2018年ももう終わろうとしていますね。
今年もいろいろなことがありました。 政治・社会方面のことはいましばらく置くとして、
個人的には6月の「清水寺 世界友愛 100本のトランペット」もあり、写真集のための写真を撮らせていただき、予想以上の好評で喜んでいます。毎月辺野古の米軍基地建設地の反対運動を応援に駆け付けているシンガーソングライターの川口真由美さんの二枚目のCDが出されて、そのジャケットに写真を使ってもらいました。
大学時代の恩師にもお会いできたし、高校の同窓会にも出席しました。
そうした中で、多くの方が感じているように人との出会い、縁というものが深く心に感じられる一年でもありました。
12月になって何故かばたばたと瀋陽でつながりを持った若い友人たちに会って話し、改めてこのつながりのありがたさも思いました。
この人もその一人です。

その若い友人たちの内で今京都にいるのはこの人だけなのです。
他の多くは関東や九州などに行ってしまっていますので、その点は寂しい限りですが、そこも気を使ってくれます。
今日は久しぶりに一緒に食事をしようと待ち合わせです。
私の「撮りたがり」を広い心で許してくれています。 と、多分そうだと思います。

このブログも何とか継続してきていて、以前にも触れた「拍手」の累計もどうやら昨日
10万に届きました。皆様どうもありがとうございました。
写真を撮らせていただきブログに掲載させていただいた方も1381名となりました。
初めましての方も、繰り返しお力をお借りした方も、本当にありがとうございました。皆さんのご協力なくしてこのブログは成り立ちませんし、何より「人を撮りたい」私の欲求は満たされません。
人に話しかけ、写真を撮らせてくれませんかとお願いして「ああ、いいよ」と言っていただけるという人と人との関係が今の日本にまだあるということの一つの証明です。
「人を撮るって難しいでしょ?」の中に込められた人間関係の微妙さ、危うさに関する不安、疑いの気持ち。
そうなっていることの根底に対する批判にもならないし、解決の方途でもないけれど、それほど捨てたモノじゃないという状況もまた人が作らなくてはダメだと思う気持ちからです。

暗いと嘆くばかりでなくて自ら灯を点そうという呼びかけにも通じるでしょうか。
・・・・ただし、私は単なる精神論や、小さな行為でアリバイ作りだけする姿勢には反対ですが・・・・

この世界の否定的なこと、肯定的なこと、それのいずれも現実です。自分がどちらを励まし、どちらと手をつないでいくか、それが肝心な点だと思います。
見て見ぬふり、沈黙を守る、それが一番いけないことだと私は思います。
なし崩し、なあなあ、ずるずるべたり、強いものに巻かれっぱなし、いやその強いものにこびへつらいそれを自らの主体的気持ちだと偽る心・・・小さな世界に閉じこもり、小さな幸せで満足する・・・よく見られる心性です。
それを克服したいものです。

明日は新年が始まります。
人の知恵ですね。
連続する毎日に節目を付けて気持ちを新たにする。いいことだと思います。
でも、除夜の鐘とともに過去を水に流してさらりと忘れ、なかったことにすれば幸せに生きられるという様な奴隷の哲学は棄てたいものです。

今年の京都は雪のない大晦日です。
- 2018/12/31(月) 00:00:36|
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上賀茂の手作り市でお会いしました。
水墨で似顔絵を描きますというのが触れ込みです。

水墨でというからどんなに和風か(水墨については和風というより東アジア風というべきでしょうが)というと、豈はからんやむしろとてもオシャレな洋風のセンスです。
洋傘をいくつも重ねた装飾でお店を形作っています。
ベレー帽に〇眼鏡ですしね。時計から靴に至るまで神経の行き届いたオシャレです。

お客さんの絶えた時間をギターを弾いて過ごします。

撮影をお願いした時には「お客さんが来て、似顔絵を描いているところを・・・。」ということだったんですが、タイミング悪くこうなりました。
でも私にとっては却って好都合とも言えます。 というのは来年6月の個展は「音楽シーン」がテーマですから。

マイクをおいて歌い始めました。
マイクをセットしたからと言って、周囲に聞かせようと「拡声」するためのものではありません。録音しているようです。
この人の活動のベース地は神戸だそうで、異人館のある地区で似顔絵を描いているそうです。
他にもストリートの方がいるそうですから、今度は神戸にで出張ってみるのも良いかもしれません。ロケーションがいいですしね。
誰か力を貸してくれる人がいれば、一緒に言って撮影しながらというのもいいでしょう。それもとも向こうで協力者を見つけましょうか。

巨木の根に、石垣に、椅子に、背景の人、川の流れ・…とにかく要素が多すぎて画面の中を整理するのが難しい。
- 2018/12/30(日) 00:00:07|
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こちらに来てくれれば阪急電車の駅の入り口の照明が顔に届くのです。
それはいいのですがそうなると角度的に向こうに建物の二階の光が強く入り込んで、いわば逆光になるから難しい。
その逆光を利用して額から鼻、そして口へのライン、エッジを光らせる角度を探してみました。

向こうの建物からの光を避けるとこうなります。
顔の背景に文字情報が来るのも、あまりよろしくないですね。
でも彼は、案外ストリート感が出て悪くないんじゃないですか・・と言っていました。
なんでも教科書風の固定観念で見るようなことは捨てたほうがいいようにも思います。

ストリート感ということで、ではどうすればよりその空気が出るのか・・・。

不意に彼が目を細めたので、それをとらえようと思ったのですが、立ち遅れました。
オートフォーカスに頼るとフォーカスポイントの設定変更に手間取ります。
中央のワンポイントでフォーカスして画面をずらせばいいのですが、それまでフォーカスポイントを画面のあちこちに動かしていたので、そういう対応ができません。
その点マニュアルフォーカスを常用していれば、こういうときにも対応できるのですが。

X100Fはマニュアルフォーカスにすると、そのリングがデジタルテレコン調整リングでもあって競合するために、とても不便なことになるのです。その他の点ではおおむねよくできたカメラだと思います。
レンズの開放F値が2.0だという事もあるし、撮像素子がaps-cだということなどもあってフルサイズ一眼レフカメラには及ばないこともあるのは当然ですが、楽しいカメラです。

筆先に集中すれば、思わず口が開くことはよくあることです。
プロフィール的にかっこよく撮ろうと思えば避ける瞬間でしょうが、私の写真はこちらです。
- 2018/12/29(土) 00:00:33|
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「利き酒の会」があっての帰り道。
二次会も終わった時刻ですが、街はまだまだ家路を急ぐという気配ではありません。
隣では女性ボーカリストが道行く人の耳を集めています。

ほろ酔い加減の男性がその女性歌手に「投げ銭」するつもりで、間違えてこの絵描きさんの箱に入れてしまいました。
でも、ご機嫌なんでしょうね。「間違えたから返して」とも言えませんし、改めてノグチヒデオを彼女の箱に入れていました。

私もほろ酔いなんですが興味・関心はこちらの絵かきさん。
実はこれまで撮らせていただいた1000人を超える方々の男女比率に異変が生じています。
というのも男>女ではありましたが、その差は長い間4%弱でおおよそ52%:48%がキープされていました。それ自体不思議なことでしたが、ここにきてその差はどんどん広がり今や54%:46%と、8%強もの差が付くようになってしまいました。ですから実数としても100余人の差ができているということになります。
知人が私を紹介してくれるのに「80%は若い女性を対象にして撮っている・・・。」などという言葉はますます非現実的なものとなっているのです。

これは一体どうしたことでしょう。
全体として撮影のペースが落ちてきていますが、その減数の多くは女性を撮らない、撮れていないということが中身のようです。
女性を撮るときのある種の「煩わしさ」を越えようという気力が萎えてきているのかもしれません。

