鴨川に飛来する鳥と言えば、アオサギ、シロサギ、ユリカモメ、トンビ、ハト、スズメ、カラスも時折見かけます。そして鴨。
アオサギもハトも鴨も人が近づいてもあまり逃げようとはしません。
ハトやカモはむしろ「エサ、くれるんかな?」という様子で近づいてきたりします。

よ~く人間の様子を観察していて、いつもパンの耳を投げてくれるている人が来ると、今まであっちこっちでえさを求めていたものが一斉にどの鳥もその人の方に集中します。
そして袋を逆さにして「もう無いよう。」サインが出るとまた三々五々散らばっていきます。
鴨のま~るいフォルムがいいんだそうです。

自転車で走っていてもハトなどは直近まで逃げようとはせず「そっちが避けて。」という感じで、時々以上の頻度で見かける今どきの横着な若者にそっくりです。
危害が加えられないのをよく知っていますし、追いかけるのは幼児くらいのものですからね。
完全になめてます。
鴨もよほど近づいても逃げ出さないばかりか態勢さえ変えません。
でもちょっとスマホを近づけ過ぎたようで「あ、行っちゃう~。」

「ねえ、もう少し近づいてもいいかなあ。」
そんな風に鳥と遊んでいたので声をかけました。

どうやら派手に着飾ったオスよりも地味な中にちょっとおしゃれな色を入れている雌の方がお好きなようです。
オスもメスに対してアピールするために派手な羽根の色をしていますが、それだけに外敵に狙われる可能性が高くなるわけで、ずいぶんリスキーな求愛ですね。
ものの本によれば、秋になって渡るころにはメスと区別できないくらいにグッと地味になり、また求愛シーズン前にきれいな羽根になるんだそうです。

この撮影になるまでに30分ほど色々な話題で立ち話をしていて、それから「実は…。」という事で撮らせてもらったわけです。
- 2018/05/31(木) 00:00:19|
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これはフジX100Fで撮っているんです。 そう、例のアクロスですね。
確かにいいと思います。レンズも悪くないし。なんて言えるほどいろいろ知っているわけではないですが。
(ところで唐突な話ですが、最近持ち出す機会が減ってしまったx20 というカメラがとてもよくできたカメラだということを再強調しておきたいと思います。弱点もあるし、小さいがために使いにくい面もあります。レンジファインダーカメラで光学ファインダーです。ですから世界の見えがいいんです!特筆すべきはレンズがズームレンズなんですが、なんと画角に応じてファインダーの画角も無段階に追随するという優れものです。画質もいいし色もいい。もっと評価されてしかるべきコンデジだと思いますね。)

フジを使うとカラーの時もなぜか安心です。

肌もきれいに撮れているし、服の黒もいい感じだと思います。

動作性に安定を欠く点が多少ありますが、よくできたカメラだと思います。
これでX20のファインダー機構が備わっていれば・・・・そうなるとEVFだから実現できていることがなくなりますが・・・・まさに傑作の名をほしいままにしたんじゃないかと思います。・・・無論私の好みに応じてくれる方向での評価ですが。

金色も銀色もきれいに出ているでしょ?!
仕事や勉強、そして部活動にとお忙しいお二人ですが、協力をいただき有難いことです。

このカットも今日の獲得目標の一つでした。
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- 2018/05/30(水) 00:00:57|
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少し前に、ミノルタの100ミリー300ミリというレンズを買い求めたのですが、APO tele zoomですので、かなり期待していたのですが、どうも眠い感じなのです。
それで同じミノルタの75ミリ―300ミリを勧められて購入したのです。「設計は古いけれどレンズはいいもの使っていますよ。」とのこと。
ただ、100-300に比べて重く長い。確かに長さで1.4倍、重さで・・感覚的には・・・2倍といった感じです。
今は軽くて小さいがトレンドですから、・・・・いや実際今の私には大事なポイントなんですが・・・写りには代えられません。
それに80-200に比べれば長さが同じで径が細く、やや軽いのですから、有難いものです。

しかし、重量、直径、長さで一番幅を利かせている80-200ミリのレンズが写りの点では一番いいのです。F2.8通しですから格が違いますけれど、新しく購入したレンズ。これもまた案外良さそうです。

人を撮るのに300ミリはいらないだろうと、これまで全く考えたこともない焦点距離の長さですが、一つは6月21日の「清水寺 世界友愛 100本のトランペット」の時に是非とも必要であること・・・・・その時だけに必要なのに敢えて購入することまでしなくてもいいじゃないか・・・・、それに加えて音楽演奏のシーンを撮るときに客席から、二階席から撮るときにこの望遠レンズが役に立つことを知ったことで、いいレンズを手に入れたいと思うようになったのです。

そして今回こうして撮らせてもらうと、前ボケを入れたり、撮らせてもらう人から自分の気配を薄くして撮ることができる点で、これもまた一つのアプローチだなあと思えたのです。
撮られる方は何時シャッターレリーズボタンが押されるのか、つまりどのタイミングでポーズすればいいのかわかりませんし、ポーズを付けたり、撮る者・撮られるものとの間の空気を高めていく声も届きにくいという面はありますが、「そのままでいいからね。」というような場合には、案外面白いなあと感じました。
ここからフジX100Fです。
色が違いますね。(無論、露出の違いもやホワイトバランスの影響もあるのでしょうが。)

どちらが好きかという事もありますが、どういう絵にしたいかで意識的に使い分けたいところです。
背景の緑やトランペットの金色が印象的です。
先日の川口さんの舞台衣装の青も見事に再現されていました。

写真を見て「あっ きれい!」という画像にはなりますね。
- 2018/05/29(火) 00:00:31|
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6月21日の夏至の日に「音楽の祭日」の取り組みの一環として、「清水寺 世界友愛 100本のトランペット」というイベントが行われるという事は既に幾度か拙ブログに書いてきました。
当初の私自身のイメージからするといささか過剰包装になってきていて、目線が上に行きがちなのは、落ち着かないところですが、話題性のあるイベントなのは間違いないところでしょう。
この人も100人のトランぺッターのお一人です。

実は3月にも撮影協力をいただいたのですが、その頃はまだ寒くてコートを着ていたくらいでした。
その時にも使える写真が撮れたのですが、季節がだいぶん変わってきて、写真集の空気に合わせるために、もう一度撮影に協力していただきました。

この短い期間の間に状況に変化があって、この場では音が出せないようになってしまっていました。
演奏は建物の中でしかできないのだそうです。
それで、私の場合原則としては、吹いている風な写真は撮らないのですが、やむを得ない仕儀となっています。
お二人も、・・・・前回そういう話をしていましたので・・・・、残念そうですが仕方がありません。
この女性の方はご自身の属している交響楽団の定演がイベントと同じ日にありますので、参加できないのですが、力を貸していただいています。
お二人のトランぺトはそれぞれ出自に系譜が違うようです。
今日は良い天気で晴れやかで気持ちの良い写真になりそうです

