明日から四月ですねぇ。
四月は八日は京都府知事選の投票日です。
中央政界に太いパイプになるという触れ込みの官僚出身者が候補の一人になっているんですが、どうも東北の震災復興に携わってきたりした人のようです。たくさんの被災者、ことに原発「事故」被災者の現況や町や産業の回復状況を見れば、そしてそこに流れる行政の冷たい心根を見てとればその人が京都の知事に相応しいかどうかは、よほどの人でなければわかると思うのですがね。
はっきり言って地方自治を考えるときに中央官僚の天下りのような首長選びは完全に時代遅れだと、私は、そう思っています。
さて、

このロケーションは今日の服にピッタリだと思いますがいかがでしょう。
無論、もっとドレッシーなモノでもいいですが、春めいて軽快に行きたいので・・・・。

こちらに回るとまた雰囲気は大きく変わりますね。
光と影・・・・・。

横長の画面は情景を取り込むので、画面にニュアンスを与えていいですね。

場所が大きく変わりまして、・・・・。
こうして撮ると、まるで高校生です。
私などは大学の3回生の時に、東京から来た学生に「どんな3年生ですか?」と聞かれて、つまりは何回ぐらい留年しているんですかという事ですが、・・・・後に家人となる人は初対面の時は3児の父くらいに見えたと・・・・、その時まで24歳だったのにです。
ですから果たして高校生に見えたのは何時の頃だったか・・・。
ちなみに最近友人が送ってくれた高3の時の集合写真の中では、友人たちと比べてずいぶん幼顔に見えるのですが。ただそれは単に知的に幼く、世間知らずの呆けた顔をしていただけなのかもしれません。

そんなことは良いとして、・・・・。
この顔、表情を記憶しておいていただけると、しばらくのちに出てくる写真に驚いていただけると思います。
- 2018/03/31(土) 00:00:03|
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前回の撮影の時に比べて髪がかなり短くなりました。
美容院に行ったら「気づいたらこんな風になっていました。切られ過ぎてしまいました。」と、どうやらスタッフさんの思い違いがあったようです。
「明日のオーディションに影響があるんじゃないかと、・・」心配そうでした。

以前の長いきれいな髪の魅力を知っているだけに、同感するところはあるんですが、ご覧のようにこの人の魅力は春の桜のようです。

小柄な私よりもすでに身長は高いのですが、手指の様子から見るとまだ少し背が高くなるかもしれません。
女優の新垣結衣さんが22歳の時には166センチで、27歳では168センチ、そして現在169センチだそうです。・・・・こういう情報は、それほど確たるものではないと思いますが・・・・・
ですから?この人も・・・お父上の背がかなり高いそうですので・・・もう少し伸びるかもしれませんね。
でもあまり高身長になると共演者に制約が出てくるので、そこはもう止まってもいいかなと思っているらしいです。

ファッションモデルが志望ではなくて、女優さんですから・・・既に少しづつ仕事をしていますが・・・確かに175センチとかにはならないほうがいいのでしょうね。ちょっと高いヒールの靴を履いたらを履いたら180センチを超えてしまい、向井理君、阿部寛さんくらいしか共演者がいなくなってしまいます(笑い)

私は職業モデルさんたちの「細さ」には少々違和感を感じています。
それで一般の若い女性たちの指向が「細い」に傾き過ぎていて、ネットに見られる写真ではどうも「美しさ・魅力」を感じられないのですね。それはあくまで私の趣味の問題ではあるんですが。
そういう点でこの市居さんやお友達の高階さんなどはバランスがいいなあと思っている訳です。お芝居、演劇で活躍していこうとしているんですからね。

通常こういうアングルでは脚が太くたくましく写るのであまりやらないと思うのですが、この健やかさ伸びやかさがこの人の魅力だと思うので、こういう撮り方もします。

そしてこうして撮ってさえ綺麗な足だということが肝心な点です。
私は「走れない脚はダメ。」という考えですから、なおのこと。
- 2018/03/30(金) 00:00:37|
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3月も、もうじき終わりですね。
年度が替わる時期です。入学、就職、転勤、そして退職の多い時期です。
私がこのブログを、すなわち人物の写真を撮ることを初めてもう7年がたつことになります。
学生の頃にゼミの先生が「10年の間一つのことを追求すれば、何か世に問うほどのことができる。君たちにはその10年が何度かあるのだから、そういう社会に寄与することに取り組んでください。」とおっしゃいました。それは研究のことを主に意識されていたのではありますが、なるほどそうだろうと思いました。が、これまで、先生に認めていただけるような10年物の成果は上げてきていません。

この「人物写真を撮る」ということぐらいは10年続けた先の地平を見てみたいとおもいます。
1285名の方に撮らせていただいてきましたから、あと3年で累計で1700名くらいの人を撮れるかもしれません。どうでしょう。
生きて続けていれば、やがて2000名にはなるでしょうか。果たして・・・・それまで・・・・。

まあ数は置くとして個展は累計10回くらいはやってみたいものです。
そうすれば、そこからもまた見える新しい世界が広がるのじゃないかと期待します。
来年6月には清水寺の成就院でしますしね。

こういうことは、多少、風呂敷を広げてでも口に出した方がいいんだと、あるギャラリストが言ってくれています。
まあ、目指さないモノは初めから達成しませんし。
そしてそういう事をしていくうちに自分に変化というか成長があって、そうなればまたこれまでと違った視界が開けて人生の味わいも滋味が深くなるでしょう。

もうあまり長いとは言えない余命ですから、ちょっと贅沢に使いたいですね。
そのためにはこうした人たちと同じようにちょっと勇気を出して自分をさらけ出してみたいものです。
- 2018/03/29(木) 00:00:30|
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昨年来、トランペットを吹く人を見るとつい意識してしまいます。
というのも、すでに何度か書いているように、今年6月21日に「清水寺 世界友愛 100本のトランペット」演奏と銘打って「音楽の祭日」の一分枝としてのイベントがここ京都であるからです。

「どうです、あなたも清水寺の西門でトランペットを吹いてみませんか?」
そう声をかけたくなるのですね。
この100人の内には純然たるプロの演奏家も・・・ノー・ギャラデで・・・・出演してくれるのですが、私としては若い人、市民トランぺッターにも大いに参加してほしいと思うので、なおさらです。

フランスでは、もうすっかり定着したこの催しは、学生や市民、そしてプロたちが思い思いに工夫を凝らして、又フランクに街に出て音楽を提供する日なのです。そして市民もまたそれをとても楽しみにしているそうです。
そういう点ではまだまだ日本では普及していない、認知度も未だ市の取り組みではあります。

