池田有希さんは「世界初の試みとなるア・カペラによるヴィヴァルディ「四季」の全曲収録に挑戦し、「新たなジャンルを切り開いた」と評されるなど絶賛されているAura」のメンバーなんです。
そして2009年準ミス日本でもありますから、そういうことをあらかじめ知っていて、そういう人として写真を撮ることをお願いすれば、それはなかなか難しいはなしでたでしょう。

それが女性作家さんが「写真を撮りましょう」という話にしてくれていて、そこにたまたま私が現れて、事情も知らずに「撮らせていただけるのなら、僕も是非。」ということで加わったことで撮れたのです。
池田さんも全くプライベートにお友達の作品を見に来ていたというタイミングでしたので・・・。

私には、一面大物を殊の外敬遠する傾向があって、それで、相手をあまりに大層に思い込み過ぎて自身が遜り過ぎることがよくあります。
今でもよく思い出すのが大学生の時に北海道大学から岩崎允胤氏を招いて講演していただいた後の交流会で馬鹿ッ丁寧な司会をし過ぎて教授に、もう少しフランクに話しましょうと諭されたことがありました。
それで今はあまり人の経歴や肩書を目や耳に入れないで、じかにその人に接するようにしているのです。名刺交換をしても所属や役職をいちいち確認しません。
今の私にはそういうものは何の役にも立ちませんしね。
それで私も本名を書かず、肩書もないカードをお出しするのです。

素直な性格で前向きな方ですし、こちらの求めることに素早く応じる感性をお持ちですからとても撮影がしやすいのです。

これまで撮らせてもらったフォトマヌカンと同じように美点を探るために眺め回すのですが、少しも嫌な顔をしないで、私の話から撮り方から何かを学び取ろうとする姿勢なのですね。
恐縮な話です。
- 2018/09/30(日) 00:00:42|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
私の写真活動は、そもそもが偶然に任せたものです。ですから、ほとんどのケースが、それ自体「何たる幸運」ですから、その意味ではこれまでと、その本質においてなんら変わることはないのですが・・・・。
この方に出会って、この方の写真を撮ることになって、撮りました。 ・・・・この文章、おかしいでしょ?!

あるギャラリーに行って「西風のグラフィックス 3 -関西をベースに活躍する15名の作家による版画展- 自由の気風にあふれた関西は独自の版画文化を育んできました。 […]」と紹介されている作品展を覗きました。
以下その時のことをいくら脚色して・・・・。
4階から3階に降りて、奥の展示スペースに向かおうとすると、丁度その時に
少し年かさの女性(A)が、若い女性・池田有希さんを促して同じように展示会場に入ろうとするところでした。

ちょうど私と同じタイミングになりましたから・・・・前からの流れは分かりませんが・・・お二人の話が耳に飛び込んできました。
「ミス云々」「写真を撮りましょう。」
AさんがスマフォでIさんを撮ろうという事らしいのです。
Iさんは別の知り合いで、この会場に作品を出している方を訪ねてきたらしいのですが、その方がおられなくてAさんといろいろお話をしていて、どうやら、その知人の作品の前でとるという、そういう事になったらしいのです。

すると、何を思われたのか、今ここでたまたま一緒になっただけの私に「写真撮りましょう。」と声をかけられたのです。
私は「写真を撮る」ということであれば、当然私が撮影の側だとしか考えないわけですが、その呼びかけに?????でした。何故私が写真を撮りたがっている人間だということをご存じなんだろう?

どうもそうではなくて、若い方のIさんが準ミス日本になったことがある方で、ご覧のようにきれいな方だから「(あなた、横に立って写真に写りたいでしょ? 撮ってあげますよ。」という事らしいのです。
どうも御婦人方は、男というものは美女に近づきたがって、ましてツーショットの写真に納まる機会があれば喜んで入るだろうと思うものらしいのです。

ところが私の場合には撮りたい症候群に罹患しているというか、撮影依存症というか、そういうものですから、「いえ、どちらかというと撮る方なんで・・・」と後ずさりして・・・。
それで作家さんはいろいろ作品発表の場を意識しているわけでしょうから、「何かされるんですか?」と。
それで「個展をしたり…来年は清水寺で・・・」とウソの無い範囲で・・・「清水寺でやるからというと大層に聞こえますが、僕がいい写真を撮るからそこでできることになったわけけではなくて、行きがかり、流れでそうなっただけですから・・・」と誤解の無いように補足して・・・・。

池田さんの背景の絵は、私が池田さんを撮ることになるきっかけを作てくれた作家さんの作品で、その前での撮影を許していただけました。
- 2018/09/29(土) 00:00:52|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
何百何千という人を相手に演奏するのも音楽会ですが、こうして介護補助者も含めて3人の聴衆の前でするのも音楽会ですね。
しかもライブです。

無論オーディオ機器でSDやレコード音楽を流すこともできるでしょう。 しかし、こうすることで生きた人の息遣いや会話の声を感じることができますし、コントラバスの重い低音に体を揺さぶられることもできます。
死して同時にご苦労の多い介護をされている奥様にとてっても大切な気晴らしの時間となります。

奥さまは、我々が到着すると盛んに夫君い声をかけられ又体をさすります。
曲がダンス音楽になると「楽しくて椅子から落ちちゃだめよ。」と、ダンスのお好きなご主人に話しかけます。

この場に「フォトグラファーとしてご一緒でき」(私がそう名乗ってそういう自覚でこの場にいたということではなくして・・・そうであるべきなのかもしれませんが・・・・そういう者として参加を許されたという言う意味です。)るのは私にはとてもとても光栄なことでしたし、貴重な体験をさせていただき学ばせていただきました。


- 2018/09/28(金) 00:10:56|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
どのカテゴリーに入れればいいか、それは少しく難しい。

この写真の主人公?は車いすに目を閉じておられるご高齢の男性です。いえ、それに加えてその奥様でしょうか。
(因みに奥様は涙を拭いておられるのではありません。)

男性は重い病気を患って命はとりとめていますが、意識がないようです。 その病を医師から告知され、病気の進行やその症状を知らされた時、夫君は「でも死なないで生きたい。」とおっしゃったそうです。
それで生命維持を続けてこられているのですが、奥さまはただ植物的に生命を維持させるのではなくて生きるものとしての喜び楽しみを味わう生活のある生を続けるように支援されてこられました。

その一つがこうして音楽家を自宅に招いて演奏を一緒に聞くという事です。

私は、この演奏会を初めて引き受けられ、以来ずっと音楽仲間を誘って、6年もの間演奏を提供してこられたピアニストの紹介でここに来ています。
彼女はたまたま私の高校の後輩になるのです。