「おじさんシリーズ」をやろうなどと言い出したのがいけないのかもしれませんが、そう言いだした心理的背景もそこに通じているかもしれないですね。
女性に魅力を感じる気持ちに変化はないと思うのですが、・・・・おかしいなあ。
コンパネに描いているのですが、どうやら全国各地を回って描いているようで、その所々で絵を買い取ってくれる人や施設があるようです。
こんなコンパネ、どうやって運んでいるんでしょうね。

この場の照明の条件がとても悪いので、そのことをお話したら、グッとこっちの、比較的照明の届く所で描いてくれました。
この夜も寒さはさほど厳しくないのですが、これから冬が本格的になると大変でしょうね。
- 2018/12/28(金) 00:00:14|
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この講話には25名を超す方が参加されていましたが、池田氏の研究者に相応しい実証性と資料研究に深く頷いていました。
この会の後には、日本酒の「利き酒会」がありました。
この秋の新酒を楽しませていただきました。日本酒の多様な味わいは国土と杜氏たちの歴史的な技術・知識の蓄積との結晶ですね。

私はこの会の2,3日前に展示を拝見し、ずいぶんいろいろなお話を聞かせていただいた上に、写真も撮らせていただいていました。
それで、この会にあっても、当然のようにカメラを持ち出して撮っているというわけです。
ギャラリーのオーナーさんも好意的に見守ってくれていただけているおかげもあって、「あの人は何時でも写真を撮る人らしい。」とお客さんの中の何人かの方は諦めていただいているので、大変ありがたいのです。

先日、池田氏に写真をお渡しした時に「お別れの時の写真にしようか。」などと言われて、「そのための写真は20年後に撮ることにしましょう。」とお返事しました。
それは冗談ですが、やはりこうして偶然にもお会いして、文字通り「一期一会」の写真を撮ると、徒や疎かに撮れないなあとつくづく思うのです。

それは被写体となる人の年齢にかかわりのないことです。
ドキュメンタリーなポートレート。
「この人が、この瞬間、ここに生きた」 という、そういう写真が撮れたらいいなあと思います。

そうでしょ?! 池田さん。
- 2018/12/27(木) 00:00:53|
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私がよくお訪ねするギャラリーに「高瀬川四季AIR」というのがあります。
高瀬川仏光寺のすぐ近くです。
そのギャラリーのオーナさんと旧知の方で、関西大学で教鞭をとっておられた池田進さんです。

昨年は今日の街中の家々の軒などに飾られている「鍾馗」さんの像を探索し記録されて、そのバリエーションや由来などを調べられていました。今日の街の中心部のごく狭い地域に400を超す鍾馗さんを発見されました。
それを一冊の冊子にまとめるとともに、この四季AIRで街を歩いて撮りためた写真を展示されていました。

それが今年は「銭湯の像が噪ぐ」と題して、今日の神社仏閣などの建築物に飾られている「象」を求めて歩き回っておいででした。
そしてやはりそれを写真に記録し、冊子にまとめられました。

そうした像は文献から得た情報による想像上の怪獣として彫られたものが、やがて実物の像が日本に渡来して、その実物を見分したり、その記録から得たイメージで次第にリアルな像が造形されるようになります。・・・といえば、事は案外簡単なのですが、なかなかそうばかりも言えないようで、そこはやはり様々な要因が絡んで形像されているようです。

池田氏の調べによれば実物の像が日本に始めてきたのは室町期の応永15年(1408年)とのことで中国戦に積まれて若さに来たという記録があるそうです。
その後、足利義持が一旦入手したり、徳川家康も虎、孔雀とともに像を手に入れているようです。
そして広く民衆レベルでも目に触れたのが、徳川吉宗の時です。彼が発注して雌雄2頭が舶来しましたが、メス像は早くも3か月で死んでしまい、その後推す像は遠路はるばる江戸までの旅を死、吉宗も見物しています。京都では天皇にも拝謁しているのですが、貴族も5位以上でないと天皇の前に出られませんので、像にも位階が与えられたようです。「従四位」だったそうです。

さて、像の彫り物は神社のもんにも寺院の建物にも見られます。町中に散在する地蔵尊を祭る小さな祠にも見ることができます。
そこには明治期以前の神仏習合、さらにそれ以上に土俗的宗教(≒天の神地の神)も道教的なものも混交した宗教的意識の反映があると指摘されていました。
明治初頭の「神仏判然令」(神仏分離令)が、日本の宗教的な文化に大きな亀裂と打撃を与えた様子もうかがえます。

このギャラリーの良いところは、こうした文化的なサロンとして多くの人の学びや交流に貢献しているという事でしょうか。
昭和7年のお生まれです。
なんとエネルギッシュなことでしょうか。
私など、文字通りの小僧っこです。
- 2018/12/26(水) 00:00:36|
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あと10年もすればこういう姿も珍しくなるかもしれません。
どんな機器が生まれて来て私たちの生活を変えていくでしょうか。
今の私がそうであるように、今のこの若い世代の人たちが「最近の〇〇にはとてもついていけないねえ。」なんて会話する日が来るんですね。

どうやらお母さんから頼まれごとの連絡が入ってその返事をしているらしいです。
黄色のセーターにピンクのコートの裏地。何かスィーツにでもありそうな色の組み合わせです。

植田正治氏はずいぶん意図的で構成的な写真を撮っていました。
私は植田氏の写真はかなり好きなんですが、あのような演出をすることはできません。
その植田氏の演出的な構成とは違いますが、こんな写真が撮れました。
偶然ではありますが、ただ偶然だけだとも言えません。 そこがストリート写真の魅力ですね。
様々な要素が偶然に動く中で、ある瞬間をピンポイントでつかむにはそれなりのイメージをもって心の準備をし、適切な撮影ポイントをを予想して又俊敏に反応することが肝要です。
この瞬間の前にも後にもこの構成はないのですから。

タクシーが駐車場で止まらないでこのすぐ近くまで乗り入れてきました。
そして二人の男性がカメラを掴んで慌てて飛び出してきました。
この夕焼けの情景はほんの10分ほどで、いえ理想的に望むなら5分も経てば失われてしまうのですから。
彼らは大急ぎでこれを目指してきたのでしょう。

ただカメラの設定によっては明るさの時間は幾分は取り戻せますが、太陽の位置まで戻すことはできません。


- 2018/12/25(火) 00:00:11|
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もう7年も経つんですか、初めて会ってから。
随分大人になりましたね。
大学時代も、卒業してからもボーっと夢見ていた私などに比べて、この人は実によく自分の人生や社会へのかかわり方を考えています。

暫く関東で頑張っていたのですが、ほんのしばらく関西に戻ってきたのを機会に会いに来て来てくれました。
来春にはまた関東です。

「以前この辺りには一緒に観光に来たことがあったかなあ?
「どうも記憶がはっきりしません。来たかもしれません。
「まあその程度なら又歩いてみてもいいのかな。

まだ日の光があるので、耐えられない寒さというほどではないにしても、この服装ではこれからの時間帯は厳しいかもしれません。
この人が自宅を出るころはよく晴れて日差しも暖かかったと思います。


- 2018/12/24(月) 00:00:25|
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今日は「クリスマスのイブイブ」の日ですね。・・・・こんなことを書いているとチコちゃんに叱られるでしょうが。
家人が、自分の誕生日を忘れさせないように私に刷り込んだ言い方です。 私の誕生日を忘れることはあっても私が家人の誕生日を失念することは認められないようです。
まあそんな内輪話はさて置いて・・・。
今年もいよいよ押し詰まってきましたね。
TVではやたらと「平成、最後の・・・・。」などと言っています。それにどのような意味があるのか私にはトンと分かりません。「2018年最後の・・・。」だって史上一度しかない、二度とないのにねえ。
・・・・・・・・・・・・・・・
初めに正面からは撮らないでくれよと言われていたのですが。
つい先だって運転免許証の更新に行ったんだそうです。そこで証明写真を撮られるわけですが、「写りを意識して」服装も考え・・などしていったのですがあえなく「敗戦」だったそうです。
やっぱり正面から写真を撮られるのは嫌だと思ったそうです。 まったくもって同感です!! あれは写真機も撮り方も悪い!!
プリクラ機がこれほど発達しているのだからもう少し何とかなるはずでしょ?!と言いたいですね。
更新費用も安くないんですから。

特に珍しい欧州貴族に好まれていたというコーヒー お代700円也もあるけど、飲む?!