斯くいう私も、今年ほど意識したことは過去にはありませんでした。
旧日仏会館でやられていることを情報として知っていたという程度でした。

それが、そのイベントの写真を撮る役を振られたところから、いささか意識し始めたという訳です。
私が撮らせてもらっている人たちの中に、楽器は違っても多くの演奏者がふくまれてきていますから、そういう経験も活かせたら、などと思って加わったわけです。
演奏者や、イベントスタッフの皆さんとともにノー・ギャラです。
このお二人は、ジャズナンバーを演奏しています。
もうお二人メンバーがいるそうなんですが、今日はたまたまお二人だけ。

ベースの方の指、長くてきれいですね。
- 2018/03/28(水) 00:00:52|
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明日の天気は悪くなるという予報ですが、この日はまずまずでした。
春の明るい雰囲気で撮りましょう、という事で出かけてきました。
私はついアンダー目に撮る癖がありますから、今日は意識的に明るく撮ってみよう…とは思っています。

南京錠をお尻で隠してもらうつもりでしたが、ちょっと別のことを意識して指示すると、もうそのことを私の方が忘れてしまいます。

天候と言い、ロケーションと言い、この人にぴったりです。
この人を撮ることになった時に、どこで撮ろうかといろいろ想像しましたが、よしあそこがいい・・・・という訳で、ここに来ました。

少し前に別の人と別の目的でこの付近に来た時に、そういえばこの場所があったなあと、改めてインプットしていたのです。
そのさい、この地のスタッフの方に「撮影の制限は・・・」と確認しておきました。
ただ、その時の方と、今日声をかけてきた人とではだいぶんニュアンスの違う事を言われて、戸惑いもしたし、幾分気分も害しながら、すこし予定を早めて立ち去ることになるのですが・・・。

あちこちに行くとよく撮影禁止の掲示や表示を見ることがあります。
文化財だからとかデザイナーズビルだからとかいうのですが、多くの場合その合理性を納得できないことがあります。
文化財だと何故撮影してはいけないのでしょうか。作家の作品だから撮影禁止というのも、写真のようなモノならともかく、その作品を写真から複製することはほぼ不可能なんですから、どうもよく納得できません。
織物や菓子などの場合にそのデザインを盗まれるという心配は納得できます。フラッシュをたくと強い光が当たって退色の原因になるからというのも、そうでしょう。三脚や一脚は床を傷めたり、鑑賞者の流れを滞らせる・・・・、それも言えなくはありません。
ですが斯くまで包括的に禁止するのはなぜなんでしょうか。
私にはよく分かりません。
逆にお金さえ積めばCMの背景などに使わせる場合があるのにです。ことに自分自身の収益のために。

今日は今まで使うことが滅多になかった広角レンズを使ってみました。
これはこれで面白いですね。もう少し試して面白いものができたらいいなと思いました。
今までは28ミリまででしたが、この度は20ミリです。この差は大きいい!!
ただ撮られる側の人とのいい関係を作っておかないと20ミリはフォトマヌカンに緊張を強いるかもしれません。
ものすごく寄っています。

- 2018/03/27(火) 00:00:31|
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「一期一会」で撮るというのも一つの味わいある事柄ですが、そこで見ることのできる「その人」というものは、その時に見せてくれている、ある状況下にある、ある気分の時のその人でしかないという事は言うまでもないことです。
とても極端な話にすると、ある人にすれ違った刹那、この人はきれいだ〔可愛い、カッコイイ・・・・〕人だという印象を持ったとして、すぐさま振り返って、友達との会話ぶりやスマフォをのぞき込みながら人の流れに分けいっていく姿を見て、瞬時に興ざめをするという、あまりにたくさんのケースがあります。

そのことはこれまでも何度も書いているように、単に私の「酸っぱい葡萄」話でしかないということも確かなんですが。
人は見かけによらずという事は、皮相を一枚も二枚もめくれば次から次へとその人が出て来て、そ皮の一枚一枚は皆その人だと言うことが言われます。
なるほど、その通りで結局○○という人は・・・といった途端に「その人」は我々の指の間をすり抜けていきます。
私は今日はこの事をシニカルに触れようとしているのではありません。
逆にその人の魅力、素敵さはどんどん多面的に、重層的に表れるという事でもあるという事を言いたいのです。

今日の撮影はまだ始まったばかりですから、今のところいつものお出かけの時の調子です。
というより、いつもは二人なのに今日は単独撮影ですからちょっとだけ緊張があるかもしれません。
もう何度も撮っているとはいえ、また舞台経験などを積んでいるとはいえ、まだお若いお嬢さんですから。

などと侮ってはいけませんね。
この人もそうですが「ただ撮られている」だけの人ではありません。

確かの撮影のイニシアティブは私がとっていますが、だからと言ってただひたすら言われるままにポーズしているのでは決してないのです。
少なくとも撮る側の意図、要求を感じ取り、汲み取って演じる気持ちはしっかりと持っていますし、その中で様々に提案して応えてくれます。
ですから、「そうそうそれいいねえ、それ行こう。」という場面が幾度もあります。

そして「今は私のどんな引き出しを開けたらいいだろうか。」と心が働いています。
できるだけいい引き出しを開けようとしてくれます。
- 2018/03/26(月) 00:00:54|
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この人は元来歌をやっていたのではないという事でした。
それが数年前から歌いだして、ファルセットも、同様に長いキャリアがあるというのではないのだそうで。
でもとても良い声で安定感もあり、聞かせました。

毎度書くことですが、京都には「広場」がないのです。
いえ、公園なるものはあるのです。ですがそこでは人が集って音楽を、パフォーマンスを楽しむという様な事になっていなくて・・・。
一方では、音楽が高額チケットに囲い込まれて・・・

ある程度の負担をしてまで聞く音楽というものも、それは当然あるわけで、落語や芝居にしてもそれにふさわしい芸というものに出会うためには、やはり自分も彼らを支える資金を、そしてそれなりの額を提供するのも、また一つの文化であり、無償のものはそれなりでしかないといわれてしまう面もなくはなくて・・・・それゆえにそういう論理は私の写真にも戻ってくるのでして。

ですが、発展途上の音楽家たちの、絵描きたちの・・・・作品をもっと広く聞いたり見たりできる空間を作らないと、とても「文化」〔庁のある街だとは言えても)の豊かな街だとは言えないと思うのです。
そのための公共の広場、建物が決定的に不足していると私は感じています。

無論、特定の場所や建物にこういうパフォーマンスを囲い込んだらいいという訳ではなくて、保護や援助は往々にしてよい作物を生みませんから、やはりどうしてもこうして大衆の前に身をさらして発表し肌で評価を感じる気概がなくちゃだめだと思います。
それで、私はこうした路上パフォーマーに対しては敬意をもって取り巻くことにしているのです。

それは若い作家たちのグループ展や個展についても同じです。
言いたいことは少なくなくても、やはり街に出て大衆に向けて表現すると言うことは大切なことで必要だと思うからです。