本番では、100人以上の合奏になりますが、その演奏に向けて集まる人たちが日常トランペット、音楽にどのように親しんでいるのかを写真集に載せようというわけです。

実を言えばこの辺りも音出しが禁止されているのですし、安物比でなければ学生でごった返している場所です。
ですが今日は休日で穏やかなのんびりとした空気が流れています。
そんな日常感の中で演奏を楽しんでいる状景になっているでしょうか。

この撮影は、100本のトランペット演奏当日のために買いなおしたレンズで撮ったものです。ほとんど初めて使ったに等しいものですが、なかなか良さそうなレンズです。
- 2018/05/28(月) 00:00:14|
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将棋というゲームは不思議な仕掛けですね。
手持ちの駒は9×2+2=20個ですから、初手には20の選択肢があると言えばあるのですが、実際はそんなことはないようで、まず、初手で桂馬ははねられない。
それで18の選択肢です。

左に角、右に飛車が配置されていて左右が非対称ですから、右の駒から動かすか、左から動かすか、それぞれの意味合いが違います。
ところが数手後には、どちらから動かし始めても結局は同じ駒の配置になることもあり、そうなるとそこまでの経過の意味はどうなるのかとか。
素人目にはよくわからないことがたくさんあります。

私は囲碁のルールはまるっきり知らないのですが、一時期、日曜朝のNHKの番組で囲碁の対戦を毎週見ていました。それぞれの置いた石の意味は何も分からず、形勢も勿論分からないのですが、それでも不思議と面白いのでした。
駒の動かし方ぐらいは分かる将棋はというと、どういう訳か昼からの将棋の対局は見ないのです。
おかしな心理ですね。

囲碁も、将棋もこの限られたマス目の中で石なり、駒なりを動かして勝敗を争うのですが、なんといっても「感想戦」というのがあるというところが素晴らしいと私は思うのです。
勝った負けたという事はとても大事なポイントです。が、対局の中での相互のやり取り、そこでの妙手をお互いにたたえ合い、拙着はそれでまたなぜそういう手を打ってしまったかなどをお互いに検討して財産にしあえるという素晴らしい文化です。
素晴らしい手が生まれるのは、相手がそれにふさわしい手を打つからであって凡手しか打たない相手に妙手で答えようにも応えられないということをよく理解しているからだと思います。

ただ勝つためには相手が不調であり、うっかりミスの凡手を連発してくれれば「ラッキー」なんでしょう。
しかし、棋士たちは「良い棋譜を残したい」ということをよく口にします。
お互いの高度な攻防が棋譜に残され、そこには両者の思考の跡が示されているのですから、対戦者がどれほど高い山に登ったかが万民に開かれていて、のちの時代の人にも分かるわけです。
それは片方の棋士だけでは決して登れない山なのです。

こういう文化を持つ私たちの社会で、先日の日大アメフト部のようなスポーツ観がむしろ例外的なものでないことを知るのは残念なことです。
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- 2018/05/27(日) 00:30:31|
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高瀬川沿いにこうした石組みがあって、これをベンチにしてよく何かを飲んだり食べたりタバコを喫う人が見かけられます。
けれど今日は将棋を指す方たちが見かけられました。
この右手の方でもお二人が将棋盤を挟んで熱心に考え込んでいました。

夕涼みの縁台将棋ならぬ、高瀬川の風情を楽しみながらの将棋です。
これから夏に向かって納涼将棋が、ここで盛んになるといいなあ。そうすればこの辺りも雰囲気がよくなるのになあ。

最近、羽生名誉七冠、ヒフミン人気、そして藤井15歳7段誕生など、将棋の任期が高まっているようです。
将棋を楽しむ少年たちが増えているようです。 もっとも親の目論見から将棋をやらされている子もいるようですが、純粋・単純に楽しんでほしいですね。

私たち世代の男性の多くは・・・・・強いか弱いかは別にして・・・・将棋の駒の動かし方ぐらいは知っていると思います。
皆さんはいかがですか。
この将棋盤は波打っていますね。多分巻いて持ち運びやすくなるようなものじゃないでしょうか。マグネットで駒をひっつけられるのかな。
もしそうなら野原でも山の上でもできますね。

かつての職業は様々で、この将棋を通じて交流しているという風ですかね。
服装が、どうも元サラリーマン風ですよね。
月に2,2度お互いの都合のつく者たちが声を掛け合ってここで対戦を楽しんでおられるようです。

私のかつての同僚の中には相当に腕の立つ人がいて、よく「詰将棋」の問作を依頼されているという人がいました。
私などは「五手詰め」くらいで十分難しい。
- 2018/05/26(土) 00:00:53|
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この頃都にはやるもの。
ホテル建設、インバウンド目当ての商い…インスタ映え撮影・・・・

なんとわざわざ岡山から「インスタ映え写真を撮りに来た。」のだそうです。
「だって岡山にインスタ映えするところがない。」といいます。
それでいろいろ調べて上洛。

「映える!」 を「ばえる」というんですね。
いったん「インスタ映え」となっているので、戻ってきたら「映える(はえる)」ではなくて「ばえる」になってしまった。
若い人には「この服にはこのスカーフが『映える』ね」なんて言うように「映える(はえる)」を使うことはなくなっているのでしょうか。
「ばえる」という動詞が生まれているようです。

「インスタ映え写真」では「顔を写さない」のだそうです。「だって顔があるとそっちに目がいってしまう。」からだそうです。
なるほど・・・です。
「それに・・・・恥ずかしい。」

たくさんの、それも「女子」たちが「インスタ映え」写真を求めて京都にも来ていますが、かなり意識して写真を撮っているようです。そこに自分たちが写り込むのですが「顔は出さない」ことで、自分なり友人が画面の重要な構成部分となりながら、・・・・しかもそれは「映える」状景を写した写真の中でです、・・・顔出しはしないというのは、「インスタ映え写真がこれほど広がる上で案外重要なポイントなのかもしれません。
多くの人に認められる写真、印象的で嫌いな状景の中に自分がいるという事はとても楽しいし、自己肯定感につながると思います。自己承認欲求もある零度満たします。それで「顔出しがない」という事でハードルは低い、抵抗感がない。

敢えてむき出しの言い方を…誤解を恐れずに・・・・するときれい、かわいい、魅力的な女子に独占されていた世界が大きく広がった・・・のかもしれません。
いいことだなあと思います。
でもこの子たちは、自分で言っているような「写真に写れない」ような容姿では全然ないんですけどね。
わざと顔の写らないポーズをとってもらって撮ってみました。
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- 2018/05/25(金) 00:00:30|
- 写真
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皆さんの中にはこういう行動をする人はとても特殊な人たちだと思われている方がおられるかもしれません。
まあ確かに私の目から見ても、どうも理解を越えているなあという人をたま~に目にします。
そういう主張をして人に耳を貸してほしいなら、もう少し独りよがりじゃない言動、服装・風体にしたらどうかと言いたい人も見かけます。

