福井安紀さんと言います。
画家、日本画家というべきでしょうか。
この時の個展が、なんと101回目のものです。

この方は鑿の削り跡が美しい木の板に土で絵を描かれます。
全国を回って様々な土を集め、それを絵具として使うのです。
この時の黒く見える絵の具はある火山の土とある植物を焼いた灰とを混ぜて膠で説いたものです。

この絵の具の探求にもこの方の絵の魅力があるのです。
木肌の質感や年輪を生かし、そこに土のマットな質感を重ねて独特の画風を作っています。
絵を見る角度によって土の絵の具は光ったり影を作ったり、その肌合いの変化を生みますから、単に何色とは言えない魅力があります。

木の節や年輪の流れを見ていろいろなインスピレーションが湧くのだそうです。

「筆の先を目を凝らしてみることはないのですよ。」とおっしゃいます。
「見てしまうと、どういう線にしようか、どういう点にしようかと意識が働いて、そうなると既に自分の中にあるパタンや例に沿って上手く書こうとしてしまうのでダメなんです。」

剣術において剣先に意識を集中してしまうと相手の全体の気配が感じ取れなくなるというようなことでしょうか。
常に全体に意識・感覚を広げて感覚に促されるままに描いていくと言われるのです。
う~ん、素人には。分かりにくい境地ですねぇ

でも少しわかる気がしないでもありません。
写真を撮るときに、例えば人物の瞳や唇にある光を意識し、それにピントが合うように気持ちを入れます。でも実はそうしていながら画面の全体やその人物の表情や体の傾き・気配を感じて、よし、今だ!とシャッターボタンを押します。決してピントが瞳にあっているかとか、笑顔かどうか、髪が逆光の中で光っているか、などの中の一つのことだけに識を集中しているわけではなくて、その主たる点を意識しながらも常に全体を感じ取っている・・と、そういう事でしょうか。
違うかな、
似て非なることかもしれませんね。

同じように松の枝を書いても、リスを書いても、その時々でみな違うのだそうです。

つい先ほどもお客さんが来られて「またちょっと描いてほしいものがありますので、よろしくお願いします。」と言って帰られました。
100階から次のステップに1回目。
ちょっと気持ちを新たにしようと思うとおっしゃっていましたが、「100回かあ。」と思わずため息をついてしまいました。
- 2018/04/30(月) 00:00:45|
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KYOTO GRAPHIE・京都国際写真祭が5月13日まで開かれています。Nicolas Auvray 氏の写真を展示しているANEWAL Galleryでインターンシプをしている方です。
ギャラリーのネットページの中で彼は「My name is Kevin and I am doing my internship at Anewal Gallery.
I am studying as a third year student Japanology at Leiden University. I am studying in Leiden, however I am living in Rotterdam.」と自己紹介をされています。

九州大学で学んだ後に故国に戻ったのですが、日本語にふれる環境が少なくて再来日して学んでいるといいます。

通訳してくれたり、会場や写真の説明を日本語でしてくれます。
日本の若者の中にも海外でこうして学び、活動している人がたくさんいるのでしょうね。

彼の背が高い・・・私が小柄なんですが・・・のとせっかくの日本家屋の雰囲気を写真に入れてとってあげたいので「上がり框」に腰かけてもらいました。
「上がり框」「たたき」なんて言葉も教えてあげればよかったなあ。

今度何やら芸術に関する日本人の意識調査のためにインタビューをしたいが受けてくれるかとメールをいただきました。
逆質問するチャンスですからお受けしました。
こういう事ってうれしいですよね。

Nicolas Auvray 氏が母国語でなく英語で自身の作品について語ってくれた時、ほとんど半分も理解できない私の英語力では、話す方はなおさらダメですから、むろんケビン君とのやり取りは・・・彼の学習のためにも・・・日本語でということになるのでしょうが、果たしてどういう感じになるんでしょうね。
お互いに辞書を準備しなくてはいけませんね。

この会場でNicolas Auvray 氏の作品をめぐるお話を聞くことができたのですが、その時の通訳は同志社大の学生でした。抽象的な語句も芸術世界の言葉も的確に即座に通訳されていました。素晴らしかったですね。日本語もよく理解しないと通訳はできません。
よく勉強している学生はたくさんいるのです。

こういう人たちに出会うと、また世界に対してわくわく感が広がります。
- 2018/04/29(日) 00:00:48|
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KYOTO GRAPHIE・京都国際写真祭が5月13日まで開かれています。会場は様々で会期も様々ですが、実にたくさんの作品が見られます。
今日の写真は、KG+Awardのファイナリストの一人となったNicolas Auvray 氏です。この写真自体は、これ以前に衣笠アートレジデンスで彼がご自身の写真のプレゼンテーションをされた時に撮ったものです。

彼は写真祭に「LISA」という一群の物語性のある作品を出しています。 「LISA」とは画面上に写っている女性の仮名であり作品名でもあります。
https://youtu.be/VMOvOUzMJMI を見ていただくとかれの「LISA」が見られます。
わたしはこの「LISA」という一群の写真に人物写真・・・・彼はこれまで人物を主たるテーマとしそれ自身を中心において写真を撮ってきたわけではありませんが・・・の極めて重要な要素というか、人物写真の可能性と働きが可視化されていると思います。
人物写真のある典型・・・・人物写真のすべてを象徴するという意味ではありませんが・・・・だと言ってもよいかと私は思います。 それくらい重要な作品だと言えます。それで私はこの写真祭のグランプリが彼に与えられても全く驚きません。

多分、この写真を撮ることになった何分かの間に、この写真に写る女性との出会いと、撮影し、そして彼女が去って行った後に彼の心に残った余韻は、彼がこの作品に触れるたびに彼を興奮させるものだと思います。
彼はこれ以前にも、またこれ以後にも素晴らしい写真を撮ってきたしまた撮ることでしょうが、この一群の写真が彼に与える影響、また人々に提示するものは彼の中にあって一つの峰となることでしょう。

私自身がこれまで人物写真を撮って来たために、彼のこの作品群の持つ素晴らしさを理解し感じ取ることができることをとても幸運だと思います。
人物写真を撮るということは対象の受容であり、共感であり、そしてともに立つことです。そのことで被写体となった人はその人自身を語り、見せてくれるのです。
そのことを彼の写真は実際の作品として我々に見せてくれています。

多くの場合には、これほど劇的に人生が交差することはないでしょう。
しかし、こういうことが他の誰かに絶対にない、起こらないとは言えず、そうした瞬間を見逃さないで掬い取るために私たちは何度も何度も人に向かって、あるいはともに立って写真を撮るのです。
「LISA」のように事柄が展開しないで、彼の写真のようには劇的な結果をもたらさないとしても、その撮影では互いに出会った撮る者と撮られるものとの間には、本質的には同じことが起こっているからです。
そのことを知らないで撮る写真、それを自覚しない人物写真はあまり意味もなく、また人の心を打たないでしょう。

