下絵を描き、さらにこうした仕事もされます。

この場所はいつもフォワイトバランスに四苦八苦するところです。
帯の色の様子を伝えたいと思うと他が黄色くなってしまいます。
もう少し色温度を下げればいいのでしょうかね。

真円に見える図案は、実はやや楕円になっています。
引き箔は横糸と同じように経糸をくぐって走るわけですが、その間に糸が走ります。そうするとその分縦方向に図案が伸びるわけです。
それでここでは横に平たくなるように楕円にするわけですね。それが加えられた横糸分伸びて真円となるという計算です。
むろんその他の文様も同じです。
私は着物(帯びですが)の柄としては斬新だなあと思ったのですが、むしろ古典的なモノから引用して開削している定番的な文様だそうです。
江戸時代のものなど見ますと、現代でも通用する斬新な模様、絵柄がずいぶんと多く見られます。 かなり豊かな意匠が創作されていたようです。
パクス・トクガワ~なではありますが、やはり戦争がないと文化は多様に成熟していくのでしょう。
無論封建社会としての制約はありますが、薩長藩閥政権が流布したほどには江戸時代は停滞的ではありません。
またその後の資本主義の急速な変化に比べてゆっくりだとしても、それだけ人々が消化しながら成長展開していたという意味では人の尺度に合っているという事も出来るかもしれません。

乗りの乾き具合を見ながら箔を置いていきます。

「第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
働き方改革は、生身の人間の生活を基準としているのか、人を人材視=生産要素視して、その生産効率と利潤率高める視点で「改革」していくかでは全く違うものとなります。
トリクルダウンを、口をあんぐり開けて待っても、そのためだと言って消費税10%、年金掛け金・健康保険料値上げ、逆に給付削減が進んでいることに気付かなければ、「朝三暮四」より愚かなことになります。
憲法改「正」という文言も同様ですが「働き方『改革』」「・・・・『革命』」などと、保守派が目を剥くような言葉が乱舞するくらい変化させることに血道を上げる自公+維・政権ですが、問題はどういう方向、内容かです。言葉に惑わされてはならないと思います。
- 2018/01/31(水) 00:00:02|
- 伝統工芸
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帯の金彩をされています・・・・と言っていいのかなあ。
この部分が背中側にきます。「お太鼓」になります。

前面に銀箔が張られていて、金や色物の箔も貼られ、螺鈿の貝も見えます。
これ自体を表そうして飾るのかとお尋ねすると、これは帯だという事でした。

つまりこれは「引き箔」の制作途中だという事です。
「引き箔」とは、
きもの用語大全によれば「金箔糸を緯糸に織り込んだもので、平金箔ともいいます。24金あるいは銀をごく薄くのばし、和紙に貼ってから細く裁断して作られます。地はかさばらず平坦ですが、金の光沢が豪華な印象となるため、主に改まった装いに用います。引箔だけで文様を表した帯や、他の技法を併用して引箔の地に色糸で文様を織り表したものもあります。」

今、和紙の上に箔を押し、最後に柄を囲むようにノリを置いて、さらにそこに箔を貼り付けようとしているのです。
その糊は、細いかまぼこ状の凸様に置かれますが、その糊がある程度乾いてその形を維持しつつ、粘着性を保った状態で、箔をやさしく押し当てていきます。
全体が平面的ですから、その部分のふくらみが奥行きと輝きを与えて、なお一層豪華さを増します。

そして、こうして細工された和紙を幅1ミリ程度に裁断したモノを横糸として、経糸に織り込むという訳です。
織りこむときに、その和紙がねじれたりしては目立ちますし、常に平らに織り込まれるようにしなくてはなりませんから、大変高度な技術を必要とします。
一応の完成しても、時にそうしたねじれなどが残りますから、そういうものは「かけつぎ」の職人さんが細心の注意を払ってその針ののお腹を当てながらねじれを修正します。
そういう訳で帯が仕上がるまでに大変な量力と高い技術が注ぎ込まれるわけです。
- 2018/01/30(火) 00:00:56|
- 伝統工芸
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和菓子屋さんからは激しく湯気が噴出していることがあります。
もち米をふかしたり、菓子を蒸したりしているんでしょうね。

近所の方が自転車で乗り付けて買っていかれます。
地域のお菓子屋さんという感じですね。
店の名前に惹かれて長蛇の列を作っいる場面を見ますが、私が買って食べたり人からいただいてその店のものを食べたことが何度かありますが、なるほどなア20分待っても買って食べる価値があるなあとは感心しませんでした。多分私が「味の分からない男」だからなんでしょう。

私の故郷の「又一庵」の「きんつば」なら、少々並んで、あの人に食べさせたい、この人に紹介したいと買い求めてももいいですが。

ここで一つ買い求めて味も確かめたいところなんですが、私の悪い癖でして、買わないんですね。
根が渋ちんだという事もあるし、礼を知らないという事もあるんですが、いわくいいがたい(まったく自分自身にしか通じない)「筋」を通してしまうんですね。
こういう了見の狭さと融通の利かなさで、世を渡りそこなってきたというのが私の人生です。

「好意は好意のまま受け取る。好意は好意のまま受け取ってほしい。」そんな感じですかね。
そんなの世の中に通じませんでしょうけれど。
- 2018/01/29(月) 00:00:56|
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和菓子店というものが各町にどれくらいの割合であるものなのかは知りませんから、京都に多いの少ないのとは言えませんが、あちこちに目につくことは確かです。
皆さんは普段、どれくらい和菓子を楽しんでおられますか。

千本通を走っていると・・・たまたま今日は比較的暖かい日だったこともあってか・・・・戸をあけ放って仕事をしている姿が見えました。

「豆大福」の制作中です。
最近大福は中にいろいろ入れるのが流行りですが、これは小豆の餡です。この定番が、またいいのですね。

甘い案を包んだ餅の皮には塩味を「塩梅よく」利かせた豆をこね入れていますから、その加減がいいのです。
ただ甘いんじゃないんですね。
ちょっと店頭にいる奥さんから声がかかって目を上げても、きちんといつもの量(ボリュームが)が握り分けられます。

衛生管理が大切ですから、当然中に入るのは遠慮します。
イタリアに行った時に立ち寄ったレストランで、厨房との境にぎりぎり近づいて撮らせて貰っていたら、中のコックさんが
「何してるんだ、そんなところで。」というのです。
「えっ?!」と顔を上げると・・。
「中に入って来て撮ればいいじゃないか。」という事らしいのです。 でもほんの一歩だけ入らせていただいて・・・そこからは遠慮した経験があります。.おおらかでしたね。
- 2018/01/28(日) 00:00:19|
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大きなログハウスとはいえ個人宅ですから参加30人ともなると演奏のために立つ場所にも一苦労ですが
何しろお客さんがいいですから、それと相まって素晴らしい演奏でした。