意見、立場の異なる人に相互理解の橋の一端を受け取ってもらおうと思うのならば、もう少しその唯我独尊的な話しぶりを何とかできませんかという人も・・・少なくとも私の目から見て・・・います。
おまえ自身もそうだという声もなくはないでしょうか。

ほんの短時間の観察で何が分かるのかという事もありますが、私はファインダーからこの人を見ていて、とても安心できました。
それでだと思いますが、たまたま川口さんがとってくれた私の写真の表情は、私が今まで見たことのない笑顔でした。自分もこういう風に笑うことがあるのかと驚きました。
川口さんとこの辺野古で行動できたという事や、カメラを通じて何事か世の中・歴史の役に立てるのではないかという事や等々の事と、この人の指揮する行動に対する信頼感も絡み合っての笑顔だったのだろうと思います。
私の撮り方は戦いのドキュメントを撮るというよりも、その中の「人」をとらえたいという方が優先しますから、どうしてもこういうカットになってしまいます・・・・。

私の本来の目的は川口さんを撮ることでしたが、その途中で、こういう人を見るとどうしても撮りたくなります。
そこに「人」がいると感じられるからです。

生活を貫く意志を感じさせる人は魅力的です。
- 2018/05/24(木) 00:00:08|
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誰かが不倫をしただとか離婚しただとかいうニュースでTVの時間が塞がれている間に辺野古の米軍基地はどんどん工事が進められています。
県による異議や工事差し止め訴えなどけちらして、また各種の選挙や世論調査での県民の反対や不安、戸惑いをよそにただひたすらに工事が強行されています。

北朝鮮を国際社会に引き入れて交渉や国際条約の枠の中に引き入れるためには、彼らがあれやこれやの口実を持ち出すことができないほどに、にっちもさっちもいかないほど国際的な平和と民主主義の意思で圧倒していく必要があります。
お前は核兵器を持つな でも 俺は核武装軍を国内に引き入れる準備をしている
お前は核開発をやめよ でも おれは核武装している米軍のプレゼンス=北朝鮮や中国への軍事的脅威・脅迫力を高めるため に最大限の協力をする

お前は核防衛をするな でも 俺は核兵器は自衛のためなら現憲法下でも持つことはできる、核武装はイパン的には憲法で禁 止されていない、合憲だという。論理必然的に自衛の核武装が独立国の権利だと主張する
お前は核兵器開発技術者や科学者を国内から排除せよ でも 俺は全国の原子力発電所から出ている原爆の材料であるプ ルトニュウムをプルサーマル発電などという技術的に未完成の発電所建設を口実にしてため 込み続けている。

辺野古に基地は中国や北朝鮮・韓国に対して喉元に突きつけるナイフだということを彼らは知っている。
ロシアが歯舞、色丹、国後、択捉を返さないのは、日本の現政権では、ここを返還したとたん米軍基地が建設されるのは火を見るより明らかだからだ。仮にそれが自衛隊だとしても自衛隊が米軍の補完部隊だという事は日本人以外のほとんどが知るところだから実質は同じことだ。

ダブルスタンダードや、相手の置かれた状況を想像しないで、こちらの言い分だけを押し付けるような外交は成立しない。
この人が基地の中で建設や警備で働いている人に呼び掛ける言葉は、そういうことをきちんと飲み込んでいる。
自分たちのスローガンだけを声高に叫んでいるのではない。
強く主張する面と諄々と説く面と青併せ持っているし、相手の立場や考えを理解しようともしている。

私は、流れでこの指揮船に乗せていただいたが、防御フェンスに接近しても海上保安庁の監視船がカメラ片手に近づいてきても、少しの不安もなかったのです。
その一つの要因がこの人の実に堂々としたしかも冷静な態度・物腰があったからです。
監視船の指揮船が接近してきても、自分たちが節度のある行動をとること、互いに不測の事態を招かないように努めましょうということをきちんと伝えていた。
監視・警備の側だって「弾圧」だと言われる事態は招きたくはないのでしょう。
道路に立って警備している人たちもまたずっと長い時間呼びかけの演説や歌を聞いているんですし、終始そこでの座りこの人々の表情や行動をつぶさに見ているんですから、むやみに乱暴に振る舞いたくない人は少なくないのだと思います。
- 2018/05/23(水) 00:00:10|
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いったん許していただくと「ちょっと一枚」ではなくて、周囲を経めぐり上から下から撮ります。

そこへ台湾人?カップルがやってきて男性の方が一眼レフを構えて取り出しました。
演奏している二人はとりたてて気にすることもなくむしろ「ウエルカム」といった感じです。
それにしても結構いいカメラみたいだなあ。

「礼儀正しい日本人」が良いのかどうか、ちょっと考えてしまいます。
声をかけるかどうかではなくて、どういう気持ちで迫るか、かなあ。

撮らせてほしいと言われた時の、撮られる側の日本人と欧米の人との違いがあるような気はするんですね。
「撮りたい気持ちはわかるよ。」という要素があるかないかが日本人と欧米の人との違いかなあ。
日本人は「撮らせてあげましょう。」という親切で承知する、あるいは許すと言う事ではあるけれ、ど「写真を撮って楽しみたいんだね。」とか「何か良い作品を作ろうとしてるのかな。じゃあっちょっと力を貸そうか。」という気持ちは希薄なような気がします。
微妙な差かも知れませんが、大きな違いともいえそうです。

親切であるという事と、相手の行為に関して共感する、多少とも理解しリスペクトするという事とは違うような気がします。
それにしてもこのお二人のアレンジはなかなか興味深いものがあります。
どういう方たちなんでしょうね。
- 2018/05/22(火) 00:00:04|
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岡崎公園をブルブラしていると、京都会館の影辺りから三味線の音が聞こえてきました。
すぐそばには水平社の結成を記念する碑があります。「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。」
見ると少しいかつそうな男性と若者の二人の外国人が三味線を弾いていました。

これまで聞きなれた三味線の曲ではない、どうも現代の洋楽を弾いているようです。
私は音楽についてもほとんど知識を持ちませんので「現代の洋楽」というのが当たっているのかどうかわかりませんが、和楽ではないようではあります。
演奏法も伝統的なものではなくてかなりギターなどの奏法を取り入れているように聞こえます。