人物写真を撮るためにカメラを向けるという事は、撮る側の意識を相手に強いることではありません。
論争したり非難するためでもありません。レンズの向こうに立つ人を受容し、その人が自身を物語る気持ちを尊重することです。その人の人生を認めることです。
その象徴的な行為がカメラを向けて関心を示すことであり、撮りたいという気持ちを相手に伝えることです。
ここに生まれていることは「あなたに関心がある」という気持ちを伝えることです。
無視すること、ネグレクトすることと写真を撮るという事は対極にあることを生かさねばなりません。
現代の世界では多くの人が全くか、または極めて薄弱にしか人から関心を寄せられてはいない。無視され尊敬を受けられていないという現実があります。その事が写真を必要とする大切な理由の一つです。

人に視線を向けて「あなたを撮りたい」と言う気持ちを伝える、その人に自らを語る気持ちにさせるのです。
現実の社会では、多くの人が自らを語る小さな声を人に聞いてほしいと願っているのに、その多くは、その話に耳を傾ける人を得られないでいるのです。
どんなみじめな境涯にある人でも、いやそれだから、あまりにささやかで人からは無視されるに違いないと本人が思うようなこと、しかしその人の尊厳にかかわることを聞いてほしいと願っているのです。自分を受け入れるまなざしを注いで欲しいという気持ちを抱いているのです。

写真家は、そうした人々の心を踏み荒らすためにではなく、自ら語る者を受け止めて虚心に写し取ることを一つの貴重な役割として自覚すべきでしょう。
無論、写真家は告解師ではありませんし、許しを与えたりする存在ではありません。決してそんな驕った立場でもありません。
カメラは何か特権を主張してはならないと思います。
ただしかし、被写体となっている人のあるがままを受容すると言っても、漫然と路傍の人としてカメラを向けるのではなく、その人に対する共感や、自身の中に励起する気持ちに添ってカメラを操作しなくてはなりません。
そこに写真家の哲学と能動性がなければ、その人の言葉の意味や人生の姿を捉えて人に伝えることができません。
観察し、イメージし、創造的に「写真」にしていかねば写真家としての役割はありません。
決してただの鏡であってはいけないのです。
・・・・・と、途中から、掲載している写真と相まって仕舞って、文章が彼の話のようになっていますが、そうではありません。
文章はあくまで蒼樹のものです。
誤解がありませんように。
ただ、彼の写真とお話に触発されて、今まで抱いてきた考えを書くことができたという事は、また確かなことです。
- 2018/04/28(土) 00:00:18|
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この方が撮影を許してくれたのですが「ではどうしましょう。」と、どこでどうしたらいいですかと聞いてくれました。
私としては、この場では面白くないので「別の機会に別の場所で撮れたらありがたい。」と、・・・・・。
すると「実は私はここでの仕事が今日までで、明日には神奈川に戻るんです。」という事で、「おう!!なんという不思議なチャンスだ。」
もし明日ここに来れば、別のスタッフにお会いすることができるとしても、この人には・・・おそらく…永遠にお会いできなかったのです。

じゃあ、あれこれ贅沢は言えない、という事で、周囲を見渡すと、・・・・そもそもこの建物がソファーなどの家具を展示販売されているところなので・・・・とてもいい感じのいすやライトがあるんですが、それはデザイナーズのものですから撮影できません。
それでいつもの事なんですが、その場で撮りましょうということになりました。
50ミリの画角では、こうなるわけですが、・・・・。

「知らない土地で、初対面の方に撮られるとこんな風な表情になるのかと、小さな発見です。」とは、ご本人の弁。
ここで「撮らせて。」と言われてちょっと驚かれたようです。それはそうでしょうね。
初めは全身のアンテナで対応してくれているようでした。

多分、2度目にはこの人の・・・この時にも瞬間瞬間に垣間見せてくれた・・・・素敵な笑顔を撮れただろうになあと、ちょっと残念です。
まさか神奈川まで追いかけるわけにもいかないですしね。

この人の人生と私の人生の糸が瞬間交錯してそこにできる結び目が写真として結晶する。
面白いものですね。

だから人を撮ることをやめられません。
- 2018/04/27(金) 00:00:01|
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KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭が展開されています。
今年は少し盛んになってきているかな。私がよく訪ねる「ギャラリー知」さんでもこれに参加していて、そこで展示されている女性の写真家さんの作品がファイナルに選ばれています。
私もこの「祭」を楽しみにしていて、暑い日の中を自転車で出動しています。

ここはシグマのカメラやレンズ、そしてそれらを使って撮影した写真が展示されています。
昨年もここに来たのですが、ずいぶん熱意のある展示だなという印象でした。
階段を上がってこのフロアが見えたとたん「あれ?! 君、何故ここにいるの?」という言葉を思わず飲み込みました。
私が上がりきるのと、私に気付いてこの人が立ち上がるのとで、この人のお顔の全体が見えて、「オッと、違った。」と言葉を飲み込んで、かろうじて人違いを避けられて良かったわけですが、ちょっと動揺をしたまま写真を見に奥に足を進めました。

そこにある写真の解像感とすっきりとした混じりけの無い色再現に驚かされながら、「これ、いいなあ。」とシグマのレンズ、カメラはどういうものだろうと興味が湧きました。
シグマのカメラは独特のデザインですが、カメラを一から構想すれば案外こういうところに行きつくのかなあとも思います。
既存カメラの多くはそれ以前のカメラの持っていた記号を引き継いで大衆に親和的なものを提供していますから、基本デザインは大きく異なりません。
大胆なのはリコーとシグマでしょうか。私はあまり詳しくないですけど。

よく知られているカメラメーカーのものは何でもできます、もっとできますを詰め込んだ「何でも屋」が多いのですが、シグマのカメラは撮りたいものをもの核に意識した人に提供されるカメラだと感じました。
家庭に一台的なカメラではないようです。
AFはゆっくりした合焦ですし、合焦点も少ないです。でもそもそもそういうAFで事を済ませようという人を意識したカメラではなさそうです。
潔いいなあ。

