ここは鷹峯にある禅宗寺院です。
この部屋の様子を見て〇〇〇だとわかる人は相当に京都の寺院にお詳しいですね。
でも後程、「なんだ○○○か!」とすぐにわかる画面が出てきます。

紅葉の時期は本当に多くの方で賑わいます。
まだ少し早いこの日でさえもひっきりなしに人が来られています。
そして皆さん一様に静かに正座したり、縁に腰をかけたりしています。

この時はまだ紅葉はわずかに見られる程度でした。
拝観のかたがたくさんおられるので撮影は周囲によく気を配りつつ、この場を独占しないようにしないといけません。
とにかくカメラをお持ちで、わざわざここを訪ねて来て、気合を入れて撮ろうという方もおおいですし、またスマートフォンでの撮影の方も多いですから。

それで他にはだれもいないという風に撮るためにはいろいろ工夫がいるし神経も使う訳で・・・、そして何よりこの人の協力が必要なわけです。
とにかくいったん場所を譲っても、チャンスがあればまた静かに戻って、すぐにイメージの空気に浸ってもらわねばなりません。
そして時々二人でモニターを覗いて確認です。
狙いを共有しなくてはなりませんしね。

建物の柱や天井の濃い茶系の色の統一感もいいですし、モノクロにすると対象が独特のポップアップの仕方をします。
モノクロでは、案外に、唇の湿り気や、肌の若々しい滑らかさが光によって映し出されるものです。
だからカラーで唇のルージュの色が出るよりはかえって艶めかししさが出たりするように感じています。

「おっとっ! 突然 ドキッとするなぁ。」

じゃあ、向こうを向いています。 というわけではないのですが。
後姿を撮ってくださいという彼女の注文でしたが、・・・もう一カットありますが・・・・これはこれでとてもいいなあと思いました。
- 2018/11/30(金) 00:00:48|
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最後の曲は『サトウキビ畑の唄』
ボーカルの方がとてもお上手でした。 声楽を学んだ人のようです。
でもいかにもクラシックを学びましたよ~的な歌い方をしていません。こうした聴衆と楽しさを共有することのできる方のようでした。

このメンバーは皆さん教員だという事でした。このイベントには市教委もかかわっているんです。

画面奥でカメラを構えている方はどうやらスタッフのようでした。
こちらにレンズを向けるので「おやおや、お魔虫になりそうだ。」と場所移動をします。

聴衆の視野に入り込めませんから、どうしても遠目になります。
こんな時、80-200があればなあとも思います。

でも、その日持ち出したレンズで「覚悟を決めて」工夫をすることにしましょう。
今日はプラナー85ミリです。 これでマニュアルフォーカスで撮ります。


この衰えた目が恨めしい。
- 2018/11/29(木) 00:00:11|
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私は様々なイベント計画に疎いので世間の皆さんがどういう風に楽しんでいるのかよく知りません。
疎いのは私が人見知りで人づきあいが悪く、見知らない人と和気あいあいと楽しめない困ったキャラクターだからでもあります。
それでもリタイア後はいくらか意識して「初めまして」の人が集まる場所に出かけるようにしています。
自分でかなり背を押し腕でを引っ張らないと、なかなか踏み出せないのがげんじょうですが。

手作り市を見に行った後で「おや?!何か演奏している音がするぞ。」とその音のする方に歩いていくと・・・。
植物に関する様々な取り組みをしている方たちがそれぞれテントを張って広報イベントをする中で、一群の男女が演奏をしていました。

聴衆の主体は乳幼児を含む家族連れですから、選曲もポピュラーなもののようでした。
で、私が近寄った時にはもうすでに最後から二曲目が終わろうとしていました。
そこで曲と曲の合間に手ぶりで話しかけて「撮影していいですか?!」 「👍」
ということで・・・・。

私の狙いはこのカホンをたたいている青年。
後で聞くとパーカッションが専門のようでした。

どことなく憂いを含んだような表情のこの青年は公立小中学校で英語教師として働いているのだそうです。
人柄がよさそうですね。
- 2018/11/28(水) 00:00:28|
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水墨画家の小森氏である。
処は京都盆地の西北、宇多野の地にある妙光寺。ここは未(不ないし非)公開寺院ですが、特に許された人が時折作品展をします。
小森氏はその一人で、ここでの作品展では庭に大きな紙を広げて「ライブ」をするのです。

今日はライブのスケジュールに合えばそれも撮るつもりで来たのですが、・・・・残念ながら・・・・・。
前回撮った時には、彼が墨や水をぶちまけるものですから、思わず跳びのいたりしたことがありました。

彼はえらそぶった人物や作品が嫌いだし、常識の中に閉じこもった作品を認めないので、時にあちこちで衝突したり軋轢を生んだりするのですが、なぜかお互い馬が合うところがあって・・・・・全く自覚はないのですが、ある別の「怪人」としか呼びようがないような御仁とお話した時に、「あんたちょっと変わってるなあ。」と言われてしまう様なところが私にはあるようなのです。本人はいたって常識人・凡人だと思っているのですが・・・私がカメラを向けても嫌がりません。

今ちょうどこれまで書き溜めた?たまった?スケッチ画を見直しているのですが、実?はとても繊細なスケッチをします。
そして丹念な観察をしてリアルな絵を描きます。しかし、全体としては一見乱雑で偶然でしかないような絵なんです。その中にまさにきらりと描かれるリアルな小動物が大きな絵であれ乱雑な墨痕であれ一挙に現実世界の情景にしてしまうのです。

どんな人間でも・・おそらく・・人から褒められたいし評価されたい。あの人はすごいという人と並びたい・・そういう欲望を免れることは難しい。ただそういう欲望に対してどういう自覚を持つかということは、それぞれ大いに違うところとなる。
そういうことを時々気づかされます。
- 2018/11/27(火) 00:17:44|
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私は毎週、街の中心地にあるギャラリーを回って…ですから周辺部にはいっていないという事ですが・・・絵や写真を見せて頂いています。
プロの方のものもアマチュアの作品もありますし、その出来栄えも実に様々です。
それらの作品の前に立ち止まってしばし会話をするのですが、話が弾むものも時にはあります。
余り話が弾まないものもできるだけ肯定的に見ようとは思っています。

この部屋には三方に開口部があります。
この日は曇り空でしたから一方からだけ強い光が入るということもなく、程よく光が回ります。が、それでも大きく開いた東側からの光は主たるものとなります。
その光が若い肌をきれいに写しだしてくれています。

白い服を着て来てくれましたのであごの下に嫌な影もできにくいです。
実は私はこの時には白い上着を着ているのです。場合によってはレフとして使おうという魂胆です。
結果的には出番はありませんでしたが。・・・・というかその判断をし損ねた場合が多々ありましたという事ですが・・・

