ここは段差がありますので、その段差を使って普段見ているのとは違う世界を撮りましょう。

上から撮れば目がパチリ、可愛らしく。

下からとれば何だか偉そうに堂々としてかっこよく。
全身を撮れば足も長くかっこよく。

それで腰をかがめてカメラを構えています。
いつもの視線とは違う視線を探しましょう。

今自分でとたった写真がすぐに見られますから、自分でも友達同士でも批評ができます。
それで「え~! とってもきれい!」と感動です。
これでこの人も写真の虜に・・・。

こんな風に撮り始めればいつもとちょっと違う写真になること請け合いです。
- 2017/10/31(火) 00:00:26|
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手作り市でお会いして、写真を撮らせていただいたのですが、
「私、最近カメラを買ったんです。でもカメラの事も撮り方もよく分からなくて・・・・。」
「じゃあ、よければ教えてあげますよ。」
なんて身の程も弁えずに「写真講師」を買って出て・・・・。
写真講習会にはまだカメラをお持ちでないAさんと最近OM-Dを手に入れたIさんのお二人が参加です。
「街に出てこういう素敵な建物を見つけたら撮るんです。」と、理屈よりまず撮ってみましょう・・・・からです。

最近のデジタルカメラの多くはスイッチをオンしないと始まらないものが多いですし、レンズにもピントリングがありませんから説明がしにくいのです。
そこで私のフジX100Fも持っていきました。
こちらはAさんにお貸しします。

私の後ピンレンズです。
X100Fの方がきれいに撮れます。 困ったもんだ。

とは言ってもやはり大口径レンズの力ですね。
お二人に交替で「モデル」をしていただきながらいろいろお話します。
ちょっとその辺に腰を下ろして、カメラの基本構造・原理からのお話。

ネットで写真入門みたいなものをよく見ますが、話が混乱していて、これじゃあ入門者は整理して理解することは難しいなあと思うことがよくありますから、その辺はよく考えて説明します。
(先日も・・・・多分プロの方の・・・・「プロカメラマンがなぜ絞り優先で撮るか」という動画を見ましたが、ひどい内容でした。
絞りの方が目盛りが少ないので目盛りが多い〔選択肢が多い〕シャッターの方をカメラに任せるんだそうです。その時のF値の例がf2.8からf22だったのには首をかしげざるを得ませんでした。ご自身がf2.8通しのズームレンズか何かを使っているからでしょうか。絞り優先にするのが「目盛り≒選択肢が少ないから」という認識だけの事はありますね。被写界深度≒ボケ量が絵作りに大きな影響を与えるという意識があれば1.4や1..2を忘れるはずはないと思うんですけどね。
それにこういう説明だとシャッター優先オートをなぜ使うかという説明はどうするんでしょうか。)
お二人は熱心に耳を傾け、呑み込みの早い「生徒」さんです。
いまAさんがIさんにポーズを付けています。

座学はあれもこれも詰め込まないで、端的に説明したらすぐに楽しく撮影です。
学習の要は楽しくです。
そしてその楽しさの要はできるようになることを実感し、自分の成長を感じることです。

OM-DもX100fもいいデザインでおしゃれな感じですから、そういう意味で町撮りに適していますね。
一眼レフ機の鈍重なデザインに比べて、楽しい感じですね。
- 2017/10/30(月) 00:00:49|
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七宝の職人なのですが、なかなか七宝の制作で思う存分のことができないようで・・・・・。
和服文化の衰退に伴っての不振もあれば、七宝の食器などのしっかりとした色彩や硬さよりも透明感やさわやかな彩が好まれる傾向も影響しているのかもしれません。
七宝の良さは確実にあるのですが。
この時は銀の簪の制作中でした・・・・・。

お会いして間もないころには町中でも撮らせていただいたのですが、最近はなかなかそういう機会がいただけなくて・・・・大いに残念です。
この写真で手前の目の睫毛にピントが合っているのは50ミリ単焦点で撮っているからです。
このレンズはプラスチックの鏡筒で決して高価なものではないのですが、気に入っています。非常に素直に撮れます。
これも年式で違うのですね。
50ミリでこうして撮るためには相当身を乗り出して迫らなくてはなりません。

85ミリより広い画角は使い勝手がいいです。
50ミリを「標準レンズ」という風に言うことがありますが、・・・・・その標準の「基準」が分かりませんが・・…確かに使いやすいレンズだと思います。

今年おいくつになったのでしょうか。
初めて会った時には〇〇歳だったのだから・・・えーと?
リタイア後の私に気合を入れてくれた人の一人ですから徒や疎かにはできません。

