東京や横浜なら場所探しに苦労しないんだろうなあ、無尽蔵と言っていいほどいい場所があるんだろうなあなどを思いながらロケハンをします。
どこかで発想の転換をしないといけないんでしょうが、でもそれもどうかなアと思うし。ちょっと他の街に出張らないといけないかな。

ちょっと私の服を羽織ってもらいました。
いかがでしょうか。

ご本人はお気に入りにはならなかったようで、すぐに脱いでしまいました。

同じようなポーズで撮っていても口の表情、眉の傾きなど、人の醸し出すものは大きく変わってしまいます。
そこが人を撮る楽しみの一つでもありますが。
ワンパターンに見えても、どれも落としたくない写真になってしまうのはこの人の魅力ですね。
今まであまり狙ってこなかったラインに注目しています。
無論、それを理解してポージングしてくれています。

その場所の持っている可能性もできるだけ探す努力をします。
「暗いと嘆くより自分から進んで灯を点しなさい」かな。

この樽がいいなあ。
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- 2019/01/31(木) 00:00:05|
- 人物
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「かけつぎ」という言葉を辞書で引くと「『かけはぎ』に同じ」として、「布の繕い方の一つ。双方の布を目立たぬように継ぎ合わせる方法」と出てくる(広辞苑)
けれどここでいう「かけつぎ」は「繕い方の一つ」ではありません。

織物の完成品を点検すると、行程の中で糸が切れていたり、禁止が裏返っていたりするのを見つけることがあるだそうです。
高級な織物は「正絹」であるわけですが生糸が生物の吐く糸である限りは工業製品のような一律の品質を持つことは不可能です。その沢山の糸に同じように負荷をかければ耐え切れずに切れるものもあります。

また金彩の際には緊迫に和紙を裏打ちしたモノをごく細く切ったものを糸として織り込みます。
これが途中で裏返れば金の輝きは失われますからこれをより戻してやらねばなりません。
これをこうした拡大鏡を使って針先を駆使して直したり、また切れた糸の端を目立たぬように始末したり、他から・・・・同じ生地の別の場所・・・同じ色の糸を持ってきて補うのです。
実に根気のいる地味な仕事です。

無論幾度も着た結界とがほつれたりしたものも直します。
仕事の結果が見えないことが褒められる仕事です。

ご自身は以前は機を織っていたのだそうで、だからこそ織物の仕組みを熟知しているからこそできる仕事なんだそうです。
それはそうですよね、車の修理工も、車の仕組みを熟知しそれぞれの働きを理解しなくてはできません。

「一日中そうして拡大鏡をのぞき込んで仕事をするのも大変でしょうね。」と声をおかけすると、沢山の人と一緒にいろいろ変化する仕事をするよりこうして一人でじっくりと取り組む仕事が性にあっているのかな。」とおっしゃっていました。
「ただ目は確実に悪くなるわ。」とも。
高度な仕事の仕上げに、スプーンをお使いになっているのを見ると何か不思議な感じです。
「これがちょうどいいのよ。」
- 2019/01/30(水) 00:00:36|
- 工芸
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毎月22日に決まって出町柳に若者が集まって楽しんでいます。
そこには「みんな集まれ!」の印として大きなイチゴショートケーキが置かれています。
なぜ22日が「イチゴショートケーキなの?」というと・・・・。

それはカレンダーを見ると分かります。
22日の上には必ず「15」日があるからです。
この集まりが始まったのは今からおよそ7年前・・だそうです。
私もその頃に、この面白い集まりを見つけて中心となっていた女性にお話を聞きながら写真を撮らせていただきました。

その人は今日も来ていて、これまで特別に無理な日、2度か3度を覗いて毎月この企画を実行してきたというお話を聞きました。
大したものですね。ショートケーキもあちこち傷んでかなり補修繕を繰り返してきたそうで、つまりはお金もかけてきているのです。

ここに食べ物や飲み物を持ち込んで楽しく歓談するのです。
が、この日は風も強くこの冬としては「寒い」日でした。
それでも集まる仲間は特別ですね。

つい先ごろは要請を受けて台湾でもこのショ-トケーキの周りで楽しくやよろうと実行してきたのだそうです。
それにしても7年というのは大したものですよね。
個人史的にもいくつも大きな変化があるはずで、それを貫いて一つのことを続ける意思は見上げたものです。

この鴨川では、火を焚くことができません。
時々その禁止事項を無視してバーベキューをしている人たちがいますが、こうして長く続けようということになれば「今回見つからなければいい。」というような考え方ではダメですから、そこは自制するところですね。
炬燵を持ち込めば・・・と言っても、このイチゴに加えて大きなバッテリーを運ぶのはこれまた大変です。
いろいろ知恵を巡らし工夫をしてきた結果、暑くても寒くてもひたすら続けることになったのでしょうね。

それにしても風を遮るものは何一つありませんのでなかなか厳しいですが、そのこと自体を楽しんでいるようにさえ見えます。

こういうことを継続するには粘り強い、かつ人を巻き込む力のあるリーダーが必要でしょう。
それが、この人です。
私が以前写真を撮らせてもらったことも覚えてくれていました。
- 2019/01/29(火) 00:00:29|
- 状景
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白い背景にブルーの服・・というのは清潔な感じでいいですね。
ミニスカートもよく似合っています。

さて、所が変わって・・・・。
と、電話の呼び出しがありました。
これがモバイルフォーンの良い点でもあり具合の悪い点でもありますね。
もしこれが仕事なら「OFFにしておきなさい。」というところですが、私の場合はむしろこれ幸いに撮ります。

何か急用で「帰らないといけなくなりました。」なんてことにならないといいのですがね。

何しろ契約で動いているのではなくて厚意と愉しみと「ウィンウィン」とで動いているのですから、いつ何があっても「仕方ないね。」というわけです。
それだけに嫌なことを我慢してもらうこともないし、無理な撮影もしなくてよいわけで、お互いに気持ちよく撮れる、撮りたいことだけをすればいいので、気楽なわけです。

それで幸いにも、撮影の度に「今日もとても楽しかった。また時間の都合が付いたらメールしますね。」と言ってもらえるとなおうれしいのです。
お母さんに写真を見ていただいても評判は上々のようですし。
ここでは肌色のストッキングをはいてきてもらった効果を狙っています。

今日の一枚目の写真を見ると素足のように見えませんか。
顔の肌の色と合わせて色のストッキングを付けているのだそうです。
私はこういう分野はとんと疎いので、大まかな希望を伝えてあとはこの人に任せます。
自分が好きでない服装や無理のある格好をしても楽しく自分を出せないんじゃないかと思うからです。
私が想像する以上に女性は服の事を自分の表現、自分自身として意識しているだろうと思うからです。