少し早い時間帯なのと、雨が降るかなというような天候とで、他のお客さんはたまたまあまり多くはないのです。
とはいってもあまり途切れることはなく、同じ部屋に数組のお客さんがいることは珍しくないというところですので、こういう撮り方はチャンスを見つけるのが難しいです。
「寝てみてくれる?」「はいっ。」と即座に動いてくれるからこそできるので、「うん、どうしようかな。」なんて言う事ではまた誰か階段を上がってきてしまいます。


京都府警の科捜研に出動を要請しないといけない・・・・・なんて冗談を言いながら・・・・。


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- 2018/11/26(月) 00:00:27|
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この背景を見れば、「ああ、ここには、行ったことがある。」という方もおられることでしょう。
この人もずいぶん喜んで「今度は着物を着て撮りましょ!」と次の機会にも大いに期待してくれました。
ある写真関係のユーチューバーも言っていましたが、こういう写真を撮ってフォトマヌカンさんに「楽しかった」とか「また撮りたいですね。」と言っていただけるのはとてもうれしいことです。
そうすると、今度はこういう風にとかああいう感じでと一緒にイメージを膨らめていけます。そうなれば服やメイクやその他その他で、ずいぶん工夫してもらえます。
私には先輩のように服を買ってあげたりアクセサリーをプレゼントできるような資金もつもりもありませんしね。

そのうちに撮った写真を売ったり撮影料金をたんまりととれるようになったら、そういうこともしてみましょうか。
いや、やはりやめておきます。そういう事は私の性に合いそうにもありませんから。
こういう写真はもうちょっと先にいくぐらいでいい加減ということにしておくのが私にはいいんです。

でも、もう少し先まではいってみたいですね。
ただ、肝心なのは何が「先」なのかという事ですが。

畳の部屋で、しかも由緒ある建物ですから、次第に気分が、それに応じたものになってきているようです。
言葉で指示してこういう空気を出してもらうのはとても難しいでしょうが、建物や庭がこの人の持つものを引き出してくれるような気がします。
前回や前々回の写真とはずいぶん違う感じです。また一つこの人の魅力を見つけた気がします。

これは、年賀状に使えそうです。
和服の撮影の時に教えたもらったようです。 そういうモデルもしていますから。

よく写真展で見かけるキャプションに「凛」とか「凛として」とあるのを見かけます。
そういうのを見ると、その言葉を使いたいだけで写真の絵とはかけ離れているなあと思うことがしばしです。

- 2018/11/25(日) 00:00:48|
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あいにくの天候でしたが、私の構想としては、和風建築で撮るという事でしたから、屋根の下が基本となります。
雨が降ると、傘も持って歩かねばならず、結構嵩張って大変になります。
だから雨に降ってほしくないし、傘はもちたくないのですが、建物から駐車場までの間にふられるとこの人を濡らすことになりますから、どうしても最低一本はもって歩かねばなりません。
それで、結無理して持参したもの、この日ある場所で私は自分のビニール傘を置き忘れるという、想定内の残念なことになりました。

極うす曇りならば光が柔らかく回って好条件でもあるのですが、雲が厚くなると、屋内はやはり暗いので、そこがまた難しい。
もう、何回目になりますかね。 次第に早い時間帯から打ち解けて撮れるようになりました。
この場所は通りかかった場所ですが、色がマッチしている場所でしたから、他にも何枚か撮っています。

ずっと以前にも書きましたが、私の旧職の大先輩にとてもとても写真撮影が好きで、しかも相当な腕前の人がおられました。
その方が、やはり若い女性を被写体にして撮ることがよくあったのですが、「僕はね、モデルをしてくれる子に着てほしい服は一緒に買いに行っていって、撮影後にはその服はその人にあげるんだよ。それに、もし沖縄で撮りたいと思ったら旅費や宿泊費も僕が負担して一緒に撮りに行くよ。」と言っておられました。
見せていただいた写真は、本当にレベルが高いものでしたし、モデルをしている子もまた「モデルする」という気概がはっきり見えるものでしたから、ずいぶん感心したものです。

ただその素晴らしい写真を見ながらも、私には到底まねできないことだなあと、驚きもし、一面、当時の私としては、呆れもしていました。
でもそれが、ある種の「覚悟」というものかもしれませんね。

さて、話は変わって、・・・・。
以前は、レッスンを受けているせいもあってレンズを向けると、瞬間的に学んだポーズと表情を作ろうするTさんでしたが、ようやく、教科書通りでない表情やポーズが出るようになってきています。
この人は他でも撮影の機会がある人ですから、まるきり素人というわけではないのです。
ですが、そこはやはり人間ですから。

この建物には見学者というか観光の人もたくさん来られますから、なかなか自分勝手に思うようにはいきません。もしろ逆にご迷惑になったりお目障りになったりすることは極力避けなくてはなりません。
受付の方もご厚意で・・・撮影が禁止されているというわけではないのですが・・・・大目に見てくれている部分もあるのですから、決して「出入り禁止」なんてことにならないようにしなくtれはいけません。
それは他の同好の士のためにも・・です。
- 2018/11/24(土) 00:00:46|
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中央政府は勿論、京都市も府も本気で伝統工芸を存続させようとしているとは感じられません。
とにかく目先の利益を上げることに夢中で近視眼的です。
「日本に京都があって良かった。」などと言っていられるのは何時まででしょうか。

伝統文化の健全な存続と活性化はナショナリズムを厚くするためにも不可欠だろうと思うのですが、どうもそういう視点からもあまりお金をかけずに道徳教育か何かで事を済ませる安直を感じます。
他国を貶め空虚な自国誇りを煽るより先に自国のこうした文化遺産を現に生きたものとして成長させることにもっと心血を注ぐべきでしょう。

これまでも何度も書いてきましたが、少なくない職人さんたちはもう手遅れだろうと言っています。
そして職人さん一人一人の力ではどうしようもないほどの「限界状態」に既に達していると言います。
新自由主義的な発想では到底、こうした伝統工芸は存続しないでしょう。 存続できないのは人々の要求に応えられない業界の責任だから滅んでいくのも仕方がないなどと言ってのける人もいます。
こういう発想で文化を語るのはとても危ういし浅薄だと思います。

世界文化遺産への登録運動も、それが達成された暁での経済効果を正面に建てる議論がありますし、地方の文化遺産も「観光に役立つかどうか」をフィルターにする人たちが多いですが、こうしたモノの失われたもうかるものだけが残った平地で私たちはどういう精神的・物質的文化を呼吸するのでしょうか。
私は国粋主義者ではないし、日本万歳主義者でもありませんが、私たちが共同社会として誇りうるものを共有できないとすれば落ち着きと品のある共感しあえる社会を作りうるでしょうか。国際社会にどう生き残れるでしょうか。

有能な研究者や芸能者・芸術家、あるいは経営者や技術者たちが亡くなったという話を聞くと、その人一身に積み重ねられた知恵、知識、技能などなどが失われることを思います。