ソニーがα7を高感度に優れたモノ、高解像度を誇るもの、連射性能やオートフォーカスの敏捷なものと区分分けして、需要者に、これで何を撮りますかと提起しているのと同じように、シグマのレンズは三つのジャンルに性能を特化して洗練させたものを展開する戦略をとっているようです。
実際、スポーツもネーチャーも、街でのスナップにもポートレートにも対応できるカメラとレンズという事は、そのどれにもまあ不足は感じないという程度のものにならざるを得ないでしょうしね。
アートを使ってみたくなりました。
私は今ここではソニーのα900とミノルタの50ミリ単焦点で撮っていて悪くないと思っているし、α900のファインダーからは離れがたく思っているんですが、もう7年以上酷使していますから、いつ何時「もう働きたくない」と言い出すかしれないのです。
そうなったときに写真人生の後半を見通してカメラとレンズについて考えてみようと思っています。
中古のα900を求めて、それにシグマなどのレンズを付けることになるかもしれません。
α7sにしようかな。 5DマークⅡ、D810 フジのX-H1・・・・、条件が複雑すぎて「解無し」かもしれません。
- 2018/04/26(木) 00:00:42|
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一方で国境はますます低くなっているしボーダーレスになっているのに、日本を含めて世界にはそれに逆行して国家や民族を排他的に保持しようと声高に叫ぶ人とたちがいます。
国民国家というものも歴史上の産物であり永遠不変ではありえません。
第一次大戦時に「民族自決」ということが言われましたが、その肯定面と否定面の両方を見ながら、国際協調、民族の相互尊重と和解の道を探求するのが今世紀の課題でしょうか。

日本にとても多くの観光者が訪ねてきてくれています。
そんな今こそ、国際協調、友好を築くチャンスです。
金勘定に終始していてはいけません。迷惑がったり悪態をついているだけでは歴史的なチャンスを逃します。

日本は国連においてアメリカの下請け投票機でしかありませんし、合衆国の「ポチ」と揶揄される存在だという事は世界の共通認識でしょう。自国の憲法さえ守れない政府を持った気にという事でも知られていることでしょう。女性の地位は殊の外低く、セクハラはごく日常だという事でも知られているでしょう。そういう意味で尊敬されているとは思えませんが、他面、日本の町は清潔で治安が比較的よく保たれ、人々は穏やかで優しいと思われているようです。
欧米とは異なった文化の国としては高度に経済も発達しているということで注目もされています。
そういう肯定的な側面のあるうちに国際的な信頼を勝ち得ることをやり始めないと手遅れになります。

もっと留学生を受け入れ、もっと留学生を送り出す・・・例えばそんなことでも旺盛にやるべきだと思います。
イージス艦よりF35よりずっと安上がりで日本の安全を保つために効果的だと思います。

かつてライシャワーは日本の知識人や芸術家たちを意識的にアメリカに呼び寄せてアメリカを見せました。
すると大概の知識人や芸術家はすっかりアメリカナイズされその人たちが盛んに日本国内で発言するから、たちまち鬼畜米英を叫んだ国民をアメリカ一辺倒の国民にしてしまったのです。
あれを真似ればよいのです。お安いことじゃないですか。

日本の街で「写真撮ってくれませんか?」と見かけた外国人に声をかけてスマフォを手渡している外国人をよく見ます。

観光政策を友好政策に転換する政策。そういうものがないと早晩日本の観光も行き詰ると私は予想しています。
- 2018/04/25(水) 00:00:16|
- 音楽
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音楽に国境はない、音楽は世界共通言語・・・などなど。
楽器演奏の出来ない私にとっては羨ましい限りです。
外国のある街のあるお店で、置いてあるピアノを見つけて弾きだしてみる。
夢物語ですね。

ギター一本、ハモニカ一本でも外国の人と交流できるでしょうね。
革の鞄を太鼓代わりにして、ハモニカを吹き、歌っている外国人男性がいました。
その男性に若い日本人女性がお金を投げ入れてにっこりほほ笑んでいましたし、「Which country did you come from?」と話しかける素敵な帽子の外国人女性がいました。

この人にも様々な人が歩み寄ってお金を差し出したり、話しかけたり、そして写真撮影をしたりしていきます。
ただ、私のほかは撮影を許可を得てからする人は見かけませんでしたけど。 まあ、彼は気にするそぶりも見せませんでした。から、世界を歩いてすっかり慣れているのでしょう。
撮られたからと言って特に何の被害も被らないでしょうしね。そうかといって物質的には特に利益もないでしょうが、ほんの少し仲良くは成れそうですね。

お互い「愉しめよ。」と言える関係・人間観はいいねと思います。

それにしても世界は狭いというか、広いというか。
京都国際写真祭にも多くの写真作家たちが参加して私たちと交流してくれます。

そして京都は多少は世界に知られた年ですから、異国情緒を求めて世界から・・・・と言っても一定の豊かさのある国々からという事ですが・・・・訪問してくれます。
京都も単にみられる街、通過する街にならないように早く手を打つべきですね。
- 2018/04/24(火) 00:00:34|
- 音楽
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清水焼です。
急須と言って良いんでしょうか。
取っ手は「型」で作りますが、他の部位はそれぞれ手で作り出していきます。
本体は轆轤で引きます。

ここは実演の会場ですから、それぞれの部位はあらかじめ作ってケースに入れられ乾燥しないようにして保管されています。
今、把手の接着面の形成をしています。
本体(胴)の局面に合うように削り込んでいきます。

接合部がぴったり合っているか確かめています。

ご自身の工房とは色々環境が違いますから、難し面があると思いますが、土の感想の進行が違うようです。
エアコンの影響ですね。

まだもう少し削るようです。
気さくな方でいろいろなお話をしながら進めていかれます。
私以外にも関心をもって立ち寄り話しかけたり質問をされたりする方がいますから、それに答えます。
中には煎茶道に通じておられてご自身やご親戚がもたれている名器について長々とご自慢をしていかれる方もいて・・・・。
実演は「楽しいですよ。いろいろお話しできる機会は少ないですから。」と言われますが。

陶土を溶かした水を筆に含ませて胴を湿らせます。
それで把手を接着するのです。

垂直線に合わせて、うまい具合に着きますでしょうか。


- 2018/04/23(月) 00:00:34|
- 陶器
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お礼:
うっかり見過ごしているうちに皆様から頂いた「拍手」の累計が9万を超えていました。間もなく9万だからその瞬間を・・と意識することもあったのですが、最近はいくつかのことを並行して注意し続けることができなくて、そういえばと思い出したのが昨日でした。
皆様どうもありがとうございます。
最近の私の態度が大きくなっているのもこうして皆様から頂いている「拍手」を勘違いしているためです。
こういう事では「恥ずかしい与党政治家・官僚」たちと同類になってしまいますので日本の伝統的美風、もはや死語になっている感のある「実るほど首を垂れる稲穂かな。」を思い出して精進したいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。 JBLのスピーカーのセッティングをしていましたの、ジャズでも流すのかなあ、ディスクジョッキーかななどと思っていましたが、どうもそういう事ではないようでした。

映像とともに彼の音の作品を流して、そのプレゼンをしています。
先ほどまでオーディオシステムを前にいろいろちょうせいをし、作品を流していましたが、その時私は、昨日の人と話し込んでいましたから写真が撮れませんでした。
そして、プレゼンが終わると、今日のもう一つの・・こちらは始まりの時刻が決められた…集まりに移動しなければならない時刻になってしまって、彼の「演奏」の様子を撮ることができませんでした。
残念。