私は、こうした集まりでも、どうかすると枠の外に出たい心理が働いてしまう人間で・・・・この時「実は僕もそうなんです。」という人に出会い、やっぱりそういう人はいるんだと思いましたが・・・・・こうした階上から撮っています。
その点で「写真を撮るから」というのはとても都合が良くて、そういう点からも私が写真撮影に親和的なのかもしれません。いやきっとそうです。

クレーンでもなければなかなか得難いアングルです。
アングルを大胆に変えてみるというのはありですね。

ちょっと映画撮影の気分です。

この角度にも予想外に音が響きます。
案外特等席かもしれません。

- 2018/01/27(土) 00:00:51|
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私の今年の年賀状は炎の歌手・川口真由美さんとそよぐ風のような二胡奏者のこの人の写真でした。
6月21日の清水寺西門での100本のトランペット演奏ののちに成就院で二胡の演奏をされる方です。
当日私は写真撮影を担当しますから、同じ企画に参加する同士なんですね。

この日はこの後に階下で二胡の演奏があるのですが、それまでのちょっとした時間にもこの日の集まりに参加された方々との交流です。
とても生真面目な方ですから、ピアノ・ファゴット・オーボエ・クラリネット、そしてトランペットの演奏と、この方の二胡の演奏との間に、楽しい会食がありましたが、果たして気楽な気持ちでお酒を楽しんだりした鼓を打っていたかが心配されます。

私はと言えば、今日は先ほどの洋楽メンバーのリハの撮影をさせてもらうという事で、そういう意味では今日の課題は終わっているのです。ですから完全にタガが緩んでいるのです。この人の演奏があるということを事前に承知していないという粗忽さです。
この人がこの会場に現れた時に手に二胡のケースをお持ちでしたので、どこかでの演奏の続きで参加されたのかなあという・・・ひどい思い違いでした。

ここは二階にある空間です。頭上からの照明しかありませんし、成り行きで立たれているので、撮影条件はとても悪いのですが、とにかくカメラをもって・・・・。

お住まいも京都から遠いですし、活動の中心も東ですから、そう度々、いつでもお会いできるという訳ではないので、撮れる時にはできるだけ撮ろう精神で。
カメラを持っていると「よく見る」特権が発生しますから・・・。
- 2018/01/26(金) 00:30:40|
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話芸というものも、これはなかなかに奥が深いし難しい。
誰だって「しゃべれる」んだからといったって、だから人を惹きつけてやまない話というものが簡単にできるというものではない。
それは落語然り、演説然り、学校の授業・講義然りです。
「男はつらいよ」の寅さんのタンカ売だって、そうやすやすとマネできるものではなくて、相当の修練が必要です。

柳谷小三治さんの『時そば』を聞くと、いっぱいのしっぽくそばを食べていく過程で、やがてどんぶりの汁が残り少なくなり、汁の底に沈んだ短いものしかない蕎麦数本をすするときに、その汁の残り量や長さというか短さを、すするその音で見事に表現するのです。

この方も相当に勉強されているようでした。

古今亭志ん朝さんは、・・・というか名人と呼ばれる方はどの方もでしょうが・・・・口座の座布団に着くまでに、既に聴衆を落語空間に引き入れていて、最初の一斉の声音でもって、もういまではない、ここではない落語の知己と場所に我々を誘います。
その表情がこれから出てくるだろう人物たちの醸す空気を感じさせて、もはやどこにも、今現在というものも、現実の美濃部 強次という人も存在しないのです。
それでいて、それは見事に美濃部 強次という達人によって古今亭志ん朝が作られ、話が操られているという・・・そういうもののように思います。

写真もそういうものかなあと、ふと考えることがあります。 「ふと」ですが。
それにしても、撮らせていただいて、やはり落語は難しいものだと感じました。
それを逆に言うと「写真というものは芸人にとっては相当酷なものだなあ。」という事です。
私はよく音楽家を撮りますが、演奏の最中にその人の「真顔」というものを画面に捉えることはほとんどありません。
とらえていてもそれと分からないのかもしれませんが。
リハや純然たる練習・レッスンの時を撮ると、その時にはむろん真顔に戻る瞬間があり、その行きつ戻りつが、私にとってはリハ、練習の魅力なんですが。

落語はバカになれなきゃできないがバカにはできない。そういう難しさでしょうか。
- 2018/01/25(木) 00:00:55|
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私は寡聞にして「社会人落語日本一決定戦」なるものの存在を知りませんでした。
アマチュア落語の日本一を決める大家だそうです。
第九回になる今年の大会には167人が参加をしたのだそうです。そしてその栄えある優勝者がこの喜怒屋哀楽という方です。

小学4年生の時に桂枝雀さんの落語を聞いてからずっと落語に興味を持ち小学生の頃にすでに教壇に座って落語をされていたのだそうです。
その後大学では「落研」を結成するなどずっと落語を語る側で親しんでこられた方です。
これが優勝の副賞だそうで、チキンラーメン一年分。
360個だそうです。

私は枝雀さんや米朝さんの落語、あるいは古今亭志ん朝さんや柳谷小三治さんの話を楽しむくらいで、特にこの方面に詳しいという事もないのです。
敢えて言えば上方落語よりも江戸落語の方が、上方漫才よりも東京の漫才の方が好きだという位の事です。

この日は「時うどん」・・・・江戸落語では「時そば」ですね・・・・と大会会長である桂文枝さんの創作落語「宿題」を演じてくれました。

さすがに全国ナンバーワンになった方ですし、長年話をしてきた方ですから、「素人」とは言い条、大変な上手でした。
ただしかし、このときはわたしの意識のチャンネルが天邪鬼チャンネルに同調してしまったのか、話の場面ごとに、あるいは話しぶり身振りの度毎に、枝雀さんや志ん朝さんの話しぶり身振りがくっきりと思い浮かんでしまうという事態でした。

それは自分でも訝しく思えましたし、「素人でもてはやされる喜怒屋哀楽さんに対する嫉妬か?!」と自分を疑いもするほどでした。
そう思いながら、「それにしてもプロの名人、匠という人たちの力量、技の素晴らしさはなんと高みにあることよ。」と思わないではいられませんでした。
それは多分この方の落語が上手だったからこそそういう想念が湧いたのだと思うのです。