この方は今はパーカッション・太鼓(ジャンベ)をされているんだそうです。

ポートレート写真を撮っているあるプロ写真家が135ミリで撮るのを得意としていると言っていました。
私も挑戦してみましたが1対1の撮影では、少々遠くてなかなかものにすることができませんでした。
今日は別の事情があって80-200で撮ってみています。 手ブレ補正機構の支援がないと、ましてこんな暗い条件では、なかなか苦戦を強いられます。
が、これはまたこれで面白さがありますね。

被写体の前に何かを取り入れて撮る面白さがあります。
こうして席を離れて動き回って撮ることを許していただける場合には、長いレンズも可能性を広げます。
逆に50ミリではカウンターの中に入らねばなりません。それもまた許されることなら面白いのですが。
ピンは来ていませんが、おじさんシリーズにぴったりかも…。
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- 2018/12/23(日) 00:00:21|
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その喫茶店には、永島 慎二のコミックがあった。「漫画家残酷物語」「フーテン」・・・私もこれらだけは数冊持っている。「ガロ」「COM」を思い出す。他にもいく冊も永島の作品をお持ちだった。
私が長暇貧治に出会ったのは高校生のころ。多分、潤が教えてくれたのだと思う。
この人は中学生の頃だったそうだ。

モジリアーニの女性のような人物が登場し、目の瞳を白く抜いて描かれた何やらニヒルな空虚な表情をした青年男女がひどく印象的な絵だった。「フーテン」では労働や勤勉とは縁のない人たちの怠惰で退屈でやるせない生活が新宿を舞台に描かれていた。喫茶店では一杯のコーヒーで夜が明けるまでい続けて時には芸術論や「革命」の大風呂敷を広げる。明けた空の太陽の眩しさに自身の空虚で苦い一日に直面して目まいする若者。

「全共闘」世代には何か共感するところのある心理だったんだろうと思う。
若いころに写真を撮っていたそうで、・・・当然?モノクロフィルム・・・この人が少し探すとモノクロのベタ焼きプリントが出てきた。いや、うっかり「人物写真を撮って楽しんでします。」なんて言うものではない。
自動二輪でのツーリングもまた長年愉しんでおられる。

この店は先代が1970年に開店、それを80年にバトンタッチして今に至る、のだそうだ。

この町で仕事をしていた時には見つけることができていない店だ。こういう巡り合わせもあるのだな。

お店もそうだが、人もそうかもしれない。振り返れば、ふとそこにいたはず人が、ただ前を向いてばかりいたために縁なき人でしかなかったとか。
- 2018/12/22(土) 00:00:37|
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たまたまですがこのポスターには市会予定候補、府議予定候補、そして参院議員が顔を並べています。
皆女性です。
安倍内閣の政策は女性活躍社会を作るという事でした。それでそれを打ち上げた時には内閣にいくらかの女性大臣を入れましたが、本気でそういうことを考える総理大臣ではないので、今回の組閣ではたった一人。しかも問題だらけの人。
「世界の国会議員が参加する列国議会同盟(本部ジュネーブ)は2日、2017年の各国議会の女性進出に関する報告書を発表しました。193カ国中の順位で
日本は158位でした。前年の163位から順位を上げたが、先進国では依然最低水準でアジア地域でも中国(71位)、韓国(116位)より低い。」(共同)

総務省によれば2017年時点で「政党別では、
日本共産党は53.69%と唯一、女性議員の数が男性議員を上回った。一方、最大勢力である
自由民主党は3.08%にとどまっている。」とのこと。
男女平等はもう理念にとどまっていて良い時代ではないとおもいます。
自民党のやる気のなさを、しかし、男性は無論の事、世の女性たちもきちんとそのことをみていない。
事実を見て判断する思考が成熟していないからだろうとおもいます。

この人はこんな風に人前で意見表明をするような性格の人ではなかったように思います。けれど大学卒業後に仕事や子育ての経験から「生きにくさ」を痛感して、いろいろな社会矛盾を他人事としていられないようになったのでsでょう。誰かに任せていてはダメだとも思うようになったのでしょう。

支援に集まったいくらか高齢の男女から盛んに励ましの声が飛ぶ。ずいぶん可愛がられ期待もされているという感じでした。
古くからの知人としては多少誇らしい。

国政は国政でとても大切な分野ですが、こうした地を這うような社会の改善や主主義の実体化を進める活動こそ、庶民の力になると思います。ただ、それを議員を押し出せば事が済んだとしてはいけないので常に「自治」の参加者として議員を押し出した側の責任も感じていく必要があるように思います。
地方自治こそ民主義の学校だなどという言葉をいまさら引くまでもなことですね。

地方自治体の議会では保守系のオジサン議員たちのパワハラ、セクハラは目も当てられない現状にもあるともきます。
そもそも憲法14条など読み返す気さえないような人が多いようです。それが残念ながら女性においてもあまり変わらないことがみられます。自民党女性国会議員などを見ればその例に事欠きません。
そういう意味でもこの人の立候補には期待を持ってみているのです。

ついつい私たちは「日本の政治は・・・・・。」と大上段に物事を取り上げてしまいます。
でも私たちの生活のこまごまとした一つ一つのことは地方自治体のやはりこまごまとした政治・政策によって条件づけられています。これらが住民と共になければ、暮らしやすさは育たないと思うのです。
自民党政治のもとで自治体の広域化が進められて人々の暮らしと自治体とがどんどん離れてきています。それが広域化の狙いの一つですしね。民主主義が空洞化してきているといえます。
私たちが「政治は誰かにお任せ」という態度でいる限り、国政の民主化も実現しないと思います。
彼女が肩から掛けている名前の入ったタスキは支援者の手作りだそうです。
- 2018/12/21(金) 00:00:45|
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京都の長岡京市。ここの市会議員の補欠選挙があります。2019年1月に投票があります。
その補欠選挙に20年来の若い友人が立候補します。
今の日本の政治状況はもうほとんど砂漠と言っても良いような、あるいは腐り果てたゴミ箱の様なといった方がふさわしいかな。
選挙に出るということをある種の自己投機のように見なしている人たちがいます。例えば維新の候補者・議員のように。
そういう中で清新な風を吹かせてくれると期待できる人が立候補してくれたなあと思います。
議員になるということはそれはそれは大変なことです。ことにこの党からの立候補は。
政務費を事実上横領しようが、公選法に違反しようが、どれほど破廉恥なことをしようが「今後職務を全うすることでご批判にこたえていきたい。」などと一切責任をとらないで居座って破廉恥に生きて行けるような人ならともかく、こういう誠実な人に議員が務まるのだろうかと思います。
石橋湛山氏が言うように地方自治は市町村でこそ発揮されなくてはならないと思います。けれど日本の現状ではおよそ自治の名にふさわしい自治体は拡大鏡を持ってさがさねばならないのではないでしょうか。
ここ長岡京市でもJR長岡京駅の東口の様子を見ればこの市の政治の基本姿勢がよく分かります。これを異様とも異変とも意識できないような住民が多い街でこの人を当選させることができるのでしょうか。

定数は一で、民主党系からは立候補が今のところない様です。
そうなったときに民主党系議員やその支持者たちはどう行動するのでしょう。
そこに政治的民度と言ってよいようなものが現れてくると思います。