- 2018/03/25(日) 00:00:35|
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30年ぶりに高校の学年同窓会に出席。
幹事が「挨拶は手短に。15秒以内で」なんて非現実的なことを言うのだけれど、つい、しゃべりたがりや話に結末をつけるのがとても苦手なモノや、職業病的長広舌がいたりして、幹事を困らせるので、そういう会進行の苦労の分かる私としては、話を極限まで端折り、話題を刈り込み、それが過ぎて「今写真家をしています。」と口走り、そうなればもはや「返るはずもない水」となり、まあ次の5年間はお互いに会わないのだからいいとしようと開き直り、でもこういう挨拶は大概聞いていないのだからと慰め・・・・。

今こういうことをしているよと拙ブログの検索キーワードを記したカードを配るも、そういう面倒なものを渡されても、覗いてみようなど言うものはとても親切か極々奇特な人間で、つまりはその前と後とで事態は少しも変わらないというのが落ちになって・・・・。

それから帰れば、またカメラを持っての街歩きの日常生活に・・・。
この日常を重ねることで「非日常の域」にまで達するしかない私としては、とにもかくにも「人を撮り」続けるのです。

同じ学年を過ごした仲間が350人。物故した者はその一割だと言います。
ぜひお会いしてその後を報告しなくてはならなかった恩師は昨年終わりころに亡くなられていて、悔しい、申し訳ないことになっていました。
もし、彼の先生にお会いし、又あの「編集部」の4人に出合わなければ、私の高校生活は灰色のままだったろうし、屈折が過ぎて、どうなっていたか知れない。

この歌い手はいい声のファルセットが魅力。
こうして出会って一期一会を結んで写真ができる。
だが、彼の先生には会わず、あの4人にも会わないとしたら、それで私の人生の「物語」は成り立つんだろうか。
多分人の人生とはそういうものではないような気がする。
- 2018/03/24(土) 00:00:18|
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四条大橋の上でのことだった。
君は橋の下の流れをのぞき込みんでいたが、折からの春の風が君のつややかな髪を舞い上げ、やや傾いた日差しがそれを照らして金色に染めていた。

そのきらめきに息をのんだ私は、しばらく声もかけられずに君の周囲を金色に染める細い糸たちが戯れ遊ぶを見ていた。
ふと我に返って私は思わず「君の名は・・・。」とその背に声をかけ・・・・たのではなくて・・・・。

「日本人ですか?」と尋ねたのでした。
「いえ、マレーシアから来たのです。」と君はかすかな戸惑いを含んだ、けれどその髪の光のような明るい声で返事した。
この夜、君はすでに機中の人だったが、「シンガポールに来ることがあれば、再会しましょう。」と、写真を受け取ったことのお礼に添えて、E・メールの終わりに書いてくれた。

一度会い、二度会う事のない人との刹那の出会いであった。
- 2018/03/23(金) 00:00:36|
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「京都で食べた金つばより美味しいなんていってもらうと、うれしいやあ。 これからも頑張るでね。」

他の地方に住む人にとって京都は特別な街だという印象が強い。
数十年ぶりに出席した同窓会でも、宿泊したホテルのロビーでも「京都にいるの?!すごいなあ。」と言われる。
仮に京都がすごい町であったとしてもそこに住んでいるだけで私がすごいという事はないので、単に社交辞令的に軽く「羨ましいなあ。」という程度の事なんでしょう。

しかし、地元に対するひいき目からこの金つばを美味しいといっているのかもしれないし、要するに子供の時に食べたものが一番舌にあっているんだという事かも知れないが、これを差し上げた方たちがわざわざ取り寄せて食べているところから見ればあながち贔屓の引き倒しではないように思う。
こういうものを「私はアルバイト・パート」だという意識をお持ちの方が、しかし、きちんと職人の技と気構えを持っておつくりになっている事実が私を感動させるのです。

「名工」とも「匠」とも言われるわけではないのです。
ガスを燃料にしていたころと電気で銅板を温めているときとではやはり加減が違う訳で、それで美味しさわ落ちてはいけないわけで、そこをこの人たちは乗り切ってきているのですね。

いたるところに働き甲斐、生きがいがあり、人生がある・・・・そういう事を改めて感じました。
東京で活躍できない落ちこぼれが地方で〇〇をしていると評する人がいますが、それは金メダル以外は価値がないという人とともに、それはちょっと違うんじゃないかと言いたいと思います。

時代劇の映画やテレビドラマで掛川、浜松は出て来ても、袋井さえ取り上げられるのに、なぜかパスされることが多い見付ですが、私にはやはり懐かしい故郷です。

そこで他になかなか比べるものがない美味しさの金つばを作り続けておられる人々。(あくまで個人的な評価ですが)
- 2018/03/22(木) 00:00:11|
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私の大好物に「又一庵」の「きんつば」があります。
金つばの元祖は京都で発生したモノのようですが、それが江戸に渡り、ここ磐田でも作られれています。

故郷からのお土産で私を喜ばせようと思ったら緑茶か「又一」の金つばです。
私が磐田にいたころの私の印象では、金つばと言えば又一庵、又一と言えば金つばというイメージでしたが、今はずいぶん他沢山商品を展開していますし、店舗も各地に作っています。
「美味しい"きんつば"を食べていただくためには、どんなに売れても絶対に一つひとつ手づくりすること…」という初代の言葉があるのだそうで、こうして実演・製造をしています。

和菓子と言えば京都と言われそうですし、この方も「京都の和菓子」にはそういう思いをお持ちでした。
ですが私がこちらに来て食べた金つばで私の舌を又一のものほど喜ばせたものはありません。それでこの餡の甘さの絶妙なバランスや小豆の残り具合、皮の薄さと適度な歯ごたえについての感想を率直にお話しすると、とても喜んでくださいました。
「スマホで撮ってく人はいるけど、そんなカメラで撮られたら恥ずかしいやぁ。」と。
溶いた小麦粉を、寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの六面それぞれに付け、熱した銅板の上で焼くのです。
この時小麦粉を付けるのが微妙ですし、また銅板い置くときの押し付け方で川の暑さは周囲へのはみ出し方が決まります。

「これで、なかなか難しいだに。 ちょっとした具合でどうしてもうまくいかん時もあるでね。 いつも悩むだよ。」
「1,2面を焼くときに上手にしないと5,6面がうまくいかんで困るだよ。」

「職人さんなんて言われると嬉しいけど、私らアルバイトだでね。もう長くしてるけど。
西坂の方の本店を知ってるら? あそこの2階でも焼いてただよ。」
モノづくりというのは結局こうして実際に作る人の手によって決定されるので、又一庵の金つばの評判を生んでいるのはこの婦人たちなのだ。
「そう言ってもらえりゃあ、うれしいやあ。」
- 2018/03/21(水) 00:00:36|
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この若者たちに「遠州弁」はどう響いたでしょうか。

おそろいの服の背中にはチームのロゴが入っています。
「ひょっとして・・・・。」と声をかけると京都は立命館大学のチームのようです。
私は毎日立命館大学の建物を見て暮らしているのですから、なんと数奇なことでしょう。
でもそんなことに彼らは何の関心もないようでした。昨日の残念な結果と疲れと寝不足と・・・・で、反応が鈍いのかもしれません。