そういうアレンジをお二人で楽しんでいるような気配です。

しかし音色は三味線です。 それが違和感なく聞こえるのが興味深いところで、市立美術館別館から出てこられた女性スタッフも、「いいですよね。」とおっしゃっていました。

お二人で熱心話し合いながら演奏していますので声をかけずらかったし、場所が京都会館のすぐわきでしたから、プロ演奏家の出演直前のリハかな?そうだとすると邪魔できないなあなどと逡巡していました。
けれど、ここでいつもの自分の呪文。
「君に明日はない!」
人生この先はもうそう長くないのです。
「その内にまた。」などと逃げていたら、何もおこりませんからね。

一歩前に踏み出て「写真を撮らせてもらっていいか?」と声をかけると二人そろって「シュア」の返事でした。

「案ずるより産むがやすし」
断られたって命までは取られやしません・・…とは思うのですがねぇ。なかなかそうは思いきれないもので・・・・・。
- 2018/05/21(月) 00:00:59|
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太秦の撮影所でのエキストラや、電気炊飯器の内釜のメッキ工場での深夜労働など、私も少しならバイトをした経験があります。
新撰組隊士や官軍兵士、金バッチを付けたヤクザの構成員、ヘルメットを被った極左学生・・・・こういう学生と対峙して大学から暴力をなくそうと奮闘していた我々アルバイト学生仲間は複雑な心境でしたが・・・・や機動隊員、必殺仕掛人の捕り手たち・・・そういうエキストラをした思い出は懐かしいものです。

ですがアルバイトに割く時間が惜しくて、三度の食事を二度にしていたものです。
でも今は大学生になったらまずやりたいことが「バイト」のようです。高校生でもそうですからね。
確かに今の学生は学費も高いし奨学金制度も改悪されて学生生活のための費用が大変です。また我々の時に比べて消費生活(欲求)が大幅に拡張させられていますしね。
そんななかでたくましく学生生活を送っていくためには、また社会勉強の「触り」にはなりますから、バイトをするのもいでしょう。
バイトをすると売る側の立場、サービスする側の気持ちが分かるようになりますし。

初バイトの初日と聞いてつい話しかけたくなったのです。

それで普段はあまり手を伸ばさないし試食品にも手を伸ばしてみました。
マンゴウの甘みが、実に美味しかったです。

この人はきっとこの日の景色を忘れないでしょう。
お釜のメッキ工場の徹夜労働を終えて、バスも電車もないので、皆で歩いて寮まで帰ったあの時の景色を私が時に思い出すように。

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- 2018/05/20(日) 00:00:15|
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京都で土産物と言えば・・・・・。
何人かの方は「八つ橋」と答えられるんじゃないでしょうか。
その八つ橋にも最近はずいぶんと新種があるようで・・・・・。
「マンゴウ入り八つ橋はいかがですか?」

こういう風に「試食できますよ。」と誘われた時に、あなたは咄嗟に手が伸びる方ですか、それとも・・・・・・・。
中国に行った時に中国の人がそれはそれは旺盛に試食していたので驚いたことがあります。けれどそれは決して中国の人だけではないようで、琵琶湖の東岸にある琵琶湖の魚のつくだ煮などを数多く並べている大きなお店で、ほとんどお昼は他にいらないんじゃないかと思うほど全品試食していいる風なおばさん集団に圧倒されたことがありました。

私は何か特に『大義名分』を考え付かない限りなかなか手が伸びないタイプの人間です。

この人は「人生『初バイト』」なんだそうです。きっと新入学の大学生なんでしょう。
人生初めてのバイトでこうして道行く人に試食を勧めるのもなかなか戸惑いがあることでしょう。しかも今日が「初陣」だそうですから、バリバリの新人さんです。
いったん通り過ぎて、ふと振り返って、・・・なんだろう、ちょっと気になるなあ、というケースです。
通り過ぎても、こういう風に気をとりなおして?興味感心し示す人がいるから意識して行動を見たほうがいいよ、とアドバイス。

お店の先輩がつきっきりで様子を見てアドバイスしているんですが、先ほどのアドバイスは、私。
私のは「ビラまき」で培ったものですから、さらに難しい手渡しの経験です。

大きな民間企業の前で早朝ビラまきをすると門の中には職制が目を光らせていて、大きな紙屑籠を並べて・・・・たとえ受け取ってくれても・・・それに投げ入れさせるのです。
企業の中に憲法はないのです。
ですから、目で「ゴメンね」と言いながらも手を伸ばさない、ビラを受け取れない職場が圧倒的に多いのでした。
労働組合が先頭に立ってビラ配りの妨害に来る企業もありましたしね。
核兵器を廃止しようとか、公害を防ごうとかのビラなのにです。
その点美味しいお菓子の試食のおすすめですから邪魔するものはないし怒る人もないので気は楽でしょうが、それでも初バイトともなれば、なかなかうまくいかないものです。
ガンバレ!!
- 2018/05/19(土) 00:00:39|
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バラ園に立ち寄った時に「以前、この植物園で蜂に刺されたことがあるので・・・・。」と腰が引けておっかなびっくりでした。
藤やバラには蜂がよく飛んでいますからね。
気を付けないと。
蜂に刺された時には「アロエをぬってもらいました。植物園のアロエでした。」だそうです。

植物園にはたくさんの来場者がいます。
こんな晴れた日には緑に囲まれた空間は気持ちがいいですからね。

かつてここの入場料は「60歳以上無料」だったんですが、やがて65歳以上となり、それが今や70歳以上。
私はついにその恩恵を受けられないまま、そのゴールテープが遠ざかるのをずっと追いかけてきているわけです。

どうも年金制度の改悪とか、賃金の引き下げとかは、どんどん向こうから勝手に近づいてきて適用されてきたのにです。
合わせれば二重の苦ですね。文字通り「踏んだり蹴ったり」です。

しかし、弧状列島社会史的に言えば、歴史上かつてなかった・・・・どういう風に「かつてなかった」のかと言うことが肝心なんですが・・・・・「老年期」が現出しているわけですから、それが斯く現れてきた歴史的意味を自覚していきたいものです。
こういうことをもっともっと社会学者たちが世に問題提起すべきなのに、財布の中身をいかに「ナチスのようにうまく」すり取るかという問題意識でしか「高齢化社会」は考えられていないようです。

とういうことはさておいて、この人はこうして写真の相手をしてもらいながらいろいろ近況を話してくれています。
仕事のことなどは、現代の企業での生の話ですからとても興味を引かれます。
私のようなリタイア組は「以前は・・・。」という話になりがちで、次第に「今」とはずれていきがちですから有難いことです。

先日も7,8年前に日本がGDPで中国に抜かれて世界3位になったことで人々は驚いたわけですが、今やGDPで見れば中国:日本=2.4:1ですからね。多少追い抜かれてはいるけれど・・・・なんて水準じゃないんです。
一人当たりGDP では日本が世界25位で、中国に74位をはるかに差をつけていますが、追い抜かれたばかりの時には10倍くらいだったのに、今では4.5倍でしかありません。
(世界25位でしかない先進国なんですね。アベノミクスってどうなの?)
そういう「今」を知らないと、的外れの思い込みで議論してしまいますから剣呑です。