長岡京市には美味しい地下水脈があります。
これを近くのビール工場のために安価に大量に供給して、一方では市民には川からくみ上げて浄水した費用の高い美味しさの劣る水を供給するような政治をしてきています。
中央政府・国会が水道事業を民間に投げ売りするような愚かな法を作ってしまいましたね。市民の暮らしの基本的な安全保障を外国企業を含めた私的企業に投げ売りする姿勢を明確にしたと言えるように思います。
京都府が広域水道事業として各自治体の自主的経営を取り上げかねないのですが、そうなるとこの美味しい水はますます長岡京市民から遠いものとなると思います。企業に優先的に供給されることは目に見えています。
その時長岡京市として主体的自主的に住民本位の判断ができるでしょうか。
その時この人が議会にいたら市民の利益を代表して活躍するだろうと思うのですが、果たして今の市民はそういう判断ができるでしょうか。注目したいところです。
自由化、民営化=安価な供給、サービス向上などという「お話」を信じ込まされている日本国民の大方と同じ轍を踏みはしないだろうかと危ぶまれます。
国鉄民営化で北海道の鉄道がどうなったか、このひとつをとっても民営化の行きつく先は明瞭なのに。

まだ候補者になったばかり。「生硬」が服を着て立っているようなところがあります。誰でも同じようなことになるだろうからそれは責められないでしょう。 でも演説はよく準備されていました。
私の父がかつて県議選に出たことがあります。その時に元来生真面目一本の人だったし、柔らかい社交性を持つような人ではなくて誠実、無私を絵にしたような人だったから、大向こうをうならせるような演説は到底出来ませんでした。

まだ学生で「学生運動」の隅っこにいた私の方が「息子の方が演説がうまい。」と言われるほどのものだったのです。
元来、保守の牙城であるその地域で父が当選することなど誰も考えなかったし、運動員のほとんどは近くの他の大きな市に応援に行ってしまっていました。ですから、父自らが宣伝カーを運転し、応援弁士もなく、ただ一人で街頭演説をするという様な選挙運動でした。応援弁士は息子の私一人とかいうこともありました。(その息子の応援について相手陣営は「京都から全学連が応援を送ってきた。」などというデマを飛ばしていたのです。当時、ゼンガクレンなどと言えばヘルメットにゲバ棒というイメージが広がっていましたから、田舎の政治風土では効果抜群だったろうと思います。)
ですが、その真面目生一本の父は、長年の日々の地道な地域の人々の生活を守る活動によって受けた支持もあって、これまでの実績を倍する票を獲得したのです。
相手の保守候補は初めポスターさえ作らないという「楽勝ムード」から一転、大慌ての選挙対策、票獲得に走りました。
結局はダブルスコア以上の大差で負けはしましたが、大方の人々を驚かす善戦健闘だったのです。
おそらくはこの人も同じような旋風をまきおこすのではないかと想像するのです。
- 2018/12/20(木) 00:00:02|
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元来東北地方で作られていたものだそうです。
冬の東北では仏前に備える生花が手に入らなくてこうして絵柄を施したろうそくで代用したモノと言われているそうです。
それが京都に取り入れられて一層装飾的なものとなったようです。

和ろうそくはハゼの油分などから作られますがすすが少なく、炎に微妙な揺れが生まれて、独特の風情があります。

一層需要を喚起するために仏事とは違う世界にも広がっていきます。
今はクリスマス前ですから、サンタクロースやトナカイが見えます。神も仏もあるものか・・・ですね。
まあ蝋燭、キャンドルは同じことですからいいんじゃないですか。

この方は絵付師さんです。
着物のための下絵を描かれますし、元来はそちらの仕事だったようです。
今風に言えばピュア美術の日本画家さんたちも着物の下絵を描いたり清水焼の絵付けもして口に糊してきたのです。
『絵が描ける』ことでいろいろな世界でその腕を生かせるというわけです。
下の写真では、変わった動作をしていますが、これは筆の軸のお尻から息を吹きいれて水を含み過ぎた筆の先からその水を吹き出そうとしているところです。

紙や布といった平面に描いていた方がこういう円柱状のものに絵を描くのは初めはとても戸惑うそうです。
それはそうでしょうね。 水平線を描く、斜めの線を描くと言おうことを想像してみれば、私ならきっと蝋燭からはみ出てしまうか歪んでしまいます。
例えば扇面に絵付けするような仕事も日本画家はしますが、この形状の中に落ち着きの良いように絵を構成するのも難しいですし、扇の軸によってできる凹凸を計算に入れて・・・例えば山の頂点に人の目が来ないようにするとか・・・・書くのもまた和難しいわけで ・・・・・。

サンタクロースの帽子の縁にあるモコモコも絵の具を上手に持って単に絵柄というだけでなく質感も表現しています。

どの道も易しいということはないようです。
- 2018/12/19(水) 00:00:09|
- 工芸
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対岸から聞こえてきました。
かなり意識的に音を引き出そうと試みています。

単に良い音で正確に演奏しようとしているというのではなくて、そのよい音とはどういうものかを探求しているように聞こえます。
つまりジャズではどうか、ブルースで同じ音でよいのかというように。
同じjazzでも曲によって違うでしょうし・・・。

この事は写真についても言えるんだと思います。
適正露出とは、オートフォワイトバランスの色でいいのか、水平垂直は傾いてはいけないか、てぶれはいけない?! などなど。
もの撮りの時の光の当て方とポートレートとでは違うでしょうし。またポートレートという言葉で一括りにできるものではありませんよね。

絵や彫刻、あるいは音楽や舞台芸術などの世界に比べると写真は探求も広がりも未だしという感じがします。少なくとも私の身の回りでは。
私の演奏者の捉え方がまさにそれです。

この同じ場所で、写っている人が違っても置き換え可能な画面しかないということが問題です。

これはなかなか辛いところです。
この人たちを見る目、思想が一つしかないという事、それが進化していないことに問題がありますね。


そういう意味で、この人のように「教科書的な音を出してそれでよい」としないということが必要なんだと思いました。
カメラの可能性だってレンズの可能性だって試していないということが問題です。
それはいつも正解を求めることしかさせない学校と似ています。
画家も陶芸家も、そんな制作姿勢の人は大成していないのじゃないかなと・・・・足りない頭で考えてみたりします。
機材にも自分にももっと多様性、可能性があると思わないと面白くないですよね。
- 2018/12/18(火) 00:00:28|
- 音楽
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このお二人ともなかなかのオシャレですし、質の良い服を着ておられます。
それに比べて私は・・・・。
ズボンは自転車に週4日乗りますからお尻の辺りが擦り切れて白く色が落ちています。
安物のウインドブレーカーにくたびれたセーター。 みんな「安い!」ことが「ウリ」の販売店のものです。 色も質も決して良いものとは言えませんし、相当くたびれています。 これじゃいけませんね。

カメラ、レンズ、個展やグループ展の費用、週四日以上はほっつき歩いて昼は外食ですから、わずかな年金暮らしでは息が切れます。 腰に握り飯を結わえて歩かないといけませんね。

衣食足りて礼節を知る・・・・です。だから、やはり先立つものが必要です。
と、言うようなことは今はさて置いて・・・・。

現役時代の武勇伝だけに胡坐をかいているだけというのでは悲しいです。
ワクワク感をお持ちで活躍されている方にそういう方はまれです。
だからこそお話を聞いていても面白い。

「ある程度の年齢に達すると写真撮影をお願いしてもじたばたされませんね。」なんてあらかじめわなを仕掛けておいて「お願いできますか?」というのですから、私も意地が悪い。
そしてそういう罠に上手にかかってくれる余裕をお持ちです。

ご同業に進んだ私の幼馴染の名前を出して「ひょっとしてご存じではないですか?」
私よりどれだけ年長なのかを計り損ねました。 あまりにお若く見えましたのでそういくつも違わないのだろうと。
でも前に書きましたようにアラウンド・エイティなんですって。 驚きます。