フランスの方だそうです。
風の音、水の流れる音などを構成して流しています。

この画像処理エンジン+フルサイズ映像素子とツァイスレンズを組み合わせてみたい。
会場で撮影されている方の中に、富士フイルムのXーH1をお持ちの方がいました。
「もってみますか?」とのことでしたので、持たせていただきましたが、レンズに比してボディーが軽く、ちょっとバランスは悪いなあと思いました。が、多分単焦点レンズならばバッチリだろうと思いますし、ボディー自身が軽い!のはとても魅力ですね。
そして握りが画期的に・・・フジのカメラとしては・・・深くて保持しやすかったです。こういうのは疲れなくていいです。
フルサイズで出さないかなあ。そうしたら大きくて重くなっちゃいますね。
ここから帰って、夕方からの集まりでシャンソンについての話を聞き、またフランス語の歌を聞くことになるのですから、何か不思議です。
もっともこの会場で耳にするのは日本語と英語ですが。
様々なアートに深い関心、今日もをお持ちの方々がお客さんですから・・・・私にお知らせをくれた方もピアニストです・・・・私も気持ちだけ芸術家もどきになって、撮影をします。
でもそのことが大切だとこの頃一層思うようになりました。
「芸術的」という枠組みを習うのではなくて、自分の撮りたい意識を解き放って、気持ちの動きに任せて積極的に撮るということ、それが芸術の
一つの要件かなと思うからです。
プレゼンの間、缶を手放しませんでした。

- 2018/04/22(日) 00:00:06|
- 人物
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カナダでの暮らしがずいぶん気に入っているようで、ニューヨークなどに比べてゆったりと過ごせて、何か京都に似ているとおっしゃっていました。
トロントはそのボリュームも京都と同じくらいだそうです。

大概の作家さんは自己主張が強くて、よい意味でわがままなところがあります。私はそうでなくちゃだめだと思っています。
無論、そいう言う面を社会生活というか日常的な交際の中でむき出しに表すかどうかはまた別の問題で、そこのところをしっかり分別がついていない人に時々であって閉口することがあります。
が、この方はそういう意味ではとてもバランスの取れたというかメリハリのきいた方だと思いました。

私は若いころは周囲がうっとうしく感じるくらい自己主張が強く、鼻持ちならない面を持っていたと思います。それが今では表面的には、ずいぶん影を潜めてきました。
えっ?!これでも・・と、私を知る人は言うかもしれませんが、そうなんです。

この人がフランス人作家たちのプレゼンの通訳をしてくれるのですが、実に巧みでした。
それがテクニカルタームとか、ちょっとニュアンスが伝えにくい表現が出てきて「う~、どう訳そうかなあ。」と一瞬逡巡すると会場にいる方から「そこは・・・・。」と助け船が入り、「今の話はこういう事か。こういう風に伝えたのだけれどあなたの真意はそれでよかったのか?」などと流ちょうな英語で話しかける人が数人。
ことにある女性などは美術的な知識も豊富な様子で、かなり突っ込んだ話をしていました。

私などは完全に蚊帳の外ですが、・・・・、この人は助け舟が出てもそれに対して変な引け目を見せることもなく、又、余計なことをといった尊大さを見せることもまるでなくて、実に素直に助けを受け入れていました。
もっと適切な訳は無いでしょうかと皆に助言を求める姿勢さえ見せていました。
この人の作品を見たいなあと思いました。

たまたま、私はこの人の立つ場所のすぐ前に腰かけていましたから、こういう写真が撮れてしまいました。

少年のような好奇心とはにかみのある人でした。
- 2018/04/21(土) 00:40:36|
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ある日の朝メールが入って来て「あなたのご近所にKKARCというのができて今日オープニングパーティーがあるから参加してみたら?」というのです。
以前の私ならとてもそんな畑違いの場所に出ることはできないと「人見知り」全開の返事をしたことでしょう。

けれどこの7年間の生活・体験が私をいささか変えてきました。
先日の高校の同窓会で「すっかり変わってしまって、○○だとはとても思えないなあ。」といわれましたが、それは18歳のあの時と比べての変化に加えて、この7年間の変化が加わっての事かも知れません。

KKARC というのは 「京都衣笠アートレジデンス」のことです。海外からのアーティストの京都(日本)滞在を助けて、京都(日本)の芸術や文化の探求、交流、そして制作やその公開を助けようというNPOです。
皆さんも体験されているとおり旅行で訊ねた海外の印象とそこに生活したそれとではずいぶん異なると思います。
そういういみで、買い物をし、様々な行事に参加し、また制作・公開して日本の人に触れることは大いに意義があると思います。
相互にです。

この方は自ら作品をつくる作家でもあり、作家たちの作品を世に出すキュレータでもあろうとしている方で、もう長いことかなダに住んで活動をされています。
私はこういう表情を持つ人を見るともう話の途中から撮りたくて仕方がなくなります。

たまたま隣り合わせていろいろなお話を伺っているうちに、「写真を撮っています。」と白状することになるのですが、それでもう、大げさに言うと「撮る権利(資格)のある人だ。」という受け入れ方をしてもらえてしまうのです。
それはご自身の作家性の拡張した意識なんだろうと思います。

ご自身が何物にも制約されずに表現したいという衝動というか欲求をお持ちで、作家というものはそうしたものだという了解を内面化しているからだと思います。
私が「撮らせてくれませんか?」という時に相手が芸術系の大学の出身者、現役学生であったりすると、話が早いということが多いのです。
ただし逆に?、ただ記念になんて言う写真では許してくれませんが。

このアートレジデンスに今かかわりのある作家たちが自分お作品についてプレゼンを始めました。
トップバッターが、この人。
フランスからお二人が参加していましたから、その通訳も務めます。
- 2018/04/20(金) 00:00:30|
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今日は滅多につけない35ミリ単焦点レンズを付けています。

どうも使い勝手がわかりません。

もっとグッと寄る方がいいのでしょうが、今少し前にあったばかりの人の50センチ以内に入るのはなかなか、難しい話です。
でも実際の話呼吸まで写すには、そこがカギですね。
ですから、被写体になってくれている人とどれだけ心の壁を溶かしていくかが問題です。そこに人を個別的に撮る場合の妙味と難しさがあります。

人を状況からとりだして撮るという場合と、状況の中に流れている物語に立たせて撮る場合と・・・・背反はしないモノの・・・・大別できると思います。
その両方に魅力がありますすね。

生きている人を撮るということにもう少し注意を払って撮りたいなあという自戒です。
- 2018/04/19(木) 00:00:20|
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この辺りではよく学生がトランペットやサックスの練習をしている。
彼もjazzのサークルのメンバーで、とてもいい音を出している。