例えばコンサートを聞きに行っても、カラヤン、ベルリンフィルのあの演奏の時、ノイマン、チェコフィルのあのレコードの演奏が浮かんできて、敢えて比べて目の前の演奏をくさそうとするような意識でなくて、素直に、ああ、あの演奏はやはりとてもすばらしいんだと再認識することがあるんじゃないでしょうか。
「素人・アマチュア」が人並み外れた研鑽をつんでも、さらにはるかに高い地点に芸を到達させている名人、匠の存在は、やはり、人間の技量の可能性を示して、私たちに一つの希望を与えてくれると思うし、素人・アマチュアの夢、憧れであってくれるのだと思います。
- 2018/01/24(水) 00:00:40|
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「うたごえ運動」というのをご存じでしょうか。
かつてはたくさんの職場に合唱団があり、日々の生活に根差した歌が歌われていたものです。労働の歌、差別や抑圧に抗する歌、世界に連帯する歌・・・・・、職場のあちこちから歌が作られその歌が全国に広まり歌の輪を広げていました。
頭でこねくり回したり、市場調査して作ったような歌ではなくて、日常そのものを凝縮して歌い出したものです。
全国うたごえ祭典などというものが、いまでも・・・・かなり規模が小さくなりましたが・・・・続いています。
そして御多分に漏れずこうした運動も高齢化しています。

うたごえ運動のほかに「労演」「労映」などという団体があり、商業的な歌や・音楽、演劇、映画に対して異なった立場からの文化が主張され作り出されていました。
メディアを握る側から発信される「文化」の洪水によって今やかき消されんばかりになっていますが、それでもその灯は続いています。
そうした運動の経験をお持ちの方々でしょうか、ご高齢でも素晴らしく通る声を響かされる方たちの歌声に、歌詞の内容の生き生きとした力に驚かされます。

そんな仲間とともに弾き続けてきたのでしょうか、それとも最近になって目覚められたのでしょうか、楽譜なしで弾いておられます。

私は先ほどまでうろうろしながら撮影していたのですが、この時は昼食休憩中でしたので、その席から撮らせていただきました。それで譜面台と重なってしまったりと・・・・・。

京都では4月に府知事選挙があります。
現役の保守派知事は立候補しないと言っています。京都の知事選挙は他府県に見られない様相を呈します。
1970年代まで続いた革新府政≒「憲法を暮らしの中に生かそう」 が絶えて久しくなっています。
そちらの側からの立候補者がいまだに発表されていませんが、民主府政を取り戻すチャンスだといえますね。
この会場は民主府政を作り出そうという人たちの京都市北区の集会です。

なかなか意気盛んです。
- 2018/01/23(火) 00:00:17|
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顔に影を作るなんて・・・・と指導を受けそうですね。
でも、私には写真の先生がいませんのでその点は実にお気楽です。

ですから逆に先生の指導、ヒントの一言でブレークスルーしたなんてこともないのです。
「 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」と言いますから、先生や先輩、同好の仲間によって、間違えなくてよいことや、いらぬ停滞を省くことができることでしょう。

まあ私はその点偏屈ですから、独立派、勝手派で行くんですね。
模索の楽しみ、前進の喜びという『過程の宝』を取り上げられたくないですからね。

効率的授業や塾での教え込みなどで、すっかり学び探求する苦しみや楽しみを奪われている現代の子供のようにはなりたくないですから。
別に今から木村伊兵衛賞や土門拳賞を撮りたいわけではないし、マグナムに入る野望を持っているわけでもないし。

ただこうして力を貸してくれる人たちに応えるためにはいくらかでもうまくならねばなりませんね。


- 2018/01/22(月) 00:00:38|
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今年に入ってあまり撮影の機会がありませんから、もうすぐアップできる写真もなくなりますが、「今年の個展は一頃ですか?」などと聞いてくださる方がいて、はてさてどうしたモノかと思うのですね。
個展をするにはするだけの何か思いのある写真が無ければなりませんからね。
このお二人の写真のようなものは、それはそれとしてやりたいし・・・・悩みどころですね。

昨日はある方のログハウスで小編成の音楽演奏を聞き、その後会食がありました。
わたしは前二回ともその音楽家たちのリハーサルを撮らせていただいているので、今回もあたかも当然のようにカメラを担いで出かたわけです。
反戦歌手の川口さんは私が勝手に「専属カメラマンのような振りをして会場に入ります。」なんて言ってリハに潜り込ませていただいています。
それで、なんとか演奏者たちの息遣いのある写真が撮れればいいなあと。それが課題の一つですね。

その一方で、こうした若い人たちの写真も・・・・そのチャンスが少ないですが・・・・もっともと撮りたいものです。
小澤征爾さんがご自分のお孫さんを見ていると、何をするのを見てもつい涙があふれるとおっしゃっていました。
ご自分のお孫さんだけでなくてアジアの若手演奏者を育てる取り組みの中でも、彼らを適切に厳しく指導すると同時に彼らとともにいるだけで熱いものがこみ上げると語っておいででした。「そこには人生がある。こうして人生は始まるんだな、と。(感じる)」と。

そういう写真があってもいいじゃないかと・・・・思うのですね。
そういう意味でも私の現代高齢者論を具体的な形にできればいいなあと思うのです。

せっかくこうして力を貸してくれ魅力いっぱいの人たちがいるのですから。

もうじき一年で一番寒くなる二月です。雪が降るでしょう。降ってほしいなあ。
そうしたら雪の景色の中でこの人たちと撮りたいものです。
昨年は、確か一度だけ別のある人と撮っただけだったと思います

滋賀県まで足を延ばさねばなりませんからなかなか機会を作りにくいのですが、せっかくの日本の四季ですから、それも生かしたいですしね。
- 2018/01/21(日) 00:00:12|
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先ほどまで時雨れていましたから、雨宿りをしていました。
太陽は顔を出したり隠れたり。実に忙しい。
カメラを構えているうちに光が変化します。
鏡を出して何度も「大丈夫かな。」と。
私から見れば「何もまずいところはないのになあ。」と思うのです、が「そこは女心。」のようです。
それを少しからかうと・・・・。

食事をしながらいろいろな話を聞かせてもらいました。
私は海外についての知識がまるで貧弱ですから、聞いていて新鮮です。
そして、この人のことを知ればそれだけ、ファインダーをのぞく興味ととらえ方が変わって来ます。
あるギャラリーで大学の4回生が写真展そしていました。写真歴が数か月というのに高いレベルの表現を目指していて、とても良い作品で刺激を受けました。そこで人を撮ることについてお話しする機会がありましたが、「人を撮るのは難しいですね。」
その難しさの一つがフォトマヌカンとのコミュニケーションですね。

これまで幾度も書いてきたように、私は留学生を見るとつい話したくなります。
話を聞いてみたくなります。
この人も留学生です。
たまたまバイトをしている時に見かけました。フォトジェニックだなあと思うとともについ、「ガンバレ」という気持ちが動いてしまいます。