実はこの後、私がいつものように太平洋を眺めに遠回りをして帰宅の途につくと、浜名湖のサービスエリアでこの学生たちの一団とすれ違いました。

彼らに、おそらくはそこを訪ねるのはこれが最初で最後になるだろう磐田という地はどういう印象を残したでしょう。
おそらく数葉の写真の中にはかすかにその景色が混じりこんではいるでしょうが、何の印象も残さないのじゃないかと思います。
それで就職して、出張先が「静岡県磐田市・・・磐田工場?!」だったりした際に、そういえば学生の時に行ったことがあったような気がするけれど、どんな街だったっけなあなどと同僚に話したりするのでしょう。この中の一人か二人が・・・。

その時になんとなく悪い街じゃなかったような記憶があるなぁなんてことになれば、木とこの人の与えた印象がその要因の一つになっていることでしょう。
「でもあの時は負けたんだっけなあ。」とすぐ記憶と印象が上書きされるかも・・。
私の大学の合宿所=セミナーハウスが琵琶湖を望むところにありました。
そこの管理人さんは近所で農業をされているご夫婦で、私たちにお腹いっぱいに食べさせてくれました。野菜もコメも自家製で、ことにご飯が美味しくて、女性も含めて皆が二杯三杯とお替りしていました。
以来私には「近江米は美味しい」という強いメージが定着しているのです。

ただすれ違うだけのような人との出会いでも、人の心にはじわっと染み入ることがあるようです。
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- 2018/03/20(火) 00:00:25|
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私が故郷に帰った時に・・・果たしていつまで「帰る」理由が存続し続けるのか・・・・・何が気持ちがいいかと言えばやはり地元の人の他人に対する接し方の独特なニュアンスを感じられ、遠州弁に触れられることです。
ビジネスホテルです。
正直に評価すればとりたてて褒めるような点のないごく普通のホテルです。
JR駅に近いと言っても、歩いて1、2分のところにいくつかホテルがあります。特にアドバンテージにはなりません。

朝食のためにこの部屋に入ると、すぐさま自然で明るい笑顔のこの方が現れて、とてもはっきりとした声で「お早うございます。」と迎えてくれました。
まっすぐこちらを向いておられます。そしてこれまたはっきりとした身振りでテーブルに誘導してくれます。

この瞬間「しまった! カメラを持って来るんだった。」と思いました。
私が朝食を摂っていると、団体さんが来ているというお話の通り、若者が三々五々入ってきました。
どうやら「ソーラン」の踊り手たちのようです。合宿でしょうか、それともどこかで大会でも?
お隣の浜松で何かイベントがあったようです。
「いつものようにお客さんの相手をしていてくれると有難い。」とお話すると、若者たちの方に歩み寄って「残念だったね。・・・・・。」と。
どうも何かの大会で不本意な結果に終わったようです。
よく話を聞いてあげて、優しい笑顔でいたわりと励ましの言葉をかけていました。
- 2018/03/19(月) 00:00:45|
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手指で作ったものは手指に優しい。そう思います。
その手指の感覚というか感性が凡人に比べてはるかに繊細度を増した職人の手指が作り出すのもが我々にある種の「快」をくれるのです。
それが「手作り」であることの価値だと思います。

今やみくもに「手作り」をうたう商品がありますが、どうもただ手作業で作れば「手作りに間違いはないでしょ?」みたいなものが散見される。
でもその手作りの質の高さ・技能の高さが問題ですよね。

嘘はついていないが意図的にミスリードさせる「嘘」が氾濫する現代。
CMなどはその最たるもの。 自公政権や官僚の国会答弁もその典型。

そういう社会だから、「手作り」とか「オンリーワン」など何か肌感覚として確からしいものが求められるのかもしれない。
そこにさえ「嘘」が忍び込むやるせなさ。
職人の手仕事に嘘はない。

何百何千ものぐい飲みを作る。
そのうちのただ一つを作るときのこの表情です。

だから私はこれを撮りたくなるのですね。


- 2018/03/18(日) 00:00:33|
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ぐい飲みである。
ろくろで引いたものを・・・ト、こういう表現が正しいのかどうか、ちょっと疑問はありますが・・・・・整形している。

ニンジンや馬鈴薯の皮を剥く、ピーラーのようなものを使っている。
鋭い刃をもった小刀、彫刻刀で成形するのではないらしい。

ろくろで引いたこのぐい飲みは、型に入れてとったものとは違い、それぞれの大きさや形が少しずつ違います。
陶器ですから、肌合いも磁器のようなすべすべしたモノではありません。
そこに良さを表現していますから、表面の幾分ざらざらした感じを残すために、鋭利な刃で成形しないのだそうです。むしろ引っ掻いているわけです。掻き落としている。

私もこうして作られたぐい飲みを愛用していますが、指触り、口触りがとてもいいのです。
日本酒の風情にとてもよく会います。

磁器のお猪口も使いますし、ガラス製のものも時に使用します。漆のものもいい感じなんですが、陶器でろくろで引いたものは独特な暖かみと野趣があってお気に入りです。
今外国の婦人で、ご自身も焼き物をされているという方が話しかけています。
ぐい飲みの底は轆轤の代から切り離す時には糸で切り取ります=糸尻・・・それで底には年輪のような模様が付きますが、その底の土を掻きだして、数ミリの環状に残します。
ただその時にすべてを掻きだして平たくしてしまうのではなくて、中央の富士山のような突起を残します。
その頂に先ほどの年輪様の気配が残ると、これは手作りだなという印になるのだそうで、「分かる人にはわかってもらえるという訳です。」とのことでした。
「ミラーレスですか? デザインがレトロなんで・・・・、それでシャター音がしないんですね。」とカメラにもお詳しそうです。
この日はたまたまX100f持参でした。
- 2018/03/17(土) 00:00:50|
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・・・・、ということになるとは私は思ってはいませんが。
マスコミについては依然として社会の一握りの人たちが独占していて、民主的規制は実に心細い状態です。

それに庶民に普及している印刷機が、いったい何を印刷しているのかということ、これが問題ですね。
ある物的条件を手にしても、それを使う側に、時代の声が聞こえていなければ、それはただ単に「市場≒需要者」になって企業のための価値実現者になっただけの事です。

ブログ、フェイスブック、ツィッター、インスタグラム・・・・・
歴史は人々がどんどん社会的結合を広げていくことを必然としています。人々を孤立へ孤立へと追いやりながら、しかし、そのことで相互以前を深めて行って、たがいに結び付かねばいけていけない条件を深化させています。
ナショナリズムで国境が強化されつつ、一方で人々はそこから流れ出して世界の人々がつながります。
それは経済過程がそれを促さざるを得ないから、それに押し流されているというのが事実でしょうが、一たびそれを自覚的に行使すれば、国家という枠に分断された人々は相互に理解し合える物質的条件を獲得しています。