私はここに音楽の一つの姿があるということを考えて、奥様に「写真を撮り、ある形で公開したいのですが。」とお願いしましたところ、快くお許しくださいました。

ご主人は社交ダンスも楽しんでおられ活動的な方だったそうで、音楽も大好きだったそうです。
- 2018/09/27(木) 00:00:24|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「写真を撮る奴はそんな発想をするんだ?!」と言うような表情で愉快そうに笑いながら、作品の説明をし、またカメラに収まってくれました。

「おじさんシリーズの中に入っていただきたいので・・・。」とお願いしたものですから、ギャラリーのオーナさんが近づくと「どうやら爺を撮って個展をするらしいよ。」と。 川上さんが今年83歳です。
「あら、若い女性の写真を撮っていたんじゃないんですか?」とはオーナーの言葉。

先週は司修という画家の個展がありました。いい絵があって「この絵はいいですね。僕は大好きです。」と話すと「じゃあ、是非買ってください。」と突っ込まれましたが、23万円は、司さんの絵としては殊の外高価だということはなくとも、年金生活者の私にとっては、「到底手が出ませんよ。」
そしてその司さんが御年82歳。
川上さんの個展会場の下の階で個展をされていた油絵作家の鶴身 幸男さんが82歳とシルバー世代大活躍です。

私はたまたま周囲にこうしてご高齢でいよいよ若々しく、ワクワク世界を広げておられる方々を目にし、お話を聞く機会がありますので、いつまでも若造でいられます。ありがたいことです。
「写真をやっています。」
「そうか、がんばんなさい。」ってなものです。 これが本当にありがたいのです。

それで、「それじゃあたまには若い者の役に立とうかな。」なんて感じで撮らせていただくわけでもあるし。

そして「お、なかなかいい写真を撮るじゃないか。」なんていつかいっていただけるように頑張る訳なのです。
続きを読む
- 2018/09/26(水) 00:00:17|
- 陶器
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
川上さんを紹介するのにどういう言葉がふさわしいんだろうかと散々、脳みその中を経めぐってみたけれど私の貧弱な語彙集の中には見つからなかった。
それこそ引きだしをひっくり返すほど探してみたのですが。
「陶彫作家」という言葉を使っている作者の作品紹介があったので、なるほどと思って使わせていただきました。

私が氏を初めて見たのは、氏が高瀬川に長い長い布を流す作品を展示するために川の流れにザブザブと入って作業をされているときでした。
手助けをしている若手のスタフよりも一層勢力王政に設営に汗を流している姿は、とても80歳になる作家とは思えなかったのです。

その後、ギャラリー高瀬川四季AIRでの茶話会で、氏の旺盛な制作意欲やとらわれない世界観をうかがって、こういう大先輩がおられるのは力強いことだなあと感じると同時に、いつか撮らせていただく機会があればと思っていたのです。
この日(9/18)は市が寺町三条上るのギャラリー・ヒルゲートの2階で個展をされていて、その初日でした。

私は、先の高瀬川での氏の姿を見たことをお話しし、次いで氏の作品についていくつか質問をさせていただいたのです。

この展示の期間中の一日 「創作60年の『時間と距離』」と題して講演をされるので、作家活動60年を振り返っていろいろ考えられてという事もあって、実に多面的なお話を短時間のうちに聞かせていただけました。
ギャラリーの奥庭はなかなか手入れが大変で、ベンチを置いて周囲を夏草が存分に生い茂る状態でしたが、「この空間は面白いな」と、そこに野外展示用の作品を・・・・本当はこの倍の数あるんで、もう少し広さが欲しいんでけど、まあこれも面白いやろ。」と。
2階の小さなテラスから見るのもいいし、ここに降りてみてくれていい。」とのことでした。
私が白いワンピースを着た若い女性をここに座らせて写真を撮るとい面白いと思うんですが・・。」というと、「そういうのも面白いなあ。」と・・・・。
- 2018/09/25(火) 00:00:23|
- 陶器
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
音楽を流して、その曲逃れを感じ、そして曲の終わりと書く終わりをシンクロさせるというパフォーマンスを見せてくれました。

私自身はこういうことが書にとって本質的に良いことかどうか判断できません。
曲想と書く内容とがすでにマッチしていて、その曲のイメージを受け止めて書くということは、あるいはあり得ると思います。
歌詞と楽曲がマッチして「声楽曲」ができる。その時歌詞の音韻やフレーズは音の高低やリズムや強弱や音色とマッチすることは是非必要だろうと思います。
が、それを書と同調させるとどうなんでしょうね。

でもそういう切り口で、「書く」を高めていこうという挑戦はあってもいいのかなと思います。
そういうことを試してもいない旧来の枠組みで初めから排除しては、多くの人とつながる表現に革新していく道をあらかじめ閉じてしまうことになりかねません。

写真でもデジタルになって様々な加工をするものが増えてきました。
先日訪ねた写真展でも少なくない作品が、「撮って出し」ではありませんでした。
私自身はどちらかと言えば否定的です。それをすることでよい作品になっていると感じられるものはそう多くはなかったと思います。
それは私の評価ですから、だから「そもそもだめだ」などとは決めつけないで、大いにやってみたらいいし、そういうことについての議論は大いにされたらいいと思います。

話は変わりますが、ちょうどこのギャラリーのスタッフさんも記録のための写真撮影をされていました。
その人とはときどきお話をさせてもらって顔なじみになっていますので、私が初めから床に這いつくばり、初夏に迫って撮っても、とがめられないだろうという安心感があるのです。そうでなければ、こうも図々しく撮影はしにくいです。

7年半写真を撮ってきて「この人は写真を撮る人だ」と知ってくれる人が、多少ともできてきたおかげです。

そういう風にしてtもられリることはとても大事な要素になります。
どこにいても私がカメラを持っていてこれはという人を見つけると撮りたがるということを周囲の人が認知していてくれると、初めてお会いした人に「撮らせてもらえませんか。」とお願いした時に、周囲にいる人の反応を見て、あまり怪しまれずに済むというわけです。
第3次5カ年計画のためには、こういうことも大切だなあと感じている今日この頃です。

- 2018/09/24(月) 00:00:07|
- 書
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
このところよく書家の個展を目にすることがあります。
ことに男性、それも若い方の個展にはある傾向を見ます。
それは見せ方・演出の工夫、旧来の書とは違うぞアピールです。

この方の個展にもそれが感じられました。
私は写真展の「見せ方」の工夫の無さについていささか忸怩たる思いがありますので、そこに一層関心を持ちます。

そこにはプロとアマの意識の違いという面もあって、一概に言えないようにも思うのですが、キャプションを含めての見せ方が、写真の個展・グループ展とも、あまりに芸がないなあと常々感じているのです。
グループ展などでのキャプションの凡庸なことは目を覆いたくなるほどです。
「凛として」「静寂」などどこの会場でも必ず一つや二つはお目にかかる単語です。
「夕暮れ」だとか「祭りの男たち」など、見ればわかる・・・と突っ込みたくなります。
それだけ、そこに何を見たのか、何を主張したいのか、掘り下げたものがないことが一目瞭然です。