そういう意味でもこうした若者と話す機会があると嬉しいですよね。
何より心が和みます。
しかも、写真を撮ってご機嫌ですし。
ありがとう。
- 2018/05/18(金) 00:00:37|
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もう一年が過ぎたといいます。
前回、会って写真を撮った時から数えると、そんな時間が過ぎたのです。
その間何度か京都に行きますという話もあったけれど社会人一年生では、なかなか思うように自分の時間を作れないようで、なかなかハードな毎日を送っているようです。

この半ばプライベートフォトともいえる写真を公開するのもなんだかなあと思いますが、よく見かける「ポートレート」とは違う写真として、出しています。
と言っても構図や、ポーズにとりたてての違いがあるわけではないのです。

どの写真も至極平凡で、目新しいことは何一つとしてないのです。
ただいえることは、私の趣味にあっているという事でしょう。

私の趣味に合わない写真(ポートレート写真)が大半なので、趣味に合うのは自分で撮るしかないと、まあそういうわけです。
その点でこの人は極めて有難い人です。
ただ、一年に一度くらいしか撮れないというところが玉に瑕でしょうか。

そんなわけで「あれっ ちょっと顔立ちが変わて来ている。」と背面液晶画面を見て、この人がつぶやいていました。
撮影と撮影の感覚が開いていますし、いろいろ生活環境が大きく変わっていますから、そういうところからいろいろな心理的状況の変化として表情などに出るのでしょう。体も成長しているわけですから。

この時期の緑はすがすがしくて柔らかくていいですね。
これまでも書いているように私はこうした緑の中での撮影でフォワイトバランスをあれこれしません。
色かぶりのまま撮ります。

この季節の緑の中で撮りましょうという約束のいくつかが実現しないことになった時に、「京都に行きます。」と連絡をくれたので、「レンズを磨いて待ってます。」と返信したのです。
- 2018/05/17(木) 00:00:50|
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このようにストリートで演奏している人たちの写真をたくさん撮ってきました。
ですからそれなりにたくさんの演奏も聞いてきたことになります。
率直に言えばうまい下手はいろいろあると思います。

でも、写真で言えば個展をして人に見てもらい批評してもらうということを、こういう形でしていることに対しては、どの人に対しても偉いなあと思わずにはいられないのです。
それで・・・・端的な言い方をすれば・・・・投げ銭をしてもらえるっていうのは大したものだなあと思います。

それはちょっと話が違うという方もおいでだと思いますが、私の写真をここに並べて果たして何人の人がいかほどの金額を投げ入れてくれるでしょうか。
日がな一日立っていても、おそらくだれ一人、ただの一円も投げ入れてはくれないと思います。

まあ、そこには私の写真の巧拙ということ以外にもいろいろ考えなくてはいけない要素があるとは思うのですが。



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- 2018/05/16(水) 00:00:06|
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手前味噌ですが、この一枚 いい感じです。
背景に演奏に浸りきって耳を傾けている人が写っているのがいいでしょ。
ボカシながらも微妙に表情が分かる。

上手いサックスだなあと近づいて話を聞くと、このあと高槻のjazzフェスに参加するんだそうです。
演奏出番が夕方からになるのでその前にここで練習を兼ねて・・・という事らしいです。どおりで!
交通費とかも稼がないといけませんしね。 何しろ関東からの参加ですから。

さすがに次々と投げ銭が・・・・。
やはり皆さん耳が肥えていらっしゃる。

演奏のテクニックは勿論なんですが出している音のひとつづつがとても説得力があるというか、気持ちよく響くのですね。
ですから遠くにいる方でもこちらに目をやります。

周囲を整理して迫りたいのです。
結果的にこのように撮れていますが、ファインダーではあまり満足はできていないのです。
というのもこのカメラ(X100F)では、OVFにしろEBFにしろファインダー画像が小さすぎて、被写体のディテールが見られないのです。
気合を入れてはいても、とにかくまあこんなものかという撮り方になりがちです。
これはストレスですね。
やはりストリートフォト向けのカメラです。

しかし、写りの良さは素晴らしいと思います。
サックスや眼鏡や帽子を見るとそれがよく分かります。

周囲に人がいても、邪魔にならないように気を付けながらですが、しつこく撮ります。
それが撮らせてくれたことへの私なりのお礼でもあるんです。
ちゃんと撮りたいんですという意思を示して演奏と撮らせてくれたことへの返礼のつもりなんです
- 2018/05/15(火) 00:00:56|
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お音楽の力は強いですね。
写真はそれに匹敵できるでしょうか。

勿論だ、と言いたいところですね。
そういう深く遠い眼差しをもった写真があることは事実なんですから。

写真には写真の仕事がある・・・、そう思います。

この会場で、私はこの企画のスタッフさんから「スタッフ」の首から下げる札を預かりました。
会場では静止画も動画も撮影禁止ですし、録音もまた禁止です。・・・・スマホがあまりにも簡便すぎて、特に何も思わずふと取り出して録画・録音をしてしまう人がいることに驚きますが。

だからこそ私にだけ許されたこの役割を、存分に味わい、良い写真として残すのは、なかなかにワクワクする仕事です。
ペイがあるかないかという事とは別に、私に任された良き仕事です。

そういう意味では6月21日の「清水寺 世界友愛 100本のトランペット」もまた同じです。

写真ていいな、そう思ってもらえる仕事をしたいものです。
- 2018/05/14(月) 00:00:29|
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子の成長を願う一方で、だからこそ平和でありたい、戦争は嫌だという人々の当然の願いがあるにもかかわらずそういう事を敢えて等閑視している音楽状況を打ち破って、当たり前に人間的な生活の歌を取り戻すためには勢い政治的にならざるを得ないと思います。

それがまっとうな当たり前に人間の生活意識です。人なればこそ、親なればこそ・・・・想いあふれるのは何も男女の愛や恋や一人寂しいという個人的情緒世界だけに尽きるものではありません。
彼女の歌が、街を流れている歌と比べて語彙が違うのは、それだけ正直に現実のわが身と我が生活を見ているからだと思います。

わたしはこういう、人としての根から生まれた「沖縄・平和を歌う」歌が鉢巻きやこぶしを振り上げてだけ歌われるようなものではないことを率直に思います。
事実、彼女の歌には単なる言葉の操作、修辞としてではない深いリリシズムがあります。
ステージの上で媚態を見せたり、演出を凝らしてポーズをとって何か深い意味を含んでいるかのように歌う者が少なくありません。
けれど川口真由美という人の歌う姿はそういうものとは違う躍動と、美しさがあります。