この場におられたワクワクおじさんたちに勢ぞろいしていただきました。
- 2018/12/17(月) 00:00:24|
- 人物
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画家の寺田みのる氏です。
毎日新聞に連載されているのでご存じの方も少なくないと思います。
大手電器メーカーを早期退職されて、この道に進み、絵だけではなくて味のある字も書き、歌も歌い、人を楽しませるおしゃべりも秀逸な人です。

今日のジャンル分けが絵でも芸術でもなくて「人物」になっているのには理由があります。
これまでも時々書いていますが、私は次々回の個展か、あるいは、グループ展で「おじさんコーナー」を設けようかと考えているのです。その中にこの寺田氏のものを必ず入れようと目論んでいるのです。

高齢化社会、高齢化社会と否定的悲観的にものをいう向きが多いように思います。
少子化という事態を防ぎきれずに、なすすべなかった・・・というよりその気がなかった・・・保守政権の作為的な情報操作だと私は思っています。
人々の長年の夢だった長生きが歓迎されないなんて、そもそも歪です。
「経済効率」・「生産性」でしか世の中や人の生き死にを計れない強欲のお化けたちがこの世を牛耳っているからこういうことが言われるのだと思っています。
そういうことがいくら喧伝されても、どれほど嫌われても「世にはびこ」ろうとするのが人のごく自然な欲求です。
私はそうした高齢者「ワクワク人生」を大いに讃えたいと思います。

高齢期を「ワクワク生きる」ということが、実はそう誰にでも許されていることでないこともまた認めなければならないと思います。
そこに社会の責任、もっとはっきり言えば行政と私的企業の責任≒罪があります。
寺田みのる氏は絵の教室を開いて沢山の生徒さんと楽しみを共にしています。
この方はアラウンド・エイティの方ですが、その生徒さんのお一人です。
今日は先生である寺田氏の個展を見に来ておられます。

そしてこの方もまた同世代の生徒さんで、先の方のお友達です。

お二人がギャラリーの外を流れる高瀬川を眺めながら気持ちよく歓談されているところを、お願いしてとらせていただきました。
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- 2018/12/16(日) 00:00:17|
- 人物
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はたして「工芸」と言ってよいのかどうかよくわかりませんが。
「和歌から受け取ったイメージをデザインにおこし、繊細なレーザーカットと色で表現するアートワーク」だとDMに紹介してありました。

普段は東京でご活躍のようです。
言葉から受けるイメージを言葉のそれぞれの意味通りに画像にするのではなくてあくまで印象を画像に落とし込む、とそんなことのようです。画面に具象的なものも組み込まれてはいますが、それは作品としては副次的な地位にあり、全体は幾何学的な文様、デザインで表現されています。

レーザーかたーを駆使していますからミリにも達しない線まで表現されています。それは通常に切り絵などに比して・・・つまりカッターや、小刀を使った手作業で切ったものと比べて・・・・遥かに精度高く切れています。
私は和田さんという元型染め友禅の型を切っておられた名人の技を知っていますので、どうも和田さんの作品に軍配を上げます。が、手指ではできないレベルを実現している面があることは確かなことで、そこを最大限に生かせば、これはこれで当然良い作品も生まれてくると思います。

切るものは紙に限らないわけで木の板などもいろいろな厚みのものを切ることができます。

たまたまこの作者、遠藤朝恵さんを以前からご存じでその作品のファンだという方が来店し、作品をお求めになっていました。

私はつい先ごろ和田さんの訃報に接しましたので、こういう紙を切る作品を見ると、・・・・つい先日も型染めの染色作品を見ましたが・・・心穏やかではいられないのです。

かならず「岡崎のメッセの地下の伝統工芸の紹介エリアに和田さんの作品があるからぜひ見たらいいですよ。」とお勧めしてしまいます。
- 2018/12/15(土) 00:00:22|
- 工芸
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街に出るとクリスマスの飾りつけが目につきますね。アーケード下にはクリスマスソングが流れています。
今年もあと2週間余りになりました。
このブログを振り返ると皆様から寄せていただいた「拍手」の数が9,9200を越えて年明け早々には10万に達することができるかもしれません。まだいただいていない拍手を数えるのはどうかと思いますが。
撮らせていただいた方が1370名を超えて1400名に近づきつつあります。こちらの方は満8年になるまでには1400名を達成できればなあと思っています。
いずれの数字も大きいと言えば大きいし、未だしとすればなお未だしというものですが、まあ私の道程にとっては・・・それにその数字に特別の意味はなく、単に連続した数字の中の同じ『1』でしかないのではありますが・・・・一つの節目にはなるように思います。
そういう意味で・・・どんな❓…来年はまた一つ違ったステージに立てるとよいなあと思います。
まあ、こういうことは大晦日化、年頭に書けばよいのですが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
壁の向こうの見知らぬ青年の足を入れるというところが私の写真の特徴でしょうか。

キャプションを付けるとしたら
「さようならは言わないよ。」
でしょうか。

「あの日の君に吹こう。」

この日も比較的暖かかったのですが、11月ももうすぐ終わり。師走の声が聞こえます。
そうなるとこの辺りもさすがに寒くなります。
ある手作り市の出店者の方と「来月の同じ日には地元に出店するから、もう今年の内には会えないねぇ。これはお歳暮。良いお年を。」と。
ことしはじめての「よいお年を・・」のご挨拶と「お歳暮」でした。

この人も12月にはもうあまり無理をしないそうです。
そうなると「カエルや虫と同じです。」・・…どうやら冬眠に入るようです。

じゃあ、ちょうどいい時に出会えたねぇ。

来年の6月の個展には「是非見に行きます。」と言ってくれていますから、ますます頑張らないといけませんね。

もう実質6か月しかありません。
この写真も候補に入れておきたいと思います。

良い人たちに出会っているんですから、撮り続けるしかないですね。
では、良いお年を・・・。 今年2度目です。
- 2018/12/14(金) 00:00:00|
- 音楽
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鴨川を自転車で走っていると遠くから聞き覚えのある音が聞こえてきます。
このサックスの音はきっとあの青年だろう。 やっぱりそうでした。
「やあ、ご無沙汰しました。お元気でしたか。」
「はい、今日はここで・・・。」

今までも何度か演奏を聞かせていただいています。とてもお上手ですがプロの演奏家ではないと言います。
「たまに頼まれて応援に行くことはあるんですが・・。」と、時々ステージには上がられるんだそうです。

「あなたの音は柔らかく甘美なところがあっていいですねぇ。」
「きりりとした音を出す方もいるんですが、僕はこういう音が好きなんです。」
「吹いているうちに自身で聞いてこういう音をどんどん探し出してくるんでしょうね。」
「そうだと思います。リードやネックのところで音は変えられるんですが、やはり吹いていくうちに自分の好きな音に少しづつ近付くんですね。」

これは写真でも同じだなあと思って頷きながら話を聞きました。
この音はあの人の音だな、音楽だなというのでないとダメだと思うのです。 写真もやはり同じでしょう。
まず自分で、これいい感じだなというものを少しづつ詰めていくといことでしょうか。やがてもうはっきりと他の人とは違う何かかが現れてくるんだろうと思います。
記録写真じゃないんですから、やはり、そうでないと自分が撮っているという意味がないですしね。
とはいうものの・・・・。

というような話は、脇に置くとして。
この人に撮影をお願いすると、先ほどまで少し奥の暗いところで吹いていたのですが、光の届くここに移動してくれました。

僕でよければいくらでも撮ってください・・・ということで、貴重な時間を割いていただきました。
私の場合演出はないですから、ただひたすら一心に吹いて貰っているわけです。

鴨川族というとおかしいですが、この鴨川で偶然出会い、こうして交流できる人がいるのはうれしく楽しいものです。
もっとも私の場合はその先のお付き合いは広がりません。が、カメラがあればこそこうした若者との接点もできるのです。
そして、なんとこの人も時々私のブログを覗いていてくれるんだそうです。