内容的なことについては、書の展示についても同様に感じることが少なくありません。 書は文字、言葉、文章を書きますから、そこに「意味」とは切り離すことのできない特殊性があります。 その内容が惰性的で凡庸なことが少なくないし、また一方で「今ウケ(インスタ映えと同じかな)」を狙う下心ふんぷんのものなどが散見されます。
が、「見てもらいたい」「関心を持てもらいたい」「私の工夫を伝えたい」という情熱は強く感じます。

写真の世界でも若手にはそういう気配が、やはり見られます。
それぞれの時代の若者の共通性とだけとは言えない、今の若者の持つある種の空気を感じます。

私自身は、それを単純に肯定できない気分を抱えるのですが、しかし、こういう格闘や、模索を通じてしか次の世界は切り開けないだろうなあと思ってもいるので、敬意を払いつつ注視する姿勢です。

私が「描くところ撮らせてもらいたい。」とお願いすると、既に今日の練習は終えたところで、ライブ本番は明日以降という予定であったにもかかわらず、「いいですよ。ぜひ撮ってください。」と、改めて紙を広げ、筆をとってくれました。
私は、すぐに床に腹ばいになって撮り始めました。

運筆のどこでシャッターを切るか、その瞬間を見つけることに神経を集中しました。
- 2018/09/23(日) 00:00:15|
- 書
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
下書きは、昔はムラサキツユクサの汁で描いていたのですが、今では大概、化学合成の染料です。
水で洗うと流れて消えます。

大きな柄だと一定面積をムラなく塗らねばなりませんが、そこに熟練の技が必要になります。
こういう場所では長い時間集中し続けて描くことができませんから、こういうものを選んで描いているのだそうです。
何しろ私のような図々しいものもあらわれますからね。

ほら、別のお客さんも興味津々に話しかけてきます。
質問にも答えなくちゃいけませんからね。

私も次から次にと来られるお客さんを右に左に避けながらの撮影です。
それでいて一人黙々と仕事に集中しているような絵にしなくてはなりません。

やはり職人仕事の魅力を伝えたいですしね。

どうでしょう、そんな風な写真になて散るでしょうか。
- 2018/09/22(土) 00:00:51|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:1
手描き友禅は、あらかじめ柄の輪郭を糊で「フセル」ものと、その「フセル」線を描かないでそのまま絵を描いていくものとに大別されます。
この方も「無線」です。

私が「写真を撮っていいですか?」と声をかけると、以前にも撮ってくれましたね。」と覚えてくれていました。
「ブログも見ましたよ。」と。

「いいですか?」
「もちろん、どうぞ。」
こういう場所ではお二人に一人は以前にお会いして写真を撮らせていただいた方、という具合になってきています。
そこで、「以前とても不愉快だった。」というようなことは今のところ聞いていないので、二度目三度目を撮らせていただくことが多いのです。
横に下書きが置いてあるので、時々確認しながらの作業です。

「フセ」てないので色をさしたところから染料がにじみ、広がってしまいます。
それをうまくコントロールして構想通りの範囲で染料を止める技術が求められます。しかも上手にぼかしていくことも大事なんです。
そして、しばらく手をもめるのは染料が渇くのを待っているのです。
そうして乾くのを待たないと染料がお互いに混じって汚い色になってしまうのです。
それで乾くのを促すためにヒーターを下にあてているのです。

夏場は大変です。
暑いからと言ってい汗を布の上に落そうものなら、染料が広がったりシミを作ってしまいますから。
下から熱を与えると乾きが早いのと染料が早く布の奥まで浸透するのと、二つの効果があるんです。

今日の写真は、描かれているモノの様子を含めて見ていただくためにカラーにしています。

私の中学時代以来の友人が水彩画を中心に書いているのですが、彼が興味を抱くだろうと思うからです。
続きを読む
- 2018/09/21(金) 00:00:35|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
音の出ない写真では、ジャズの演奏であるかどうかは、言葉でしか伝えられないのか。
大きな広いステージ、高い天井、数百隻の階段席。 演奏者の男性が黒のスーツ、女性はカラフルなドレスとくれば・・・・。
そこではおそらくクラシックの演奏がされているんじゃないかと想像させるでしょう。

多分jazzにも多くの記号があってそれを画面に入れて行けば、理解されるんだろうと思います。
ただ、もはや手あかのついた、常套句のような記号でそれを表すのは、なんといっても面白くないですね。
じゃあ、どうすればいいのか。 そういうことを考えてみたいです。

それにはやはり良い被写体に出会うことが肝心かなと思います。
そういう意味では私はかなり幸運な方に属していると思います。
・・・・であるにもかかわらず・・・・という歯がゆさはありますが、こうして出会う人たちによっていささかなりとも感性の幅や感度が拡張するように感化を受けていきたいものです。

日本画家の畠中光享氏とお話した時に氏は「モノから学ばないと絵は良くならない。」とおっしゃっていました。モノとは「歴史」であり 「自然」だと。
同じ線描の仲間のように言われる浮世絵や日本画の「線」とイラストや「コミック」の「線」は根本的に違うと、氏はおっしゃっていました。その分岐点はモノから学んだ「線」か否かと言うことだと。
- 2018/09/20(木) 00:00:39|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0

それにしても・・・・毎度書くことですが、・・・・現代のカメラが高感度に強くなって、そのことが撮影機会を大幅に拡張しましたね。
一台のカメラで、フィルムを入れ替えないで、カラーで撮ったり、モノクロで撮ったりと切り替えることができるのも大事件です。
撮影ジャンルが違えば、連写性能についてそういう感想を持たれている方もおられるのでしょう。
手ブレなんていう言葉もそのうちに死語になるかもしれません。
デジカメによって撮影の可能性が大きく広がっていますね。
それは本当に驚くべきことです。
短時間のうちに何十枚も撮れるのです。(フィルムだったら財布がちらついてなかなかそうはいきません。)
それで、もっとこう撮ったほうがということをどんどん実行できるのですから、一時代前では考えられませんね。

フィルム時代の作家たちの撮った連続したフィルムやベタ焼きを見ることがたまにあります。
同じシーンを何枚か撮りなおしています。
そしてそのうちの一枚をセレクトする作業の後を追うことができます。
たくさん撮れるようになれば、このセレクトにさらに労力が必要となります。
が、ただよく言われるようにとにかく撮っておけば後から何とかなるという覚悟のないシャッターの切り方にもなるような気がしますが。
・・・・・逆に、撮ってなければ話は始まらないという大問題もありますが・・・・・・