「民族的な文化」もまたしかりです。
- 2018/11/23(金) 00:00:32|
- 伝統工芸
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「絞り」の手法にはいくつかあります。
桶絞りなどというものもあり、この方はその桶絞りもされるという事です。
この写真の技法は「帽子絞り」です。

染の際に糊や蝋をおいて防染する技法に対して、絞りは糸で括って圧力で侵染を防いだり、桶の中に閉じ込めて染まるのを防ぐ手法です。
ですから相当なテンションで糸を引き、括らねばなりません。

ですが素人がやると、緩いのは無論ダメですが、力任せでは糸を切ってしまいます。
職人さんが糸を引っ張ると「ビキッ」という音がしたり「キリッ」「キッ」と糸のきしむ音がします。 かなりの力が瞬時にかかりますが糸は切れません。

ある個所を括れば、別の個所を括るために一旦糸を切りますが、いちいちはさみなどを使っいては能率が上がりません。ですから、こうした刃物を台に打ち込んで、その刃に糸をかけて切ります。一瞬の早業でまさに「目にもとまりません。」
この方はカッターナイフの刃を利用されていますが、肥後守を使う方も多く見かけます。

帽子絞りだけではなくて様々な手法についいてお話をしてくれますし、ゆっくり作業をしてくれたり、一旦ほどいたりと、懇切に見せてくれます。
私がいろいろ質問するせいもあるのですが、業界の実情やこうした工芸的な技の将来についても心配されていることなどを話してくれます。

大変不遜な話になりますし、いい話ではないのですが・・・・様々な写真家が、いろいろな動機や目的で職人さんの写真を撮っておられます。それらは業界や行政が宣伝や広報のため、あるいは記録として残すために撮られています。そしてこうした伝統工芸の現役の職人さんは、あと数年で一挙におられなくなります。そうなると・・・・・こうして私が撮っている写真が職人さんたちの生きた制作の姿(残念ながらご自身たちの工房での本当に使っている道具、器械ではないのですが)はもはや撮ることができなくなります・・・・・・・・私の写真は歴史的に貴重なものとなってしまいます。
- 2018/11/22(木) 00:00:05|
- 伝統工芸
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待ち合わせでしょうか?
秋の日差しがちょっと眩しそうです。

この辺りはちょっとこざっぱりとした街並みにするはずだったんですが・・・・、いえ、いくらかはおしゃれな雰囲気があります。

画面に入れる信号の色を赤にするか緑(青)にするか、それとも黄にするか、それで画面の温度が変わりますね。
通りかかる車の色も大切ですが、なかなか思うような色の思う様な車種の車が通ってくれません。

現代の子は我々世代と違てプロポーションがいいですね。
スポーツウーマンのこの人は細すぎないので私はお気に入りです。
私は走れないような足は好きになれないんですよね。
ファッションモデルなどにノックバットのような足の人がいますが、・・・たぶんそうした人は単純に細いのではないのだと思いはしますが・・・・そういうのはどうも。

私より背も高いので、・・・・多分、心遣いだと思うのですが・・・・ヒールの高い靴は履きません。
ある南米の写真家の撮影の様子がユーチューブで紹介されていましたが、その人はおそらく190センチ以上あるようです。
そうなると脚はがいりませんね。一面羨ましい。その長身で道路上に寝て俯瞰の写真も撮っていました。
この人の撮影の様子は実に参考になります。

秋の気配を写し込みたいのですが、イチョウ並木の色づきも今一つでした。
- 2018/11/21(水) 00:00:14|
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先日ある若い女性とお話した時に「こういう写真を撮るためにどんな風に言ってモデルをしてもらうのですか?」と尋ねられました。
その時には、何しろ目の前に美味しい食べ物とお酒がありましたので、それに応えるタイミングを外して、何も答えないで終りました。
それで、撮らせていただけないかとお願いしたのではないのですが「私でよければ、どうぞ。」と言っていただきました。

何か不思議な感じでしたね。
その方は私のFBにアップした写真はご覧になっていてくれます。FBには今日の人もオクラのように成長された人も、アップされています。そしてそれに「いいね」をしてくれていましたから、特に悪い印象はお持ちになっていなかったのでしょう。

私の写真にこうしたかたちで力を貸してくれた人はそれほどたくさんいるわけではないのです。
私がこのブログにアップさせていただいた人々約1360人ほどの中で、3,4%くらいの人でしょうか。
いわゆるモデル探しは、私にとてもとても難しい問題なのです。

「いいですよ。力を貸しましょう。」と言っていただいた人でも、結局どういう訳か実現しないケースも少なくありませんからね。
ですから昨今の若い女性に対する不信感は半端じゃありません(笑い)
女心は何時まで経っても読めません。
ですから、この人や数日前の人などは殊の外今の私には貴重な存在ですね。
こんなこともしてくれますし。

「ポッキー、食べます?!」

なんだ、くれだまし?!

君が食べちゃうのか?!

- 2018/11/20(火) 00:00:55|
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「ポッキーの日」じゃなくて「ポッキー&プリッツの日」だそうですが・・・。 まあグリコの戦略に乗せられる必要もないので。
撮影のために「小道具」を準備してくれました。 私の要求に応えて、というばかりではなくて自身もこういう写真にしたいという気持ちが乗ると、やはり表情が変わりますね。
ある写真家がモデルと撮影者とは写真制作にあたって「50:50」だということを言っていますね。

これとても大切な考えだと思います。フォトマヌカンを尊重しないといけません。(その点でまたある写真家がプロのモデルの場合にはお金を払っているので100%写真家の方に、どう撮るか、どの写真をセレクトするかという決定権があるという内容のことを言って、それをずいぶん強調していましたが、私はそれには同調できないなあと思いました。プロとしてモデルを引き受けた以上は素材として使われることを受け入れたんだからとそう考えてもらわないと困ると言うことだろうと思います。それはそれで一面正しいと思うのです。が、そこにやはり人としての尊厳を傷つけない付けない限りという厳然とした制約を意識すべきだと思うのです。そうしないと絶対的な支配のように・・・相互に・・・思い込んで、パワハラ、セクハラの温床になりかねない意識を広めてしまうことを恐れます。)
私など技術も考え方も足りない者にとっては「70:30」とか「80:20」でフォトマヌカンを選んだ時点でほぼ勝負は決まっている・・という感じです。
そして被写体を引き受けていただいた人の魅力を少しずつ一緒に掘り起こしていきます。

この日は、私の希望でほかの場所で、既に撮って来ています。
曇りの日で雲が厚くしかも15:00くらいですから光が足りないのですが、私の悪い癖で5DのようなカメラではISOを上げるのに躊躇してしまうのです。
そうであるなら別のカメラを選択すればいいのにプラナーを使いたいという思い込みが先走るのですね。