ブログに足跡の残らない形でのアクセスしてくれている人が、実は幾人もいてくれるらしいことが少しづつ分かってきて、これはまたちゃんと撮らないといけないなあと改めて思っているところです。
「素敵な人たち」に加えてくれるんですか?なんて言い方をされる方さえいるのですからうれしいことです。
- 2018/12/13(木) 00:00:45|
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接着剤などは一切使っていないのです。
この方の名刺をいただきました。それにもこうした積み石のオブジェの写真が5つほど印刷されています。ですからもうベテランなんでしょうね。
「作品の展示依頼」があれば相談してくれとありました。
そして「Rockbalancing Artist」とも。 なるほど、ただモノではないはずでした。

私はこれらの積み石に感心したのは勿論ですが、人をわくわくさせるこうした見事なオブジェがいまここで、少なくない人にワクワクが伝播して、今まで積むためには平らなモノでないとダメという思い込みが打ち壊される「快」を共有して、石積みを楽しむ人たちの輪ができていることに一層の感銘を受けました。

これは芸術空間の一つだし、ある意味で、あちこちの既成の学校には見られないすぐれた学校だなあと思いました。





これがこの子の作品です。
ここからさらに正面と背後だけのある二次元的なものではなくて、四方八方から見られる3次元のものへと発展させ行きました。
「君は先生よりすごいものを創ったかもしれないね。だってほら君のはどちらから見てもかっこいいよ。」
「うん、上から見たら四角く見えるように作ったんだ。横から見たら船の形でしょ?!」
「この傾いた石、かっこいいね。」
「こっちは、ほらこいう風に傾いてるよ。」
傾いたものを立てられる。傾いたものの上に傾いたものを積んで立てられる。彼の頭の中で、それはもう少しも不思議なことではないのです。だから河原の石はみんなどうにかすれば立てられるものなんです。



- 2018/12/12(水) 00:00:48|
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今年の夏でしたか、若い外国人男女が鴨川の流れに入って、すっかり腰を流れの中に下ろして積み石に興じていました。
それにしてもこの積み石は難しいバランスを保っています。
どうやらこの人が「主犯」のようなのですが、周囲には子供も交えてたくさんのギャラリーと、やはり積み石に挑んでいる人たちがいます。

どの人と誰が親しい関係にあるのか、親子なのか、はたまた夫婦なのか、その組み合わせがまるでわからないくらいに混在してここで起きていることを楽しんでいます。
ここに生じている『場』は、まさに芸術空間と呼ぶよりないものです。

殊に子供たちの熱中度は大変なものです。お母さんが「そろそろ帰らない?!」と幾度声をかけてもまるで意に返さずにとっかえひっかえ石を選んでは積み上げています。
その情熱を引き出しているのが、この人です。何か指導めいたものや助言のようなことは一切しないで、ただ黙々と自らの課題に挑戦しています。
そしてそこに作られていく造形が子供たちの何かに火をつけているのです。

平らな石を探して積むのではないのです。できるだけ歪んだ、傾いた、いびつなものを探してはそれをバランスさせて積むということが、もう自然に楽しさとして周囲に伝播しているのです。
二つ目と三つ目と四つ目まではバランスが取れていないのに最後の一つでこれまでの全部のアンバランスの帳尻を合わせる解を探すのです。
そしてその最後の石自体が、これが立つの?という様ないびつさを持っているのです。
何度も何度も位置を変え、角度を変え、違う面を当てて解を求めます。

結果より過程が好きだとおっしゃいます。この過程は「禅」に通じるように思いますとのこと。
ご自身は「整体師」をされていて、この積み石をする過程で呼吸を整えて集中すると心身全体が整うと言います。
出勤前にこの積み石をすることがよくあるのだそうです。「そうすると調子がいいんです。」

子供たちは、驚いて不思議そうに眺めて、次からは「出来る」という確信をもって挑戦し始めます。
だってできるということを目の前に見ているからです。
そしてあんな面白い形をしたものが立つんだ。僕も立てたい!! そういう気持ちになるようです。

ここに教育にとって、子供の発達にとって極めて大切なカギがあるように思います。
分かりやすいことを分かりやすく教えているだけではダメなんですね。 ワクワクするような素晴らし実物を見ることが大切で、子供は山を自らよじ登っていくのです。それが楽しくてやってみたいからです。
安易に、こうしたらできるよ、なんていっちゃダメなんです。 目標を小分けして、どんどんできるから楽しいというのは、あくまで事の一面です。
殊に芸術教育においては。そして決して芸術に限らずです。
終わりから3枚目4枚目に写っている男の子の目。子供はこういう眼差しをもっているのです。
- 2018/12/11(火) 00:00:02|
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これが一番いいでしょうか。
晩秋の光も感じられますし。
ただエッジの光は他の写真の方がいかもしれません。

彼は頬に手を当てて歌っていますが、多分自分の声を聞いているんだろうと思います。
撮影後に「あの~、ええと・・。」と眼鏡をかけた女子が言いますので、「撮った写真を欲しいから連絡先を・・・。」という様な事かなと早合点をしました。
それで「僕もそう思ったから・・・。」とカードを渡そうとすると、「これ・・・・。」と定演のチケット意を出して購入して聞きに来てくれないかという事でした。

ここの交響楽団も、jazzのビッグバンドも合唱団もかなりの腕前ですから聞きに行ってもいいのですが、残念ながら会場がいささか遠い。
演奏にはいい会場らしいとは聞いているのですが、「ゴメンね。ちょっと遠いなあ。」

大学の補助はあっても自主的な努力で資金を獲得しなくてはいけませんから大変です。
多くのメンバーが他府県からやってきているでしょうしね。

大学の授業料や入学金は、高すぎます。
奨学金も利子付きの貸し付けが本流ですから、下手をすれば4年間で1000万円以上の借金を抱えることになります。
卒業してすぐさま高所得の仕事に付ければいいですが、それでも半借金奴隷状態です。それで青年が健全に育つでしょうか。
卒業して2,3年世間あるいは世界を見てそれで自分の将来を決めるような余裕はほとんどないのです。そこで躓けば地獄です。

私学ではこうしたサークル活動の余裕さえ奪われているんじゃないでしょうか。
バイトバイトで過ごしているようです。バイトから人生や世の中について学ぶなんて大人たちがしたり顔で話すのを聞くほど腹が立つことはありません。

保育園から小中高校、そして大学まで教育費を抜本的に下げるべきだと私は思います。
ここに「受益者負担」などを持ち込むのは根本的に間違っていると私は思っています。
大企業の経営陣の所得は賃金階層の人数の最大階層の賃金を基準に(所得の平均値を基準にしてはなりません)、その100倍を超えてはならないという法律を作るべきだと思います。
- 2018/12/10(月) 00:00:12|
- 音楽
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来年の個展では音楽シーンを取り上げることになっているのですが、楽器演奏ではない歌はどう取り上げようか時々考えます。
川口真由美さんの歌もいいと思うのですが、同時に、主としてステージ上でない音楽を取り上げるつもりですから、こういう被写体もいいなあと思いました。

「顔がアップにならなければいいですよ。」と承諾していただけました。
三人ともとても良い声なんですがことに男声が素晴らしい。声量も豊かだし、音域も広くて、高い音域も低い音も豊かに響きます。ずいぶん練習を積んでいることを感じさせます。
三人とも高校から合唱をしてきたのだそうですが「かなりレヴェルの高い学校で指導されたんだね。」と言いますと、「まあ、ぼちぼちです。」という言葉がしっかり肯定していました。

歌は体の傾きや腕の動きなどによってその様子をつかまえられる面があるとはいえ、やはり口の開け方や呼吸をとらえられないのは、なかなか難しい条件です。
彼曰く「歌う時の顔の表情はあまり見せれらませんから≒写真になるとどうも…。」と言うことらしいのです。
なるほど管楽器などでもそういう面がありますし、バイオリンやチェロなどだって一心に集中して音楽に入り込んでいるときには、「男前や美人が崩れる」ことはよくあることです。
でも多分今まで撮られた写真で痛い思いをしたのでしょうね。