カメラについているモニターでその場で撮影結果を見られるというのも革命的ですね。
フォトマヌカンを撮るときに大きな画面のモニターにすぐに映し出してフォトマヌカンと撮影結果を共有しながら撮れるのも・・・私はそういう道具立てを持っていませんが・・・・・相当に大きなことだと思います。
有難いことです。

それだけ多様に撮れる技術的な可能性を与えられたのですから、大いに生かしたいものです。
6月の「100本のトランペット」の撮影のために、自分の「人を撮る」課題からすれば使うことはないのに、仕方がないなあと思って、購入した二本のレンズがあります。
一本が75-300ミリで、もう一本が20ミリです。
実際、こんなレンズ、これからずっと埃を被ることになるんだろうなあ、・…つまり300ミリで撮ることも20ミリで撮ることもないだろう…と思っていたのですが、豈はからんや、そういうものがあれば「こういう撮り方もできる。」と思考が拡張することが分かりました。
道具や器械の機能の拡張は人の可能性の拡張なんだとつくづく思います。
だからこそ、撮りたい絵をどんどん広げていけるという事なんですから、撮りたい欲望を大いに拡張したいものだと思います。
- 2018/09/19(水) 00:00:44|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
少し前にもこの人の演奏シーンの写真をアップしました。
そのライブのあと数日をおいてまた演奏を聞く機会がありました。
前回は同じデンマークの画家たちの絵からのインスピレーションで作曲した曲の演奏でしたが、今回はそれも含んでの彼の曲を1時間余り演奏するものでした。

で、ライブ空間の雰囲気を壊さないように「撮影は自粛しようかな。」とも思いましたが・・・・・。
それで一応、大げさな一眼レフや口径の大きなレンズはもていかないことにしました。
持って行ったのはフジのX100Fです。
このカメラ、いいと思いますよ。 モノクロで撮る気にさせてくれるカメラです。

今回のライブでは「静かに聞こうかな・・・・。」という思いが半分くらいありましたので最前列のソファに腰を落ち着けました。
ただあとの半分の気持ちがその列の一番端に席を撮らせることを促していました。
演奏が魅力的で、そのサウンドに心が揺れるとそれに刺激されて・・・・持っているのに撮らないなんて・・・やはりバックを開けてカメラを取り出してしまいました。
初め遠慮がちなったのですが、こんな腰の引けた写真を撮るのは却って失礼だと・・・自分に都合のいい・・・・・理由を思いつき、やがてソファからずり落ちて床にお尻を付けて撮り始めました。

ファインダーを覗いていると、「やっぱりいい演奏は撮りたい気持ちを高揚させるなあ。」と、これまた一人合点をして、ますますファインダーの中の世界に夢中になるのでした。
ライブは耳と目で聞くものだ、それが私流なのだなんていう理屈も編み出して・・・。
次の写真はサックスのすぐ下辺辺りでトリミングすべきでしょうね。
フジはこういう風に楽器の金属感をしっかり描いてくれるので有難いのです。
レンズもいいんだと思います。

いつもそうなんですが良い被写体の時には被写体が「もっと探せ!もっと他も見ろ!」と促してきます。
良く職人さんが「ここを彫れ!」と素材が語り掛けてくるなんて言いますね。 そんなバカなと思うのですが、「まだ見つけてないぞ!もっともっといいカットがあるぞ!」と言っている感じはあります。 それは言葉を変えていえば「そうだこの瞬間を、そのアングルで撮るんだ!」という声を聞けという事なんでしょうね。

きっといつかそんな声を聞き取ることができる日を夢見て撮るわけですね。
篠山紀信氏は「撮る前からどう撮るかはすべてわかって撮る。」と言っていました。それが一流の写真家の条件だと。
私はそういう一流にはなれないでしょうから、その場で対象に聞くしかないですね。

対象の持つ魅力が私を越えているんですから、それは仕方がないです。
対象に従って撮るしか私には方法がないのです。
- 2018/09/18(火) 00:00:32|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
何だかなかなか「秋晴れ!」になりませんね。
時折、晴れ間を見せて期待させることはあっても、安定した秋の高気圧の支配は進みません。

先の台風21号の被害の爪痕はまだあっちにもこちにも残っていて、いろいろな働き手が不足しているようです。
聞くところによると滋賀県北部もひどかったようですね。
北海道の地震被害や、例の「ブラックアウト」による停電の影響の深刻さなどが注目されて・・・・こうした事態が予想で来ていたのに北電は対策をおこたったようです。ここでも躓きの石の一つが「原発再稼働」です。・・・・実はかなりひどい災害が十分に報道されていないきらいがありますね。

染の作業の写真ですからカラーで撮る方が適切じゃないかと考えないのではありません。
その職人さんの仕事の素晴らしさが伝わってこそ、その人を表現できたということができるかもしれません。

見る方も、どんな絵を描いているんだろう。色は?と思うに違いないのです。

けれどこうしてカラーにすると鮮やかな帯の柄に目が奪われてしまって、「こういう綺麗なものを描いている職人さん」だという情報で終ってしまいます。
職人さんの目や口元やあるいは指先、指の形、あるいは道具の形状などに注意することはとても少なくなります。

そこに色を撮り入れて撮る場合のむずかしさを感じるのです。

眼鏡の光をとらえて集中や緊張を表現しようとしても、見る人の目は帯の大きな面積の鮮やかな色につかまってしまいます。

以前どこかで、写真はカラーであることが王道、基本でモノクロは不自然で、何か言いたげな風を装うだけのものだという考えを読んだことがありますが、それは違うのではないかと私は思っています。

それでフジフィルムのカメラがモノクロをワンパターンにするのではなくてアクロスを加えたりしていることに私は好感を持っています。
さらに赤っぽい黒や青っぽい黒にすることができるのは表現の幅をずいぶん広げますね。
(私のカメラにはその機能はありませんが。)
青っぽい黒はとてもクールでオシャレです。
私の個展の初めの二回のモノクロは青っポイ黒でした。
- 2018/09/17(月) 00:00:01|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
このところ職人さんの写真を撮る機会がなかなか得られなかったのですが、久しぶりに撮ることができました。

この日はたまたま周囲に相当数の来客があってかなり騒々しかったのです。
それが原因したかどうか、この方を一見した時には相当気難しくて、ご機嫌もよろしくなさそうに感じました。
これまで私はそういう時には、波長の合わない方には無理に近づかないようにと、遠慮することが多かったのです。
ですが、・・・・。

