今日は「3・1ビキニデー」です。
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2月にはいろいろな芸術系大学の卒業・修了展がありました。
うっかりしていて見逃した大学もあります。
ここは院生に与えられた部屋です。

学部生と院生とでは制作に臨む気構えも違いますし、制作についての哲学も違うはずだという先入見が私にはあります。そしてそれは私の期待でもあります。
で、学部生と話す時と院生と話す時では私が発しているなにかも、見る目も多少違うと思います。

壁には漫画雑誌の表紙や単行本の表紙などを主に黒のペンでトレースしたモノが貼りつけてあります。かなりの数ですね。
芸術につきものの言葉は創造性とか独自性というものです。
他の人の描いたものを横において模写するのでもなくて、直にトレース用紙をおいてなぞる・・・、❓???がいくつも並びます。

「これがあなたの作品なの?」 「いえ、僕はこれらを作品とは考えていません。」

学部を卒業して一旦は社会に出たものの、数年して院に入ることにしたのだそうです。が、その時に「指導教官のアドバイスでトレースすることを始めました。」とのことでした。
学部生の頃のポートフォリオを見ると具象も抽象も描いていたようなのです。描く力はあると思いました。

それが創造性も独自性もないただ機械的作業に没頭するのです。当然こんなものを描いていていいのか、こんなことして何になるのだという疑念が湧いてきますが、「1年はこれを継続する」と決めたので、どんな不安や悩みが出て来ても「やり遂げようと思っています。」と言います。

イラストやコミックやレタリングの勉強をしているのではないのです。誰か作家の「手」を学び取ろうということが目標でもないのです。何しろトレースの対象には買い物のレシートさえあるのですから。
初めのうちはある雑誌の表紙のトレースをしていても、その中で「かっこいい」ところをほぼ写し終えるとやめていたらしいのですが、「かっこいいから描く」という価値観も捨てて、「全面的に余すところなくトレースする」と決めて、ここでいいにしようとか、もう少し描くべきかなどの「価値観」も捨てたのだそうです。

じゃあ、コピー機と変わらないことを手作業でやっているにすぎないではないか・・・・という疑問がすぐに浮かびますが、しかし、やはりそうではなくて「彼がしている」というフィルターはどこまでも働くし、そこに「人」が出てくるのだと言います。それはうまい下手と言う次元の問題ではないのです。

私は、こういう「禅問答」みたいなことは案外大切なんじゃないかと思うことがあります。
いち早く個性を発揮して、他にない「創造性」を見せようとする学生は多いですし、先生の多くはそういうことを指導される傾向があるようです。そうしないと「売れない」ですから。
でもそういう個性、独自性、創造性というデコレーションばかり厚くしていると、そもそも個性とか独自性とか、創造性というものも見えてこない、つまり人の営為の根源が分からないということになるのではないかと・・・。
彼の話を聞いていてそう思いました。

「丸一年これをやりとおしたら、描いたものを展示して振り返ってみようと思います。」
おそらく全国の大学を探しても同じことをしている学生、院生はいないと思います。多分。
そういう意味ではオンリーワンではあるでしょうし、彼はただ一人こういうことを一年ずっとやり遂げた人間として世界を見ることができるのでしょう。
彼しか見ることができない世界を彼が見るということは、なかなか意味深です。
- 2019/03/01(金) 00:00:08|
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