FB上である情報をシェアしあうと「ネズミ算式」に情報は拡散されていきます。
可能性としてはマスコミに決して負けない伝播力を持ちます。あくまで可能性としては、ですが。

民衆は印刷所もラジオ局もテレビ局も持ち始めています。
それを政治がコントロールするするのはだんだん難しくなるでしょう。
問題はどれほど自覚的にこの条件を、民主主義の成長を意識して活用する人々が増えるかです。

逆にビットコインなどの幻想に人々を巻き込む梃子にもなりますし、がらくたのような情報の海におぼれさせる装置にもなります。
人々のルサンチマンの増長や、発言の抑圧のためにこうした条件が現に使われています。

ロウ原紙で、文集作りに励んでいた時からウン十年。
その文集の製本過程で出きた紙の切れ端を糊で繋いでつないで繋いで・・・渡り廊下で結ばれた校舎の廊下を一巡させたことが思い出されます。
その頃から私自身がこれまでの人生で印刷発行したプリントは一体幾万枚でしょうか。ある年一年をざっと計算しても5万枚になりますから、木材をずいぶん犠牲にしました。
人類史的に俯瞰すれば、庶民である個人の発行した印刷物の数量としては驚愕すべきものでしょう。
ですがそれが決して例外的ではないというところに、人類史的今日があるのだろうと思います。

インターネットやモバイルテレフォンなどの機器の普及と並んで印刷に関する事情の変化も、私たちはある別の世界に踏み込んでいるのだろうと感じます。


- 2018/03/16(金) 10:00:42|
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「書く」続きの話題になりました。
皆さんはガリ版印刷の経験はおありですか。
私の小中高の時代にはこのガリ版印刷が主流でした。

ここは古川町商店街にあるJARFO ART SQUARE です。
そこでガリ版印刷についての展示がされていて、様々な「作品?」とともにロウ原紙やヤスリ板、謄写版印刷機、鉄筆なども並んでいました。
私には懐かしいものたちです。
そして体験もできるという事で・・・・。

「つぶし」なんて単語がひらめきました。
今また静かなブームになりつつあるらしいですね。
手描きがいい味を出しますし、レタリングの楽しさや、カットのイラストも自分で書きますから、あちらこちらからペーストして来て組み合わせた「人の褌で相撲を取る」様な、一見うまくできた印刷物に対する反省かな。

私はファックス用原紙が普及してこれを読み取り機かけて製版して印刷する頃になっても、手書きにこだわっていました。
早い者はワープロなるものを使いだしていましたが。
こうして戦後の70年の中で、私たちの身近なプリント環境は大きく変わってきていますね。

謄写版印刷機は勿論の事、簡易型の輪転機だって、個人が家庭に持つことなど例外的なことだったと思います。
しかし、今や・・・。

パソコンにつなぐインクジェット式のプリンタは、決して例外的なものではなくて、この私の部屋にさえあります。
かつて「階級対立」を基軸に社会を見る人たちの中で「ブルジョアジーの階級執権(独裁)」についての例示として思想・情報普及の物質的な条件として印刷機(所)の資本家階級による独占という事がありました。
しかし、今日では労働者・農民等の勤労階級の側もまた大量の印刷機を持つようになりました。
これはマルクスやエンゲルス、レーニンもまた想像できなかったことかもしれません。
そこで「マルクスは死んだ!」「マルクス主義は古い!」ということに・・・・・・・・。
- 2018/03/15(木) 00:00:35|
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ある小学校の正門わきに掲示されていたものです。
最近は入学式や卒業式の時も立て看板にはワープロ印字の文字が書かれているケースがよく見かけられます。
保護者説明会などの掲示や校内案内図などはなおさらのことです。
学校の先生は字が上手というのは遠い遠い昔の話で、むしろ恐ろしく下手で、しかも何とか読みやすいように字を書くことさえしないモノを見かけます。
まして毛筆で字の書ける人など一校の先生、職員の中にどれだけいるでしょうか。
企業でも同じではないかと思います。
「立原正秋」こそまあ上手と言って良いと思いますが、他は小学校高学年ならもっとうま書く子がいるんじゃないかと思います。
それでもまあ印字で済まそうというよりはずっとましだと私は思いますが。

貸しギャラリーなどで絵画展などがあると必ず「芳名帳」が置いてあります。
そしてそこに不思議なことに「筆ペン」が置いてあるのです。しかも、よほどの人でなくてはこのペンでまともな字を書くのは難しかろうという筆ペンが何の疑問もなく置いてあるのです。
筆で書くのを苦手としている人が斯くまで多いのに、何故に筆ペンを置くのか。またその筆ペンときては開発人・販売者のまじめを疑いたくなるような出来栄えのものを。
またこの筆ペンの置かれていることの多いこと多いこと。悪い冗談としか思えないのです。

「芳名帳」だから「筆」という思考停止した惰性なんでしょう。

そんな中で逆にまた恐ろしく上手な字を見つけます。
そんな時、しばらくじっと見つめてしまいます。 書いた人を想像します。 水茎鮮やか、墨痕荘重・・・・。
そんな字が前にあると続いて書くには気おくれがします。

年賀はがきなどのあて名をパソコン・プリンターで印刷する方が多いです。
斯くいう私も面倒なのでそうしています。 家人は手書きです。
私はフォントを行書体にしています。 そして届くハガキにも行書体が見えます。
ところがその行書体のあるものが(ある一字がではなくてひとまとまりのフォント化されたある文字集団が)美しくないのです。人が書いたとするなら『うまくない』ものがあるのです。不思議ですよね。何故それを商品化するのか、また何故、下手な字なのにそれを使うのか。
その字を上手だなあと思っているからなんでしょうか。いや、多分、書の文字に見えるので「筆で書いた感があるから」年賀状に相応しいと考えているのではないかなと思います。
中国の書家の文字は、日本の書家のそれとはだいぶん雰囲気が違います。違っていてそれぞれに魅力的です。
韓国では漢字も書きますが、ハングルのあの文字も毛筆で美しく描きます。
それらが並ぶと、それぞれの魅力に打たれます。
よい文字がありそれを美しく、また表情豊かに書くすべも伝統的に深められてきているのに、みすみすそうした文化力を等閑視していく現代社会とは何なんでしょうね。
- 2018/03/14(水) 00:00:59|
- 書
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作業の下敷きになっている白い板は大理石です。
これだけでも相当な重量ですが、これらの道具類を詰めて運ぶ鞄を専門学校時に自作されたそうです。
工夫に富んだつくりに見えました。

「今でも修理しながら使い続けているんですが、これを見てこの道を選んだ初心を時々思い出しているんです。今見れば技術的にはいろいろ未熟さがありますが、気持ちは・・・・。」
この人の背景に半分写り込んでいるのがその鞄です。