いや、人はまず実際に話して見なくてはその人となりは分からない。
ここで怖じているのが自分の悪習だ、何とか克服しようと、一旦遠ざかりながら再び近づいてみました。

人を撮ると決めているのに、自分の方で勝手に想像上のバリアを作り出していることがあまりに多いからです。
「今筆に含ませて、ボカシに使っている液体は水ですか?」

「まあ、水なんだけれど幾分糊が入っているね。」
と、破顔一笑、実に細やかな説明をしてくれました。
写真では集中して描かれている作業の様子ばかりですから笑っているものはありませんが、実はお話をしながら笑みを浮かべながらの撮影です。

高校卒業以来ずっとこの仕事をされているのだそうで、出身は他県でした。
京都のこうした仕事は細かく分業されているのが特徴ですが「大概は自分でできるように全部勉強してきたね。」と。
続きを読む
- 2018/09/16(日) 00:00:48|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
2,30分前には全く知らなかった人間に写真を撮られるのですから緊張しないわけがありません。
キャンペンガールやお店のイメージガール、マスコットガールならいざ知らず。

突然自分の人生にクロスしてきて「写真撮らせてくれませんか?」と言われて、OKするのがむずかしいか、NOというのが難しいか。
Okと言っていただく方が易しいか、はたまたNOと言われるのが難しいか。
NOと言われるのが難しいってことはありませんね。
(ただ、まあ京都人というか、若い女性がというべきか分かりませんが、NOと言わずに、関心がありますとか、機会があるといいですねとかなんとか言いながら、結局反故にするというのはよくあるケースですね。 太平洋側に生まれた私などはこういう風に対応されるのは実に嫌ですね。ダメならダメと言えばいいのにと思いますね。)

少し前にKYとかいう怪しからん言葉が乱用されていましたが、「空気」は年代や地域やその人の暮らす文化環境で違うのですから、自分本位に疑似同質集団を作って人をコケにするのは実に低劣なやり方だと思いますね。空気を読んで、つまり忖度して安易に多数派に回って人を笑う側に回ろうとする人たちは愚劣です。
日本は狭い列島に暮らして言葉にしなくてもお互いに理解し合えるなんて言う学問もどきの言説で「大和民族は同質、一国一民族万歳」みたいな「お話」にたぶらかされちゃいけません。
と、話がそれましたが・・・・・。

個展をするには、まして自分の住んでいる地域でなくて遠く離れた街でするには・・・・お金もかかるし、労力も時間も注がねばなりませんから、一大決心でしょう。

それはこういう若者と出会う旅に想像し、感心するところです。

何が彼をしてそこまでのことをさせるのか。
今、イラストに関心を持たれている若い女性のお客さんが来られて、・・・・どうもこの方も掻いているようなんですね。・・・・踏み込んだ質問をされて、それに答えています。

こんな時間を持つために開いているんですね。

- 2018/09/15(土) 00:00:41|
- 絵画
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
もし私がリタイアの際に故郷に戻っていたとして、もし仮にやはりカメラを持ち出して・・・人を撮るのは、あの地方では無理かなあ・・・写真を撮っていたとして、地方中核都市の浜松辺りで個展をすることがあったとして、「やっぱり個展をするのなら京都でしたい。」と考えたでしょうか。

多分、さんざん考えて、うだうだ言いながら結局、あの地方を出ることはできないのでしょう。
私自身について想像すれば、ほぼ確実に、写真も続かず本の世界に戻ったのではないかと、そんな風に思います。
友人たちと酒を酌み交わすごとにいつか京都で「個展をしてみたいものだ。」などとクダをまいているに違いないのです。

この方は中国地方の日本海側から来ておられます。
時々こういう方にお会いするのですが、私は率直に「偉いなあ」と思うのです。
第一私には遠い地方のギャラリーに連絡をとって、予約したりすることさえできないだろうと思います。

そんな私の「アカンタレ」ぶりと比べて偉いなあというのではなくて、描くことを継続する意欲と意志をお持ちになって、ついに京都にいって個展をしようということを実現する力に感心するからです。問題は前者です。
コミックの絵を模写することが大好きで、小学生のころから絶えず描き続けて来ていたのだそうです。
それでそういう線描きのイラスト的な絵を脱して、着色し、さらに絵を重ねる描き方を模索して今日に至っているのだそうです。

写真にとられるのは決して得意ではなくて、むしろ苦手だとおっしゃいます。なるほど表情が硬い。
緊張が顔に出ていますねと言いますと、顔を両の掌で、洗顔するようにくしゃくしゃともみほぐしていました。
「緊張するのもあなたらしさですから・・・。」という慰めにならないような言い方で・・・・。
でも撮る側の人間からしたら、まさに緊張するのも、顔を赤らめるのも・・・皆まさにその人らしさだと思って撮るのです。

「目線をどこに持って居たtらいいのかとか、そういうことが分からないので・・・・。」お困りになるというのは、多くの皆さに共通することです。
手のやり場にも困りますよね。
- 2018/09/14(金) 00:00:33|
- 絵画
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
ピントさえ合えば「撮れるレンズだ」と思いますね。
でも筒が長いしF値が暗いのでシャター速度も稼ぎにくいし、一脚を使った方がいいかもしtれませんね。
でも、そうすると、機動性に欠けるようになって私の撮影には会わないので基本に忠実に立膝を使ったり柱を使ったり、はたまた壁に背を付けたりと良い姿勢で撮るしかないですね。

呼吸と指の動きを待っているのです。
一枚目とこの写真ではだいぶ違います。
私は2枚目が好きなんですが、いかがでしょうか。

1枚目は吹いていますし、指も動いていていいと思うのです。
CDジャケットに使うとしたらどうなんでしょうね。
彼のインテレクチャルな音楽を表現するのはどちらでしょう。
ところで、写真の撮り方の本を読むと、こんなに頭をカットしてしまうのはダメだと説明されているものが多いようです。
これはちょっと極端かも知れませんが、彫像の表現では見られないものではありません。
写真界の「通説」がいつも正しいとは言えませんし、いろいろ試してみます。

音楽もオーディエンスの存在があってこそのものです。
奏でられる音楽は受け止めるオーディエンスの表情に現れるということを・・そういう関係性も追求してみたいなと思います。




- 2018/09/12(水) 00:00:48|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
今、Mr.Karsten Vogel からいただいた「THIS IS IT」というアルバムを聞きながらこれを書いています。
CDには鳥居の・・・たぶん平安神宮のではないかなあ・・・写真があります。
そして「Kyoto」という曲も入っています。
ジャケットの表紙の写真はモノクロの氏の写真です。サックスが青く輝いています。
Flemming Hjøllund 氏がその写真を撮られたようです。 知的でクールな写真です。必要以上に情感を煽るものではないところがとてもいい感じです。
今度は私の写真を使ってもらおうかな(笑い)

