですから。
シャッター音にも気を付けて・・・。

川口さんが会場の人たちに「一緒にうたいましょう!」と呼びかけるときには私も大きな声で歌いながらシャッターを切ります。
- 2019/09/06(金) 00:00:10|
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8月の最後の日、京都教育文化センターで「Peace Concert 2019☆」が開催されて、多彩な出演者のうちに川口真由美さんの名前がありました。
私はお知らせをいただいて、おっとりカメラで出かけました。

今の日本は政治家の多くもマスコミも、また少なくない国民も自分の姿を冷静に相対化してみることができなくなってきていて、とてもとても危うい事態になっていると私は感じています。
そんな中で、身を挺して反戦・平和、反原発・反米軍基地、東アジアの平和友好を求めて歌っているのが川口真由美さんです。

昔、野口英世が「ダイナモ」とニックネームされましたが・・・・志はまるで違う二人ですが・・・・この川口さんにも進呈したいニックネームです。

彼女は現場に立って歌っていますから、事の深刻さをヒリヒリと感じています。
それだけに時に地団太踏むような思いもしているのですが、常に自身を振り返り、人とのつながりを肥やしていく方途を探り探りして、低く高く歌い続けます。

11月3日には三枚目のCDをリリースする予定だそうです。
それでうれしいことに私にCDジャケット用の写真を撮ってくれないかと声をかけていただきました。これは光栄と思ってお引き受けしました。
私も微力ではあっても今の危険な逆流に抗する力になりたいとは思っていますし、彼女の力にもなれればと思うのです。

朝鮮半島で、香港で、台湾で・・東アジアが根底から鳴動しています。
その鳴動の危険因子の大きなものの一つが安倍政権であることを少なくない日本国民自身が気が付いていないことが 問題です。
北朝鮮が孤立化を覆そうとする冒険主義や中国の覇権主義、自由・民主主義の抑圧と好一対のメダルの裏面が安倍政権だという認識がマスコミにも決定的に欠けています。

東アジアの民衆は政治の作り出している危うい状況をお互いに敬意をもって学び合い、批判し合いながらつながりをグングン強めて押し返さなければなりません。
私には何ができるか、・・・。
少なくとも、黙っているべきではない・・・そう思います。
- 2019/09/05(木) 00:00:48|
- 音楽
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この仕事はあと10数年したら地上から無くなるかもしれません。
無くなりはしないけれど担い手は本当に一人か二人になるんじゃないでしょうか。
この仕事を身につけたこの人さえもがもうすでに10年来コンピューターでこの仕事をしているというような状況ですから。

もはやジャガートを使って手織りをされる職人さんも少ないですし、この人の書いている紋意匠図に従って紋紙にパンチの穴を穿つ職人さんも何人おられるか。

ですから、半世紀後には、ある意味でこの写真は貴重なものとなると思います。
いや、私の撮ってきている多くの写真がそういうものとなる日はそう遠くないと思います。
私が撮ろうという思いと、この方たちが撮っていいよ、あるいは撮ってほしいという思いは、言わず語らずにそういう歴史的な瞬間を迎えているということに対する実感が相互の思いの背景にあるからでしょう。

多分、伝統工芸に関心のある方たちもない方たちも、この現場の人たちが感じている諦めにべったりとまとわりつかれた悲しい笑顔の実感に気付いていないでしょう。
ここに私が書いていることの歴史的意味についても。

それはちょうどグリーンランドの氷山が解けて地肌がむき出しになっているという事実を取材しているカメラマンやディレクターの発している警告が受けている反応と同じかもしれません。
海がプラスチックごみで絞殺されているということを報告している人々の、立ちすくむ気持ちに通じるかもしれません。

もう再生可能という「限界」は越えてしまっているのです。
人々が何やら美しく「日本に京都があってよかった」とか「1000年の都・京都」「観光客ナンバーワン」などと浮かれたことを言っている間に、滅びの言葉をこの人たちは毎日聞いているのです。

紋意匠図を描いて、紋紙にパンチを打ち、ジャガードで手織りをするなどということは、実に非効率です。そして製品はすこぶる高価になります。
パソコンで指示して自動織機を動かせば足りると考えれば、それはそうでしょう。
ですが手作りの西陣織の「世界に誇る」見事さは永遠に失われます。

ネット上を飛び交う「日本万歳」的な言説、そうしたモノをまき散らしている人々の意識の外で「日本的な極限美や巧み」は確実に死滅していくでしょう。
それが安倍氏言うところの「美しい日本を取り戻す」政治の帰結です。
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- 2019/09/04(水) 00:00:34|
- 工芸
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この店の朝は海外からのお客さんで賑わうそうです。
そうでしょうね。
京都に来て、この辺りで朝を迎えるのも悪くないと思います。すぐ近くを高瀬川と鴨川が流れているのだし。

雨の夜に祇園や木屋町のお店で飲んできても、歩いて帰ることのできる距離ですしね。
周囲に高いビルはないし。

宿泊業界進出の穴場かも。 ・・・・というか既に穴場ではなさそうです。
それだけに開発は心してやってほしいですね。 既に京都はボロボロですから。
そうなってまで観光に偏重した政策を打っているのに子供の医療費負担限度額は政令指定都市の中で断トツで一番市民負担が大きいのです。断トツでぶっちぎり。国民健康保険料も高いし、地下鉄料金も高い。 お金はどこに回っているのでしょう。

こんなに国宝や世界遺産がたくさんあっても市民の生活の豊かさにはつながっていないのはなぜ?