実際5Dに不満はあってもプラナーで撮った写真がうまくはまるととても魅力的な絵になるので使いたくなってしまうのです。
強い光の下ではあまり良くなくて、柔らかい光の状態で特性を発揮しますが、弱すぎるのでもこれまたまたダメなんです。

私としてはこのレンズをフジのカメラに付けたらどうなるんだろうと想像してみるんです。

少女の面影と大人びたレディーへの成長とがせめぎ合っているのですが、こういう小道具は可愛らしい側面を引き出すようですね。
立ち位置こそ指示しますがポーズ、表情は基本、お任せで楽しみます。
ある写真家さんが「モデルに撮らされてはダメだ。」と強くおっしゃっていましたが、それは多分プロの写真家の要件じゃないでしょうか。

その写真家さんは私の写真を見て、最初はとても高く評価してくれましたが、その後ダメだダメだとおっしゃいます。
せっかくのご忠告も「馬耳東風」「馬の耳に念仏」で大変申し訳ないのですが。
- 2018/11/19(月) 00:00:24|
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11月は比較的に穏やかな天候で推移してきましたね。
初夏から秋にかけてのとにかく「超」「猛烈」が連続して付くような激しい天候がウソのようです。
が、紅葉の木々にその夏が色濃く刻印されているようです。
青春期の「疾風怒濤」も、良かれ悪しかれ遠い未来にその影が伸びますね。
私など人生が至極単純でしたから、それだけに過去を上書きするような大事件、大感激もあまりなくて、何よりその時期ごとの思いの背景には常にあの「疾風怒濤」の色が射していました。
そういう思いでこの人のような若い人を見ていると、撮るときの気持ちに「今を大切にね」なんて年よりじみた思いがこもってしまいます。
まあそういう意味では私の写真はどこまでもプライベートフォトを抜けないのだと思います。
20代30代で写真作家を志望する人たちとはそこが大きく違うのかもしれませんね。

ところで、ある写真関係のユーチューバーの動画(サンセットスタジオTV)で、ポートレート写真を撮る人の「べからず」集をテーマにしていました。
モデルを経験した人から見てということで、それが良い視点でした。 題して「こんなカメラマン嫌だ!」
その第1が「撮影者は清潔に…つまり不潔じゃだめ」だという事でした。 「清潔感の無い人は嫌だ!」でした。
う~ん、こんなことが最初にあげられるんですね。 写真家≒芸術家≒普通と違う感性を持っている人≒世間の常識にとらわれない生活をする人 なんて連想から来るんでしょうかね。

写真を撮っているというだけで自分は特別な人間なんだと思いう込む人がいることは「撮り鉄」をはじめとする?非常識人間・非常識行動が話題になりますね。
人に貴重な時間を費やしてもらって、しかもその人自身をさらけ出してもらうのに敬意を持って臨めない人は(それが服装に現れない人は)、まず、はじめの一歩ができてないという事でしょうかね。

「カメラマンがボロボロだと一緒に歩くのも嫌だし・・。」というのはよく分かる気がするなア。
私なんかこういう人たちと何十歳も年が離れていますから、そんな高齢者と一緒なのはそもそも嫌だと思われたんじゃあ話が始まりませんからね。

2~5については一応及第点かな。
今度そういう観点からこの人にも聞いてみよう。
- 2018/11/18(日) 00:00:31|
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この建物は1928年に竣工されたビルで元は毎日新聞の社屋だったもの。
築90年?!?! 常に手入れが必要な建物でしょう。
ここには地下のカフェ・アンデパンダンや地階のギャラリーなどが入っている。
私は毎週このギャラリーを訪ねることにしている。

現在は地階奥の広いスペースとその入り口右にあるスペースとがギャラリーとなっている。
その狭い方のスペースで二人展がされていたので見にはいったのですが、たまたま作家が席をはずしていたのと、窓の・・・・この窓がとてもいいんですが・・・外に外装工事の若者が見えたのです。

いったん外に出て建物をぐるっと回り、「すみませんが部屋の中から撮らせてもらっっていいでしょうか? 働く人を撮るのが好きなもので…。」とお願いして了承していただきました。
壁面のクラックなどの補修をしているのでしょうか。 シーリング材のようなものを外壁面に塗っています。

日本の大企業におけるモノづくりが深刻に退廃をしている現状が明るみに出ています。
それはただモノづくりや経営において退廃が進行しているのじゃなくて、企業文化がそうなているのだし企業を構成している日本の働く人々の意識がそうならされてしまっているのではないかと恐れています。

それだけに、私は街の中でこうして働いている人々の真剣な表情を見て、そこに反証を探そうとする気持ちが生じるのを抑えられないのです。
景気刺激のためにギャンブル導入に奔走したり、安全保障の戦略物質である水まで海外の大資本に売り渡そうとする自公(維)政権の政治姿勢を見るにつけ、腐敗退廃がこういう現象として現れるでる原となっている日本の経済界の在り方はよほど深刻に退廃しているのだと思います。

私がよく利用するある中華料理店の厨房のステンレスの壁や換気扇のカバーは、それは見事に拭かれています。猛烈な油が毎日毎日ついているはずなのに、少しの曇りもなく毎日綺麗に拭われています。
店長にそのことを言うと、「それは基本だからね。これができていない店は結局ダメになると教えられたし、自分でもそう思う。美味いか不味いか以前の問題だと思うよ。」と答えてくれました。

そういう真摯さ、真面目さが日本のすべてのトップから失われてきているというのが悲しい現状じゃないのかなあ。
そういう日本に失望したくないから写真を撮ってるというのも本当のところです。
- 2018/11/16(金) 00:00:01|
- 働く人々
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在日44世だそうです。
歴史的事実としてそうだというのではなくて、そういう意識だということだそうです。私はこの自己意識に敬意を表します。
この日鈴木氏から伺ったお話はとてもかいつまんではかけませんので全省略です。
ただこの人は万葉集の歌から当時の女性を思い描いて・・・女性だけではないのですが、私同様に殊の外女人がお好きですから・・・・おられます。

そのためにたくさんの魅惑的な女性をモデルに描いてこられたわけですが、今度何回目かの個展をレています。
そして来年向けのカレンダーを発表。カレンダーには万葉集からの和歌とそのイメージの女人が描かれ、毎年大好評なのです。

今日は鈴木氏が講和をされてその後ワインでレセプション・パーティーです。
私も参加するつもりでしたが、参加者が部屋にあふれんばかりでしたので、お尻一つ減らすつもりでお話を伺ったあとに中座しました。
次々回の個展では「おじさんシリーズ」を展示しようと思っているのですが、この一枚も加えようかな、と。

あるギャラリーノーのオーナーさんが料金は考えるからぜひうちで個展をしろと誘ってくれるのです。
それでじゃあ目下を意識している「おじさんシリーズ」・・・・・ほぼ60歳越えのワクワク男たち・・・をやろうと言ったらば、それはダメだ、それではお客は入らないと言われてしまいました。
じゃあどうすればいいの? 無論、若い女性でやってもらわないと・・・。
という訳で交渉不成立というわけです。