制作をしていると「つい熱中して黙ってしまうんです。」と、お客さんのことを忘れるくらい革細工が好きなんですね。
そういうものだろうと思います。

それで私もつい遠慮もなくレリーズボタンを押してしまいます。
- 2018/03/13(火) 00:00:56|
- 手作り市
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このところ手作り市に顔を出せないことが増えました。
土日に所用が入ることが増えたからです。その所用の一つが撮影です。うれしいことですが、その分手作り市の動向が分からなくなりました。
お馴染みさんにご挨拶したいのにできないという事もありますしね。

手作り市はいろいろな方たちの発信基地でもあります。
ですから私から言えば多様な情報の受信場所でもあるわけです。
モノづくりの人たちの持つ、よい意味でのこだわり、それが私は好きなんですね。

カットした革の断面を保護し、毛羽を抑え、つやを与える作業をしています。
こうしておくと長持ちしますし何より見かけがぐんとよくなります。
丁寧に作られたものだなあという風合いはこうした作業によって生まれた効果です。

「命あるものからもらったものですからね、すべてを大切に使いたいんです。だから小さな切れ端の一つ一つを生かすように工夫しています。」といいます。
「それに皮をなめしたり染色した人たちの仕事も捨てずに生かしたいんです。」

私は高級料理の紹介で、「手に入りにくい高価な肉の大きなブロックから、中の本当に良い部分だけをカットして焼きました。」と言うようなものを作る人も食べて喜ぶ人も好きではありません。(料理人はそのカットして除いた部分も全部活用しているんだとは思いたいですが。)
またそういうものをありがたそうにテレビで見せたらいい番組ができると感じている人たちも好きではありません。
- 2018/03/12(月) 00:00:51|
- 手作り市
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5人のうち一人はちょうど昼食に出ていて留守でしたので、絵についての交流時にはいませんでした。
で、「撮らせて。」「いいですよ。」などと言っているところに、もう一人が戻ってきました。
ですので、どういう訳でこういう事態になっているのか合点はいかないはずなのですが・・・・。
「あなたも撮りましょう。」

即座に応えてくれました。
それはおそらく仲間が楽しく撮影をしているし、仲間への信頼があったので、事情はよく分からないけれど「撮ってもらったら。」という声に応じたんだろうと思います。
いい仲間ですね。・・・・・いや、私にとって都合が「いい」という意味じゃなくて。

この作品展を通して色々感じるところがあったのだそうです。
やはり個展にしろグループ展にしろ、こういうことをすると気持ちが高揚もするしある種尖りもしますから、心は鋭敏になりますよね。
「褒められ願望」症候群に陥り、褒め言葉しか耳に入らないというようになっていなければ。

勿論、誰しも・・・私もですが・・・「くさされたり否定的な評価」をうけるより「うまい」「じょうず」「すてき」「さすが」と褒めてもらえば気持ちが良いに決まっています。
それに私の座右の銘は「豚もおだてりゃ、木に上る。」ですから。
でも、それじゃあ成長はないわけで・・・。
でも批評、ことに否定的な評価を伝えるにはそれ相応の心配りが求められると思いますが。(それが多くの人にかけているようです。) 何より相手に対するリスペクトと成長への見通しの上に・・という事です。
気分で悪口をぶつけるのでは批評ではありません。
どこか似ていませんか、この二人。


- 2018/03/11(日) 00:00:20|
- 絵画
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この人たちの作品の前や横で撮る方が記録としても記念としてもいいのですが、それにばかりはこだわりません。
短い時間の観察ですから的外れも大いにあるのですが、私の観察に基づいてポーズしてもらったり撮影場所を考えます。
さすがに絵を描く学生だけあって自分、友人がどう映るかにイメージを持ちます。

それでたまたま彼らの個性に合っていたりするととても喜んで素直にポーズしてくれます。
「楽しいなあ。」と感想が漏れます。
自分が外からどう見られているのかを知り、自分のカッコよさがどう発揮できるかに気付くのは楽しいものです。

ポーズや求める表情はその人のある部分を少しだけデフォルメします。
それで明確になるものがあると思います。

彼は人格温厚で人と諍うようなことのない人だと思いましたし、それでいてきちんと自分も人も見つめることができる人なんだろうなあと作品と彼の表情を見て思いましたので、
敢えて絵とは関係のないバーテンダーをしてもらいました。

それにこういう遊びを芸術系の学生は楽しめるんですよね。
それがいいです。
何か 「作りたい」という気持ちが自然に働くのです。

こんな人が美術の先生だったらいいかもしれません。
彼も高校生時に良い先生の影響を受けてきたようです。

1回生ですが油彩の力はかなり高いと思いますし、基礎を鍛えられてきたように感じました。
- 2018/03/10(土) 00:00:54|
- 絵画
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2月3月は様々な会場で学生たちが趣向を凝らして、卒業生のために、あるいは春休みを活用した活動として絵画展などを盛んにやっています。
「趣向を凝らして」と書きましたが、皆が皆そうではない、というよりたま~にそういう会場もあるというくらいが事実に近いでしょうか。
何度も通るとおりに、何だか面白そうな雰囲気を感じさせる建物があります。気にはなっていますのでかつてそこでパチリとやったこともあります。でもその建物の中にカフェやギャラリーがあるとは認識していませんでした。
まずは、入ってみよう。 それが最近の私の基本姿勢です。
この5名が出品者でした。

こうして並んだ様子もいかにも芸術系の学生らしい雰囲気を漂わせています。
私はこういうのは結構好きです。
この人が一番上回生でリーダー。

私はこうした場所でよく頼まれる・…芸術系学生より、そうでない大学の美術サークルや写真サークルがやりたがるようですが・・・・・アンケートに答えるのはお断りしています。
そして機会があればなぜ断っているのかを話します。
お客さんに直接声をかけてお話を伺おうよ、がその趣旨です。
「作品展て、そのためにしているんじゃないの?」

そして私は会場にいる人にちょっと声をかけて、他人の話に耳を傾ける姿勢があるかな、受容力は見についているかなと観察したうえで、気づいたことなどをできるだけお話しするようにしています。
ずいぶん言葉は選びますし話し方にも気を付けながらですが。(ひどい大人もいますからね。)
で、この時もメンバーの一人の作品についてちょっと気になる点について話し、また思いを聞きました。

別のある日、かなり注目されているらしい若い作家さんの個展を見た時に、ご自身が近づいてきて「批評してもらえればありがたい」ということを私に言いました。
私は、その近づいてくるときに表情というか空気に「褒められたい」感が一杯で、それしか期待していないのを感じました。そういう時にはあまり話したくはないのですが、仕方なく、分かりやすい点についてだけ「どうかな?」と指摘しましたが、案の定「私の『つもり』」に固執していました。私も専門家ではないし、「素人にそう見えてしまう絵でいいのかな。」というところでお終いにしておきました。