というか職人としての行く末に思わず気をもんでしまいます。
私よりずっとしっかりした人なんですが、誰にしてもなかなか思うような仕事はできないものですから。

たまたま今日がこの会場での公開実演の最終日。
それを知らずに訪問したのですが、お蔭で85ミリが「これだけずれたら使えない。」とはっきりさせることができました。
それでも使いたくなる魅力のあるレンズなんですよねぇ、悩ましいことに。
- 2017/10/29(日) 00:00:24|
- 工芸
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初めて写真を撮らせていただいてからもう5年目に入るお付き合いでしょうか。
と言っても年に一度か二度ご尊顔を拝する程度ではあるけれど、そのたびに無遠慮にカメラのレンズを向けさせていただいてきました。
「今日も試し撮りしたいレンズがあるので来た。」というのが口実です。

この人の方は、何しろじっとしていなければならないわけですから、私がぐるりを経巡りながら、ぶつぶつと独り言ちして撮りまわるのを逃れられないのです。が、それをいやな顔一つしないで受け入れてくれる極めて・・・私にとっては・・・・貴重な人です。
まあ長いお付き合いがあればこそだろうと思うのですが、ひとえに私の図々しさによるところもまた大ではあります。

この人をきれいに魅力的に撮れないようなレンズでは話になりませんから、やはり単焦点で撮りたくなるんです。

私がのぞき込み、回りこんで良い光と表情のアングルを探し出すのを「へ~、そこからなんだ。」と目の端にとどめているのかどうか。静かに受け止めて視線も動かさずに制作を続けます。
私は床に座り込み体を傾けて・・・・・事情を知らないで会場にお見えになったとお客さんは、何事やらん、実に胡乱な輩がいる、係員に連絡しなくては、などと走りかねません。・・・・・撮るのです。

やはり後ピンになる傾向が強いですこのレンズ。 というか後ピンです。
困った。
この人の睫毛をとらえられないようなレンズでは実際役に立ちません。

MFで頑張っては見ますが・・・・。

「作品展や即売会の時などのプロフィール用写真が欲しいので・・・・。」と言ってくれていますので、これ幸いに撮ります。
その写真に「by 蒼樹」を入れていただけるのですが、こんな後ピンじゃ「お恥ずかしい。」
ご自身の魅力で何とかカバーしていただきましょう。
- 2017/10/28(土) 00:00:29|
- 工芸
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画家? いや画家であることは確かなんですがそれと同時にマルチタレントの寺田みのる氏である。
毎日新聞に絵と文章の連載をしている御仁である。
全国を駆け回って絵を教えたり話をしたりしている。

まあよく動き回るものだと感心するが、自分の健康にも他人の思いにも周到な心配をする配慮の人だ。
先日もある同世代の人と高齢者論をやったことがあるが、この寺田氏なども高齢者の在り方を考えるうえで貴重な存在だと思う。
多分棺桶に片足を入れてさえも明日は何して楽しもうか、何して人を楽しませようかと考えるような人だ。

写真家の荒木氏が「天が俺にあまりに多くの才能をくれたからいまだに使いきれない。もっともっとやりたいことをしないともったいなく死しねない。」という趣旨のことを語っていたが、この寺田氏もそういう自覚があるように感じる。
私はそういう自惚れはとても大切だと思っている。
私が「いつかは写真家になりたい。」と言っているのもその可愛い例の一つのつもりでいる。

以前も撮らせてもらっているのだが、この人も少し追いかけて個展の時の「男たち」に加わってもらおうと思っている。
昨日も書いたが、男たちを撮るのに著名人である必要はなく、この寺田氏も私にとっては「著名人」であるわけではない。
目の前に現れた「いい男」の一人だというだけの事である。

私の個展にワインを差し入れてくれたからそう言っているとわけではない。
私をさして「この男はちょっと気取ってかっこつけてるだろ?!」とご婦人たちの前で軽口を言うからでもない。

漫才のシナリオを書きたい、落語を語りたい、一人芝居もしたい・・・・・という。
まあおそらくどこかで講演をしていても漫談の様な語り口に違いない。
ご婦人たちへのサービス精神は、私のような朴念仁はことに、よくよく見て学ぶべしと思う。

そして学ぶべきは人をよく褒める。
自慢はするが、人を褒めるから、嫌みがない。 自慢は横柄ではなくて自負に代わる。
だから時々こういう顔になる。
- 2017/10/27(金) 00:00:32|
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街を歩いていてふと目にした自分が写るショウウインドウの「像」に
我ながら愕然とすることが度々ある。 なんだこのしょぼくれて光のない高齢者の姿は!と。
それに引き換えこの人の姿は・・・・実に存在感がある。