この人は仕事では「これを着て。」という経験をしているわけですから、私との撮影はそれとは別の楽しい時間にしてほしいと思う訳で・・・・。
- 2019/01/28(月) 00:00:24|
- 人物
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実際には夜になったというわけではありません。
でも夜の街角風になりました。 この背景になっているレストランは欧州風のなかなか雰囲気のいいお店です。
このお店の中で撮れるとなおいいのですが、そういうわけにはいきません。

私のブログを見てくれる方が数万人くらいのオーダーになれば、あるいはそれを背景に交渉できるかもしれませんが、そういうことは夢のまた夢ですね。
ユーチューバ-にでもなりますか。

さてさてまたもや場所は変わって・・・・。
ここはイングリッシュパブです。

こういうエクステリアをデザインした人、またそれを望んだオーナーの感性が私は好きですね。
いわゆる「古都京都」の景観とは違いますが、古都京都を保存しなくてはならない地域と、こうした新たな街の景観とを並行して作れるようにきちんと区割りすべきだと私は思っています。
それを行政が観光資本の要求に無原則に妥協してしまって、今や京都は観光で滅びつつあるというのが私の感想です。

以前このお店に撮影を兼ねてお邪魔した事がありますが、欧米人のお客さんが多いとても楽しい店です。
私はジャズバンドを撮影に来たのですが、お客さんもとてもノリが良かったと思います。
スタッフもきびきびしていました。

この人はほとんどお酒を飲まない人で「美味しくないし・・。」ということで、残念なことです。
いや美容と健康のためには酒とたばこは大敵です。
そのどちらにも手を出さないというのは賢明なことです。

まあ私としては「お酒を飲めないのは人生の半分を損している。」というのは暴論だとしても、ちょっとその気持ちが分からなくはない派です。
お酒で人生の大半を損しているという人もいるようですけどね。
- 2019/01/27(日) 00:00:08|
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福島には和紙で作った郷土人形があるそうです。
その和紙の「木型」を作っておられます。

この木型に濡らした和紙を貼り付けて、それが乾いたら小刀で切れ目を入れて張り付けた和紙をはぎ取り、再びそれを膠で接着し、彩色したり小道具を持たせたりして完成させるようです。
紙を木型からはずす時に切れ目を入れるのですが、紙を貫いて小刀の刃が木型に達してしまうのです。それで長年の内には深い切り込み=溝ができてしまいます。

そうして傷ついて役目を終えたもとの木型に倣った新しいものをつくろうというのです。

私が思うのは、写真を撮るには被写体が美しくないと、あるいはまた豊かな魅力を持ち、強い力を持たないと始まらないというなという事です。
つくづくそう思います。

それで、時々ここをお訊ねして、こうしてお仕事のお邪魔するわけです。
被写体の持つ密度に触れて自分の軟弱・曖昧になったものを賦活させようという他力本願です。
長年にわたって役割を果たし続けてきた木型が、じっと高橋さんの手元を見上げています。

高橋さんはそういうことを深く感じられる人です。
こうしたモノづくりの気迫に相応しい写真てどういうものなのかなあと・・・・思います。
- 2019/01/26(土) 00:00:18|
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私が旧職に就いていたころは、こうした芸術家さんとも職人さんたちともほとんど接点がなかった。
それがたまたまギャラリー巡りをしているうちに幾人かの方と面識を持つようになり、それが・・・大して膨らんでいるわけではないけれど・・・・こうした場所でカメラを持ち歩くことができるようになった。

だから、どうした・・・というほどの事でしかないけれど、それは確かに自分史の中では「へ~、こんなことになるのか。」といった程度の話題性はあるのです。
このブログでも、もうしばらく後にある写真をアップしますが、「人生はどう転変するのか、案外面白いなあ。」ということを感じる現象がありました。

お二人とも未知の方でしたが、左手の男性のお名前はそこここで目にし耳にしてきました。
「ああ、この方があのお名前の方なのか。」という事です。
ですからあちらとしては、「何者だ?うろちょろ目障りな写真を撮っているあの男は?」という感じでしょう。

熱心に写真を撮っている人がいます。
このギャラリーのスタッフです。
「フォワイトバランスが難しいよね。どうしてる?」なんて会話をしましたが「オートで撮ってます。」とのこと。それで私もオートにしてみましたが、なんてことでしょう、予想外にうまくバランスをとってくれています。こんなことならカメラに任せればよかった。(でもそれで、私が身に着けるはずの力は、未発に終わることになります。こうして人の発達はますます内容の無いものになっていったのでした。どっとはらい。)

これまでスタッフの待機する小部屋は光も入らず通風も悪く、冬の寒い時には外の冷たい風の影響を強く受けて寒い寒い部屋でした。 が、今度はその点大幅に改善されました。
ただ今までならば会場に入る際にはその手前にあった部屋を覗いて、「お元気ですか?」とあいさつで来たのに、これからは部屋が奥に引っ込んでしまいましたので、顔を見ることはまれになりそうで寂しい限りです。

あれ、またお一人参加してきましたね・・・。

- 2019/01/25(金) 00:00:44|
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今現在はこの同時代ギャラリーは1928年ビルの二階の移り、いかにも美術ギャラリーといったちょっと風格のある良い雰囲気のギャラリーになっています。
自然光も入るようになりましたし、その窓は私が気に入っている白いペンキで塗られたちょっとレトロなサッシのものです。これはいいですね。
ただ、これでますます私との縁は遠ざかったような気がします。個展をするという意味においては敷居が高くなってしまいました。

左にいる青年作家は社会的なメッセージ性のある造形をものする期待の人です。

そしてこの壁に描いている人たちは、なんとこれまでの沢山の展示の際に作家たちが打った釘の穴を埋めた、そのパテの形をなぞって絵柄にしようと目論んでいます。
偶然の中からも美を掬う、というわけです。

何だかスカンジナビア半島の地図のようにも見えますが、そきに何やら不思議なものが・・・・・。

ずっとパテの形をなぞっていたら『飽きて来ちゃった。』のだそうです。
そりゃ、そうですよね。
一体何本のペンを持っているんでしょうか。

まあ、絵を描く人は一面とても忍耐強いものです。
少なくとも私にはできません。
できたら写真をしていないでしょう・・・・・かな?
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- 2019/01/24(木) 00:00:03|
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昨年暮れも平均的には暖かったような気がします。
そして三が日以降もまた比較的暖かく経過しているように感じます。あくまで『個人的感想』ですが。
新年に当たって待ちゆく人が「今年は災害がないことを・・・・。」という事をインタービューへの答えにされていました。
全く同感ですね。 日本では自然災害の上に政治の人災が加わるからなおのこと庶民には厳しい一年になります。
さて、そんな沈みがちな気分を高めての撮影です。