だから、彼女の歌をただ戦いに調子を付けるための、お囃子みたいにしか見ないことに反対するのです。
私はこの人の写真を撮るときに、もちろんシャウトしている姿や、聴衆を巻き込んでいる姿も撮ります。そこにも彼女の本当の姿があるからです。
けれど不当にも沖縄の人々の意思を踏みにじって基地建設が進められることに対する怒りをぶつけているその姿は「美しい」のだということを示したいと思うのです。
孫として、娘として、母として、人として平和を願い、核兵器の恐怖に抗う姿は、訳知り顔に国際情勢を分析して見せているおじさんたちの、傍観者的なすまし顔とは根本的に異なる生命力を感じるのです。

だから「あるがままに美しく」撮る写真でありたいと思うのです。
この人によって体現されている美しさや生命感を誰か他の人が撮らないならば、私が撮ろうと思うのです。あるいは私もとろうと思うのです。

以前私は川口さんに言ったことがあります。
ジャズやシャンソンを歌ってもきっと素晴らしいだろうね、と。そして彼女もそういうジャンルもまた好きなのです。
ジャズやシャンソンの根底にある人生をいつくしむ精神、また時に差別に抗する精神、不条理と戦う精神が、彼女のつくる歌にもまた流れているのですから、そこにどんな壁もありません。
そこに通底するものを歌う彼女に流れる感情が美しいのは当然だと私は思っているのです。

それで私は人を美しく劇的に撮るやり方でこの人を撮ろうと思うのです。
それは敢えてする演出でもなければ、媚態でもないので、あるがままに撮ればよいのです。
ただ、「あるがままに撮る」ということがすこぶる難事だというだけの事です。

私は彼女の歌う歌を聞きながら撮るのですが、時に涙でファインダーが曇ることがあります。
- 2018/05/13(日) 00:00:33|
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シンガーソングライターの川口まゆみさんです。
5月3日の憲法記念日に彼女の2ndCD「『人の力』 沖縄・平和を歌うⅡ」がリリースされました。
それを記念して翌4日に京都府民ホール、アルティで彼女のコンサートが開かれました。

私はこのコンサートに「写真撮ってほしいんですけど。」というご要望に応えて会場に出かけました。
私は先のCDのジャケットやなかにはいっている冊子に何枚かの写真を提供している関係で、一応「ご招待」なんですが、「リハーサルを撮りた」という私の要求に合致した要請でしたので、結局ゲネプロから本番まで半日撮っていました。

本番はお金を払って聞きに来ているお客さんの大切な時間でもありますから、お邪魔にならないようにしないといけませんのでとても制約が大きいのですが、リハーサルは、その目的を邪魔しない限りかなり自由に撮らせてもらえます。
これまでにも何度か撮ってきていますから、様子も多少は分かりますしね。

ただ彼女にとってはゲネプロも単なる音合わせや「一応の確認」以上の真剣なものですから撮りがいがあります。

川口さんの歌は辺野古の座り込みに連帯したり、核兵器や原発に反対するメッセージが明確ですから、反戦歌手とかとイメージされているのですが、私は彼女はそれ以上の歌手だと思っているのです。
いろいろな市民運動や労働運動にかかわって集会やデモに呼ばれて歌っていますし、彼女も熱心にその先頭に立っています。
しかし、ネトウヨ諸君が描き出そうとしているような歌手では毛頭なくて、きちんと人生を全うに生きる人間的要求に根差したヒューマンな歌手です。

TVや商業音楽の世界では歌われない世界を対象にしているという点で、あるとても特殊なイデオロギッシュなものだと先入観を持つ人もいますが、私はまさにその点にかえって現在の日本の文化の偏りと腐敗・退廃があると強く感じています。
わたしたちはまなび、はたらき、遊び、恋もし結婚もし、子育や家族生活に喜びを感じたり悩んだりしますが、この分野についてさえ商業音楽ではカバーしきれていません。生活の、意識の極偏った一面しか取り上げません。

まして平和や政治や国際的な連帯や民族差別に対する反対や怒りや煩悶などを歌うことはまずありません。
沖縄や福島原発の現状や未来をテーマにしない人間の生き方のなんと狭いことか。
今はほとんど耳にすることのない「小市民的幸せ」に閉じ込められた文化、意識。私に言わせればそれは家畜化された意識です。それが多くの人々の耳目をとらえて目を耳をふさがせている。
そういうこと自体が極めて政治的なことです。
ですから私は川口さんの歌は「まっとうな生活者としてのあるがままの人としての歌」だと、そう感じています。
- 2018/05/12(土) 00:00:20|
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先日シグマの展示場でいろいろお話を伺い、その後自宅で少しばかりシグマのカメラやレンズのことを調べました。
以前からレンズについて少し気になっていましたので、85ミリと135ミリはその重さの実感はどのようなモノかなあと思って、もう一度立ち寄りました。
残念ながらレンズはガラスケースの中でしたので触ることができませんでしたが、この人といろいろなことをお話しすることができました。
しっかりした、そして深い写真観、カメラ観をお持ちで、ご自身も人物写真をお撮りになると言う事でした。

台湾ご出身で元来はデザイン畑の方だそうです。
働く人を撮るのがお好きだそうで「真剣な表情がいいですよね。」とおっしゃっていました。
私との共通点が多いようでしたのでもっともっといろいろなお話を伺いたかったのですが、祝日という事もあってお客さんが続いてこられますので、あまりこの方を独占しておくわけにはいきません。

撮ることはたくさんするけれど、撮られることはめったにないというよくあるケースの方でした。
私も自分の写真はごくわずかしかありません。
「私のように撮る人になら撮ってもらってもいい。」とおっしゃっていましたが、この点でも意見は一致しました。
撮り手として、私はどう評価されたでしょうか。
- 2018/05/11(金) 00:00:02|
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うれしいことに今年の”KYOTO GRAPHIE京都”は私にかなりの刺激を与えてくれています。
そんな中、京都中央市場の旧貯氷庫の写真展を見に行った際に・・・・・・・撮りました。
この建物は既に使われていないのですが、こんな施設を会場にしているところが今回増えていました。
私は写真は勿論のことですが、むしろ会場の魅力にひかれて随分写真を撮りました。
あちこちの会場には外国からの方も来ていて、熱心に作品鑑賞をしています。
この小部屋の棚にはこの会場の写真を展示している作家の写真集が置いてあります。
先ほど日本人男性が良いたたずまいを見せてくれていたので「撮らせていただけますか?」とお訊ねすると「いや、私は撮られるのは・・・・。」と固辞されますので早々に諦めました。一眼レフカメラをお持ちの方でしたが・・・・・。
他を少し見て後に再びここに来ると、この人がいました。
それで「撮ってもいいですか?」と声をかけると、「勿論です。」との返事でした。彼女もまたカメラをお持ちでした。
心に小さな固いものができました。
- 2018/05/10(木) 00:00:04|
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この写真では長谷川氏は「龍体」を描かれています。
日本画を描かれる方の中には好んで龍を描かれる方がおられますが、何故、架空の存在を主題に選ぶのでしょうね。
写真はないものを撮れませんから、発想がずいぶん違うのだろうと思いますが。