芸術を専攻する学生には気負い、自負があるのは当然で、それが無くてはいけないと思います。
ですから批評の言葉には気を付けて話さなければなりません。
でも気負いとともに謙虚さを持ち成長したいという熱意のある学生は、大概一緒に話を深めたいという姿勢を示し、…ただ一方的に批評に従うというのではなくて・・・・・楽しく笑い合いながら検討しあうことができます。

それはゼミの様に楽しいですね。
それで「僕は人を撮るのが好きで・・・・・君たち撮らせてくれないかかなあ。」と話すと「いいですよ。面白いですね。いいんですか。」と積極的に応えてくれます。
- 2018/03/09(金) 00:00:23|
- 絵画
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商店街はアーケードがあるせいでしょう、遠くまでこの演奏の音が響きます。
私がここに近づいた時も、もう、商店街の南の端で聞こえていました。
音楽はいいですよね、先ほどから熱心い聞いておられる方が数人いいます。

写真は音や言葉を表現できません。
とても表現しにくいと言いなおしておきましょうか。
ですから演奏会の写真集のためにどう撮ったらいいのか悩みますね。

これまでにも音楽家の演奏の様子は撮ってきていますから多少の経験があるとはいえ、1時間に満たない演奏を様々なアングル、構図、引きやアップ、集合的に撮ったり、単独に切り取ったりしなくてはなりませんし、かなりの距離を移動しなくてはなりません。
とても多くの聴衆をかき分けて走らねばなりませんから、これまでのような集中した撮り方は難しくなるでしょう。
はたして光を探す余裕があるのかどうか。
そうなると、ただ事実を伝えるだけの音のしない絵になりそうです。
それでは、いけませんから・・・。

こうして撮らせていただいているときからある程度課題を意識して練習も含めて撮らせていただくことになります。

この方たちのレパートリーは相当な数に上るようです。しかもほんのわずかなやり取りで次から次へと趣向の違う曲が演奏されます。ずいぶん練習量が多いのでしょう。キャリアも豊富そうです。
そして何よりご本人たちが楽しそうです。



- 2018/03/08(木) 00:00:41|
- 音楽
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古川町商店街をご存じでしょうか。
「主婦の勘」を働かせて事件の真相に迫った京都地検の女が住まいしていて有名でしたが、小浜から京に入る古道の一つとして歴史のある街道筋の商店街です。

古い通りを挟んでいますから通りはとても狭いのですが、三条通りから白河疎水に並行して軒を並べています。
一時は御多分に漏れないシャッター通りでしたが最近は様々な振興策を地元内外の力で進めていて幾分活気を取り戻しつつあります。

モモンガというバンドだそうです。
「普段は4人で演奏するんですが・・・。」ということで今日はお二人。

ここはアーケードがあるので雨風を防いで買い物ができるのはありがたいのですが、道幅が狭いせいもあって少々暗いのです。
それで撮影には厳しい環境なのです。
しかもこの日は事情があって暗いレンズを付けているのです。
なんと100ミリ―300ミリのズームレンズ。f4.5-5.6.
まあ普通は人物写真には使いません。

手に入れたばかりで、ピントもうまく合わせられません。
6月21日のために購入したレンズで、仁王門から西門を狙うためのものです。
ただこれでも、この二つの門の距離ではトランぺッターの一人一人の表情を追う事は少々無理のようですね。

ただこれから何かイベントの時に出演者を撮るには便利かもしれません。
でも、80-200でf2.8通しのレンズがあってこれが実に良いレンズなのでよほど何か近づけない難しい事情があるのでなければ、やはり出番はないでしょうね。
私の中ではそう運命づけられたレンズですね。
でも、ちょっと離れた電柱の影から撮る・・・・とそんなことができますね。
- 2018/03/07(水) 00:00:15|
- 音楽
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フェイスブックのページを開くと「知り合いかも」としていろいろな方の写真が並んで出てきます。
東京や北海道から沢山「美人」が出ています。 日本名の人ですが、どうやら韓国の方の写真を勝手に流用しているんじゃないかと思われるものが沢山あります。
試しにクリックするとその人の「友達」にも同じような顔立ちの人がいて皆さんプロフィール写真数葉以外は何も発信していません。
日本人と思しき若い女性の写真も自撮りらしい角度で同じような目、同じような口の表現、同じような化粧、表情づくりです。

( 韓国の人がご自身のページとして設けているのならいいのですが。そうではなさそうな胡散臭いページの問題は置くとして)
日本の女性がご本人として投稿しているらしい日本人らしい顔立ちの写真を見ると、私はそこに「このように見られたい」が現れているのでしょうから、何かとても寒々しい感じがします。
私が若い女性たちを撮るときの気持ちの中には、こういう「顔」に対するアンチのような気分が幾分なりともあるのですね。

それはさておき、人を撮らせてもらうと、私が見てきていない世界を見てきている人の世界をのぞき込んでいるという感覚があります。
つまりはその人の人生体験を垣間見ていると言う事なんですが。

そういう意味では20歳前後の人より、もう少し経験を重ねた人を対象とすることに、それに応じた、ますますの魅力があると思います。

ましてこの人は十年を超す海外経験がありますから私が知らない様々なことを体験した上に身に着けた感覚・価値観があるはずです。
そういう事を感じ取らせてもらうのも人を撮る楽しさです。

さて、今この向こうで、何やら講演会が開かれていて、その講師の話が聞こえてきます。
職人さんでしょうか。工芸家でしょうか。
ある分野で優れた業績を上げた方が、同じようにお話が巧みとは限りません。
とにかく、他の人が体験することがないことを体験して来ておられるのですから、その事実を聞いただけで大方の人は「ほ~!へ~!」と感心をします。それで調子に乗って言葉遣いまでぞんざいになり、武勇伝を聞かせる調になる人が・・・私の経験から言っても・・・・少なくありません。
論理もなければ分析もなしに思いつくままにお話を走らせるという、そんなタイプのひとたちです・・。

日本語を話せるのだからといって人にわかりやすく興味深く話ができると思ったら大間違いです。
そこのところを分かっていないで人選をする方もよくないのです。
まあ、話を聞く人も大概はあまりに寛容?で、そういう達人や偉い先生に対して「とても聞ける話じゃなかったです。」と感想を伝える人はごくごくまれです。「大変良いお話でした。感動しました。」なんてお追従を言うものだから話者も少しも成長しません。
それでいて高い講師料を懐にするのです。
事なかれ文化というか阿諛追従文化というか。そういうことが蔓延しているから世の中少しもよくならないのだと私は思っています。
- 2018/03/06(火) 00:00:35|
- 伝統工芸
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待ち合せた時刻頃には激しく雨が降っていました。
長くは続かないとは思いつつも、場所の変更を考えていましたが・・・・。
そこで日の差した瞬間に明るい写真を撮ってみました。
春めいた感じでしょ?!
私は暗く暗く撮る癖があるんですが・・・。