撮り始めたころから比べれば大分表情が柔らかくなりましたね。
目からも口元からも少し緊張が取れました。
次は何時撮れるでしょうね。
- 2018/01/20(土) 00:00:23|
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実は、この人自身がいろいろ小道具を持ってきてくれていたのです。
なのにカメラを持たせて・・・・。 こう見るとボディーに対してテレコンレンズの口径が少々大きすぎますね。
せっかく目立たないで撮る、ストリートフォトカメラといわれているのに。

でも「女子」にもとても好評のデザインですね。
でも多分小道具としては、テレコンレンズを外してフードを付けた方がいいんでしょう。
でもかえって、レンズとの対比でこの人の華奢な感じが際立つのではないでしょうか。

白いマフラーがレフ板の機能を果たしてくれていますのであごの下に濃い影もできませんし、いい具合です。
この人のように肌が白いと色かぶりが目立って撮りにくい面があるので、こうして積極的に太陽の反射光を当てていく必要があるのかなと気づきました。

この長い髪を春の中頃には切ってしまうんだそうです。
その前にもう一度、今度は黒髪で撮らせていただけるようです。
どんな背景を見つければよいのでしょうか。

この向かって左手にはお店のスタッフの出入り口があり、食材などの搬入搬出がされます。
ちょうどそのドアが開いて男性スタッフが搬出のために出てこられましたが、会釈をすると特に咎めることもなく、一瞥するだけで向こうに行かれました。
こういう情景は珍しくないのかもしれません。


半年前に突然声をかけられた見知らぬおじさんにカメラを向けられているのですが、よく頑張ってくれています。
- 2018/01/19(金) 00:00:07|
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「沖縄 を 返せ 沖縄
に 返せ!」
私は学生時代、無自覚に「われらのものだ沖縄は 沖縄を返せ!」と歌っていました。「われら」とはいったい誰のことなんだということを意識的には考えていなかったのです。当然、自分を含む日本〔国民〕のことだと漠然と考えていたわけですね。そして学生の頃から、さらに卒業して沖縄と薩長軍事政権・日本とのことを学ぶうちに、「われらのものだ」なんて言っていいのかという疑問に行き当たりました。
ウーマンラッシュアワーの村本氏が「沖縄はもともと中国領」といってしまったのはいささか勇み足でしたが、何も考えず、知ろうともせずに「沖縄は日本領」だと思っている大部分の人々より沖縄について知ろうとしているし、賢明な人だと思いました。(ゴーマニズムのあの人は「無知は罪だ」と言っているようですが、村本氏は無知について開き直っているのでもなければ肯定しているのでもないことは明白です。分かっていない人にわかるように話そうよという事と、分かっていないからと言って口を閉ざし眼を開かないのはダメだから、今の「無知」からともかくもスタートしようという呼びかけだと私は受け取りました。)

江戸期には沖縄≒琉球は大君支配に属さない、つまり藩(江戸期には「藩」という呼称は正式のものではありませんが)という地方政権として認識されていませんでした。琉球「王国(この「王」」は中国皇帝に対応するものです。)」でした。島津にとっては「属『国』」だったかもしれませんが、そうだとしても「属』国』」であって島津領ではありません。中国・清王朝にも冊封されていた「日中両属」の状態であったわけです。冊封下にあるという状態、それは朝鮮やベトナムがそうであったように大帝国清の国際支配体制の中に組み入れられた周辺国の在り様だったのです。

それを清国との関係を強引に断ち切らせて、・・・内憂外患深刻な清国に対しても極東の小島のことでごちゃごちゃと難問を抱えたくないと言う状況に付け込んで・・・・、さらに軍事力を背景に、まず国王の「藩」王化を進め(その時に本国ではすでに廃藩置県が進行。しかも例えば毛利氏を長州藩王とは言わない。)、そのうえで、遅れて廃藩置県を断行したという訳です。
大日本帝国憲法下の議会に議員を送る権利も認めず、臣民の義務である兵役も課さない=つまり日本臣民ではないという扱いでした。つまりは明治国家の最初の植民地だったわけです。
その後、琉球の人々≒沖縄県人は本島人からずっと差別され続けて今日があります。

ですから「沖縄を返せ (まずもって)沖縄に返せ!」という歌詞に、私は、少なくとも心情的には共感するのです。
沖縄の人が望むのならば琉球独立だって支持しても良いとさえ考えます。
もし沖縄が独立すればたちまち中国が侵攻してきて沖縄を占領してしまうという人がいます。しかし、戦後今日まで戦争好きで世界の警察官を自称するアメリカの軍事的支配のもとに沖縄は差し出されてきていて、すでに他国によって支配されてきていたし、いるのです。日本政府はその状態を招き入れることはあっても解消する意志も意欲もないことは70余年の歴史で明らかです。(前天皇裕仁氏は進んでアメリカによる占領継続を求めたのですし)ですから、そういう状況を支持してきた人がよくそんな能天気なことを言うなあと反論したいと思うのです。
そう言う人の少なくない人は「中国が沖縄を手に入れたら
日本が危なくなる、だから沖縄は手放せない」のだというくらいのことを考えているのです。

私は21世紀の世界で東アジアの平和を考えれば、沖縄は日本に属して、現日本国憲法を誠実に実現する政治状況の中で平和と友好のハブ=非核・非軍事の島となることが賢明な選択だと思います。地理的にも歴史的な経緯からしてもそれにふさわしい島だと思います。沖縄県民にとってもそれがベターな選択だと思います。しかし、それは、まずもって沖縄を沖縄の人々に返して、沖縄の人々の意思と願いを深く国政に浸透させたうえでのことですが。