この撮影の時のレンズのセレクトにはとても迷い、何度も獏に入れたり出したりしました。
で、結局75-300の一本しか使っていません。 F4.5-5.6ですから「暗い」です。(F2.8通しの80-20にしようかと迷いましたが、席の配置が前とは違っていたので、結果オーライでした。)
ライブ会場ではストロボは使えませんし、スポットライトがついているわけではありません。
そしてお客さんの前に入り込んで間近で撮るということもできません。
カメラのISOを高くできるということがなければブレブレの写真になってしまいます。

来年の個展を意識して広角でも撮りたかったのですが、それは会場の条件が許しませんでした。
でも、漠然と前と同じ写真を撮る訳にも行きません。
来年の舞台は少々大きいので、テーマをよく咀嚼して「私はこういう写真にしてみました。」と言えるものにしたいなあと・・・・・一応は・・・・考えています。

10か月かけて探求してみたいと思います。
第3次5カ年計画に向けても、そういう苦労をしないといけません。
それでないとリタイア後を写真を楽しんで生活することにした意味がありませんしね。

それにしても不思議な感じですね。
デンマーク人のサックス・プレーヤーの写真を私がこうして撮っているなんて。
私は今日については「撮っていいですか?」と許しを得てないんです。

彼が、こういうチャンスをくれたということを想うと、ファインダーをのぞくのに一層熱が入りますし、いろいろなことを頭の中でお校則で思いめぐらせます。
とにかく私のように照明器具を持ち込んだりしないで写真を撮る者はそこにあるもので勝負せざるを得ないのですから、ここには私の狙いを実現するのにふさわしい何があるんだろうと、時に回り込んでどの高さから撮ればいいんだろうと考えながら周囲に迷惑をかけないで動くこと、入り込むにはどうすればよいかを判断します。

写真撮影に必要な要素の一つはフットワークですね。そして状況観察。

そして目の前にある問題の中から解を見つけるという楽しさがあります。
そしてその解は被写体に対するリスペクトと感動・共感に裏付けられていることが大切なんだと・・・・ちょっと気づき始めているわけなんです。
更に結局は「美」に行きつかねばならない。
う~ん、大分風呂敷を広げ過ぎたなあ。
清水幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」だとか「美は乱調にあり」(大杉栄)などという挑発的な言葉をギャラリーの責任者の石田氏から投げつけられたたためにいくらか熱が出たんでしょうね。
自分でも頭がぐらぐらしてきました。
それにしてもこういう音楽家の熱に感応して撮れるなんて幸せなことです。
続きを読む
- 2018/09/11(火) 00:00:33|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
2年ぶりに演奏を聞かせていただきました。
デンマークのトランペット奏者、Karsten Vogel 氏です。
会場は河原町今出川を少し下がったところにあるJARFO京都画廊です。
「NORDIC WAVES」というテーマでデンマークの絵画作家たちとともに来日しています。

再会できると言う情報で、昨年の個展に展示した写真2枚を持って出かけました。
彼のトークの後にその写真を進呈すると大層喜んでくれました。
ネットで検索しても彼を撮った・・・・例えば今回のポスターの写真など・・・写真にはいいものがいくつもありますから、多少気後れするのですが、お礼なのだから気持ちの問題だよなんて思いながら差し上げたわけですが。

それで会場には本国の取材関係者が数人来られていて動画撮影などもしていましたが、私は図々しく当たり前のように写真を撮らせていただきました。
演奏が終わると「君が撮影しているのが分かったよ。今日は新しいリードに替えての演奏だったけれど・・。」などと話しかけてくれました。

このギャラリーの責任者のI氏とは最近FBでもお友達になっているのですが・・・・と言っても猛烈に忙しく、私同様デジタル方面はあまりお得意ではないそうで、あまり開かないのだそうですが・・・・「もっと前に行って撮ればいいのに。」と背中を押していただきました。
それでますます図に乗って撮るというわけです。

演奏後にはレセプションがあって美味しいワインにデンマークの伝統的な食べ物が提供されました。
出品者の女性作家の提供だそうです。
この日の彼の演奏曲は4人の参加作家の作品からインスピレーションを得て彼が作ったものです。
- 2018/09/10(月) 00:00:06|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
北海道で強い地震がありましたね。
台風で風と雨の影響のあった直後の地震です。
北海道の電力の半分を供給していた発電所が止まって、その影響で全ての発電所が停止しているのだそうです。
電力の供給が一日途絶えれば北海道全域の冷蔵庫内の食料が使えなくなる可能性があります。
そうなると備蓄の冷凍食品も含めて膨大な食糧が緊急に必要になるでしょうが、そもそも北海道は食料の供給地ですから、北海道の必要とするものを送ることと同時に、それ以外の地域の食料が一挙に不安になるかもしれません。
サンマはどうなってしまうんでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ニコンとキヤノンからフルサイズミラーレス一眼カメラが発売されるというので、ずいぶん・・・一部のユーチューバーの間で…話題になっているようなのですが、なぜそんなに話題にするんでしょうね。まだ発売もされていないものをあれこれ話題にすることにどんな意味があるんでしょうか。
メーカーのお先棒を担いでいるだけだと思うのですが。
カメラの事より写真のことを語ってほしいなあ。

人物の撮影の時に、どんな空気を作ることができるかということも一つの重要な課題ですね。
職人さんの仕事を撮るときにも、演奏家の演奏を撮るときにも、撮影者の出来ることがどれほどかという程度の違いはありますが、やはり撮られるものと撮るものとの間にどういう空気をつくるかは写真に小さからぬ影響が生じると思います。

ましてこういった一対一の撮影の場合は、重要だと思います。
私はこの人とは相当な年齢の差がありますから、それで有利な点と不利な点があります。

この同じような写真の中で入りいろ試しているのですが、その趣旨は相手に伝えています。
そして小さな画面ですが、背面液晶画面で時折「こういうところを狙っている。」「こういう風に撮れたから良かった。」「もう少しここをこういう風にしていきたい。」などと話してお互いに確認します。

男女の違い、年齢の違い、あるいは育った地域の違いなどなど、撮る側と撮られる側とには様々な違いがありますから、快・不快の境目も違います。
今回この服を着て来てもらって「肩や胸の上部の肌を撮るよ。」とは言ってありますが、どこまでがOKゾーンかはある程度慎重でなくてはならないと思っています。
余りぎくしゃく、おどおど撮ったのでは写真が楽しくなくなりますし、かえって妙な緊張感を与えますから、そこが塩梅の難しいところです。