吹奏楽の経験をしてきてジャズは大学に入ってからだというが「すっかりはまっています。」という。
相当聞きこんでもいるようにも感じました。

タモリ氏によれば「ジャズという曲があるのではなくてジャズな人(演奏家)がいるだけだ。」というのです。
だからジャズのスタンダードナンバーを演奏していてもその曲がjazzになるかならないかはそのプレイヤー次第だということになるわけですね。
う~ん、分かるような気もしないではないですが・・・・。

「演歌というものがあるんじゃなくて演歌な人がいる。」という事かなあ。
「写真というものがあるんじゃなくて写真な人がいる。」という言葉をちょっと頭の隅に置くのは良いことかもしれません。

名言というのは分かったようでわからないのがいい塩梅かもしれません。
それにしてもよく音が出ています。練習量を感じますね。

もう4回生になり進学の準備をしなくてはならないので、サークルの活動からは引いているんだそうです。
でも吹きたくなることがあって・・・。
そうでしょうねぇ。
- 2018/04/18(水) 00:00:56|
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私の撮った写真には膨大な「ボツ」があります。
撮った写真のほとんどは捨てずにハードディスクに記録されていますから、容量の大半は、その「ボツ」が占めています。
ある意味でとてももったいないと言おうか、無駄であると言おうか、・・・。ボケていたりブレていたり、露出が極端に外れていたりしてどうにもならないモノさえ残されています。
それらをのぞき込まれたら「ちょっとやめてくれよ!」というでしょう。

そしていくらかみられるものだけを公開し、個展などで展示しているわけで、いいかっこしてるわけです。
それは、ある意味当然なんで、絵描きにしろ、モノづくりの職人にしろ歌い手にしろ、これでまあ良しとしようというところのものを公開しているわけです。
リハを撮ると言おうことをそれに反しているわけですから、写真い音は描きこまれないにしろ、何やら落ち着かない気分にはなるかもしれません。

実際、撮るなら本番を撮ってほしいなあと言われる歌手や演奏家の方もいます。
しかし、私の撮りたいのは「人」なので、つい、そうじゃなくてリハを撮らせて、というのです。

本番になれば男性は黒の服を女性は色鮮やかなドレスを着て演奏しますが、今見ていただいているのはごく普通の服です。
もし私に小澤 征爾氏が「撮らせてやろう。」言ってくれたら・・・・そんなことはあろうはずもありませんが・・・・是非とも彼の自宅で、彼がスコアをさらったり、研究しているところを撮らせていただきたいと思いますね。そしてリハで演奏者たちどういう風にやり取りをしているかというところを撮りたいですね。

それにしても貴重な機会をこの方たちに与えていただいています。


- 2018/04/18(水) 00:00:13|
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ホール内は当然のことながら人工照明のみです。
この照明も「リハーサル」しているわけですから、時として、えっ、こうなっちゃうのみたいなことがあります。
私は「身内」じゃありませんから計画を知らないので、あらかじめの設定が「大慌て」のやり直しになることも・・・。

一番困るのはやはりホワイトバランスです。
それで、というわけではないのですが、私は音楽系をとるのはやはりモノクロ系がいいと思っています。
本番ではことに女性奏者は華やかなドレスを着ることが多いですが、それもあまり好きではないので・・・。

絵画などを展示しているギャラリーでの撮影では照明の色の問題もありますが、そもそも照明の目的が作品を照らすことにありますから、作家さんには当たっていません。
その点で言えば、コンサートの場合は奏者が主人公ですから、そこに照明が当たりますし、影ができないような照明になっていますからありがたいと言えばありがたいです。

照明は方向性もあり、かつまた客席が暗く落ちているので、それも映像的には効果的です。
さすがによくできていますね。
ただ基本的に上からの照明ですから奏者がうつむくとやや辛いことになります。
それにしてもストロボをたかないで撮れるというのが、現代カメラですね。
でも6月のために練習として持って行った100ミリ-300ミリ、F4.5-f5.6は、さすがにこういう場所で高感度耐性の弱いカメラでは辛いですね。
そして私のメインカメラはせいぜい1600までというところです。シャタースピードもあまり低く抑えると演奏者がぶれてしまいます。
そこが辛い。

見ていただいている写真は、シャッター音をさせないためにフジのX100Fです。
客席中段に行けば一眼レフカメラで撮りますが、シャッター音が邪魔しないか気が気ではありません。
こうしてステージ上を歩き回って撮ると、たまに膝を床に付けるのですが、そのコトリという音が、驚くほど大きく響きます。
さすがに音の響きが素晴らしいと感心ている場合じゃありません。シャッター音もまたそれだけ響くのですから。

かえって上等な革靴など履けるものではありません。
- 2018/04/17(火) 00:00:14|
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ひょんなことからあるファゴット奏者とした指揮していただけるようになって、その人の呼びかけで集まったオーボエ奏者やクラリネット奏者、ピアニストによる演奏を聞かせてもらい、又そのリハの写真を何度かとらせていただいてきました。
今回はそのファゴット奏者のホームともいえる「空音」というアンサンブルの演奏です。

豊中の私立文化芸術センター・小ホールでの演奏です。
むろんこれは直前の「リハーサル」の様子です。
アンサンブル「空音」はクラリネット、オーボエ、フルート、ファゴット、ホルンで構成されています。

今回はオーボエの奏者・高橋さんにスポットを当ててアップします。
このメンバーは同じ京都市芸大でともに学んだ仲間だそうです。
この日のリーフレットに掲載されているアンサンブルメンバーの集合写真に見える皆さんお笑顔は気心の知れた仲間だということを如実に表していて好感が持てます。
ここで、あれ?編成の紹介と写真の現実とはメンバーが違うなあと、既にお気づきだと思います。
この日は他に男性のクラリネットとファゴット奏者が助演しています。
これがこの日の演奏の最大メンバーでした。

で、このオーボエ奏者が高橋さんです。

オーボエは私が好きな音色の楽器の一つです。
演奏がとても難しい楽器だそうです。

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- 2018/04/16(月) 00:00:28|
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人間だれしも・・・・と言ってしまうとみなさんまで巻き添えにしますから、少なくとも私はと言い換えますが・・・あの時人生の別の選択をしていれば・・と思う事の一つや二つ、三つや四つはあります。
私が旧職を選んだのも、振り返れば、その選択にはある種の内的な必然性があり、時に「天職だなあ」と思う時もありましたが、それでも「If」は心の隅にあるのです。

私の場合は幸か不幸か、他の道に進めばより大きな成功をおさめられただろうなあなどと夢見るほどの才覚・能力もありませんから、まずはこれで仕方がないなあと諦められる程度の事ですが。
何かを求めてひたすらに努力できるということは大きな才能の一つでしょうが、私の場合にはそういう事もないのですから、自分のしてきたこと、人生に対しての覚悟の程度からして、結果とはまあ釣り合いがとれているのだなあと思います。