憲法の平和条項を掲げたり、平和を!戦争反対!などということをもって、「そうい『呪文』を唱えていれば平和を実現できると思うのはおお間違い」という様な事を言う人がいます。が、その対抗的な政策が軍備拡張・軍拡競争に勝つ、排他的なナショナリズムの喚起という事でしかないのはせいぜい20世紀前半で思考を止めた愚かな発想だと私は思います。
そう言うのを「平和ボケだ」と私は言うのです。日本国憲法に守られた妄言だというのです。
北朝鮮の「一人当たり年間所得2700ドル」を超すように賢明な経済援助をする、人的・文化的交流を厚くするなどのことを日本政府はほとんどさぼってきています。もし中国が(今は3000ドルを超してしまったが)2700ドルに達する過程で、中国との間で日本のオープンで誠実な経済交流を作ってきていれば、中国の民主主義の成熟はいまとははるかに違っていたものになっていただろし、新日的な中国国民が多数を占めただろうと想像するのです。なのに、日本国憲法の示す方向をまるで無視してきた自民党政権はその歴史的好機をみすみす逃してきた。(賠償もODAも戦争に対する反省や侵略に対する深刻な謝罪・反省をただ表向きの当面の、致し方ない、やりたくない感たっぷりのやり方をしてきているものだからさっぱり相手の気持ちをいやすことができない。それを「ただもらっておいて感謝することもない」などと本末転倒したことを言う政府と国民では困るのです。) 中国が経済大国になるまでに打つべき手がたくさんあったのに!
憲法的政策は様々に発想されても政権がそれを無視し、逆行してきたことで憲法を机上の「呪文」化したのであって、憲法擁護論者にその責任があるわけではありません。
そして、憲法の条項や平和を、戦争反対、核兵器禁止という声は「呪文」でも何でもなく今日の威国際政治の上で現実的な力になってきていることは少し「都合の悪いこともしっかり見る目」を持てば分かることだと思います。(それはどの立場でも同じですが)

沖縄の状況は、そのまま日本の状況として意識はされていない。そういう現実があります。
川口さんが歌う意味は、そこにある。
- 2018/01/18(木) 00:00:47|
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今年のスタートにアップさせてもらったシンガーソングライターの川口さんです。
彼女は「12・24★沖縄とつながる交流パーティー(大ゆんたく)」を主宰した実行委員長なんですが、その会場で
「レジスタンスなう!」という映画で主演女優賞受賞を得た記念上映もありました。
第一回のアジア国際映画祭では南果歩さんが主演女優賞を受けています。川口さんは第2回で受賞をしたという訳です。
「国会議員の山東昭子先生、北村 誠吾先生、片山さつき先生、原田義昭先生、石井 苗子先生、伊藤真太郎先生、中山泰秀先生」が招かれるような映画祭でこの映画が注目され彼女が受賞したという事は、この映画祭の懐の深さを見せたという事でしょうか。

それはともかくとして、
リハと本番で撮影したのですが、この企画に「おもちゃ楽団』なるグループも演奏するという事で…彼女はそのボーカル・・・メンバーに紹介されました。
するとそのうちのピアニカ奏者の女性が「あ、蒼樹さん!」と。
以前、お会いしたことのある方でした。(以前に作品を見せていただいて、その時に作品やご本人を撮影させていただいた木彫作家のお連れの方でした。)
「今日はプロの写真家さんが撮影に来ると聞いていたのですが蒼樹さんの事でしたか。」と歓迎してくれました。が、ちょっと拍子抜けしていたかもしれません。

川口さんが「ほら前に撮ってもらったと言って写真見てもらったでしょ?!」と別の男性メンバーに話を振ると「ああ、あれ。ちょっと芸術的ですよねぇ。」

川口さんはとても豊かな声量があり、表情もまた豊かです。
私は歌を聞いていてジャズのボーカルとしてもシャンソン歌手を志したとしても聴衆を惹きつけただろうなあと思いました。
でもこの歌詞で、このムーブメントの中で、この気持ちを歌うからこそこれほど人を惹きつける歌手になったんだろうなあとも思いました。

沖縄伊計島の砂浜にまたまた米軍ヘリが不時着するという事件があり、米軍は日本側の原因究明や検証などまるで眼中になく、さっさと機体解体をしてしまいました。
まさかネット右翼も「これも左翼や中国・朝鮮派の『やらせ』」だなどとは言わないでしょうが、沖縄・日本はまさに「従属」状態だということがよく分かります。そしてその「従属」を内面化してしまたtのが自公政権+維新の人たちですね。
安倍晋三氏は憲法改正案提出を見越して「立憲民主党との合意に固執しない」などと、文字通り、問わず語りの強権性を露呈しています。

私たちは「政府の行為によって再び戦争の惨禍に」引き摺りこまれようとしているのですが、・・・・。

- 2018/01/17(水) 00:00:18|
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この人の決め角度の一つ。

当然ながら若い人たちと私とではセンスが違う訳で。
ただ、もしそれが本当だとすれば、写真を撮って人に見てもらって「いいね」といってもらうという事はどういうことなのか考えてしまいます。
昨年、写真家集団「マグナム」の写真展が京都でもあって、それを若い何人かの人にお知らせして見てきた感想を聞くと、必ずしも私と根本のところで違っているという感じはしないのですね。

さすがマグナム集団!!というべきなんでしょうが。

ロケハンはできるだけするように心掛けています。
普段別の目的で歩くときにも、できれば一筋道を替えてよい場所を探します。
でも記憶先がこの私の脳みそでは肝心な時にアウト・プットできないことがしばしば。

それより大切なことは?一緒に撮りながら歩いていて見つけること。
私にはクライアントはいませんし、企画書もありませんから、流れで撮っちゃえばいいんですから。
フォトマヌカンとの呼吸でその場面が魅力的にもなりますし、何かそれまで気づかない空気を感じさせることがあるんです。
この二人でもそれぞれによってロケーションに対する引力というか励起力が異なります。
だから面白いんですね。


- 2018/01/15(月) 00:40:54|
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ちょっと遊んでモデルの練習。

通る自動車や歩行者に迷惑をかけないように、そしてまだ死にたくないですからね。
と、キョロキョロ、慌てていますので ついついいろいろなことに気を配れなくて・・・。



じゃあ、さてそろそろ、烏丸通りに足を進めましょうか。
ここでフォトマヌカンを交代。

- 2018/01/14(日) 00:00:32|
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これまで数年は大晦日の深夜に自転車で除夜の鐘を聞きまわったり、正月も二日からはカメラをもって自転車を走らせたり、寒いだろうによく出ていくねと家人を呆れさせていましたが、今年はどうもそうはいきません。時雨が続き雲は厚く、一日なんとなく暗く重いこの天気では銅も気分は盛り上がりませんね。
でもこうして相手をしてくれる人がいるとなれば・・・・。

この人の国は全体的に緯度が高いので「随分寒いんでしょ?! (だから寒さに強い?)」と訊ねると、故郷は国の際南端地方で北九州とほとんど違わないので、それほど寒くはないのだと。
撮影場所を考えるときに、私自身がどうしても寒さを避けたいので、選択肢がずいぶん狭くなります。
これが「雪の世界」に行ってしまえば、事情は少し違ってくるんでしょうが。

私自身は金髪に染めている人を撮ったことは、これまでに1,2度しかありませんからできる絵に少しだけ戸惑いがありますし、背景をどう選んでいいのかの蓄積もありません。
黒髪のフレームの中に顔・・というのが一般でしたから。
この人の色白の顔が黒髪に囲われたらどういう感じなんでしょうか。