続きを読む
- 2018/09/06(木) 09:18:41|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
台風一過、今日は今のところやや涼しい空気で、これから暑くなるのだそうです。
皆さんのところでは台風の被害はありませんでしたか。
これまでは、こうしてやや他人事のご挨拶で済みましたが、我が家には向かいの家の役瓦などが強風で吹き飛んできて大きなガラス窓に直撃して破損しました。もしガラスの間に鉄線が入っているタイプでなかったらあのすさまじい風と雨が部屋に吹き込んでカメラもレンズもPCもオーディオセットも本も・・・・壊滅的な打撃を受けただろうと思うと、真にぞっとします。

向かいのアパートは以前からろうきゅかで何枚もの瓦が浮いているし、ずれているしで、つい最近も業者が屋根に上がっていたのですが、おそらくその都度応急的な最低限度の事しかしないで来ているのでしょう、危険が目に見えていたのに、こういうことになりました。
幸いけがなどはありませんでしたが、建物の周囲に落ちている瓦片の数や大きさ・形を見ると命にかかわるなあと思いました。

その瓦片が飛んできた前後は窓のサッシが・・・大きくてペアガラスなので重いのですが・・・吹く風に押されたり、吸われたりでぎしぎしと音を上げ、網戸は右に左にスライドしていました。
ガラスが内側に膨らむので風呂の蓋を当てて…・・・点でなく面で押し返さないと危ないなと思ったのと身を守る手段でした・・・・手で押し返すのですが、かなりの力でした。

さてこの写真はソニーで撮っているんですが、どうも青みが気になります。
オレンジもきれいに出ていませんね。 ホワイトバランスの問題かな。
強い順光だからでしょうか。
まだ21歳ですから、若々しい魅力がいっぱいですね。
オーバー気味にとって肌を飛ばしているせいもあるんですが、こういう肌の輝きはこの年齢でこそでしょうか。

ちょっと広告写真風に撮ってみよう。
大塚製薬に持ち込んだら欲しがるんじゃないかなどと冗談を言いながら楽しんでいます。

写真多くで帽子に手をやっているのは、微妙に風が強くて帽子が飛ばされそうだからです。
後で「腕がかなりだるかったです。」といっていました。気づいてあげられないようでは、カメラマンとしてどうなんでしょうね。
- 2018/09/05(水) 08:21:24|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
大変強い台風が来ています。
今年はとにかく規格外れの気象が続きます。
そういう中で避難の仕方や自治体等の警報・注意報の啓もうなどが盛んにされていますが、私はずいぶん腑に落ちない思いでいます。
それはこうした気象の異常さは日本列島に限ったことではなくて、北極の融けることのなかった氷山が解けて崩れ落ち、南極でも地面が露出する面積が飛躍的に拡大しているとのことです。
科学的究明が100%進んだわけではないにしても「地球温暖化」が背景にあるのではということについてはつとに指摘されていることです。
人間が地上のもたらす災厄の甚大なものに戦争がありますが、地球温暖化の被害はそれを上回るものでしょう。
なのし、政府もマスコミもこの点において特段の発言がなく、まして緊急対策、かつ本源的対策をしないでいます。
九州電力などは太陽光発電を抑制するように求める姿勢のようです。(太陽光発電については希少鉱物資源の問題や、廃棄の安全性の問題など検証しなくてはならない問題がありますが。)
USAのトランプ氏は地球温暖化などはためにするフェイクだとさえ公言して大気の温暖化を抑制する対策に背を向けています。それに対して日本政府が懸命に翻意を促して説得しているなどというニュースは聞きません。
日本政府も財界も世界の足を引っ張ていると言っていいかもしれません。
これでは国民の安心・安全、生命・財産を守ることなど到底できないと思いますがいかがでしょう。
自然災害だから…では済まないレベルに人類の生産力は発達してきていて、人類が自然の大きな循環に影響を与える歴史段階にあることを人々は自覚せねばなりません。
生産活動は私的自由権に属するなどと言っていては人類の生存それ自体が危うくなるというのが今日段階です。そういう意味では私的営業権に積極的に制約を加えていかねばならない事態です。
自民党総裁選挙でこうしたことはどのように議論されているでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この台風が過ぎれば、一挙に秋風が吹くようになるのかもしれません。
最高気温が34,5度の日はあるようですが、朝夕の気温はめっきり涼しくなりました。

撮影しているのは琵琶湖のかなり北の方です。
ここまで来るのには少々時間がかかります。でもこの湖岸に降りたたっとき気分がとても爽快で、この人の表情にそれが出ています。
「モデル撮り」にはロケーションが大きな力を発揮しますね。

この開放的で楽し雰囲気を撮りに来たのですから、来た甲斐があると言いうものです。
写真を見てお気づきの方があるかもしれませんが、彼女はほとんどのカットで頭に手をやっています。
というより帽子を押さえています。
気持ちはいいんですが、微妙に強い風が吹いていて、押さえないと落ちてしまうのです。

あとから聞くと「腕がだるかった。」という事でした。
一言もそうは言わなかったので、つい気づいてあげられませんでした。
腕を上げていてくれると健康な白い肌も写し込めるので、喜んで撮っていたわけです。

私は・・・・わずか範囲でならあるのですが・・・・あまり自由に動いてもらって撮るということがありません。
でもこうして撮るとこれはまた面白いなあと思いました。

お互いに多少気心も知れるようになって来ているのでなおさらです。
今度撮るときは、うんと動いてもらおうかなと思います。

女優さんですから、あるテーマや状況を設定して、それで大きく動いてもらいましょうか。
この次はもう一人の女優さんが加わりますし。
- 2018/09/04(火) 00:00:00|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
7年余り前から、今のように人を撮る活動を始めたのですが、人を撮るということがどういうことをその中にふくんでいるのかということが少しずつ見えてきたように思います。
以前は予想しなかったような多様で滋味ある意味が含まれているのだなあと、少しずつ感じられるようになってきています。

どんなことであってもとても一筋縄では「分かった」ということはできないのだろうと思いますが、「人を撮る」という実に簡単なことからも気づかされることが、また、波及的に出てくることがたくさんあります。

自分の子供なら何年も何年も、写真を撮り続けることがだ切るかもしれませんし、ある役者の専属カメラマンになったなんてことになればそれもまた何十年の写真になると思います。
私のような写真活動では、そのように継続することはとても難しくて、ただの一回限りというケースが大半です。

ことに若い女性…20代前半…では、とても大きくそして度々立ち位置や環境が変化しますから、とても継続的に撮影の相手をしていただくことはできません。
ちょっと間遠にはなっても「また撮ってくださいね。」と言っていただいている人は数人います。が、それがなかなか実現にはこぎつけられないのが現実です。

先日、ある方に7年ぶりくらいにぐ全お会いしたのですが、「また機会があればとってください。」と言っていただいたのです。
長く続けていると、そんな事もあります。前回撮らせていただいた時には3か月もお子さんと一緒でした。もう小学生ですね。