龍は中国でも書かれていますし、その源流は中東にあるらしいのです。西に流れてドラゴンになるのでしょうか。
中国の龍と日本の龍とは違うものだとお話になっていました。

まあ、それはそうでしょうねぇ。
中国の龍は皇帝を象徴し、皇帝の衣服にも龍の刺繍が施されています。 皇帝の色である「黄」を皇帝以外のものが使えないように、「皇」の字を使えないのと同じように、龍を皇帝以外が使えないのが中国であり、中国の勢力範囲です。中国皇帝は周辺の蛮夷の王にその地の支配権を認める代わりに朝貢をさせました。(冊封体制)

圧倒的に京大の中国皇帝の支配下にはいって冊封されることが周囲の王たちにとって死活の事でした。
ですから倭の有力者たちも競って「漢委奴国王」や「親魏倭王」の称号を得ようとしたのですね。
歴史上有名な「遣隋使」が持参した倭の王の親書の中で「日出づるところの天子、日没するところの天子に書を致す」などと言うようなことは国内情報操作としてはあり得ても、現実の外交文書としてはにわかに信じがたいわけです。

まして「天皇」と表記するようなことはわざわざ外交交渉を失敗させるためにするような愚行ですから、「天皇」ではなくて「すめらみこと」と自称したというのがせいぜいのところでしょう。
今の安倍政権でもそうですが「トランプ大統領と親密に会談した」と発表したからといって言葉通りの事実かどうかはひとまず疑う必要があります。政権側の言辞というものはえてしてそういうものです。北朝鮮の発する言葉も国内向けと対外的なものととの両方を使い分けているのをしっかり見極める必要があります。

日本の「王」・・・国内的にどのように自称しているかは別にして…対中国では、黄色は使えませんし勿論、龍を自らの象徴にはできないわけで、中国文化に憧れて龍を取り入れたとしてもいろいろな工夫が必要になるのは明瞭なことです。
それを日本では生きた人間である皇帝の象徴としてではなくて・・・と、何か超自然的なものを象徴したから、中国の龍<日本の龍だとするのは少々身びいき過ぎるように思います。
・・・と、話がおかしな方に進んでしまいましたが、こうした架空のものにその国の人々の文化の中でいろいろな思いや事実を込めて語り継がれ描かれ継がれてきたのですから、今日的な思いなりメッセージを体現するものとして再生することには大いに意味もありそうですし、興味もありますね。
- 2018/05/09(水) 00:00:20|
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ギャラリーで個展をする際にオープニングパーティーなどが行われたりします。
私はそういう事をしたことがありませんので、そこで作家としてお話しするような機会にも恵まれてはいません。もしそういうようなことになればどうするんでしょうね。
私の場合は自分で個展を計画して、自分で開き、自分で閉じているのですから、やろうと思えばできるのでしょうが、果たしてわざわざ私の話を聞こうなどという奇特な人がおられるとも思えませんし・・・・。

野球が上手だからと言って、演劇に巧みだからといって、あるいは見事な小説を書くからと言って話がうまいとは限りません。人間なかなかそう都合よくはできていないと思うのです。しかし、人はその道の匠の話を聞きたいと思うことがあり、またそれを聞いて大いに感心することがあるのです。いえ、話が旨いと感心するのではなくて、話の中身や、それを話すその人の態度などに感服することがあるわけです。

私は、あまり写真を褒めてはいただけないのですが、時に「文章がいい」と思わぬ褒め言葉に接することがあります。
私自身は密かに、文章より話の方がうまいと思っているのです。
もともとそれが職業でしたし、テーマによってはそれなりに話すことができるだろうという自負はあるわけです。

7年前にこれからどうしようと考えたのです。その時にそれまでの仕事の延長上で「話す」ことをしようかとも考えていました。それ自体大学卒業の時に目指していたことでしたから、ようやく本来の目標に進むことができるなと思ったのです。
他にも写真以外にも二三考えたことがありました。
多分私の出来ることで一番ましなのはその「話」でしょう。そして社会的な貢献度も一番だと思います。後はこれまでの蓄積においても能力においても到底及ばないモノばかりでした。ですが、私は写真を採りました。

すでにある程度できることではなくて、まだ何ほどもできないことをする。自分として一番ワクワク度の高いものをする。一番「ねばならない」「しなくてはならない」ことから遠いことをする。今まで見たことのない世界を見られることをする。
それに「話す」ことについては、ここは京都ですから、他によりよくできる人がたくさんいますから(これは実は別の意味で認識不足でしたが。)
それで、写真・・・です。

それで、こういう風に、秋野 不矩氏の最後の弟子という日本画家の写真を撮ることができたわけです。
秋野 不矩氏は日本画の中で、私が好きな人の一人です。静岡県の二俣の生まれの方です。
師弟関係は難しいものです。
- 2018/05/08(火) 00:00:58|
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ご自身を「視覚芸術家」と。
今回のKYOTO GRAPHIE・京都国際写真祭 に出品されている。
清水寺からもほど近い立地で、東大路がすぐそこだという場所が会場となっている。 登り窯の跡だ。

高いレベルで写真を表現の要素として駆使している作家に対して「写真を撮らせてくれ」というのは幾分気がひける。
だが、撮りたいと思える人にあって言いよどんでいる自分を突き破らなければ写真は撮れないのだから、そこは頑張りどころ。
十度に一度そういうように意を決することができるかどうかという弱気な私ですが、・・・・。

普段写真について語り合える、あるいは考えを聞かせてもらえる機会はほぼ皆無なのですから、こうした機会は極めてありがたいのです。
これがKYOTO GRAPHIE・京都国際写真祭 の良さでもあるわけですからね。
ただ写真をみせてもらって感心しているだけでは能がないという訳で、「チャンスの後頭部は剥げている!」と。

私がこの会場をしつこく見て回っているところを声をかけてくれたという幸運もありました。

ご自身の経歴というか、人生上の体験や困難な時期のことを聞かせていただきましたので、余計に、表情に対する感受性が増したと思います。
何も知らないで撮るということも多々あるのですが、そういうときにもわずかな言葉や仕草などからその人を推し量るというか読むというかそういう力がポートレートフォトグラファーには必要だなあと感じます。

絵画の歴史と写真の歴史を紐解く話を伺いましたが、写真には人を撮るという宿命があるようだなあと思いました。
ただ、絵画が担っていた「肖像」と同じでよいかというとそこは違うんだと思いますが。
多分その違いを明確につかんで撮るということがポートレートフォトグラフの肝じゃないかと思います。