年度末の試験が終わりいったん帰郷したら髪を短くするんだそうです。
全身に占める頭部の割合が小さいですから、髪をショートにしたらますますそれが強調されるかもしれませんね。

高校生の頃は短髪にしていたんだそうで、その頃の身分証明書の写真を見せてくれました。
かわいい少女がそこにいました。

「他所の子と オクラは成長が早い」と華丸さんは言いますが、その通りですね。
中国で会った高校生たちが日本に留学してきて、大学を卒業して(途中でアメリカなどにさらに留学したりして・・・まだ卒業していない子が何人かいますが)、就職してもう一年が過ぎます。今春には新人を迎えて教育係です。
全く「一寸の光陰は「矢」どころじゃなくて、『ひかり』の如し」じゃなくて『のぞみ』の如し」です。

この人も学生生活は残すところ一年。「早いなあ」とつぶやいていました。
そして院への進学を目指して勉強です。

数年前にこの人と同じ国の、美人でさわやかに魅力的な女性に出会って撮らせてもらったことがありますが、その人はフランスに勉強に行ってしまいました。
才色兼備といいますか、インテリジェンスのある人はいいなあ。
そう言う人は自身の魅力に惹かれて近づく人を心無く邪険にしたり小ばかにしたりはしません。
- 2018/01/13(土) 00:00:10|
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カメラとレンズが代りました。

こんな風に見られたらドキッとしますね。
ファインダーを覗いてみている分には距離がありますから、客観的に見られますし、意識することが他にもたくさんありますから、さほどではないのですが。
ただこの見つめる目を撮ろうとしていることも確かで。

マニュアルでピントを合わせていますので、時にこうなっちゃいます。
でもこれくらいソフトな方が感じがいいかもしれません。
赤いコート、赤い口紅、そして白い肌・・・言い組み合わせです。

こういう色合いになるのは露出が少し暗いせいでもあるんだと思いますが、カメラの側の特性でもあるような気がします。

この人をある場所で見つけて、「撮らせてくれませんか?」とお願いしたのですが、こうして撮っていくと私の最初の印象というか、判断というか、まんざらじゃないないなあと思えてくるのです。


- 2018/01/12(金) 00:00:30|
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実はこの人は昨年の夏初めに撮らせていただいて…それはそれは猛烈な雨の日だったのですが・・・、撮りなおしましょうということになっていたのです。が、行き違いがあったりして実現が延び延びになっていたのです。
それがようやく・・・・・。

この日は寒い日でして、しかもこの人が「寒いのは苦手です。」
なので、上の写真のようにコートを脱いでもらうのに、つい気後れして言い出せないことが多くて、チャンスを逃したきらいがややあります。
寒い冬にはそのように・・・・・、というのも悪くはないと思います。

でも建物の中にいてもらって・・・・、
この人の表情には、何かある種のやや暗いニュアンスがあって・・・・晴れ晴れと可愛らしい笑顔も後に出てくるのですが・・・・それが魅力でもあります。
ですから陰影のある画面にしたくなります。
そして・・・・アジア人なんですが・・・・どこか西洋人形風な感じもあって。
それはただ金髪にしているから、というだけではないような感じがしないでもありません。
色白だからでしょうか。

私の癖で「適正露出」よりもつい暗くなります。
ちょっと暗いなあ、幾分明るくしなくてはと思っても、この程度です。

顔に反射光が当たるところまで出てきてください。
少しずつ写真の作法も伝えていきます。フォトマヌカンの方がなぜ顎を上げてといわれるのか、なぜ右を向いてと注文されるのかを理解してくれれば、私の注文に「一を聞いて十を知って」対応してくれる人が多いのです。
そうすると背面モニターを一緒に覗いた時に「これいいねぇ!」を共に感じることができます。

ただまあ実際のところ互いに意思疎通できてイメージを共有できるようになるには3,4度は撮らないと難しいですね。
そう言う意味では、私の戦略としては「撮影は楽しいなあ。」と、まずは感じていただいて、この時間を楽しんでもらう事です。

そして「構えなくてもいいのかな。」という多少とも信頼してもらえる空気を作ることです。
「信頼」などというものはそうは簡単に築けないものですから、まあそんな感じくらいになるだけでも相当な収穫です。
それに、人間をそうたやすく信頼しないほうがいいです。お互いのために。

「ああ、この人はこういう人なんだ。」という認識は、会うごとに、共同するごとに深まり広がるのですから、今眼前の認識だけを持ってして「信頼」することは剣呑だと思います。
私は「性悪説」も「性善説」もとりません。人間は道徳的に生まれてきたものではないし、また人間は矛盾したものですから。
- 2018/01/11(木) 00:00:29|
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待っていました赤い車。
おや気づかれてしまいましたね。

雰囲気をがらりと変えて。
先日大学生の写真サークルでフィルムで撮ったモノクロの作品を見ました。それらは自分で暗室作業をしています。そしてその後にまた別のギャラリーでもフィルムのモノクロ写真を見ました。
デジタル写真のモノクロとは何か別ものだと感じました。
フィルムで撮ってスキャンしたモノは結局デジタル情報に転換されるのだからデジタル写真と変わらないといわれますが、それでもやはり違うようです。

こういう写真を撮るときはフィルムで撮りたいなあと思うのですが、3台態勢は無理だなあ。
カメラはあるのになあ。

影はうまく落とせたと思うのですが、向こうを行く男たちをもう少しうまく使いたかったなあ。
でも、どうしたらよかったんだろうか。



- 2018/01/10(水) 00:00:12|
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前回の撮影でこの人の美点というか魅力のポイントの一つを見つけたので、そこを意識して撮ることにしました。
それはご本にも話していますので・・・・。

かつて陸上競技で相当なレベルのレースに臨んだこともあり、ソフトボールのピッチャーもしていたというスポーツウーマンです。
それで明るい性格ですから撮影していても楽しいです。

この場所は元来人がたくさん通るところですからこういう瞬間をとらえることが難しいのですが・・・。
実際のの人がポーズしているとき、少し向こうに年配の女性が立たれていて、何か目的があるような無いような、こちらの勝手な都合で言えば、何もそこに立たなくとももう少し前なり後ろなりに移動してくれればなあと・・・。
でも少しも動かないのです。電話でもしているのか、待ち合わせなのかと様子を見ているのですが・・・・。どうやら当分はダメのようですね。

それがちょうど興が乗ったところでしたので・・・・う~むでした。でも写真を撮るから撮っているからといって何の特権もないのですから仕方ありませんね。
ただ人類は決定的な傑作を手にし損ねた・・・・なんて・・・。