暖かい日差しがあるので上着は脱いでも大丈夫かな。
いわば『初春』気分ですね。
見た人も気持ちが明るく晴れやかになる写真にしたいものです。

そのためにぴったりのフォトマヌカンです。
「わが社のイメージガールに」とオファーがあっても不思議ではない人だと思うのですが・・・・。

まあ、全国らか○○48やら何やらと掻熊手でき集めるるようにして見かけの良い少女たちが東京へ福岡へと・・・。
ですからよほどの特技やアピールできるものがないと、そしてまたそれだけではない「人との縁」がないと、タレントやモデルとして活躍するのは難しそうですね。
この人は今年もまた改めて大阪の事務所を中心にして活動するようです。

撮影の機会は創れないかなという私の願いに、「ごめんなさい、忙しくてなかなか時間が取れません。」という様な返事が来るようになるのは間近かもしれません。頑張ってほしいものだし良い機会に恵まれてほしものと思います。
そのためにわずかなりとも私の写真や(被)撮影経験が役に立てばなあと思うこのごろです。

皆さん、今年もよろしくお願いします。
- 2019/01/23(水) 00:00:41|
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冬の日に日差しがあると嬉しいですね。
冬の厳しい北風もないので、とても穏やかな気持ちになれます。

こうして街歩きをしながらの撮影でも、以前はカメラバックの中に二台の一眼レフを入れ、レンズも、装着分以外に少し長いものを入れたりして担いでいましたが、そういうことは少々堪えるようになりましたね。
ですからプロ写真家の中にもAPS-Cのミラーレスカメラを中心としたシステムに替えたという人がいるのも、頷けます。

この時にはソニーのα99に85道単焦点レンズ、それと50ミリ単焦点。サブとしてフジのX100Fです。
X100Fはコンバーターレンズを付けていますのでフルサイズ換算では・・・・・コンバーターレンズを外したり付けたりすれば・・・35ミリから100ミリまでをカバーと言うことになるんでしょうか。
目立つカメラを取り出しにくい環境でも役に立ちますし。

色の再現具合はソニーとフジとではかなり違いますので、そこの統一性としては少々難があります。が、特徴を生かすつもりならば、これもまた面白いのです。
時々思うのですが、ソニーに「アクロス」があればなあと。
それとは別にカメラのモノクロ設定で青系黒、赤系黒、緑系黒などがあればなあとも思います。

こういういくらか青っぽい清潔感のある透明感はフジよりソニーの方が得意でしょうか。
歩きながら突然降ってわいた光の環境に、「ちょっと、ここ、いい!!」という具合に撮ることがあります。
光の回り具合やいい反射物があると、あるスポットにとてもいい条件が生まれていることがあります。
私には意識的な計算で求められないので「ここに立って。いやちょっと違いなあ、もう少しこっちに。」という具合です。
でもその時に背景に「あいつ、要らないなあ。」というものがあったりして、悔しいこともありますが。

そんなときにも少しも嫌がらず面倒くさがらずに対応してくれます。

光と影のわずかな変化で表情にいろいろな変化が出てきます。
肌の様子も変わりますしね。

この最後の一名が一番良いでしょうか。
でも、鮮明に写っているから、それがいい写真かと言えばそういうわけでもなくて、少しソフトフォーカス的な柔らかい光がそのフォトマヌカンにぴったりという事もありますね。
表現したい雰囲気がどうか、ということにかなっていればそれが一番。それに好みもありますし。
こういう時に「ピントはまつげ」というようなことだけを一つ覚えに撮っていたり、それをしか評価の基準にできないというのはちょっと違うという気はしますね。
- 2019/01/22(火) 00:00:11|
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昨年の夏秋には長いスカートで写真を撮ったのですが、寒くなったこの時期に、逆に?ミニスカートです。
案外女心としては「逆に」ではないのかもしれないのですが、さすがに厳冬期には避けるでしょうね。
でも今日はまずまずの天候ですから大丈夫。
このスカートは親友(やはりこれまで数度、私の写真に力を貸してくれている人です)とのおそろいなんだと言います。

今日は私が遅刻してしまいました。
私の最寄りの駅には快速電車は止まらないのでした。この人の乗った列車が私の目の前をパスしていきました。それで一本遅れてしまたというわけです。
さて、地下鉄に乗って移動です。

私がこの人と初めて出会た時に比べれば少し大人っぽさが出てきました。そんな面も今日は捉えたいなと思います。
でもやはり健やかな可愛らしいという人だなという雰囲気は変わりませんが。

今日は街歩きをしながら撮ります。
寒くて体が冷えれば喫茶店かデパートに駆け込めばいいですからね。というような安易な計画で・・・・。
でも撮りたい場所は意中にはあるのです。
外に出れば光が一杯です。
幸いこの時期としたら過ごしやすい天候ですのでありがたいです。
寒いとお互い体が硬くなって姿勢も悪くなりますし、時間をかけて撮るだけの余裕が失われます。
でもこの人は寒さには強いんだそうです。

こういう定番のポーズでもちゃんとおさまります。
「定番」のポーズだからどんな人でもおさまるというものではないような気がします。

やはり私が「分かってないなあ」と自分で思う点があります。
理屈では理解していて、そういうことに注意しないといけないなあと思ってはいるんですが、実践ではつい他に注意が行ってしまって忘れてしまいます。
この注意点は「初級」でしょうか「中級でしょうか。
次回こそ失敗しないようにしたいですね。
- 2019/01/21(月) 00:00:07|
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もう終わってしまいましたが、天津優希さんがgallery Main で「四の五の言わずに京都で個展」をしていました。
天津さんの写真展は以前にも見せていただいたことがあって「若いお嬢さんがこうして京都に来て写真の個展をしている。潔いし行動力があるなあとずいぶん感心しました。
それで私自身何かと理屈をつけて一歩を踏み出そうとしていなかったのを「四の五の言わずに・・・」個展をしようと鞭撻された記憶があるのです。

この人はずっと人物写真を、それも女性を撮ってきています。
それで個展10回目ですから、私より数段先輩になります。
人物撮影の作品をなかなか見ることがないこの京都で、私は飢えているのです。

前回見せたいただいた時には、この人より年長の女性たちの、美化しない写真でした。
幾分かはニヒルで、多少シニカルで、少しアナーキーさもデカダンスもあって・・・けれど根底にしっかりしたリスペクトがあってという感じでしたか。
しかし、同性を見る目が鋭く光っていました。