けれどちゃんとお付き合いしてくれれば、なんだこういう写真になるのかと納得してもらえると思うのですがね。
音楽をする人は本質的に美しい良い表情をするものです。その確信がなくて撮るとおかしな写真になるんじゃないかと、私の偏見です。

このじゃじゃや馬レンズには手を焼かされることがままあるのですが、やはりいいレンズだと思います。
だから何とかして使いたいのですが、だんだんマニュアルフォーカスがきつくなっているのと、もう少しよいボディが欲しいなあと思うのです。 せめて5DマークⅡでよいから。

この時間帯は太陽もかなり傾いてきて、強く当たっていますので、難しい面があるのですが、それが却って水面やコンクリートの地面や向かい側の壁の反射光が大いに役立ってくれています。
橋の下部面でさえこんなに光が豊かです。
逆光ですが、大丈夫です。
モノクロは殊に光探しがカギですね。
- 2018/12/09(日) 00:00:53|
- 音楽
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鴨川では普段からいくつものグループが「ソーラン」の練習をしています。
夏の乾いた時期など大変な砂ぼこりで、そのわきを通るときには息を止めて目を細めています。
若者はなぜこのダンスが好きなんでしょうか。

私が見ていて一つだけいいなあと思うのは、彼らの指導するのは少しだけ先輩の経験者だという事です。
さらに年長の大人の指導者がいないことです。そこはいいなあと思ってみています。
「新」種目で、指導できる大人がいないと言う事でしょうか。あるいは一定年齢になれば「卒業する」という不文律があるのでしょうか。

この辺りでこうした人を盛ることはあまりないので話しかけてみると「京大でソーランの大会がある。」とのことでした。学祭の一環らしいです。
この人たちは大阪からの参加です。

手に持っているのは、どうやらお手製の三味線です。
「何に見えますか?」というので「多分三味線でしょ?! 」と答えると、そう見えますかとうれしそうでした。
踊りの小道具ですから、まあそれと見えればよいということで細かいことは言いっこなしです。

ポーズを付けてスマートフォンで撮影していましたから「僕にも撮らせてくれない?」という感じで近づいたのですが、集合時刻が迫っているからどうしようと、しばし逡巡していました。
もしよければ会場に来て撮ってくれませんかとも言われたのですが、何分今日は85ミリしか持っていないので、多分撮影は難しいと思うと辞退しました。
見も知らないおっさんに写真を撮らせることに躊躇する気持ちも幾分は働いたでしょうか。
撮影の後では「良い経験ができました。ありがとうございました。」といって頂けました。
撮影時間は5分くらいかなあという、慌ただしさでした。

「跳べますか?」と言ったら、喜んで跳んでくれましたが、若者にジャンプはよく似合います。
さすが、普段から決めポーズの練習をしているだけありますね。
- 2018/12/08(土) 00:00:55|
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今日は少しばかり暖かくて、こうして鴨川に出てきて楽器練習を楽しむ人が見かけられます。
ロケーションとしても絶好でしょ?! このお近くのお住まいだそうですが、鴨川も荒神橋から上流になると、まして賀茂大橋をさかのぼると、一段と環境がよくなります。
観光の人たちも四条や三条当たりの鴨川で「これが鴨川か。」と満足されないで、この辺りまで・・・う~ん、来てほしいというべきかどうか迷いますなあ。

街にクリスマスソングが溢れるころになると、さすがにこうして表に出て音楽を楽しむ人は激減します。
そうすると私にとっては実に困るのですが・・・、そういう時にでもがんばって寒さに耐えて練習をしている人を見つけると、一層とらせてくださいの気持ちが強くなるのですが。いえ希少だから言うのではありません。その熱意にほだされるからです。

こういうロケーションの中でこそ撮りたい写真はあるのですが、なかなか被写体の都合がつきません。
数日後にサックスの方をご紹介しますが、その方などはその方の音も含めて晩秋の色のロマンチックな感じにピッタリなんです。ご本人も、なるほどそうですねとおっしゃってくれるのですが、でも、だからと言って練習場所から遠くまで移動していただくことはできませんしね。そこが残念なところです。

こうして撮らせていただける方がいるだけで大いに感謝です。 感謝なんですが、それを漠然と続けているだけでは今一歩かなあと言おう感じもあったりなかったり・・。

まあ、私の写真は一面ドキュメントフォトでもありますから、難しいところですかね。

紅葉は楓だけではありません。

春と言えば桜、桜と言えばソメイヨシノ。紅葉は楓というステロタイプ化された多くの人々の右往左往は、あまりいものではないなあと思う今日この頃です。

オリンピックにも万博にも、そういう日本人の心性が見えているように思います。
- 2018/12/07(金) 00:00:14|
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季節外れというのもあながち悪くはないですね。
これが11月中旬以降だとこういうわけにはいきません。この源光庵の前の道路は毎年人やタクシーでいっぱいになりますし、今年も混雑することでしょうから。

ここでまた少し空気を変えて・・・・。
この人は肩関節などなどの可動域が広くて、とても驚かされます。
ですから、うっかりすると私にしたら、それはどういう具合になっているの?という姿勢や立ち方をします。
足の向きがちょっとおかしくない?!!? なんてことも。
でもそういえば中高生の頃の女子の中にも「指が! 肘が! 肩が!・・・・」と驚くような曲がり方を見せる子がいましたっけ。

この人はくりりとした目をしていてしかも両方の目の形も大きさもほとんど変わらないのです。
人の顔は一般的には左右で完全に対象ということはないのですが、この人の場合かなりバランスがよくとれていますね。
写真で見てもとても印象的です。

場所を移しました。
自動車で移動すれば、ものの5分と離れていない所なのですが、地元の人以外はあまり行かない場所です。
私は好きでたまにここで撮影をします。
この更に奥の谷あいに住んでいたことがあって、よく「豆しば」と散歩にも来たものです。

途切れることがないほど人の列の繋がる観光地から、ほんの少し先に足を延ばせばこんな景色になります。
金閣寺からも自動車で10分とかからないじゃないでしょうか。
この先間もなくのところに1000所帯を超える人たちが住んでいますが・・・私もつい先ごろまでその一員でしたが・・・、それを知らない人が自動車でここまで連れてこられたら、まして若い女性なら、大丈夫かしらんと不安になるかもしれませんね。

でも、大丈夫なんです。
この離合するのも難しそうな狭い道路をたくさんの車が行き来しますから、落ち着いて撮影ができないくらいなんです。
秋の景色の中で撮ろう、と言ってやってきたのはいいのですが、ひどい落書きですね。
いっておきますが中文もハングルもありませんよ。(しらみつぶしに確認したわけではありませんが)
こういうところに自分の名前を書いたり好きな人の名前を書いたりして、私が壁を傷つけましたと大宣伝する人の気が知れません。
中高生の仕業なんでしょうかねぇ。このロケーションが好きなんですが、こういう落書きを見るとガックリしますね。

この人の立ち姿もなかなかいいですね。
- 2018/12/06(木) 00:00:24|
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京都の寺院、あるいは紅葉の風景に関心がおありの人はここが源光庵であることがすぐにお分かりだと思います。
紅葉には少々早い時だったので、こんな感じです。 それで片方を翠に、もう一方を白にしてみました。
敷物が光を反射してくれなければ顔は真っ黒になるところでした。向かって右側に髪がかぶっていますしね。
レフを当てればもう少し明るくできるでしょうが、私としてはこれくらい幽かなのがいいと思って撮りました。

水平をとるべきでした。
どうも私はこうして傾くきらいがあります。
水準器が付いていると、ますます水平がわからなくなるのでした。
「根性が曲がっている」反映だろうと思います。というか、撮るときの気持ちが傾けるような気もします。