ただの夢想に「夢」だの「目標」だの「野心」だの「もっていたはずの才能」だのと名を付けても虚しいものです。
実際は「やったかやらなかったか。」という事でしかないのですから。

さすがにこの年になるとそれくらいの分別はつくようになりますから、それでせめて子らからは「写真を撮り続ける」ということを「実際にやる」ことで、私が何を望んでいたのかということを現実化しないでは、また、「夢想」をむさぼってすごすだけのことになってしまします。それでは「あの時こうする選択肢もあった」という事の証明もできないということになるのだと思うのです。

「人を1000人くらい撮れば何者かになるかもしれない」という事は「1000人撮る」ことによってしかわからないのですから。
それで別に「何者かになった」というほどの事にはならないということが分かったのです。
それはそれで一つの収穫です。
この道の方向に行けば何か良いことがあるかもしれないという夢想を抱いているのではなくて「行った先で『ああここでもまたあの平凡な自分がいる』ということを発見する」ことができるのも、行った先についてのそれまでの景色とともに私の人生として滋味となるでしょう。

私はリタイアしてすぐに旧職とはきっぱり縁を切り、振り返って良いことも悪いことも蒸し返し反芻するのではなくて、・・・といっても実はなかなかそういう風には心は動かないのですが・・・・・写真に入り込みました。
だからそれを「第二の人生の手慰み」以上のものとして取り組み始めました。
もし青年期から、あるいは壮年期から写真に取り組んでいればなあなどということは全く思いません。それは単にないものねだりというだけではなくて、旧職を私なりに十分味わったからこそ今こうして写真に取り組めるのだと思っているからです。
本気で全身に全霊写真に取り組んでいる青年や壮年の方々には申し訳ないのですが、21世紀の日本には高齢期になって、生活をかけることなく、社会的野心にも転化せず、ただ自分のワクワクとして、しかし社会との関係性を追求しながら、切羽詰らずに何かに取り組めるということができるかもしれないという現実的な可能性が開けているのです。
ただ一方でその可能性を見ないで、社会との関係性を自覚しないで、無為に可能性を可能性のまま埋もれさせている姿をあまりにたくさん見るような気がしますが。
この方は、そこを見ている人のように思いました。
- 2018/04/15(日) 00:00:51|
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考えてみれば、ご自宅での練習の様子をというお願いはなかなか図々しいものではあるわけで・・・・。
お願いしておいていうのもなんですが、よくぞ承知して下さったと思います。
まして?プロの演奏者ですからね。

交響楽団の常任指揮者でもあったのですから・・・・・表現はおかしいですが・・・・演奏の世界にどっぷり浸かってこられたわけです。

「これ持ってく?」と差し出してくださったのが若いころに録音されたレコードの復刻CDでした。
「椰子の実」や叱られて」などが吹きこまれているのですが、トランペットの音がのびやかで柔らかくそのうえハリと艶がある、とても心地の良い演奏です。
何だか演奏家としての健康な気負いさえ感じられて、帰宅すると何度も何度も聞き返しました。

三階の隠れ家と言いますか、秘密基地と言いますか、・・・・・・。
「音楽の祭日」の意義を感じられて100人のトランペット演奏かの募集にも奔走され、又リハーサルでの指導にもあたられます。
京響を市民の交響楽団として中から育ててこられた方ですから、音楽と社会のかかわりということについても思いは深いのだとお見受けしました。
それで私が、これこれの内容にしたいと写真集の趣旨をお話したことで、乗らない気持ちを奮い立たせていただけたのだと思います。

音楽を広く市民に届けたい、ともに楽しみたいという思いから、イベントについても大げさな虚飾をかぶせたくないとお考えのようです。私も同感です。
- 2018/04/15(日) 00:00:36|
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「あるトランぺッターの午後」なんて表題を付けましたが、中身は、あまりそういう感じではありません。
ただ、私がこの方のお宅を、その日の午後にお訊ねして撮影させていただいたというだけの事です。
でも、私にしては、ちょっとした事件でした。

この方には、幾分意に染まない私の訪問だったかもしれません。
まして写真撮影をされて写真集に掲載されるなどという事は・・・。
これまで幾度か書いてきましたように、
6月の21日夏至の日に「音楽の祭日」の取り組みの一分枝として、「清水寺・世界友愛 100本のトランペット」という企画が進んでいます。
この日は音楽を通じて「戦闘をやめて、友愛を実現しよう」という趣旨です。

その企画では、100人のプロ、アマを含むトランぺッター・・・・最年少は15歳の男子です。一方最高齢は70代半ば・・・・・の演奏に続いて、座談会と、二胡の演奏が清水寺の成就院で行われます。
このイベントの写真撮影をし写真集を出そうという計画なのですが、その撮影を私がすると言うことになっているわけです。
・・・・・こうして何度も書いているのは、つまりはイベントのPRをしているという訳なのですが。何しろスタッフも演奏者も対談者も、皆が手弁当ですから自分で宣伝しないといけないわけなんです・・・・・

この有馬氏も京都で、トランぺッター募集などにお力を発揮されている方なんですが、「写真集には当日までの参加トランぺッターの様子」を取り上げるページがあるから、そこに登場してほしいという、私のめちゃぶりを断り切れなかったというわけです。
あまり目立つのは好きじゃないと、しばらく固辞されていたのですが、私がお酒の勢いも借りてお願いしてついに実現しました。

ほとんど同じような写真を載せていますが、多分有馬氏の普段をご存知の方からすれば、よく承知したものだなあと思われているかもしれません。
けれども承知したからにはじたばたしない、というか「そっちにも事情があるだろうし、イベントの成功のためには致し方あるまい」と思われたのでしょう、快く招き入れていただき普段の練習の様子を見せていただきました。
それでトランペットにミュートがついているわけです。
もともと京都交響楽団のトランぺッターだった方です。

実は私はこの方のこれまでの経歴を存じ上げず(調べずに)にお宅訪問をしたのです。
素人が変な予備知識を持って行くよりは長年トランペットを愛してやまないで来られた方だ、というそれだけで伺ったほうがいいかなと思ったからです。
実績や経歴を知るとそれだけで位負けしてしまいますからね。
- 2018/04/14(土) 00:00:40|
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こんな写真の活動を初めてまる7年が経ちました。
写真を楽しんでいる皆さんにとってもそうだと思いますが、カメラ≒写真はずいぶんいろいろな世界を見せてくれます。
5月3日には、シンガーソング・ライターの川口さんのCDが発売されますが、そのジャケットに写真を提供させてもらったので、4日の発売記念コンサートに呼んでいただけることになりました。また新たな経験ができます。
( このCDも1枚目同様、反戦平和・反核などを広く世界に呼びかけ、そうした活動に参加されている人をはげますだけでなく、世の不合理を感じ、怒りや悲しみを抱えている人たちに、共に考え思う歌声を届けるものとなると思います。 )
写真が私に未知の世界を覗かせてくれる。
それが楽しいですね。