今回はある女優さんを数年撮り続けてきた成果を展示されていました。
いいモデルさんを見つけているなあと思いました。
素直にフォトマヌカンに接して、変に見る人に阿ったり、あるいは評価されようと思ってどこかで見た形を模してとろうとしていない、素直な写真だと思いました。
一周したのかな。

私の事を覚えてくれていて、「写真撮らせてもらえませんか?」というお願いにすぐ答えてくれました。
そして私の6月の写真展を楽しみにしますと、も。
関東にお住まいだったと記憶していたので、でも見てはいただけそうもないですねと言いますと、実は少し前に京都に転居されて、喫茶テン」で働いているんだと教えていただきました。
でしたら見に来ていただけるかもしれませんね。

私は人物写真を撮る人に対しては「Oh1 同志よ!」と言うような感情を抱いてしまいます。
専門的・技術的な知識も私よりずっと豊富な方ですから、これからいろいろ教えていただけるんじゃないかと・・・・。

写真が紡いでくれる新しいご縁です。
- 2019/01/20(日) 00:00:15|
- 写真
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昨年一度撮らせていただいたことのある人です。
豊かな音が対岸まで聞こえてきていましたので、もしからしたらと思い自転車を走らせました。
覚えてくれていました。

楽器演奏の姿の魅力を撮るためにはどうしたらよいのか、いろいろ考えるのですが、下手な考えやすむに似たりでして・・・・。

これまで、ちょっといいなと思う写真は、私自身がその演奏を楽しんでいるときだったなあと思うのです。
そしてその演奏を「かっこいいなあ」と感じて同調した時でしょうか。
でもどうもそれだけではいけないような気はしています。

この時は見上げる角度で撮りたいと思って護岸壁の法面に這いつくばって撮っています。
体がずり下がりそうで、懸命につま先を石の突起部にかけていますが、心もとない限りです。
この姿勢で小さなファインダーをのぞくのはなかなか骨が折れるものですが、仮にチルト液晶画面がついていても、私はどうも使いこなせないのです。
それにやっぱりファインダーを覗いた方が被写体の持つ世界に入りやすいように感じています。

それにしてもカメラも随分便利に機能が充実してきていますね。
それを大いに活用できる人は、これまでにない世界をつかまえることができるかもしれませんね。
でも、私はどうもあまりそういう方面に興味がわかなくて・・・・。 というか単にずぼらで新たなことを学ぼうとしないのですね。
- 2019/01/19(土) 00:00:13|
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もう何度も撮っていますので、お互いに多少は気心を知っているとはいえ、やはり助走が必要です。
お互いの今日の調子、気分もつかんでいかねばなりません。

歩きながら、今日はどのあたりで、どういう感じの写真を撮りたいという話をします。
私が事前に知らされていることは、今日はミニスカートで来るという事、前回より髪が伸びたという事くらいです。
そして、上着の下は比較的ぴったりとしたハイネックがいいとは私から希望を伝えてありました。希望通りでした。

幸い今日の天候は予想より良くて光もあれば空気もさまで冷たくはありません。風も穏やかです。
有難いことです。
それでも一枚目の写真の左隅に見える人はダウンの上着を着ています。
私はミニスカートというやつを履いたことがありませんので、冬の寒い日に若い女性たちがこういう服でいられることがなかなか理解できないのです。
寒くはないの?
どうも大丈夫らしいです。

この人もそうですが、約束の時刻に待ち合わせて、予定の時刻に「さようなら」をいうまで、いえ、時にはそう言った後にさえ撮り続ける私の性癖をよく受け入れてくれて撮らせてくれます。
人は観察すればするほど、いろいろな場面に遭遇すればするほどその人自身の持ち味ある表情を表してくれて、こういう可愛らしさがある、こんなきれいさが見つかる、意外とお茶目だねぇなどなどと千変万化するのですから、カメラを手放せないわけです。
私との会話を通じてでも、「へえ、こんな表情をするんだ。」という面がつぎからつぎへと出てきます。
またそういう人であるからこそ「フォトマヌカン」に相応しいのですが。

それにこれくらいの年齢の人の変化は「三日会わざれば・・・・」という位ですので、消えていく、失われていく魅力もあるし、又育ってくる魅力もあるという訳で、今日この時を逃せないのです。

これから何度かに分けてこの時の写真をお見せしますが、
若い女性を撮る楽しさを多少なりともお伝えできるのではないかと思います。

では、お楽しみに。
- 2019/01/18(金) 00:00:49|
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「冬来たりなば春遠からじ」とは言いますが、まだ冬はそのとば口にはいっただけかもしれません。
今年を占う撮影になるでしょうか。
以前も書きましたが「このところ若い女性の撮影があまりないねぇ。」
若い女性どころか、女性全般に撮影の機会がぐんと減りました。何故なんでしょうねぇ。

それを心配して駆けつけてくれた・・・・というわけではないのですが。
今年はこの人が私の写真史の「顔」になるでしょうか。 なるといのですが。

私が撮ってきた人たちの男女比率のことも前年暮れに描きましたが、その傾向は新年の拙ブログ上に明らかです。
すなわち男性:女性=54%強:46%弱にまで開いてきました。 もうじきその差は10%になります。
これは危険水域に入った感じですね(何がどう危険なのかわかりませんが。)
仮にこれから男女比を1:2と女性を倍撮影させてもらったとしても、一か月にその差を4人縮められるだけですから、25か月を費やさないとその差は解消しません。

なんていう計算に意味はほとんどありませんが、この差が縮まるより安倍政権が倒れる方がずっと簡単だということだけは確かでしょう。

でもまあ、私の撮る若い女性の写真に期待してくださるご奇特な方もおられますので、それを励みに気をとり直してがんばってみようとは思います。(何かはっきりしない決意表明ですが。)
この写真はこれから撮影に出かけますというシーンなんですが・・・・。

さて、町中で撮影をしていると私と同世代の幾分派手やかな服を身にまとった男性が 声をかけてこられました。
「やっぱりプロのカメラマンは違うなあ。 先ほどからしばらく撮影の様子をうかがわせたもらったが、声のかけた方が実にうまい。」
私たちは二人とも少しもその紳士に気付いていなかったのですが・・・。
「ところでやはりこういうモデルさんになるとモデル料も高いんでしょうなあ。」
・・・・・・・・・・
などと、話が続きます。
あれっ?いつまで、どこまでついてこられるのかな・・・・。
挙句には「撮っているとムラムラきませんか?」

当のモデル本人をすぐ横においてこの質問。
二人とも呆れて顔を見合わせました。
「もちろんムラムラきますよ!」とお返事すればよかったのでしょうか。
- 2019/01/17(木) 00:00:23|
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描く人を撮るのは難しい。
私の発想が狭く限定されているからだろう。
また自身が描くということを経験していないから、イメ-ジが膨らまないのかもしれない。
音楽でもなんでもそう言えるのかな。 そう言ってしまうと、自分が経験していないことを撮ることはできないということになってしまうので、どうもまずい。