「若い女の子とポートレートなんかじゃくて、おじさんやおばさんでやれよ。」という様なギャラリーでないとね。
と、いつもお互い突っ込みながら仲良くさせてもらっています。
それでやっぱり「おじさんシリーズ」は是非やりたいと思っているのです。 たとえ会場の半分であってもね。
私はこの会場に来たタイミングが悪く、最前列のいすしか開いていないと・・・・・。
で、その列の一番端に陣取ってできるだけ目障りにならないようにするのです。
私が写真を撮らないではいられないということはこの会場のオーナーをはじめ、参加者の一定数と、鈴木さんご本人も既にご承知なんですが、一応遠慮がちに・・・・。
今日は私のほかにも写真家がお二人参加されていたようで・・・。

照明状態はあまりよろしくないのですが、ご本人が「あんまり照らさんといてくれる。」というのを、オーナーを促して一灯だけ斜め下から・・・・。それじゃあ角度が悪いなあと思っても言い出せない私でした。
ここは撮影のための会場じゃないし・・・という意識がいつもと同じようにもうひと押しを遠慮させてしまうのです。

そんな風だから君の写真も伸びないんですよ、なんて言ってくれているわけではないのです。
- 2018/11/15(木) 00:00:38|
- 絵画
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ドアノーの写真を見て思うことの一つに「モノクロ写真の美しさ、魅惑」がとても深いという事ですね。
私はモノクロが好きで今回もこうして撮ているのですが、銀塩のモノクロ写真の魅惑がどうも感じられないのですね。
古いプリントでいくらかセピアがかかっているからでしょうか。いえ、そういう事ではないと思います。
諧調の細やかさでしょうか。

それは単に銀塩かデジタルかということだけではなくて、レンズの問題もあるんでしょうか。
私は理化学的なことはまたくわかりませんが、何か根本的に違うような印象を受けます。
もっとも、プリントを示されて「これは銀塩?それともデジタル写真のインクジェットプリント?」とテストされて判別がコンスタントにつくかと言えば自信はありませんが。
でもこの写真の顔の辺りは多分うんと違うような気がします。

私が今からフィルムで撮るなんてことはまずないので、こんな繰り言のようなことを言っても仕方がないのですが。
それは、ライカで撮ったらどうなんだろう?という妄想と同じですね。私にとっては。
そういう事より肝心なのは、この人の魅力が写っているかどうかですね。


- 2018/11/14(水) 00:10:28|
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「よその子とオクラは育つのが早い。」と華丸さんは言うけれど、まさに・・・その通りですね。
そして周囲の人たちに流れる時間と自分の時間は同じようではないということが不思議です。

まあ、今こうして生きているという事実が不思議と言えば不思議なんですが。
その二つの不思議が出会って一枚の写真になります。
砂糖と茶が出会った不思議と同じなんでしょうか。 うん?! 何のこと。

この不思議を形にして実在させることのできるこの道具はこれまた不思議な存在です。
この不思議の結晶は私がこの世を去った後にも残るんですよね。
この人は永遠化されるわけです。 この人を撮ったという私の行為もまた永遠化されるというわけです。
(後日、ドアノーのお孫さんの作った映画の記事を読むとその中にドアノーの言葉として「写真は撮った瞬間に、過去のものになってしまう。しかし、それは永遠となる」という文章を見つけました。 やっぱりそういうことなんだなあ・・・・と。)

これって何か私にとってはバランスを欠いているんじゃないかという不安を醸しますね。
その永遠性に対してこの私の行為のなんと軽くて迂闊なことか。
なんてことを考えているとまた自己嫌悪に陥ってしまって撮れなくなりますから、やめておきましょう。
なんといってもこの人の魅力にひかれて撮っているわけですから。

話は全く変わりますが、ロベール・ドアノーの「ドアノーの愛した街パリ」展を見る機会がありました。
かれは「写真は創るものではなく探すものだ」と述べたそうですが・・・・その割にはいくらか演出もあったようですが・・・、それにしても彼の人々の視線に対するヒューマンな観察眼!
写真の歴史はその後「創るもの」としても展開していきますが、私はやはり「探す≒発見する」派ですかね。

大事なものはこちら側にではなくて向こう側にある・・・と、そういう事かな。
- 2018/11/13(火) 00:00:34|
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この人は時におどけて見せてくれたり、「お酒は全く飲めないんですが、皆と一緒に酔えるんです。」という社交的で明るい性格なんです。
ですからそのおどける様子を撮るという選択もあるんですが、かなりかっこいいところもあって、・・・。

某放送局での仕事の際に役柄から「髪を短く」されてしまったので・・・・・とにかく、局内で切られたんですよ!と仕方ないとはおもいながらも、ほんのちょとお腹立ちの様子で・・・・「女の髪を何だと思ってんの!」とふざけて見せます。
卒業式には・・・・いろいろと思う衣装や髪型があったのに、到底間に合わないわぁ。

私としてもこの人の長い髪も魅力的でしたし、いまは「ちょっと中途半端だよなあ。」と傷口に塩を振ってしまいました。
せっかくフォトマヌカンをしてくれているのになんてことでしょう。
撮影者にあるまじき言葉。

この写真は5Dにツァイスの135ミリレンズを付けて撮っています。
せっかくのレンズを死蔵したままなので、埃を払って持ち出したというわけです。
幾度か相手をしてもらっていますので、135ミリで少し遠くから撮っても意思疎通には問題ないだろうとと高をくくっていたのですが、やはり撮り慣れない距離で戸惑う事もありました。

それにこの場所のようにいくらでも後ろに下がれるところでは前ボケを生かしたりする面白さを発揮できますが、どこでも使えるレンズでないことは確かですね。
このころは少し遊びならら気楽に撮っています。

目の悪い私はマニュアルではこうしてピンボケを量産します。

- 2018/11/12(月) 00:00:15|
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「冬来たりなば春遠からじ」と言います。
秋が来れば、冬「遠からじ」です。
「ゆく年くる年」を思ううちに各級の学校は最上級生を送り出す準備に入ります。
この人も今は早4回生です。 もうじき卒論を書き終わって、やがて卒業旅行、そして卒業式。

最初に出会ったのがまだ2回生の頃だったと思います。ですから足掛け3年?
早いなあ早いなあ。困るなあ。
私が大学に入学したての頃4回生の女性たちを見るとなんて成熟した大人なんだろうと感じました。
そして私の方がずっとずっと年を取って見れば、22歳というのはまだ本当に若いし、子供こどもしたところが随所にみられるんです。
当たり前ですよね。

でも今回、私は幾度もファインダーから目を離して半ばあきれ顔で「いやああ見違えるなあ!」と嘆息を漏らすこと幾たびか。
確かに若いお嬢さんであることは間違いがないのですが、そこにあの何十年も前に仰ぎ見て「大人の女性だなあ」と感じた諸先輩が帯びていた「大人」の雰囲気と同じものが確かに見え隠れするのです。