上の写真からわずかに数分後という感じがしないでしょ?!
これが「写真は嘘をつく」という証明です。
そうです。写真は嘘が付けるのです。(それはとても危ないということを意味もしますが・・)
写真が芸術になりえるという証左でもあるわけです。

ある大御所の論に立っていえば・・・です。
大事な論点ではあると思いますが・・・。


- 2018/03/05(月) 00:00:17|
- 人物
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人は物事や人に出会って自分を表出するので、それで自分が何をしたいのか、どんな人間なのかを知ります。
じっと座って「内なる自己」を探してもなかなか見つかるものじゃないように思います。
藤山直美さんが言うように「人間はマトリョーシカの様」で、「その人とは」というものを幾重にも纏い、剥いでも剥いでも「その人とは」に行きつくことはできないような存在です。
私が「素敵な人」と思って声をかけさせていただいて、それはやはり皮相な印象だったのだなあと思うことは一再ではなくて、またその人を通じてこそ私の撮りたい!も、膨らむのだなあと思うのです。

この人は、私からすると、不思議な違和感をちりばめた人です。
多分とっても自然に振る舞っているのだと思うのですが、その自然さの中に、チョコレートの中に隠れたナッツのような違和感。
なんとも興味深い人です。

そしてそれを違和感として感じている自分がどんどん映し出されてくるこの不思議な感覚。
面白いですねぇ。

写真を学ぶ若者に頼まれてモデルをした経験はおありだそうです。
「裁判所にいる未亡人のような感情を出して・・」 とか言われたそうです。
撮る人の側のビジョンが私などとは異次元ですね。
多分こういうビジョンの持ち方についての考え方、育成の在り方が彼我の写真を大きく異ならせているのだろうなあと感じました。
写真の中に人生を描いたりつかみ取ろうという意識の濃淡の違いが彼我にあると思いますね。
多分日本のポートレート写真の世界には、そういう意識はほとんどないのじゃないでしょうか。
若さとか可愛らしさ・美しさをただ消費するだけのポートレート写真・・・・。
無論、若さとか、可愛らしさや美しさは素敵なものですし、敢えて否定しなくてはならないモノではないのですが・・・。

実はこの人に写真をお願いして、どういうイメージで撮ろうかという時にまず浮かんだのが・・・・・、そしてしばらくそのイメージ捉まえられて、なかなかそこから離れられなくて・・・・、「まずは近場で撮りましょう。」という「まずは」のことばでようやく解放されました。
「まずは」の次は「さて本題ですが」になるはずですから・・・・(大いなる希望的観測)。

突然ジャンプしました。
私の希望的観測がこのように霞んでいくことが無ければいいのですが・・・・、それにしても・・・・いい人でしょう?!

- 2018/03/04(日) 00:00:43|
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三月です。
今の写真の活動を初めてもうすぐ丸7年がたちます。なんてことでしょうか。初めの5年間は、この三月末までに1400人の人を撮るペースだったのにいまようやく1270人ほどです。まあこれは仕方ありません。敢えて言えば「中だるみ」です。「中」というからには、この後があるのかな…という事ですが。

今年の6月21日に「音楽の祭典 京都Paris姉妹都市60周年記念 清水寺・世界友愛100本のトランペット」というフランス発祥の世界的なムーブメントの一端が行われます。
清水寺には仁王門のやは後ろに勅使門である西門があります。
その西門はこの春に修復が完成して真新しくなっているわけですが、そこをステージにして京都の町中に向かって100人のトランぺッターが世界の友愛平和を希求して、無料(演奏料がないといばかりか、自ら参加費を負担してです。)音楽を提供するという訳です。

そのイベントの中はトランペット演奏、記念座談会、楠田名保子さんによる二胡の演奏が行われます。
その全体の写真を撮り、写真集にして演奏に参加した人たちや支援してくれた団体・個人に写真集をお渡ししようとしています。
その写真撮影を私が担当し、他の実行委員やアドバイザ―と一緒に写真集も制作しなくてはなりません。
楽しみは楽しみなんですが何しろまるで経験のない分野ですし、どうなることやらと目まいがする思いです。
それで多分5,6,7月は他に子持ちを向ける余裕がないのじゃないかと心配するわけです。
もともとは「蒼樹さんの活動を制約しない範囲で参加してください。」という事でしたが、何のなんの自体は大きく変化して・・・。
で、話は元に戻るのですが、とても1400人を撮るなんてことは難しくなってしまったという訳です。

そのかわり、通常一般では経験できない撮影ができるのですから、それはそれで良しとしましょうか。
ただこんな素敵な人たちを見つけているわけですから、やはり季節季節には撮りたいわけで・・・・、はたして力を貸していただけるのかどうか・・・・。

写真集が出るからと言って私の名が売れるとか、お金が入るとかという事は無くて、金銭的にはむしろ大赤字なんですがね。
私の通常の撮影にはこれからもほとんど出番のないだろうレンズを二本も購入してしまう始末です。

その反面、今日のこの人を含めて、実にいろいろな世界で懸命に活動している人に出会うと、少しくらいの山は登ってみろよと背中を押されている感じがしているわけで・・・・・。
そういう意味ではこういう事情はそれらが絡まり合っているのでなるようにしかならないのだろうなあと思っているのです。

動き出さなければ、こんな素敵な人が私のレンズの前に立っているということも起こりえなかったわけですし、犬が歩いて棒に当たるのならば、私が自転車をこげばもう少しよいことにも出会うでしょう。・・・・そんなことを言えば犬が怒るかな。
- 2018/03/03(土) 00:00:38|
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雪のように白い肌と言いますが、人の肌は血色が感じられるから魅力的だと・・・・私はそう思います。
そう言えば「雪肌精」などという化粧品があって新垣さんがCMに出ていますが、うまく撮影しているなあと感心します。
むろん新垣さんの魅力の寄与するところも大きいのですが。

もうすぐ春ですからね、明るくいきましょう。
幸い、通る自動車も週末に比べればずっと少ないようで・・・。

と言いつつも、この奥にスキー場があるのか、まるで通らないという訳ではなくて・・・。
私は彼女の後方を、彼女は私のずっと後ろを警戒しながらの撮影です。
それで赤い車が来ればいいのになあ、白もいいかななどと贅沢を言いながら・・・。

肌の色が白いと白飛びさせないように苦労があります。
陰に入れば入ったで背景との差が気になりますしね。
いつまでたっても上手になりません。

ここは融雪のための噴水栓が埋設されていますが、水が噴き出しているところ見せてあげたかったですね。

多分気が付いていないと思いますがこんな照り返しのある雪の世界では日焼けが気になります。
夏の様には対策していないでしょうし。私もちゃんと事前に教えてあげられていませんでした。

カメラとかレンズの準備に夢中でそういう事に気が回らないようでは修行が足りませんね。
- 2018/03/02(金) 00:00:48|
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