だから、絵を描くことに対するあこがれやリスペクトの気持ちを抱く者としての写真という事、そう考えればどのようなものを対象にも、その気持ちさえあれば撮れることになる。
カギはその気持ち。

そうなれば世間的な評価とか、この絵はいくらするの的な価値観から解かれて写真が撮れるような気がする。
それで撮り方も、個性が出るかな。
その可能性はあるな。可能性だけど。

問題は「こいつには撮らせたくないなあ。」「こいつは何もわからないやつだから撮らせても何も期待することはできないなあ。」
一方、描くときは完成した作品に対しては舞台裏みたいなものだから、「こいつなら見せてもいい。」と思ってもらえないと具合が悪い。
せめて「まあ害はないだろう。」くらいには。

音楽演奏の時と同じで、むしろ気合が入るということになると具合がいい。
20ミリを付けると、もう肩のあたりにレンズがあることも珍しくないのだから、撮る人間の気配がうっとうしいようなことになれば、作家と撮る側の関係を壊す。
それが逆ならば有難い。

ある瞬間壁面いよてt集中して手を打緒後貸しているかと思えば次の瞬間後ずさりして目を細める。そいう画家の動きを全身に感じて撮らないと思わぬ失敗をする、迷惑をかける。
この時のような場合は私の後ろに「見る人」がいることがある。
画家が一歩二歩下がる、それに反応して私がステップする、それで後ろの人にぶつかったらえらいことだ。
これはジャズの撮影などの場合にもよくある。

そういう意味で自身がさび付かないようにしないといけない。
今でもあまり自信がないが、何とか頑張りたい。
- 2019/01/15(火) 00:00:35|
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こちらはメインの広い部屋ではなくて、間口一間半、奥行き二間くらいの部屋です。
壁に自由に描いてくださいということで参加しようとしたときに、広いメインの部屋に描こうと考える人と・・・・こちらはこの後のパーティー会場にもなるんですからより多くの人の目にも触れ、話題〔酒の肴かな〕にもなるはずです・・・・、そうではなくて敢えてこちらの狭い部屋に、あとに描く人の事を考えてか、隅の方から描く人とのものの考え方には違いがあるのでしょうね。

後者の考え方をするはこういう絵柄を選ぶのかな。何かリンクしているような気がしました。
広い部屋では男女の図にしても円の絵にしても天井まで空間を利用し溢れるエネルギーが表現されます。
広い部屋で描き始めたある画家さんは、壁面の四方全体に繋がるもの描き始めて、それは止めてと、制止されていました。
他の人が描くスペースに影響することなど眼中にないのでしょうかね。全体の基調になるメッセージを込めたものを「私が」描こうと思えるメンタリティーが画家らしいなあと思ったり思わなかったり。

こちらでは描いている間に茶々を入れる人も話しかける人もいません。
私はこういうところでこつこつを思いを込めている人に関心を持ってしまい、「メイン会場」での進行に立ち遅れたり、乗り損なったりすることが度々あって、それが例えば、「この企画全体を仕切ってね。」「記録写真をよろしく。」などと言われていることを忘れてしまう悪い習性があるのです。

それで、分かっていても失敗を繰り返すので、ある時から、そういう役割を受けないようにしています。
ことにリタイアした後は。
私の特性がそういうものであるので、それをセーブするより、そういう人間として行動した方が、拾えるものがあるんじゃないかと思うからです。

木の葉が舞い上がるようにこれから二階に移るギャラリーが飛躍せよという事でしょうか。

この方のこれからの作品もその一幕を作っていくのでしょうね。
- 2019/01/14(月) 00:00:54|
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自由に壁に描くなんて気持ちがいいでしょうねぇ。
身体の動きが形になっていくような感じですねぇ。
写真にはこういう面があまりないですね。 ジャズを撮っているときなどはこちらも同調して動いて撮りますから、ちょっと通じるところがあるかも知れませんが、写真の場合は結局フレーミングという縛りに集約されていくので、開放系というより集約形になりますかね。

腕が二時と八時の方向にある時も撮るべきでした。


この方が連れてきたワンちゃんが興味深そうにみています。

絵の具がほとばしって円の外に飛んでいます。
これいいなあと思ってみていましたら、「絵の具が足りないわぁ!」
・・・で、なんとか急場しのぎを試みておられるようですが・・・・


ダイナミックになってきましたね。
- 2019/01/13(日) 00:00:09|
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対照的な絵を描くお二人が並びました。
右の女性は数を数えながらぐるぐると腕を回して円を幾重にも書き続けています。
左の男性は長年培った人物デッサンの力を発揮して、どうやらアダムとイブが蛇の甘言に誘われてリンゴを食べる直前を描いておられるようです。

何をもって抽象というのか。抽象画と、具象画の境目は私にはよくわかりませんが、
まあ素人の常識をもってすれば具象画と抽象画が並んだと見えます。
面白い競演ですね。
左の男性はずいぶん以前に写真を撮らせていただいたことがあります。

お二人とも木炭で描かれているのですが、壁の表面にサンドペーパーのような凹凸があって、あっという間に木炭が消費されていきます。
壁の付着した木炭と壁に削られて粉になって床に落ちた木炭とどちらが多いのか測ってみたくなるような状景です。
ま、、ここは町中なので少し走れば画材は手に入りはしますが。
「107,108,109・・・・・。」
アレ?! 年も押し詰まっているので「除夜の鐘をついて振り払う煩悩の数」だけ円を描いて、何か意味を込めるのではないのかと予想したのですが外れました。

108回腕を回すのも結構大変だろうと思うのですが「203,204,205・・・。」と続いていくのです。
そのうちに「1年て何日だっけ?」と。
同じ漢字を何十回と練習していると「あれ?ここはよく線が2本だっけ、三本だっけ? 何か丸という字に見えなくなったなあ。」なんてことがありますよね。
どうやら「365回」円をお描きになるつもりのようです。
それでこのギャラリーが22年続いてきたので「右下にでも×22と書き入れたらどうですか。」なんて余計なことを言ってしまいました。

こういう情景はめったに見られるものではありません。
面白いなあ。
こういうの大好きです。

床を汚さないように敷いている養生のビニールシートに左の男性は靴を脱いで上がり、右の女性は履いたままです。
服についての意識が男女で違うせいもあるのでしょうが、アトリエでも違いがあるのでしょうか。