そういう人生の中の不可思議というか「妙」というか、そういうことを感じながら撮ります。
今ドイツで頑張っているダンサーさんも「来年帰国した際には・・・。」と言ってくれていますが、その人を最初に撮ったのは、もう何年前になりますか。渡独直前の事でしたね。

私のα900が様々な人の生きている姿を見てきたことになります。
なんだか不思議な器械だなあと思います。

リタイア後の人生第3次五カ年計画の終了時までに累計2000人の人を撮れば、又人物を撮る写真について何かを見つけることができるだろうと思います。
今は当面第2次五カ年計画のうちに清水寺・経堂での個展を含めて3度の個展、二度のグループ展は実現したいなあと思います。
「難しんじゃないかって?!」
そんな風に首をかしげないでよ。
そのために君にはこれからももっともっと協力してもらうつもりでいるんだから。
- 2018/09/03(月) 00:00:23|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
スマートフォンやコンパクトデジカメには「パノラマ」撮影のモードがあります。
私たちはそれを使って手軽にパノラマ絵画像を楽しんでいるのですが、例えば周囲をカメラについてレンズの画角で撮ってはスライドさせて、また撮るという風に連続した・・・つもりの・・・カットを撮ったとします。
しかしそれらを横に並べても決して連続した一枚の写真にはなりません。

水平線も山並みのつながりも、又木立や地層の連続もそれを、まさに連続して不自然の無い画像にすることは、通常ほとんど不可能です。
その画像の接続のための計算式を研究完成したのがこの方なのです。
スマフォやコンデジにこの人の研究成果が組み入れられていればこそ私たちは正確なパノラマ写真を楽しむことができるのです。

月面探査機がいくら月の景色を画像で送て来ても、探査機の周囲の景色を正確に一連のかつ一連の画像にできなければ、研究は大いに支障を抱えます。
それでNSAはこの方の研究成果の利用を懇請してきたのだそうです。

この方はこの写真のクラブの創立者のお一人ですが、この方を誘ったのは画家の藤波氏でした。
画家がこの方の仕事を写真倶楽部に相応しいと考え、こうがく博士はまた、やはり写真倶楽部においてこれを発表するというお互いの見識!!ここに敢えて「文人」を名乗る主体的自己主張の一面があります。

23回を重ねてきた階ですが、創立からの会員は、もうお一人になりますか。
この方も今回を限りに退会されます。
それで打ち上げの「反省会」の際に、ご挨拶の中で「Old soldiers never die, but fade away.」とおっしゃったのです。
この方がいつも4メートルを超す壁面を保持してきたのは創立会員の特権でも何でもなく、会員の氏に対する、又業績に対する尊敬の現れであったわけです。
計算式はあってもそれを現に画像を加工する段になればコンマ1ミリ以下の誤差にしてこのようにつなげるには相当の神経の集中を要するわけで、費用もバカにならないし体力もいるわけで、もう今回で限界かなというお申し出になったわけです。

かつて旧職に就いていた時にも先輩方の「退職に当たって」のご挨拶を耳にし、姿を目にしてその時様々な感慨があったわけですが、リタイア後の趣味の世界にあってもこうして「Old soldiers never die, but fade away.」を耳にすることになったわけです。
この方のこれまでの事や私自身の将来を想うと感慨一入でした。

足に痛みがあって、毎日杖を突いて開場に来ておられましたが、お客さんから質問があると目を輝かせ一度に顔に笑みが広がり、矍鑠として説明をされていました。
さらに「理系」のお客さんが来ようものならば別室で数人が大西さんを囲んでミニゼミが始まります。
これもまたこの会が敢えて「文人」の言葉を使い「写真なんかどうでもいいんやで、こうして皆がいろいろなテーマで談笑するのが本来の目的なんや。サロンであることが目的なんやで。」と創立者のお一人が毎回いうのです。
決して高感度画とか毎秒何枚でとか、次はどんなカメラが出るなんて言うことは話題にはならないのです。
写真を介してお互いの人生観や哲学、様々な事柄に対する見識を披瀝し交流して会話を楽しむのがこの会の趣旨なのです。

それで先ほどの創立者の一人である高名な画家さんは「写真は下手でええ。何を考え、どう表現しようとしたか、その工夫が面白いんや。その人の教養が問題なんや。」というわけです。
それを聞かされる度にそっと手を上げて「退会します。」と小声で言うのですが。
- 2018/09/02(日) 00:00:10|
- 写真
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
ジャンル分けとしては「人物」の方がよりふさわしいと思うのですが、敢えて「写真」としました。

この方とはじめてお目にかかったのは今を過ぎること4年半ばかり前の冬の事でした。
私は、「どこの写真グループにも属さないで活動しよう。」という決意を翻して京都ファインダー倶楽部・ファインドアイに加入させていただいて、初めて新年会にお誘いいただいたのです。すでに写真展を終えての加入でしたので、写真展会場で会員の方と交流することもないままの新年会参加でした。

それでこの方のお顔は見ていたとは思うのですが、多くの会員の中のお一人以上には認識もしないし記憶もないのです。
それから今年で4度の写真展がありました。
多分、毎年の写真展で初日から最終日までもっとも長時間会場にいたのはこの方か私だたろうと思います。

私たちの写真展は「現代 文人 光画展」という一風変わったものです。
聞きようによっては多分に鼻持ちならない面がありますが、私は・・・・通常なら最も反発するべきことでもあるのですが・・・むしろ肯定的にそれを受け止めて加入しました。
写真展はその人の生き方や思想を表して、写真の腕前の巧拙を問題にせず表現の個性や創造性を最大限に尊重する≒なんでもありの会なのです。

そういうことを幾度も言葉としては聞き、それを「とても良いことだ」と受け止めていながら、なお実際の会場では「なんだろうこれは。これが『写真』の作品?」ということを想うことがしばしばで、到底私の頭がついてはいけませんでした。
その作品の一つがこの方のものでした。

会場では壁面を出店者で分け合い、年によって出品者数によって一人宛2メートルであったり3メートルであったりしてきました。
初出展の時は2メートルでしたが、この方は4メートル超す壁面と当然のごとく押さえていました。
何たる不平等!と憤ったものですが、その人の作品の内容に従って面積が案分されるのは当然だというのがこの会です。

私たちを取り巻く世界にある写真は実に様々な分野にあり、託された意味役割も千差万別です。
それを「写真展」と聞いただけで、人は勝手に「文系」くくりにしてしまい、「写真好きの常識」の枠の中で物事を考え始めます。
写真専門誌の責任も大きいですが、写真について一番狭い固定観念を持っているのが「ハイアマチュア」などという言葉で呼ばれたり、ひそかに自己イメージを持っている人たちではないかと思います。
- 2018/09/01(土) 00:00:47|
- 写真
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0