先日豊中も芸術文化センターまでコンサートを聞きに行ったのですが、これも従来の私にはほぼありえないことでした。
そしてそのコンサートの直前のリハーサルに入り込んで撮影をさせていただきました。
当然、ステージにも上がります。
通常、「関係者以外立ち入り禁止」の壁は厚いのですが、関係者ですから「立ち入」れるのです。

演奏は、勿論、お金を払って聞かせていただきましたが。
さて、東京の桜はどうだったでしょう。
それがどうであってもこの人はゆっくりそれを眺めるようなゆとりはこの春はなかったかもしれませんね。
新採の職場で毎日が目新しく、神経を使い懸命に走る日々になっていることでしょう。

そういう意味で、この日の京都の桜を楽しんでもらえたことは良かったと思います。
5年前の春も落ち着いて京都の桜を楽しむことはできませんでしたしね。

桜の開花を楽しんで写真を撮るカメラマンがたくさんいましたが、この人と一緒に写真が撮れる私は、ちょっと自慢げだったと思います。

再見。
- 2018/04/13(金) 00:00:57|
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会えば別れがある。生々流転常なきこの世では、人と人との出会いもまた同じで、とどまることがない。
50年ぶりの同窓会を半年前からどれだけ想像して、その時の出会いに心躍らせても、会が始まって数時間の後には、ひょっとしたらもう二度と会えない者同士になってしまうかもしれない。 それはお互い様ですが。
今更の話ですが父母は無論の事、兄弟、妻や子、そして友人知人も皆同じですね。
「愛別離苦」「一期一会」・・・・そういう避けられないこととどう折り合いをつけて生きていくのか、人生の知恵、そこに生きることの「物語」が求められるところです。

でも若い人は「別れ」よりも「出会い」の方が圧倒的に多いと期待できますから、晴れやかに明日に向かって進んでいきます。
実際、若い人にとっては「また会いましょう」はいくばくかの現実的な可能性を持ちますからね。
人生も第4コーナーを回ると、なかなかそうはいきません。
春はついこういう事を考えさせられる時期でもあります。

しかし、写真を撮っていてうれしいことは、素敵な人と時間を共にして、その人の素敵さ見付て定着させ、それを残せることです。
それにしても、人類はなんと不思議な「魔法」を手に入れたことでしょう。
あの日あの時は確かにこのように存在した。
たとえ取り戻せないとしてもその痕跡だけは残すことができるのですね。
「私は見た」という形で。

暖かくなってますますたくさんの和服姿の人を見ます。
よく言われる通り、その7割くらいは海外の人です。そして日本のお嬢さんたちを含めて、その和服姿はどうも少々しっくりしません。
まあそれも仕方のないことです。
この人はそんな中で、とても着物がよく似合います。

それは、着物が体している日本的なしぐさやきもちを少しでも表現しようと努めているからだと思います。
日本文化を理解しようとする姿勢があるからだと思います。

しかもそれが単なる迎合的物まねではなくて、自身のアイデンティティをしっかり持ちながら、だからこそ、自分をこの状態に投企できるというような感じでしょうか。
それで軽薄なざわざわした感じが少しもありません。
- 2018/04/12(木) 00:00:21|
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橋の下は雨風を防げるので格好の練習場所ですが、今はまだ少し寒い。
でも写真を撮る側からするとありがたい場所でもあるのです。
というのもここだと光に方向性と明暗がはっきりしていていろいろ勉強になるかtらです。

こういう具合です。
ただその明暗差をうまく捌くことが私にはできない。

プロ≒技能の匠のすごさは、やはりこういう条件でしっかり計算して所期の写真を撮れるところですね。
私などは、やってみなくちゃ分からない・・・ですから。

まあ、結果オーライでも撮れたらこっちのものです。

写真の中に物語を。

そう思うのですが・・・・・。

自分のアンテナを育てないと・・・・・。
- 2018/04/11(水) 00:00:28|
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3月の終わりころです。
桜もあちこちで咲き誇るようになって「春!!」という感じになりましたが、日差しのあるところでは汗ばんでも、影の下に入れば、まだやや肌寒さを感じる・・・、それが春ですね。

橋の下は、その影の中ですし、風が吹き通るので、外ほど暖かくはありません。
外に出れば暖かいのに、なぜかわざわざ風も強い橋の下。
ここは反響が良いのです。

私は興味ありげに近づくと「聞きますか?」と声をかけてくれて、ウルフルズの「バンザイ ~好きでよかった」を歌ってくれました。
「学生さん?」と尋ねると、なんと高2だそうです。と言ってもあとわずかで高3ですが。
ごく最近、結成?のお二人です。

私が橋の上を自転車でと通っているといい声の歌声が聞こえてきたのでぐるっと回って・・・・。
上手な歌です。

カホンがあるので「誰が叩くの?」と聞くと、うんちょっとだけです。
どうやら今日は登場に機会はなくて物置の台の役割のようです。

この時は春休みですから、大学受験勉強本格化前のしばしの休息でしょうか。
それにしても最近気づくことはメトロノームにしてもスコア、コードにしてもアイフォンや、こうしてポータブルPCで見ているんですね。
消費電力は小さくなるし電池の改良が進み、こうしてモバイルですから便利なものです。
- 2018/04/10(火) 00:00:54|
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私の出身県にも原発があります。
原発について反対運動はあるにはあるんですがうねりを作りだせているような感じは受けません。
そして何より立地地元の自治体は受け入れ賛成なんです。いや今は違うかもしれませんが。
周辺自治体は慎重でも、まさにその地元は賛成ということがままあります。
その理由はお分かりかと思います。

沖縄の方には失礼な言い方になるかと思いますが、基地や原発は地域の貧しさと裏腹ではないかと、そんな気がします。
私は電力会社や防衛庁が札束でほっぺたをひっぱたいて原発立地・再稼働や基地の立地を強行しているように感じます。
「理屈と膏薬はどこへでもつく」といいます。

かつて満洲開拓団の名のもとに中国東北部侵略の片棒を担がされた人々の背中を押したのも貧困でした。
地域を疲弊させる政策が、原発を押し付け基地を押し付ける政策とリンクしていると、私はそう感じています。

本土にあった核兵器を沖縄に移動させるように求めた自民党政府。
本土には核配備が難しいと平然と言う自民党政府。
沖縄とはいったい何なんだろう。


沖に浮かぶのは強襲揚陸艦だろうか。
オスプレイやヘリが度々頭上を飛んでいく。




横谷オスプレイが配備される。
首都圏にです。
首都の人々はどうするんでしょう。
- 2018/04/09(月) 00:00:58|
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川口さんは5月3日に新しいCDをリリースする計画です。
憲法記念日を意識してのことですね。 今年の憲法記念日は特別な意味を持つかもしれません。憲法の平和主義を換骨奪胎して軍拡に歯止めをなくそうとする安倍政権ですから、日本の命運がかかる憲法記念日になるかもしれません。