右側の男性も美術家です。
絵も描きますが造形もしますし・・・・。
- 2019/01/12(土) 00:00:20|
- 絵画
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三条御幸町の角に1928年ビルがあります。
その建物の一階には同時代ギャラリーがあって多くの画家や造形作家たちが作品を展示してきました。
今度このビル内が改装されることになりギャラリーは存続しはするのですが二階に上がることになりました。

それで移設のために壁も改装されるのでそこにこれまで関係した人たちがこもごも壁画、落書きをしようという企画があってその後にはパーティーが夜通しありました。
私はこのギャラリーには毎週お邪魔していますし、何人かの画家の方との面識もできましたので図々しくカメラもって闖入したのです。

この方はご自身で収集・編集された音源で会場のBGMを担当されていました。
初対面です。

私が会場に着くとたまたま面識のある年配の画家がおられて、名前も存じ上げていましたので「○○さん、写真撮らせてもらえますか?」と声をかけました。
無論快諾していただけた訳ですが、そのやり取りが名刺となって会場で「不審者」にはならずに済んだというわけです。
もっともこのギャラリーのスタッフさんとも顔見知りでもありますし、私が帰った後にもたくさん面識のある方が集まられたようです。

このギャラリで展示をする人はそれなりの力量のある方たちですし、・・・時には学生のサークルが展示しますが・・・プロ、作家であることを意識された方々が大半なのです。
それで私などはこのギャラリーの使用料さえ調べたことがないというわけです。
- 2019/01/11(金) 00:00:04|
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金彩とか刺繍は染め物の最終工程になります。
ここで損じればこれまでの幾人もの職人さんの努力が水の泡です。
逆に言えばこれまでの行程の良い点も悪い点もすべてここに結果してきていますから、それらをどう塩梅よくするかということも含めて、最終総括になります。

私が見せていただいているときに、裏から針を刺すのは二度三度、針をさして出てきた場所が良ければ針をつまんで糸を通します。
裏から針を刺すのですから、必ず最適の場所に張りが出るとは限らないのだし、いくら暦年の職人さんだからと言って一発で決まるということはないのだろうなあと思います。
ところがです。この方は表から刺す時にも、いえむしろ表からの方がやり直しが多いのです。

集中して目を凝らすと、針を刺す点は間違っていないように見えます。なのに幾度もやり直すのです。
高齢になって目が悪くなって、さすがに一発で決められないのだろう・・・・とは思いませんでした。針を刺す点に本当にこだわっていて、安易に自分に妥協できない・・と、そんな感じを受けました。

そのことをお訊ねすると、経糸横糸を見定めて、ここしかないと言うところに刺しているのだと言う事なのです。
「まあ、ええ加減にしても分からない人にはその違いは判らないから、適当でいいじゃないかという人もいますが、私はこうしたいんです。手間が余計にかかってお金にはなりませんが。」

糸の山の背に針をさせばその針に通った糸を引く方角に生地の糸がよじれます。そうすると糸の輝きが他と違ってくる。何しろ生糸ですから。
針に付けた糸が生地の上でよじれればこれまた光の照り返しに微妙な乱れが出ます。それも修正しながら、時にやり直して修正します。

ご自身を「発達障害かも知れんなあ。」とおっしゃいます。
この微細な不具合を許せないでとことんやり直してしまうのだそうです。
「それが職人さんの矜持なんでしょうね。」と私。
世渡り上手でない職人さんです。

今作業している生地はカード入れになるのだそうですが、ずいぶん価値のあるカード入れです。
でもだからと言って他のものと値段は変わらないんだそうです。つまり職人の手間賃は同じだと。
これが職人の世界の一面なんですね。
いい仕事がしたい。
ぽつりと漏らされた言葉です。
- 2019/01/10(木) 00:00:39|
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今頃になって、「新年明けましておめでとうございます。」なんてちょっとタイミングが・・・。
旧正月には早すぎますしね。
いえ、この方とお会いしたのが3日の事で、今年初めてでしたのでこのようにご挨拶したというわけです。

銅心さんも私を認めて大きな声で「おめでとう!」と言ってくれました。
2日からこうして仕事に出ているんだそうです。 今日は厳寒というほどではないにしても、さすがに地面にお尻を据えていては冷たかろうと思いますし、雲が太陽を隠せばぐっと冷えます。
そんな日にもここに出ておられて安心しました。

あちこちの神社には初もうでの参拝者が溢れんばかりです。
家内安全やら無病息災やら学業成就やら・・・・おみくじを引いては恋愛運や仕事運を見ています。大概自身一個か家族・恋人の事しか関心がありません。日本の神様もなめられたものです。
銅心さんの一日は「京都に来てから深いかかわりをもたせてもらって、今はあっちに行ってしまった人たちの墓参りをしたよ。」と言うことでした。

あちこちに散在するお墓を参るのですからなかなかの手間です。
でも、「毎年そうすることに決めているんだよ。」
自分が今日あることを助けてくれた人たちにお礼を言い、思い出を手繰る、そんな一年の初めです。
その思いの在り方を考えると、私の年賀状はなんと陳腐で貧相でしょうか。
高齢の紳士が「その材料は何かね。銅線かな。」と声をかけられました。
その時の銅心さんのまなざしは案外厳しいのです。

生きてるということを形成している一つ一つのことに対して「おれはこう思うのだ」ということで筋が通っています。
しきたりに任せて当然にも疑ってよいはずの事も疑わないで惰性に流れる生き方とは少々違います。
意見が一致するからとかどうかということでなくて、生きている毎日のひだを曖昧にしたり等閑視しないという姿勢に触れることで私はドキッとさせられます。

最近は通行人がすぐ脇を通って話の内容が聞き取れるくらいなのに声を潜めないで人生の裏も表も話されます。
私のような小心の人間はどぎまぎするのですが、銅心さんは委細構いません。
無論、銅心さんとして話す相手を選んでの事なのでしょうが。
つまり私には「おまえのそのつまらない表向きの建前を早く突き破れ!」というのでしょう。

私は今年もまたこの人の人生の機微を伺いに来るのです。
- 2019/01/09(水) 00:00:07|
- 人物
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音楽をするときに歴史の積み重ねの中でほぼ完成された楽器・・・といってもまだまだこれから改良されていくんでしょうが・・・で演奏するばかりが能じゃない・・・というのは言うは易いのですが。

社会的に虐げられ貧困に苦しんた民族や国民が手近にある木の端や打ち捨てられた金属の缶や蓋などを使って音を出し、踊り歌うという貧しきものの音楽を作ってきたという事例は古今東西に見られる。
いわばそこに音楽の根源というか原初形態があるともいえるかもしれない。
そういうことを考えれば先進国の真ん中でこういう音を出してもいいじゃないかと・・・私も思います。