「人の写真を撮る」ということで「一期一会」、再会することはまずないという関係性の中で撮っていた中で、こうして数年にわたって撮り続けるケースが出てみると・・・・先日結婚した人などのように・・・・ことに若い女性では、その人の成長ぶり、変化が如実につに見えて、この観察者というか目撃者としての撮影者ということについてある種の感慨を覚えます。

こういう体験はあまり多くは無くて貴重だなんだろうなあと思います。
多分写真館の方たちは同じような経験をお持ちなんだろうと思いますが。
卒業という人生の節目を迎えて、これからこの人はどういう道を歩くのでしょう。
もうしばらく追いかけさせてもらえると嬉しいのですけどね。
- 2018/11/11(日) 00:00:21|
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最近「月の石」のtsuguさんとお話しさせていただくことが多いのです。
Fcブログをされていることは、これまでつゆ知らず、大変失礼しました。あるいは聞いていたのに、いつものように、二、三歩歩いて脳みそからポロリとその記憶がこぼれたのかもしれません。
シャッタチャンスに対するこだわりと素晴らしい色彩感覚で写真を撮られます。
そういう方に出会えたのも手作り市の功名です。

似顔絵書きでは、昔はお客さんを長く縛らないために「5分で描きます」なんて言うのがあり、かなりラフな絵を描いているものがありました。
お客さんもよく心得ていて2,30分絵描きの前のいすに座って世間話を交わしているようなこともありましたが、やはりそれが注文のネックになっていたのでしょうね。デジタルカメラ、ことにスマフォの普及で「写真を撮て描きます。手作り市をぐるっとゆっくり楽しんできてください。・・・その間に描いておきます。」が一般的になってきました。

私はこれでは似顔家書きの醍醐味がなくなるなあと思っているのですが。
話しながらその人の地や良い特徴を引き出して、それを絵にして描くことは、写真を見てはできません。
絵を描く人も写真を使うことが多いようですが、それでは絵を絵に書き写しているだけじゃないのかなと思います。
描くことは認識を深化させることですし、その認識の深まりを結晶させるのが絵だと私は思うのです。
・・・・といったからといって「見たままに描くんですよ。」という「そのまま写生」論を言うわけではないんです。・・・・
写真もまた同じですね。

写真は、いわば対象そのままにそっくりに撮れてしまうという宿命がありますから、どう失敗したって下手な絵よりうまいので、ちょっと写真を撮ることについて思い違いをしてしまいます。
誤解を生むような言い方ですが、「何とか下手に撮る方法」を考えないと「ただの写真」から抜けられないという事かなあ。

私のものなど、「ああ、こう写っちゃった。」というようなものですからね。
進歩がないわけです。


- 2018/11/10(土) 00:00:47|
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全く時の流れのはやいこと。
前回この手作り市に来た日から、もう一月が過ぎた。 光陰矢の如しなどと言っている場合ではないのである。
うっかり時を過ごせば矢は三十三間堂に飛んでいくのである。
親しい知人が体調を壊して長年多くの人に愛された店を閉じることになった。私より一つ上である。
今日の通り沿いの風景も年年歳歳どころか毎月毎週のように姿を変えている。
「玉しきの都の中に棟をならべ甍をあらそへる、髙きいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。」 鴨長明の観察のとおりである。
さて、そういう訳で手作り市の出店者もあるは来たり、またあるものは去るのが習いということになる。
「そう言えばあのカメラ担いで、撮らせてくれ撮らせてくれと言っていたおっさん、最近姿を見んなあ。」
「出歩けんようになったんちゃうか?」「おもろいおっさんやたけど、案外もう逝ってしまうたかもしれんで。」「そやなあ。 あっ、いらっしゃい。どうぞ手に取って見てください。一個一個手作りですからみんな一点ものですよ。」
そうしてもう誰も思い出しもしなくなるのでしょうねぇ。 私のことなど一体何人が思い出し話題にしてくれるでしょう。
で、今日初めてお目にかかった似顔絵かきさんたちです。

見本に飾られている加藤一二三さんやマツコ・デラックスさんの絵が印象的で、これは以前街中で見たことがあるなあと。

そうなんです。南座近くや寺町などに店を展開する「会社」組織の社員さんのようです。
「養成もしていますからプロになりたい人や素人で楽しみたい人まで対象に教えている教室もあるんですよ。」

対象の特徴の掴み方、デフォルメの仕方は「練習すればだれでも描けるようになりますよ。」とのことです。
お客さんをデフォルメする段階もいくつかあってかなり「面白い」マンガチックな描き方まで段階的な見本があります。

「描かれたお客さんが、え~?!私こんな感じかなあ」という場合でも隣にいるお友達が、「そっくり!!」という場合も多いんです。」
自分で自分をイメージしている像と他から見たその人のイメージは違う場合が多いんじゃないかなあと言います。
写真を撮っていてもそれは感じますね。
私の場合も自己イメージは随分上方修正していますから、つまり「盛って」ていますので、自撮りの写真を何枚、没にしたことか。

先ほど中国語を話すお客さんが立ち寄りましたが、このお二人は中国語で楽しく会話していました。
やはり観光で来た客を捉まえる努力をしているんですね。
会社の方針でしょうか、自主的な努力でしょうか。
英語ばかりが外国語じゃないですからね。

私がカメラを取り出すと「まるでカメラマンみたいですね。」と言われました。カメラ本体とレンズが大仰だからでしょうか。
考えてみるに趣味の写真愛好者はどのように呼ばれるのでしょうね。

「いやあ、あはは。」がいつもの私の答えです。
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- 2018/11/09(金) 00:00:51|
- 手作り市
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釣瓶が落ちていく前に・・・。
この時期は4時には腰を上げる。 急に空気が冷たくなり下から寒気が上がる。 それで夏場より早く切り上げる。
それで少し急いで自転車をこぐ。
いたいた。

もう帰ってしまったんじゃないかと思ったけど。
そうだよ、腰を上げようかなと思っていたところ。せっかく来てもらったのにいなくちゃ申し訳ないところだった。

このところ身体の調子はどうなの?
そりゃ悪いところがないわけはないさ。でも気にしない、わしがここに来ないとがっかりしてくれる人がいるからさ。来るよ。
それでちゃんと4時までいないとね。みんな知ってるから、たまに早く切り上げると、「銅さん、どうしたの、どこか悪いの?」と心配かけるから・・。

これからは地面からの冷たさがこたえるねぇ。 座布団は厚くしているの?
ちゃんとね。それに二枚重ねさ。誰か来た時に「はいっ」って一枚出すのさ。それが〔やさしさというもんだろ?)
それにしては僕に勧めてくれたことがないねぇ。
そりゃあ女の子にだけさ。
なるほどね。さすがだね。