コートを脱ぐと、ガラッと変わりますね。
この日は、前に書いたように日差しはあるんですが空気が案外冷たいのです。
この場所は照明がやや黄色味を帯びていますから一見それほどでもないように見えますが。
それで私は「寒くない?大丈夫?」と何度も訊ねることになります。

写真のために頑張ってくれているわけです。
若さですねぇ。
時々見るネット上でのモデル撮りでもモデルは水の中、寒風にさらされて…でも撮る方は・・・なんてことがままあります。
私はついつい急いでしまいます。
- 2018/01/09(火) 00:00:03|
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突然、e・メールにログインできなくなってうろたえて窮余の一策でこの人を広いネットの世界から見つけ出して連絡を付けようと・・・・何しろ暮れには撮りましょうねという話になっていたので・・・・フェイスブックなるものを始めてしまいました。
フェイスブックが何者かもわからず、むしろ不信と不安を抱いていましたから、まさか始めることになるなどとは思わなかったのですが、いざ始めてみると予想以上に「魔界」だなあという感じですねぇ。

幸いメールにログインすることができるようになって九死に一生を得た思いなのですが・・・・それほどe.メールに依存していると言うことですね・・・・・、それでFBも打ち止めにしようかなと・・・・。
でもそこで好奇心が沸々と湧くのが悪い癖で、この予感もFBに近づかないようにしていた理由だったんですが。

今こうして書いているブログの方がずっと落ち着きがありますね。
ある種の便利さは断然FBでしょうが、その便利さは文字通り「諸刃の剣」で、とんでもない世界だと感じています。
公安警察にとっては垂涎でしょうねぇ。
すでにアメリカではグーグルもスカイプもフェースブックも・・・ほとんど何もかもが当局に筒抜けだそうで、それが対岸の事でないことは誰でも予想できることです。
と、そういうことはまた別にしてその恐ろしいFBを始めてさえも撮りたくなる人ですね。
これが「今回の一枚」候補です。

ただ撮れば「かわいい人だなあ」「きれいな人だなあ」になってしまいますから、そこから一歩を進めて愉しみたいわけで、そこを一緒に楽しんでくれる点でもいいモデルです。
私がこれまで「フォトマヌカン」をお願いしてきた人は、そのほとんどがこういうことを分かってくれる人たちでしたので有難いことでした。



そして再び光の世界へ・・・・。

- 2018/01/08(月) 00:00:34|
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クリスマスににぎわう街に出て写真を撮りましょうということで・・・・。
でもそんな風景はほとんどなくて、京都の町はあまり変わり映えがしません。

これまで浴衣で撮ったり、場所もお寺などが多かったですから、ちょっと違った雰囲気でと思うのですが、どうなりますか。

この日は日差しはあるモノの空気は案外冷たくて、着ぶくれしないオシャレ感を出してもらうために「寒い」を我慢してもらっています。
でもこの人たちの経験上にはそういう事も多いので、我慢強いですね。

東京や横浜なら数え切れないほどいいロケーションを見つけることができるでしょうが、京都の町は存外狭いですから、こうした写真を撮る人が選ぶ場所は限られてきます。
でも、モデルが異なれば絵が変わりますから、そこが面白いところで、また魅力的なところです。

これはまあ偶然には違いないのですが、その偶然をどう拾うかというところが写真の醍醐味でもあって、・・・・・、そのためにレンジファインダーの方がいいんだという人もいるくらいで・・・・、ただ私のようにレンジファインダー機を使ってもカメラのボディーに覆われていない方の目をつむってしまっては仕方がないですが。

今日は久しぶりにα900に28-70のズームレンズです。
以前はずっとこの組み合わせでしたが、とにかくレンズが重いし、他も試してみたくてご無沙汰でした。
けれどこのレンズはf2.8通しですし、新ためて良いレンズだと感じました。
マニュアルでピント合わせをしようとするとピントリングが何だか落ち着かない音をさせていますが、単焦点レンズに負けないなと思います。

えっ?! それにしては・・ですか。腕は相変わらずというところでしょうか。
- 2018/01/07(日) 00:00:30|
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一体どれだけはいるのかわかりませんが、もうベテランですから見た目でほとんどどれほどの重量なのかはわかるんだと思います。誤差があってもそれは仕入れ値に対して大した問題ではないという事をご存じなんだと思います。商売ですから。
でも、それをこうして、いいよいくらでも持って行きなという空気で売れるという気風があると買う方も気分が言い訳です。
売主も食べながらです。
現に食べていて「それはうまいよ! 甘いよ!」というのですから説得力があり「うまいかどうかは食べてみたらいいよ。」と「みかんを差し出すのですから、正直そのものです。

そう言う正直さが安倍自公政権にも大企業にもないですねぇ。
こういう庶民の正直さを身近に見ている人たちは高級官僚が国会で「適切に・・」「規則に基づいて・・・」「記憶も証拠書類もありませんが・・・・適法的に・・・。」なんて言っているその顔つきを見れば「こいつは嘘を言っている。誤魔化している。」ということを直感的に見抜くわけだと思います。
それで納得できないという世論が6割7割になるのです。
ただ問題はそういう風に信用ならん、誤魔化していると思っても、その同じ政権に票を投ずるという、あるいはそれで行動に結び付けないという「道理を軽視して身の保身から行動する」「傍観者」的傾向がこの国の人には強いのです。



- 2018/01/06(土) 00:00:37|
- 働く人々
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オットッと 撮ってる前を無遠慮にかすめて通るのは遠慮してもらいたいなあ。
写真を撮る人の10人に8,9人は声もかけずに写真を撮ります。
既に私が撮っているので「撮影はOKなんだな。」と思われる人もいるのでしょうが。
ほとんどの方は壁の絵には興味があってもも描いている人を撮ろうとは思っていないので、あまり意識しないのかもしれません。

防寒用のフードを二重にすっぽりと深くかぶっていますから、話しかけてもよく聞こえないようです。それで声をかけると半分フードをとって耳を傾けてくれますので、却って制作を邪魔して申し訳ないなあと思いながら・・・・。
看板も描きはするのですが・・・・・看板のように平坦なものはプリントを貼るようなケースが多くて・・・・凹凸のある壁面などが多いなあとおっしゃっていました。
ちょうどこの壁面のように。
いい具合に古色を使っていますね。 ですから初めからちょっと古びた感じで塗ったんだそうです。
好きだなあ、こういう感じ。

ちょっと、パリ?! って、行ったことないですけど。

今年も「インスタ映え」は流行るんでしょうか。
そういう言葉が特に意識して使われないくらい流行ると私は踏んでいます。

今写真教室がとても盛んになっています。
20代ばかりでなくて30代にもその要求があるそうです。
知ったかぶらないで楽しく写真を撮りたい。いい絵を撮りたい。カメラの蘊蓄はいいから、実用的な技を教えてほしい。そんな感じでしょうか。