しかし、ただ手近にあるものを適当にならしているのではなくって、実に工夫が積み重ねられているのだということが教えてもらって分かります。
このプラスティックのバケツのどんどん(ぼんぼん?)という低い音が基調になって、この音の確実なリズムがないと他の音がバラバラで秩序づかないのだそうです。
伏せられたバケツの口の全体を地面にぺったりと設置させるのではなくて、盆を下にかましているのはそれだけの音量が出ないのだそうです。これも初めからの仕掛けではなくて経験から探し出した工夫の一つです。

たたくばかりが能じゃありません。
この灰皿を掴みあげて落とすのです。
そしてまた地面に擦りつけて円を描いて音を出します。
ここには単に音の追求だけではなくてストリートパフォーマンスとしてエンタテーメント的な工夫もあるわけです。

灰皿も表にしたり裏向けたり。
この人は背も高くて足が長いし手指も長い。それで空間を大きく使えて楽器も数多く広げられます。
叩かれた楽器たちはどんどん遠ざかって広がって逃げていきますが・・・・ここが斜面であるからなおのこと・・・・それを「おいおいどこに行くんだ」とばかりに追いかけては集めて演奏に参加させます。

楽器たちが小躍りします。
- 2019/01/08(火) 00:00:11|
- 音楽
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面白い企画でした。
造形大通信の卒業生有志が集って数か所のギャラリーで一斉に絵の展示をしていました。
あるギャラリーでは個展の形で、別のギャラリーではグループ展の形で。
それが一つのまとまりであることを知ってもらい、かつそれぞれの会場に足を運んでもらうために「スタンプラリー」を織り込んでいました。

私は最初それと知らないで「人物が出個展をされている」という情報であるギャラリーに行って見せていただきました。
そこを辞して寺町通りを南に下ると、今度は別の会場で風景画を展示していました。ここでこの方にお会いし、スタンプラリーの事も聞いたのです。
造形大の通信では若い方もご高齢の方も学んでいますから、この企画の参加者の中には80歳を超えた方数人も含まれていましたし、その方たちの絵はなかなかエネルギッシュでした。

それで、わたしはカードにスタンプを押していただくのではなくて私自身がこの「ワクワク」して絵に取り組んでいる方々を写真に撮るというやり方で「スタンプラリー」をしてみようと思い立ち。まずこの方にお願いしました。
その後回ったところでは「いや私は写真は勘弁してほしい。」とか「今日はお化粧していないから。」とかまたたまたま食事に出かけられているとかで、結局成果はありませんでした。

それでこの愛知県から来ておられるという方の写真はどうしようかと思いう悩んだのですが、全体ができなかったからと言ってブログに掲載しないのでこの方の写真をお見せできないし、失礼に当たるだろうと思っていささか時間が過ぎてしまいましたが掲載することにしたというわけです。

ほぼ私と同世代だと思いますが、かなり本格的に絵に取り組んでおられます。
同じ時に卒業されたという仲の良い仲間を持たれているので、こうして例年展示するという機会が良い刺激になっているようです。

お仕事をされているときにはほとんど描かれていなかったのを定年を機に「やってみよう」と一念発起されたそうです。
以前お会いした方は同じように通信で絵を学ばれて、大きな公募展に入賞するところまで到達されていましたから、定年後の時間もその人の覚悟次第で大きな実りを得られるものだなあと思いましたが、この一連の展示を見てもそう思いました。

私もお隣に負けないように芝を青く育てたいと思ったことでした。
- 2019/01/07(月) 00:00:37|
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今の若い人たちの大学生活と私たちのそれとは大きくその様子が変わっているのだろうと思います。
3回生の後半には就職活動を初めて4回生の初めまでには内定をもらう。就職活動がずいぶん前倒しされて学び舎諸活動の学生生活が分断されているように感じられます。
サークル活動(これも今では中高と同様に部活動というようですが)の「引退」が3回生の秋頃になるようです。

この人は大学4年間、絵画サークルに属して絵を描き続け、こうして卒業を控えて個展を開いています。
美術系大学に学んだのならば珍しくもないのですが、かれは法学部出身です。
そこがえらいですね。

会場に入って一瞥するとこの人の技量がかなりのものだとすぐにわかります。
私自身は絵を描きませんし、美術の高等教育を受けてもいませんのでどの程度絵を評価できるのかわかりませんが、この8年間毎週ギャラリー巡りをして、学生の絵も、カルチャーセンターで絵を習う人たちの作品も、、全国的な公募展に入選するような人たちのもの、たくさん見てきましたので、からっきしわからないというものでもないと思っています。

美術系でない大学の絵画サークルの人たちの作品の平均的なところも大体見当が付きます。
それからするとこの人の絵はかなり「画けてい」ると思います。
これから就職していくわけですが、きっとこの「趣味」は続けていくのだろうと思います。

「クラマ画会」というOB団体がありますからきっとそこに参加するんじゃないでしょうか。
いいですねぇ。
音楽にしてもこうした美術系にしても、大学時代に一定の技量を身に着けておくと仕事と両立させて随分楽しめるんじゃないかと思います。

別のギャラリーではこの人の属する美術部のグループ展も開かれていました。
最近のサークルは「楽しく、友達に出会える・・」会になって絵にしても写真にしても自覚的に集団的に研鑽したり相互に批評し合ったりすることを避ける傾向が見られます。
そしてそれに飽き足らない学生も少数ではあっても、確かにいるのです。
そういう学生は、居場所を見つけられなかったりして、サークル活動を満喫できない場合があります。それが残念ですね。それが残念ですね。
とはいっても我々が学生の時代にも意識の高い才のあるものは学外に人を見つけ機会を見つけて、必ずしも学内に居場所があったわけではなかったかもしれません。

来春には新たな活躍の場に参加する青年です。
- 2019/01/06(日) 00:00:19|
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着物の生地にどこにどのような絞りを施すのかをマークするために型紙を作っているのです。
本びった絞りなどを施す場所は直径4ミリほどの円形の点を記すのですが、この型紙にそういう穴をあけて、のちにこれを生地において後で消すことのできる染料を塗って、痕をつけるのです。

印はこうしたドットだけでなくて、線状に入れるところもあり、そこは糸で袋状に絞り上げるところを示します。
絞り上げたところには染料が染み入らないようにして水鳥や花の絵柄を抜くのです。

このドットのところは生地をつまんでその胴部を糸を三周(?)巻いて縛ります。するとつまんだ頭は糸に覆われていませんのでぽつんと染まります。中心が小さく染まった小さな白い花のような部分ができるわけです。
本疋田という絞り方は12周もまくことがあるそうですが、今この技術を現役としてできる人はいるのかいないのか・・・。