団体さんが来てそのリーダーが買うと一気に皆売れてしまって翌日並べるものがなくなってしまうから、在庫を確保しながら並べているのです。
値段も明示していないのです。
市場ならいくらくらいだから安いから高いからと言って買おうとする人には高く言うのさ。 値段じゃないからね。あんたのように「いいなあ」って惚れてくれて買う人には「これでいいよ」ていう事さ。

私はここに着くや否や地面に腰を下ろしてカメラを取り出し撮り始めている。
それを銅心さんは気にも留めずいてくれる。
「当世女気質」に話が盛り上がって私の笑い声は周囲30メートルに響くことしばし。

大学教授たちの社会心理学など読むよりよっぽど生き生きしてリアルな話が聞ける。
暖かい気持ちで女性を観察している。
- 2018/11/08(木) 00:02:22|
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ギターも三味線も・・・・・腰! かな?!
酔っていると妙にしつこくなったり大胆になるんですね。
写真も下半身が大事! なんですが、ちょっと千鳥気味ですね。

それで案外、感覚に忠実になったりして、ふわふわとうろうろと撮りまわります。
寄る年波には勝てず、一旦腰を落としてしまうと立ち上がりに手間取り、「よっこいしょ」とは周りをはばかって口に出せないので、何とか無言で・・・。

いい写真を撮ろうと思えば下半身を鍛えないといけないですね。

α900ではISOを800にするにも抵抗がありましたが、1600、3200、6400と これくらいまでは「ええい、思い切ってやっちゃえから」と奮発します。
モノクロなら画像の乱れを「粒子感」などと強弁しておけばよいのですから。(銀塩のモノクロの上品な味のある粒子感とは違う感じが、当然、しますが。・・・・単なる主観的な好みの問題でしょうが。)

夜はいいですね。余計なものを隠してくれます。

「写真は足し算だ」というのが今の私の問題意識なんですが。
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- 2018/11/07(水) 00:00:30|
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この日は若手の音楽家4人と会食。
ファゴット、オーボエ、トランペット、そしてクラリネット奏者。私一人門外漢。
「呑みましょう。」の会ですから、無論、楽器はありません。
そこで楽しく歓談(なんておとなしいものではありませんが)したのちに、冷たくなった夜風に急がされて鴨川べりに。
すっかり酔いが回っていますが、既に公共交通手段がなくて、どうして帰宅しようかなと。
そんな時、風に流されて三味線の音。 こんな遅くまで路上演奏でしょうか。

明るいうちや宵の口などは場所取りに負けてしまったので、この時間帯になったんだという事です。が、さすがに祇園も先斗町もすぐ近い繁華街最寄りですから24時前は人通りもそれなりにあります。
私は久しぶりに存外飲んでいましたから、失礼な話しかけ方をしてはならないと戒めながらも、やはり撮影です。
呑みに行こうが映画に行こうが、いつも忘れずカメラが友達・・・ですからね。

ここは街灯と京阪電車駅出入り口の明かりがありますから何とか撮れます。
何とか撮れます・・・ですが・・・それこそさすがに現代デジカメですねといわねばなりません。 有難いことです。
手ぶれ補正機能なしでこれくらい撮れます。 もう一度、有難いことです。

背後の像は出雲阿国です。
南座も改装なって、総練りもあり、芸能のメッカ復活です。
そういう場所にいろいろな人が現れて演奏を競い合うのもいいことです。そして街ゆく人も楽しみにします。

まだ重ね着をすればどうということのないほどの寒さですが、もうじき辛くなりますね。

集中して撥で弾く姿、袢纏姿であるにもかかわらずはちょっと修行僧のようです。
- 2018/11/06(火) 00:00:20|
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この日の会場の様子を想像しそこなって、最前列の端の方に位置を占めることができたのですが・・・・。
お客さんの迷惑にならないように、お客さんの背後から望遠で撮ろうという目論見が外れました。それが外れたのは、できるだけ近くで表情を撮りたいということと背景に屏風のほかに何か他のものを入れたくないという気持ちからすれば、幸運な「外れ」ではあったのです。

ただ、何事も禍福は糾える縄の如しの通りで、ここでは動けないばかりかお客さんの耳に近すぎて「シャター音」が大きすぎます。
フジX100Fをこういう時のために購入していたのに、読み違いで置いてきてしまいました。荷物の重さが堪えるからです。いつもならばメイン機に何かあった時のために備えとして持ってくるんですが。

X100Fならシャッター音を消せますし、この近さなら画角的にも好都合でした。
今日はα99なんですがα900に比べれば音は小さいとはいえ、澄ました耳にはやはり邪魔です。
一しきりシャッターを切るとカメラは床に置いて、私も耳を澄まして二胡の音を楽しみます。
撮影という行動、気配もまたお客さんには気になるでしょうし。

すでに何度も聞いている楠田さんの演奏ですが、二胡の音の哀愁のある深い響きはこうした会場ではなお一層染み入りますね。
とにかくこの人は情感表現に優れています。
この人の人柄と研鑽のたまものなんでしょうね。

演奏ごとにファンを増やしているという感じです。

時に観音さんのように見えることがあります。

ご住職から花束が贈られましたが、楠田さんは自分がプレゼンターとしてご住職に今日の演奏の機会や長谷川さんの絵の展示の機会を与えてくれたことの感謝の気持ちを送るものとばかり思って、花束を住職に渡そうとする瞬間がありました。
会場から、「反対 反対」「逆だよ」と声がかかって。
そんな人柄もあってファンはますます増えるのでした。
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- 2018/11/05(月) 00:00:17|
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10月24日の事です。
京都市の東山にある知恩院。その塔頭の一つである信重院。華頂学園がすぐそばにあります。
この週、画家の長谷川透氏の屏風が完成し個展を開かれていましたが、その一環として楠田さんの二胡の演奏がありました。

背景の屏風は陣中屏風。狩野永徳の作と言われる(と言っても彼がひとりで描いたのではなくて、仏師たちと同様に工房の人たちがよてったかって描いているののですが。)唐獅子図の模写です。この原画は、織田信長による中国(毛利)攻めの中で羽柴秀吉勢が毛利との講和交渉に臨むにあたって急きょ設えられたもののようです。