そういう意味で歴史は古く長いですが、大いに探求してみる価値はあるんだと思っています。
- 2018/05/06(日) 00:00:07|
- 写真
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彼女らの動きと表情にプロの演技を見るのでした。
私は一たびはそこを離れて会場の動画を見に行き、そこでも別の歓心をしながら、やはりこの人たちの見事さに、そのまま部屋を出る気持ちに成れませんでした。
それで、何となく再び部屋に入る気恥ずかしさもあって、入り口のドアのすぐわきの、部屋の片隅に入って、腰を落としてカメラを構えました。

するとこの人が近づいてきて、まるで「ほら、あなたがさっきスカートの下のステップが不思議だといっていたでしょ?!
こんな風にしているのよ。」と言っているかのように、スカートを少したくし上げてくれたのです。 足の動きが見えるように。

そして「分かりますか?」というように微笑んで見せてくれました。
オートフォーカスの利かないレンズ付けたカメラのファインダーを懸命にのぞき込みながら撮りました。
この暗さではピントが合っているかどうかを見極めることはとても難しいのです。

私が、大丈夫、撮れたよ、ありがとう、と無言のサインを送ると、
そしてまた氷の上をすべるように、流れるかのように向こうに行ってしまいました。
時間にすれば十数足らずの事ではないかと思います。


そしてまたこちらに来た時の彼女の表情を見て、ただ展示されているものを撮った、演技している人を観衆として撮ったというのではない交流を、勝手に感じてしまいました。
高度に修練を積んで演じるダンサーと一生懸命撮ろうとする人間とが瞬時出会って、交錯できたという熱いものを感じました。
それはうれしい瞬間でした。

勝手な思い込みかも知れませんが、この写真を見て改めてそう感じました。
それで昨日書いた原則に十分かなて散ると思って、この写真をアップすることにしたのです。
- 2018/05/05(土) 00:00:43|
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私はイベントで行進している人や、祭りのみこしを担いだりしている人を撮ってこのブログに掲載することをほとんどしていませんでした。
原則としてある程度の会話や、少なくとも「写真撮影はOKですか?」と尋ねて了解をいただいた人だけにしています。
そういう意味では、今回はちょっと微妙ですし、お一人はこの原則に当てはまりません。
KYOTO GRAPHIE・京都国際写真祭の内で京都文化博物館の展示場での撮影です。

今回のこのKYOTO GRAPHIE・京都国際写真祭では写真一枚一枚を個別に撮るのでなければ会場の様子も含めて撮影が許されています。
これはとても良いことだと私は思っています。全般的に「禁止」というやり方には疑問がありました。個別的に理由があって禁止するという事があってよいと思いますが、一括りに禁止するのはどうかなと。
それに多分、インスタグラムなどで鑑賞者たちが感想、評価付きで発信する宣伝効果は抜群でしょうし、費用のかからない宣伝としてイベント側としてはありがたいのだろうと思います。(と言って、主催者や作家の意識とは別に周囲が勝手にそのように了解してむやみに撮影し公開するのは、まだまだ拙速といえるでしょう。)
それで逆にここでは一般的に撮影が許されているという状況ですので、この人も私を特に意識しないで撮影を受け入れてくれているのだと思います。

このダンサー?お二人は機械仕掛けの人形のような動きで、床の上をすべるように移動していきます。
まるで雲に乗っているかのように滑らかに滑っていきます。台車にでも乗っているのかなと一瞬思いましたが、いやそうではない! 彼女たちの高度なステップ技術のゆえにそう見えるのだと思いつきました。
会場の写真作品、オブジェ、音楽、光、そしてこの二人の会場を流れるように縦横に、時に回転しながら移動する動作によって、全体として一つの作品世界が構成されているようです。
私はこのダンサーたちの、そのスキップのスキルの高さ、ポージングの優雅さ・美しさなどに大いに関心を持ちました。
しかも素晴らしい美声で歌うのです。感心しきりです。
そこでこの人に、・・・・演技中で話しかけられませんので・・・ジェスチャーでスカートの下のスキップがすごいね。どうやっているの?と尋ねました。

文字通り優雅な無表情で私のジェスチャーを見ていましたが、果たして通じたのかな、どうでしょう。
私がカメラをもって撮り始めると、こちらにす~ッと回ってきた時にこのようにポーズしてくれました。
これは或は誰に対してもしてくれているポーズかも知れませんが・・・私は記念撮影的に、はい一枚という撮り方ではなかったのです。

二人はゼンマイ仕掛けの人形のように、あちらに行くかと思うえばその場でくるくると回り、時々こうして二人であってポーズします。

この動きは、そう、白鳥のように水面下で(スカートの下で)とても素早く足を動かしているのだと思います。そしてとても訓練のいる辛い動きじゃないかと思うのです。
- 2018/05/04(金) 00:00:44|
- パフォーマンス
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四条、三条の端の付近では若者がよくこうして楽器演奏をしています。
みずからのCD販売をしたりする人もいますし、5人ほどのメンバーでかなりの音響機器も持ち込んで演奏する者たちもいます。
あまり大音量だと近所迷惑ですから、警察官も捨てては置けません。 演奏する者たちも、同様の仲間の演奏の機会を失わせないためにも節度は守ったほうがいいですね。
応援団としては、そう思います。
この人たちは、その点では合格かな。
私が通りかかった時にはベースギターを一人で弾いていたところに新たな仲間が現れました。
ジャズやボサノバをやるような感じです。
「イパネマの女」などもちょっとやっていました。私は「イパネマの女」が好きですからもうちょっと、とも思ったのですが。

私は外出するときに、今日はどのカメラ、どのレンズを持ち出そうか、いつも迷います。
汎用性がある組み合わせを選択するか、単焦点レンズで行くか。
暗い場面で撮るに高感度耐性がないといけませんし、ちょっと離れて撮ることになるかなあ、どうだろう・・・と、今日の行程を想像しながら考えますが、「よし、いい選択だった。」とばかりはいきません。

この時にはX100Fでした。
アクロスが使えるという肯定面と、時に色がきれいで鮮やか過ぎるという否定面があります。
私の他のカメラは好感度がとても低いのです。その点このカメラは今様です。

先ほど白人の若者が・・・たぶん…Xプロ1?2?に少し長いズームレンズを付けて熱心に撮っていきましたが、お互いがフレームに入ってしまって「ソ―リー」「イクスキューズ ミー」で互いのカメラを見て笑顔を交換しました。
・・・・それでその後で鴨川を好き師遡ったところでも行違って、「オーっ!」とにっこり。・・・・・
こういう一瞬は楽しいですね。
- 2018/05/02(水) 00:00:15|
- 音楽
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