この日は生憎と曇り空でした。
写真撮影には生憎ですが、基地建設工事はそんなことにかまているわけではありません。
ただこの日天皇が沖縄に来て警備の警察・機動隊がそちらにいってしまいましたから、石材搬入のトラックは座りこみ人々との摩擦を警戒して、来ていません。
それで座り込みも今日は無し。

川口さんは原発にも反対して活動をしています。
金曜日には関電の営業所前で原発再稼働反対、原発廃止を訴える行動に参加しています。

子供たちの未来に米軍基地も原発もいらないと、そういう思いです。

京都に帰ればあちこちの労働組合や市民大体に呼ばれて歌っています。
スケジュール表はびっちりです。
普段は障碍者施設で働いておられます。

2017年11月1~3日まで、台湾で開催されたアジア国際映画祭でのドキュメンタリー映画「レジスタンス ナウ」で、新人女優賞に選ばれもしています。
前年はさだまさしさん原作の「サクラサク」が三賞を受賞しています。 最優秀女優賞を南果歩さんが、最優秀音楽賞をさだまさしさんが、そして最優秀監督賞が田中光敏さんでした。

CDのジャケット用の写真を撮りに来たのですが、果たして役に立つものが撮れるでしょうか。

そして一人でも多くの方に川口さんの歌を聞いていただけるように・・・・・。
- 2018/04/08(日) 00:00:44|
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ここは沖縄、辺野古の海です。
この人はシンガーソングライターの川口まゆみさん。
ほとんど毎月、辺野古に来ています。

国会で佐川宣寿前国税庁長官が違法ではないけれど極めて不適切な証言態度をとった。自分が公務員として務めていた限り公僕として国民に対して責任を負っていたはずなのに・・・・こう言う公務員の基本的な在り方自体を「忖度」を梃子にしてないものねだりにしてしまったのが彼のしたことの一つだが・・・・自分が刑事告発を受けかねないからと言って、国民がつまびらかに知る権利に対して自己の罪悪を隠す権利を優先してしまった。
それは一面合法的ではあるが、倫理的でもなければ法の正義にもかなっていない。
辺野古の米軍基地建設も同じことが言える。

大人ぶった物分かりの良い人は問題を狭い範囲に限定して、さらに形式的な合法性を錦の御旗にして、あたかも分別のあるような物言いをすることがあるが、そもそも論が怪しいことが多い。
そういう傾向は男性に多くみられるかな。

辺野古の座り込みの戦いなどはそこに集まる政治意識や行動原理は様々で、率直に言って私とは相い入れない方々もおられる。
ただ私はこんな理不尽なことを、あまりにも軽く見過ごしている多数の一人にはなりたくないとは思っているので、川口さんを支援する気持ちで撮影している。

戦場写真や報道写真ばかりが社会性を持つのではないし、街の裏をのぞき込まねば社会・世相をとらえられないのでもないと思うから、様々な写真があって良いとは思うが、「写真は武器たり得るか」という問いに対する余りの無関心や不感症は表現のジャンルとしてのあり方として疑問には思っている。
もっともそれは写真分野にだけ限った話ではないのだが。

写真はドキュメントの性格を持つことができる表現形式ですから、そこに他のジャンルに対する優位性もあり、だからこそ自然を撮る写真にも毒と育の迫真性があるのだし・・・。
戦いは目くじら立て青筋浮かべているだけでは続けられない。
歌の力は大きい。
- 2018/04/06(金) 00:00:06|
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沖縄に行った時に船の上である人が私の気が付かないうちに私を写真に撮ってくれました。
それを見て驚きました。私自身こんな表情をすることがあるんだなあとびっくりするようなものでした。
カメラを全く意識しないで別の人と話しているときの顔でした。
こんな表情をする自分がいるという事は驚きだというだけでなく、うれしいことでした。
私が逝ったらその時の「遺影」はこれにしてほしいと思うようなものでした。
やっぱり写真は面白いですね。

それで、私はこういう風に撮るときにもフォトマヌカンが「これも私?!」と思ってもらえるような魅力的なその人を撮りたいと思うのです。
そうすることでその人の自己認識が広がるんじゃないかと思うからですし、自信に繋がればいいなあと思うからです。

これと次の写真は意識して顔を暗く撮っています。
その理由は・・・・・、

・・・・・です。

と、まあそんなわけで今度は顔のアップです。

いろいろやってみましょう。
時には、ハイキーで。
- 2018/04/05(木) 00:00:18|
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髪の輝きが若さと健康の証です。
何かこちらも元気になる感じがします。

ただ可愛らしく、きれいに撮ってくれればうれしい・・・と、そういう人ではありませんから、私も少しばかり試すことができます。
そこが街できれいな人を見かけて「撮らせてくれませんか?」と言って撮る写真とは違います。
私のようなものにとっては有難いことですね。

この人やお友達がメジャーデビューしてしまえば、こういう風に撮らせてもらう事はなくなってしまうでしょうが、こういう事の一つ一つがそのメジャーデビューに繋がればいいなあと思いながら撮ります。

私が写真でメジャーデビューすることはないのですから「あなたたちが飛躍してついでに僕も少し引き上げて。」とお願いしています。
きっとそんな日が来ます。

でもそんな日にこの人を撮るプロの写真家にはこの人この時を撮ることはできないのです。
この人のためにも気合を入れてとらねばなりません。
そしてそうなったころの写真撮影は楽しいだけで済まないものになっているでしょう。
ですから、今は楽しく!

この一連の写真では「脚を撮っているんだよ。」と言っています。
それで足と目ばかり見ていて、頬杖を突くときは顔をゆがめてはダメだよ、と言ってあげるのを忘れました。
でもこれくらいの微欠点がある方がポートレートとしては楽しいと私は思っています。

この木立の中というロケーションが案外よかったように思います。
明るいばかりでない背景の中を光が遊んでいますから、この人の若さにぴったりです。
カラーにするとすっかり別の世界になってしまいます。
- 2018/04/04(水) 00:00:31|
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向こうに蒸気機関車が走るのが見えます。
それで、駆けていきました。 元陸上部です。ソフトボールもしていました。

スタイルを気にして細すぎたり、走れない、歩けない人は写真にとっても美しいシルエットになりにくいと感じます。
まあ、その美しいが人それぞれであることは間違いないのですが。

この人の場合はファッションモデルではありませんし、私はこういうバランスの良い体形の人を美しく魅力的に感じます。
若い生命力みたいなものがぐっと凝縮しているような感じがいいですね。



- 2018/04/03(火) 00:00:07|
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