長谷川さんはこの屏風絵を模写するにあたってこの屏風の歴史的な意味合いや作画上の技法について眼力紙背に徹する研究を尽くしてこられました。
それでこの絵を描いた人たちの技能上の到達や違いを明らかにしつつ、陣中屏風の持つ意味をつかみ取られました。
その解釈は卓見というべきもので、多くの識者によって追研究され広められて良いものと思いました。
長谷川氏は初めこれが陣中屏風であることからこれを見る人を威嚇し権威・権力を示すものだと理解して制作に入ったのだそうです。
しかし、いよいよ目を入れる段になってどうにも落ち着きが悪い、それは自らの体調に異変を生じるほどの違和感となり大きなストレを氏に感じさせたようです。
それを説いたのが古典芸能に携わる方だったそうで「獅子は仏を意味するのではないかな。」と。
そしてこの陣中屏風にはさらに左に屏風がありその二つが一対となっていたという伝えがあるのだそうです。そしてそちらには小獅子が描かれていたと。
つまり、この獅子はこの屏風の前に坐する毛利方の使者(安国寺恵瓊)を威嚇・恫喝するのではなくて、慈愛の目で見、親と子の繋がるを描いて、毛利の軍事的壊滅ではなくて、犠牲者の無い講和、和睦を実現しようというメッセージであり、また今後は近親のつながりをもって同盟しようという示唆ではなかったかというのです。
安国寺恵瓊のごとき教養人であればその隠されたメッセージを読み取り、警戒心・不信感をもって交渉するのではなく、復讐心の残らない名誉ある講和に努力で来たのではないかという事です。
政治家、外交官に豊かな文化協があればこそ言外に意志を伝え読み解くことができるのですね。
今日の我が政府の外交はどうでしょうか。

一般にこうした作品はガラスケースの向こうにあったり、人が近づきすぎないように結界があったりしますが、ご住職と長谷川氏のご厚意で顔を間近にして見ることも写真の撮影も許されていました。
何人もの方が作者・長谷川氏と並んで写真を撮ったり、動画をFBに流したりしています。(ただ、無論のことですが、楠田さんの演奏については動画撮影は禁じられています。)

会場の空間があまり広くないこと、お客さん50人ほどはぎっしりと詰めて着席していることもあり、マイクを通さないでの演奏です。
それは結果的に今日の撮影に対するご協力でもあります。

このような姿勢で楽器の位置が低いと、遠くの方に聞きにくいのではないかと、後半は立って演奏され、またぐるっと向こうに回ってお客さんのすぐ横で演奏されました。
こういう気づかいが楠田さんの魅力の一つでもあります。

立っての演奏の準備のためのしばしの休憩時間や、演奏終了後にかわされる会話のにぎやかさから推して、お客さんの反応はすこぶる上々でした。
- 2018/11/04(日) 00:00:10|
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仏を彫る、妖怪を彫る・・・・・どんなことなのだろうかと思いながら撮る。
私は息が短い。 高橋さんに迫って意味の中心を決めて、ふさわしい焦点きめて、構図を決めて、流れの中のその瞬間を待つ。
息はなが~いリズムにして姿勢を保持する。
で、その刹那、息が止まり同時にリリースボタンを押す。 緊張から解放されて、ハーっと息が漏れる。

時にはリリースボタンを押した直後に「そうじゃない!」と脳内のつぶやきがあって、すぐに後を追ってシャッターを切る。
それが数回続くことがある。その間呼吸は止まっている。
そして「良し」の声がすると、喉が開き、息が通って肩の力が解け、割った腰を元に戻す。

私の呼吸が戻っても、高橋さんの集中はまだまだ続く。
ずっとずっと続く。ひとまず彫刻刀を取り換えて、息を整え、やや目を細めて全体を見直して、また集中の世界に戻る。
その波が私のそれより数等倍長い。
一小節も長ければ一曲も長い、そんな演奏だ。

私のは即興曲を幾度も取り換えて演奏するような感じ。
対して高橋さんの彫は一節一節にも細やかに神経を払われていながら更に心行くまで演奏が続く。

先日は高橋さんの膝の中で小ぶりな仏様が全身を高橋さんにゆだねてその姿を彫るに任せていた。
今日は妖怪が高橋さんの手の中でまだまどろんでいる。目覚めはもうじきだ。

足の指一本一本が彫り分けられ、肉付けられていく。
そうして手も足も、まさに血肉を帯びた体になっていくのが分かる。

技が惜しまれることなく注がれて、妥協がない。

妥協無く撮るっていうのはどういう事だろうと、ふと思う。
- 2018/11/03(土) 00:00:55|
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私の厚かましい「お邪魔」を辛抱づよく受け入れて下さっている仏師の高橋さんです。今までにも幾度も拙ブログに登場してくれてもいます。
新しく手に入れたレンズを試したいので・・・なんて言う失礼なお願いでも聞き入れてくださる文字通り有難い方です。
しかも、ただそこに人がいるというのではなくて腕の立つ仏師ですから、そもそもその集中や気迫とどう向き合って撮るかという一番大切な課題にもいつも挑戦させていただけます。

もうまったくご自身の制作の中に没入してくれていて、私がため息つこうが、思わず「こうじゃないなあ。」なんてつぶやいても少しも意に介さずいてくれます。
そして手順の途切れたところで、質問に答えてくれたり、私の感心の相手をしてくれます。

以前は「この〔手元を照らす〕蛍光灯、邪魔でしょ?!」といって押しやってくれたりもしたのですが ・・・無論、そうしていただけると撮りやすいし、蛍光灯に邪魔されないすっきりした絵になるのですが・・・・原則として、あるがままで撮らせてくださいというお願いをしてきていますので、それもそのまま。

ご挨拶をして「今日もお願いします。」という感じですぐさまカメラを取り出します。
今日は高橋さんという人物をとるというより、仕事を撮るという意識です。

そこに万里の長城もないし長江もないのですが、相対的な関心事をどこに置くかという事です。
私の基本は「ひと」です。
今日は「妖怪」を彫っています。
水木しげるさんにかかわるイベントがらみだそうです。
この写真は目にスタンドの傘がかぶっていますし、指先にピントがいっていません。
そのように撮ったのです。


- 2018/11/02(金) 00:00:19|
- 伝統工芸
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お話をしている中で、「写真を・・・・」という申し出にすぐさま快く引き受けてくれました。

なんていうことのない写真・・・・、日常感のある写真にするためにはどうすればいいんでしょうかね。

だんだんとソファに深く背をもたれるようになってくれました。

「作品の解釈や受け取る印象は見た人の自由に任せる」という考え方は間違っていないか、具象と抽象、抽象画ということはどういうことか、日本画とは、展示場の配列・・・・意見を交換した分野はいくつにも広がります。
大学で学ぶ間に、そして卒業してからも誠実にご自身の制作ついて反省(この反省という言葉が現代の日常においては否定的な意味を帯びて使われますが、広辞苑の①の意味です。その意味説明の文章の中の「批判的」も否定的なニュアンスを帯びてばかり使われることが多いですが、批判は肯定的否定的を事前には含意しません。)してこられています。
ですから、よく話がかみ合います。

この展示会場にも作品が架けられています。
このギャラリーのスタッフであり制作者でもあります。

私はいろいろなギャラリーで若い作家さんたちと交流することがありますが、その多くの場合に、こうしたこと毎の踏み込んだ話はしません。
ですから珍しいケースです。

これからこのギャラリーを覗くのにまた楽しみが一つ増えました。
- 2018/11/01(木) 00:00:36|
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