カメラのスペックばかり気にするカメラマンより、「フォトグラフ」『絵』を意識する人が増えてほしい。


最近ギャラリー古都で、フジのXプロ1に広角のクラシックレンズを付けて、モノクロのとても良い表現をする玉利という写真家にお会いした。いい写真だった。
- 2018/01/06(土) 00:00:35|
- 絵画
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私も家族意の中に大のミカン好きがいますので、しかも背中のリュックに入れればちょうど500円分くらいですからいいなあと思ったのです。が、これからカメラとともに街を行くのに、やはりそれはちょっと重い荷物だなあと諦めました。

皆さん財布の口が軽くなるようです。
というのもとにかく存分に試食して・・・・・・。

袋には「一つ、二つ・・・・」なんてまどろっこしいことじゃなくて「籠を傾けると袋の中に、どっとばかり、ゴロゴロと入れるんですから、つい勢いづいて・・・えっいいのかなあ、というような状態ですから・・・・お買い得感満載なんですね。
それに何といっても「あっ、お金払うのを忘れて帰ってしまうとこやったわあ。」と言う方や、実際相当向こうまで行ってから大笑いしながら「いややわあ。私も払わんと帰るとこやったわぁ。」と小走りに戻ってくるという調子なんです。
「誰にどれだけミカンを入れたか、誰からお金を受け取ったかさっぱりわからん。」とおじさんは言います。

「中(ちゅう)はないの。」「これ甘いねぇ。」「1000円やったらどれくらいあるの。」「これでナンボ。」と矢継ぎ早にあちっからこっちから声がかかり、しかもそっちの袋あっちの袋にどさどさどさっとミカンを流し込むんですから、「おじさん1000円ね。」と目の前にお金がつきだされないと気が付かないほどなんです。

「これいいかなあ、どうやろ」なんて選んでる場合じゃないのです。「ややこしいこと言わんと、もう全部持って行き!」という勢いです。安いんですから三つや四つ多少の痛みがあっても小さいこと気にしなさんなという感じですから、勢いと調子がいいんです。そのおじさんの口ぶりに乗ってどんどん売れていきます。
いい感じだなあ、いい商売だなあと思います。


ほら、これだけバックに流し込むんですよ。

私にこういう性格が少しでもあれば・・・・・そう思いますねぇ。
- 2018/01/05(金) 00:00:48|
- 働く人々
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暮れのことです。
北野天満宮を東に出ると、そこは京都で一番古い歴史をもつと言われる花街・上七軒です。
その天神さんと上七軒の間の路上で・・・・。

トラックにミカンを載せて路上販売です。
おやと思い立ち止まってしばらく様子を見ると、まるで漫談か漫才を見聞きしているよう。

「美味しいのはどれ?」と来る人ごとに口をそろえて訊ねるのですが「みんなそういうねぇ。どれがうまいかって、人によって違うんだからわしがうまいと言っても、うまくなかったと言われちゃうかもしれないし・・・。」
ということで試食して「これが美味しい。」と「そう思ったら買ってくれればいいよ。」と。

でお客さんたちは次から次へと試食。「ほらこれ美味しいわよ。」とお友達に勧めて、「あらほんとね。こっちは?」とまたまた試食。
剥かれた皮が次々に空のケースに放り込まれていきます。

見ると秤もないし値段表示もない。

お客さんは近所のおばさんたちで大概は何らかの袋を持ってきています。
それでその袋に好きなだけ詰めて「これでいくら?」と。
「それだと1000円。」 「じゃあこれもらうわ。」といいながら一つ二つ加えて決める。
1000円紙幣を出すとおじさんは無造作にポケットに押し込んで別のお客さんの声に振り向く。
「これ甘いの?」 「だからさ、自分で食べてみて。」 とまた同じ会話。

ある男性が立ち寄られて、「美味しいし安いね。買うよ。袋無いの?」というと「今時どこのスーパーでも自分で袋を持っていく時代だよ。」という。
周囲の女性たちは「それが常識よね。」という雰囲気。お互いに袋からさらに袋を出して融通もしあっていました。
おやおや一本取られましたね。
- 2018/01/04(木) 00:00:22|
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私のブログはずっと「素敵な人たちと」とタイトルされていますから、このタイトル欄の語句をたどって偶然訪問されるという方はほとんどありません。そういう意味では初めからあまり広がらないブログだと言って良いかもしれません。
まあ、それはそれでいいんです。

今年個展をするかどうか、七割がたはやるという方向で考えているんですが、果たして財布が許すかどうか。
ただ写真は撮っているだけでは価値は半分、いやそれ以下かな。ブログでは足りないものがありますしね。

川口さんは毎土曜・日曜にステージに立ち、毎月沖縄で歌っているんですから、それを見習えば思うところがあって写真を撮っているのならばやはり写真展をしないとね。
ギャラリーでやるばかりが写真展ではないとも思うのですが・・・・、なかなかね。

ストリートで歌う人もいれば(川口さんは米軍基地建設地のゲート前で歌っているんですし)、音楽にはフラッシュモブみたいなこともあるんですから、写真だって・・・・。
そういうことを考えながらもつい最後はむにゃむにゃと・・・・尻すぼみで。
「正月だってのにはっきりしねえなア 一年の計は元旦にあったんじゃないのかい?! えっ もう三日目だから「坊主」だって?! 何を訳の分からないことをいってるんだね。これじゃあ今年も大したこたぁねぇなア。」

それでまあ、「素敵な人たち・・・それはまあ川口さんだったり楠田さんだったり・・・の周りを衛星のごとくついて回っていれば何かしら気持ちが高揚することもあるだろう。」なんて甘いことを言っているわけですね。
「正月も三日過ぎればいつもの日」

そこで世には「鐘をたたくもの」「ラッパを吹くもの」「旗を振るもの」がいるわけで・・・・。
杖の頭にしゃれこうべを載せて市中を歩く坊さんがいたりするのもそう言う事情だという事でしょう。

まだしばらくはあちらに行く予定はないので・・・・予定は未定にして決定にあらずということを肝におきながら・・・・・今年もまた「素敵的な人たち」を求めて写真を撮ろうと思うのです。
このブログの継続も「惰性」なら「惰性」で「惰性にも五分の魂」を込めて何とか継続をしますので、本年もまた、なにとぞお見捨て無きよう、隅から隅まで、ずず、ずぃ~とよろしくお頼みもうしあげ・・奉ります。
- 2018/01/03(水) 00:00:26|
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