この仕事は40年ほど続けてこられているという事です。
「伝統工芸士」であり、「京の名工」でもあります。

弟子を採るとその弟子となった人と弟子を採った人に助成金が出るような制度があるのだそうです。
そうでもしないともうこうした技術は途絶えてしまいます。
最近若い女性がある人のもとに入ったので、周囲の人がよてったかって教えているそうです。
貴重な跡取りです・・・それはある指標の弟子というより業界全体の弟子=宝ですから、皆が惜しみなく教える気持ちなんだそうです。

昔の職人は弟子にさえ技術を教えず「盗め」と言ってきたわけですが、そんな悠長なことは言っておられないわけです。
もはや本当に時間との競争なんですが、本当は一人や二人の弟子ではとてもこの高い技能は受け継がれていけない訳です。
生命の種でもある限界を超えて減ってしまえば種の保存はできなくなります。

同じ分野に競い合い励まし合う様な同業者がいなければ技能は保たれません。
その意味でもはや限界を超えてしまっているかもしれません。

もっと高校や美術系大学などにリクルートをかける工夫が欲しいでしょう。量的にも質的にもとても足りません。
モノづくりの好きな青年は少なからずいるのですから。

職人さんたちはどこにでも出かける気持ちをお持ちなのです。ですがそれを結ぶコーディネータがいないのです。それこそ行政の仕事なんでしょうが、行政待ちでなく業界団体が真剣に取り組むべきでしょうね。
就職担当の先生方に資料をおくり説明会を開き、学校現場まで出かけるべきです。
この方たちがお元気なうちに。
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- 2019/01/05(土) 00:00:43|
- 伝統工芸
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お店のテーブルをはさんで目が合った時に、拒否的な方はそういう雰囲気を目に漂わせています。
あ、いい感じの人だなと思っても、そういう冷たく固い空気を感じるとついめげてしまいます。 でも「素敵な何かを持っていそうだな」という感じ撮ったことを信じて、話してみると硬い空気は霧散するということがありますので、ただパスするのはもったいないです。
ただ、「美人風な人」は、一瞬の視線のやり取りで「近寄らないで」感を鋭く放出してくることが多くて・・・・私のコンプレックスのなせる勝手な思い込みかも知れませんが・・・・私は人柄的魅力を確かに感じられる場合を除いて近づかないようにしています。
ですから私の写真遍歴に美人は貴重です。
と、そんなことは良いとして・・・。

この楽器の壺の口を手のひらで塞ぐように音を出したり、胴部にある穴もまた手のひらで塞ぐように叩くと「ボゥン」というような音がします。
これを壺に見立てた場合に底にあたる部分には水が封じ込められているそうで、それがまた音を少しコミカルなものにします。
全体は陶製です。

ネットで検索して見ると壺の口を上にして叩いたり、楽器を二つ並べて叩いたりする奏法があるようです。
単純な形だけに奏法の工夫はずいぶん可能性がありそうです。

この時には85ミリを付けていたのですが、50ミリくらいの方が、多様なアングルから撮れてよかったと思います。
店だなをはさんで撮らせてもらうケースの割合が多いので、ついやや望遠気味のレンズを選んでしまいます。
ミノルタの50ミリはとてもいいので、何時も持って歩いても良いのですが、荷を軽くしたい気持ちに負けてしまいます。
大した重さではないのですが、リュックを持ち上げた時にこれにプラス50ミリが加わるのかと・・・。

じゃあ、ズームを持ち出せばいいじゃないかという事なんですが、ミノルタの28-70、f2.8通しはこれまたいいレンズだと思うし、長い間、これ一本で通していたのですが、ボディーに付けた時の重さと言ったら・・・。
最近は出番がありません。
写真には体力、筋力がいりますね。

この日も良い人に出会いました。

- 2019/01/04(金) 00:00:38|
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ウドゥドラムというんだそうです。
皆さんご存知でしたか?
私は「お初にお目にかかります。」でした。
面白い音がします。 アフリカの楽器だそうです。

この人は森の手作り市の出店者の一人で、ご覧のような木工製品を販売されていました。

この店の奥の方でこうして何やら壺の様なものを抱えているので何かしらんと思ったわけです。

それにしても皆さん、実に様々なものに興味・関心をお持ちになるのですねぇ。
そして、ただ面白そうだなあで終るのではなくて、それを手に入れ演奏にまで発展させるのですから、・・・・人というものは本当に興味の尽きない存在です。

手作り市ですから多くの方は販売のために来ているか、いいもの見つけたら買おうか、それとも冷やかして歩こうかといってきているかです。
私は自己紹介では「人探しに来ているんです。ですから買いません。」と。

「人探し?」
「ワクワク感をたたえている人を見つけて写真に撮ることを楽しみに歩いているんです。それであなたを見つけたというわけです。」
まあ、大体この時点で撮らせていただけるかどうかの感触がつかめます。

その方自身が人に興味緒を持ち、自分が何かを楽しみ、あるいは取り組んでいるのだから他の人も何か面白いことをしているに違いない、そしてそういう人の気持ちは理解できるよというそんな思いを抱いている方は大概受容的で相手に親切です。
で、撮らせていただけることが多いです。
- 2019/01/03(木) 00:00:00|
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このミノルタの85ミリはほとんど常にマニュアルでピントを合わせます。
光が相対的に強いとEVFではよく見えなくなることがあります。いや見えているはずなのに私の目がだめなんのかもしれませんが。

お店を作っている傘をくぐって女の子が突然登場。
これはチャンスとシャッターを切ったのですが、焦り過ぎて絵描きさんの目を確認しきれませんでした。
取り逃がすよりシャッターを切れ!を原則にしているのですが、それでうまくいくのは何割でしょうか。でも何も撮らないよりはいいのだと思っています。

そうすればこういう事もあります。
無論、闇雲にシャッターを切っているわけではありません。が、期待通りに二人の視線の方向がぴったりと一致する瞬間があるかどうかは事前には分からないわけですし・・・。
ただ、その瞬間が、次のタイミングに「来るぞ!」と予感できるようにならないといけないなあと思っているのです。
手作り市に写真の店を出している方でとても良い写真を撮っいる方がいて、「来るぞ!」という感覚について、そういうのあるよね、そうなるよねと話しが弾んだばかりでした。

写真雑誌や写真関係のユーチューブで、もっとこういうことについて書いた(話した)方がいいんじゃないかと思うのです。日の丸構図がどうだとか、黄金分割だとか、あとはカメラの性能の事ばかりではあまり写真文化の前進には貢献できないように思います。




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- 2019/01/02(水) 00:00:53|
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