左側の上辺は水平に見えますが右の部屋は右下がりのように見えます。
これはレンズによる歪曲の影響?! ではなくて・・・・?
まあしかし、静かな画面にはなったと思います。
ただこの場では私の背後にカメラを構えた何人もの人たちが横に並んで盛んにシャターを切っています。

ですから他にも丸窓と四角い窓を背景にしてカメラに収まる人はいるのですが、そのわずかな間隙を狙って・・・。
面白いことにこの人がこうして静かに正座すると周囲がほんのしばらく静観してくれたのです。
だからと言って調子に乗ってはいけませんが、「おっ?! ちょっと本気の撮影だな。」と思ってくれたのかもしれません。
私は厚意に甘える側の立場ですからものの言い方に気を付けなくてはなりませんが、こういう意識というか文化は大切でもっともっと成熟しないといけないと思っています。
・・・・・・それを妨げる一つの要因が撮る側の傍若無人な態度ですが・・・・・・・

- 2018/12/05(水) 00:00:41|
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京友禅です。
図柄の輪郭は糊で防染されています。糊の主原料は米です。

天井にある室内照明用の灯りが黄色いので「ホワイトバランス」の調整が難しいです。
しかもそこに背後から自然光が射しこんでいますから、室内灯に合わせ切ると背景がぐんと冷たい青になります。
フォワイトバランスについては誰かに教えてもらわないとダメのようです。

今度若いカメラマンに教えてもらいましょう。
ただこうして色かぶりをしているのですから染料の色調整にも影響が出るのではないかと心配します。
手元の明るさは十分なんでしょうか。

京都や金沢など伝統工芸の盛んな府県でない場合だったら「伝統工芸士」に認定されるほどの人なら、下にも置かない待遇をされるんじゃないかと思います。が、ここでは予想外に粗雑な扱いです。・・・・あまりにも厚遇すると考え違いをする人が出てくるかもしれませんが、というようなことではないと思います・・・・
先日、 型紙彫刻師で京の名工であり、伝統工芸士だった和田 則昭さんが亡くなられたと奥様からお知らせがありました。
型染め友禅の型を彫っておられたのですが、その先行きに見切りをつけて、その技術を生かして新たに「型紙彫刻師」の道を切り開いてきた方です。
昭和15年のお生まれでした。享年78歳。早い死でした。
夏前にお会いした時には肌つやもよく「昼でも一緒に食べよう。」と誘っていただいていたのに・・・・・。
和田さんをネット上で検索していただくと紹介記事が出てきますが、そこには私が撮らせてもらった写真が使われています。気に入っていただいたものです。
和田さんをはじめとして京都の職人さんたちには温かく迎えていただいてきました。
ほとんどの方が快く写真を撮らせてくれました。
さて、この方がお使いのモノは片歯刷毛というものです。 斜めにカットされた刷毛の先の片方に染料を、反対の端に水を含ませてぼかしたり、グラデーションの表現をするものです。
斜めに切った鋭角の方を使えば、糊をおいた鋭角の線の隅にまで神経の行き届いた色のさし方ができます。

翻訳機があったらなあとおっしゃっていました。
観光で来られる外国の方もかなり専門的な興味を持たれる方がいます。
お互いにもどかしい気持ちですね。
せっかくこうして伝統工芸士が実演をしているのに、それを本格的に生かそうとしていない施設の姿勢・京都市の姿勢。

最初に和田さんにお会いしたのはこの階の下にあるトイレを出て来た処、狭い通路の前でした。
そこはここよりも暗くて冷たい感じの場所でした。
私が、職人さんをこんな風に遇するような京都の文化では観光客がいくら押し寄せてきてお金を落としていったとしても京都は滅ぶと勝手に腹を立てて嘆くのを、まあまあと言いながらいろいろなお話を聞かせていただいた日を思い出します。

私にできることはこうして職人さんを注目することぐらいしかないなあと思いながらこの日もレリーズしていました。
- 2018/12/04(火) 00:00:07|
- 伝統工芸
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皆さんは神社に行って神様を呼び出したことはおありですか?
ほら、あの太い綱を揺さぶって大きな鈴を鳴らすでしょ?! あの太い綱には房が付いているでしょ。そしてその房と綱の間には円柱型のものがあったのを思い出しませんか。あの編み様のもので包まれた円柱をこそ今作っておられるのです。

大相撲の土俵を囲む柱があり、屋根が下がっていますね。そして四隅には青房や赤房が下がっています。
あの房にも木をくりぬいたこういう円柱形の筒が入っているのです。 この方の作ったそれが。

「ご主人の作ったものがいまあそこにぶら下がっているの?!」
まあ、京都というところは、どうもそういうところなんですね。 時々本当に驚きます。

わざわざ手を止めていろいろな制作物を取り出してお話をしてくれます。
「忙しそうなのにすみませんねぇ。」「いや一日中ずっとこの仕事してたらシンドイし。ちょうどいいんや。」
手前にある機械はもう一部壊れていて、「わしがやめればお終いやから、わざわざ直すこともできへんしなあ。」

およそ丸いものは何でも削ると、そうおっしゃいます。
削るための道具も皆ご自身で研ぎ、場合によってはご自身で作ります。
自分に合ったものがいいという事もありますが、そういう道具作りの職人もいないのです。
たくさん揃えられた道具を受け継ぐ者もいません。

この手のたくましさからは到底80歳を超えた方とは思えません。
しかし、本当にご苦労様でした。

「おやめになった後、これを必要とする人たちはどうするのでしょう? 困るでしょうねぇ」
「まあ、困るやろねぇ。 そう思って続けてきたんやけどなあ。」
皆さん、これからどうやって神さんを呼びますか?
- 2018/12/03(月) 00:00:51|
- 働く人々
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京都にはたくさん縦横の道があります。
「丸 竹 夷 二 押 御池 (まる たけ えべす に おし おいけ)、 姉 三 六角 蛸 錦 (あね さん ろっかく たこ にしき)、 四 綾 仏 高 松 万 五条 (し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう)、 雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚 (せきだ ちゃらちゃら うおのたな)、 六条 三哲 とおりすぎ(ろくじょう さんてつ とおりすぎ)、 七条 こえれば 八 九条 (ひっちょう こえれば はつ くじょう)、 十条 東寺で とどめさす(じゅうじょう とうじで とどめさす)」は有名な通り名の唄です。これらの通りは東西に走るものです。
南北の道についてもあるようなんですが、よそ者の私はそこまで知りません。
自転車で行き来するときに少しいつもと違った道順を選ぶことがあります。
この日は丸太町通りよりさらに北に上がった上長者町通りを走りました。

昭和8年のお生まれだそうです。
「もうやめてもいいころやと思ってこの一年くらいで終わりにしようかと・・・・。」と考えておられるのだそうです。

しかし、です。
もし、この方がこの仕事をやめてしまったら、もうj京都には一人もこの仕事をする人はいなくなってしまうのです。
勿論「忙しくて休む間もない。」ほどの仕事が集まっているのですから、誰かが「じゃあ、私が跡を継ごう。」と思えば、仕事は安泰でしょう。・・・・たぶん。

以前は何十軒もこの仕事をする家があったのだそうですが、やはり西陣の衰退とともに減ってきたわけです。
そういう話を聞いては、撮らずにはいられません。

「わしの写真はニューヨークにもある。」
というのもつい最近もアメリカ人が写真を撮っていったから・・・・というのです。
私が、どこまでなら入っていいですか、とお訊ねすると「まあどこでもいいよ。そこら辺までなら大丈夫だろう。」と私の足元を気遣ってくれました。

「何時からされているんですか?」
「明治やなあ。」 「えっ?!」
先代から数えればそういうことになるのだそうです。 ご自身は「小学校を卒業するといくつになるかなあ。その頃からや。」というわけです。
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- 2018/12/02(日) 00:00:52|
- 働く人々
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