交通体系も抜本的に変えないとどうにもならないのじゃないかな。

そういう意味では高瀬川界隈の人たちも街づくりに、手をとり、知恵を出し合う動きを更に大きくするが必要がありそうです。

この「高瀬川界隈の素敵な人たち」もそうした動きに一役買えるといいのですけど。

「あっ お客様だ。」
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- 2019/09/03(火) 00:00:07|
- お店
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高瀬川界隈の素敵な人たち(仮称)の撮影の下見の下見に行きました。
そもそもこの辺りの空気を知らなければこの界隈の色をした写真は撮れないだろうということと、人の動きを知るためです。
それに季節ごとの変化も頭に入れたいですしね。
ある企画を立ち上げたM氏からは、まあゆっくりと取り組んでくださいとせわしなく動き始めた私に釘がさされましたが、数十人の人を撮ることになる私としてはそういうわけにはいかないのです。(その七からより適切な方々をセレクトしようと思うのです。私の写真技術の制約もありますしね。)

最近この辺りには民泊、簡易ホテルが乱立しています。
少しこぎれいな建物があればほぼそういった宿泊施設ですが、・・・・。

そして人が増えればそれに伴って色々なお店が必要になります。
目についたのがオシャレなビール・パブとカフェです。

今、立ち寄っているこのカフェも2年ほど前に始められたものだそうです。
いち早く良いロケーションの場所に作られています。
このカフェが入っているビルのオーナーさんはこの辺りの町のより良い再開発を願ってこのカフェを入れたらしいのです。
先ほどトーストを食されてお店を出て行かれましたが、ご高齢の方ですが身なりが清潔できちんとされた方でした。。
一度お話も伺い、当然写真も撮らせていただきたいものです。

お店の方は写真撮影の事をお話しするとこころよく許して下さり・・・・・。
今コーヒーを淹れている方が店長さんなのです。 その奥にクーラーの吹き出し口があって冷気で湯気が白くなってしまいますので、ちょっと写真に霞がかかります。 秋の空気になったらまた撮りに来なければなりませんね。

多分この辺りはここ1,2年で様変わりをして昔はどんなだったかなあと思い出せないくらいになると思います。
それで記録も兼ねた写真にできたらいいかなとも思っています。

この近くに任天堂がまだ花札を製造販売していたころの古い建物があるのですが、それも大きく内装が変わるのだそうです。今のうちに見ておきたいものです。
- 2019/09/02(月) 00:00:03|
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今日はまた別の人が応援です。
一昨日にもお会いした人は「、また写真を撮られちゃ叶わん。」と思ったかどうか準備万端?!

私の「悪魔の契約書」についてお隣の新人さんに説明してくれました。
その結果、撮影は勿論ブログへのアップやFBでの紹介もさらには写真集に乗せることがあるかもという点にも了承してくれました。
悪魔の契約書には撮影料をいただかないしモデル料も発生しませんとなっています。

撮った写真はメールに添付して送らせてもらいます。
そういう事について了解を得るための書式を前回の清水寺での写真展の際に考案したのです。
そして「ポートレート写真を撮りませんか」という掲示に反応していただけたので今回もやってみたわけです。

この用紙は役に立ちました。
ポートレート写真を撮る希望ではない方もちょっと関心を持たれていました。
個展の時などにはその間一枚も写真が撮れないので不満が嵩じますし、目標に近づくこともできませんから、今後も続けてみようと思います。

来年は「高瀬川界隈の人たち(仮称」も撮りますから、その際にはこの改良版を考えてみたいとおもいます。
何せ数十人の様々な年齢、立場の方々を撮らねばなりませんから。
そして冊子への掲載と写真展での掲示ばかりでなくて私のブログ等での公開することへの了承もとりつけておけば、何かと都合がいいですからね。
それにそうしたことをしておけば写真利用についてお互いに安心できるというものです。

来年はその冊子発行に伴って関連写真展もしますので、個展、グループ展と合わせて今年と同様に3回の写真展ということになります。

レンズが睨んでいても初めての方と二度目の方とでは、やはりちょっと表情の柔らかさが違うみたいですね。

- 2019/09/01(日) 00:00:04|
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