男を撮るのに著名人を選ぶ必要はない。
男はそここにいるものだ。

ただ男達はあまりカメラの前に立ちたがらない。

時に不機嫌そうな空気さえ漂よわせながら、何を好き好んで俺なんかを撮りたがるんだと・・・そうは口にはしないまでも。

私は、魅力的な女性たちを撮るのも大好きだが、男たちを撮るのもそれに劣らず?好きだ。
ただ私の人付き合いの間口があまりにも狭いから、なかなかその機会が作れない。

そのうち「男たち」で個展をしてみたいと思っている。
人物を撮る以上避けて通れない、魅力的なテーマだ。

「ポートレート」を若い女の子を助平心で撮る写真などという世間の意識に物申す写真を撮りたいと思う。
・・・それは若い女性を撮ることを含めての話なので誤解なきように・・・・・・・
- 2017/10/26(木) 00:00:34|
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絵に添えられている言葉もなかなか説得力があります。
人生の岐路に立ってどうしようと悩むときは「かっこいいと思える方」を選んだらいい、のだそうです。
そういう選択ができることが「かっこいい」と私は思います。 私の場合はグズグズですが。

手作り市では様々な制作物に出会うことができますが、それと同時にいろいろな人生にも出会うことができます。
ここに出展されているという事の背景は決して一様ではありません。
ほとんど小説というもの読まない私にとってそのほとんどが想像を超えています。
ですから、そういう様々な人生と一瞬クロスすることはとてもワクワクするのです。

ましてや写真を撮らせていただくことは・・・・。

この人の描かれたワンちゃんたちもそういっています。

この犬たち、ただ者ではないでしょ?! 多分作者がただ者ではないからですね。

私はそういうただ者ではない人が好きです。
- 2017/10/25(水) 00:00:51|
- 手作り市
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手作り市にはいろいろな絵描きさんも登場します。
原画を販売していたりポストカードにしていたり、あるいはこの方のようにTシャツにしていたり・・・。

写真でもそうですが、猫が描かれるものが多いですね。 最近のトレンドは 猫 > 犬 ですね。
でもこの方は猫も犬もです。

右手に色の出るペンを、左には水の出るペンをもって、水を補給しながら描きます。
こうするとカラーペンの方に水を注ぎ足す必要が無くて、暈したり伸びを出したりするときに描く手を止めなくてよいのだそうです。
「中断するとそれまで描いていた感覚が途切れて、考えちゃうんです。その考えちゃうというところでどうしようが出てきて分からなくなっちゃう。」それで止めたくないので採用している方法なんだそうです。

それは分かる気がしますね。
85ミリで撮りたい、ここでは50ミリ・・・・などという時にいちいちレンズ交換していると、やはり気がそがれます。ある気分を保ちながら勢いも弱めずに一気呵成に・・・でも画角を替えて撮りたい。
そういう時にどうするか・・・・。
おっ!描けましたね。

こんな感じです。
わっ!被写界深度浅すぎた。
まずは、絵の出来上がりに関心を示すべき場面でしょ?! ダメだね、だから写真撮る人は嫌い!
なんてことにならないように・・・・。

ご自身は「私は厳しく怖い顔をしている。」と思われているそうですが、どうしてどうしてそういうことないですね。
多分自律的で自分の思いをきちんとお持ちなのでそんな風に思い込まれているのではないでしょうか。
私は人にきついことがある・・・なんてふうに。

女も男も甘い顔をしているだけじゃ生きられませんからね。
少々厳しい表情をされるのも、当然です。
- 2017/10/24(火) 00:00:44|
- 手作り市
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この手作り市会場は下賀茂の神社の馬場です。
・・・・因みに下賀茂神社周辺について、私はあまり好きではありません。余りに右翼的な政治色が強いからです。国家神道復活を露骨に狙っている気配が濃厚に感じられます。まあ手作り市に直接の関係はないですがね。・・・・・
手作り市としての環境はいいです。
それにこの市には音楽と食べ物がありますからね。

どうもこのレンズは開放から2,3段は絞らないと眠くなるのかも知れません。
いろいろ試してみないといけませんね。
でもファインダーを覗いている分には実に楽しいレンズですし画角的にも「いい!」です。
135ミリでポートレートというのは私にはそぐわないのですが、35ミリ、50ミリ、85ミリくらいは使い分けて楽しそうですし。

フォトマヌカンとの距離が、やはり、一番ぴったりするかな。
50ミリでぐんと接近するとそれはそれでとてもいい空気が出るので好きなんですが・・・・そして、それが醍醐味の一つではあるんですが・・・・、初対面ではその接近が難しいです。

離れて撮れるという事は近景に何か取り入れることをしやすいという事ですからね。
被写体から離れることができればという事ですが。そこで大概こういう場所では135ミリは出番がない。
あまり離れて撮ると「不審者」に見られてしまいかねない。
逆にライブなどでは24ミリ〔28ミリ〕と135ミリがいいかも。
「いろいろレンズを持っているようですね。」と言われましたが、残念ながら広角単焦点はないのです。
来年必要な300ミリも・・・・どうしよう。

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- 2017/10/23(月) 00:00:20|
- 手作り市
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他府県の事は知りませんが、おそらく京都は「手作り市」の盛んな府県(と言うより市かな。)の一つだろうと想像します。
代表的なモノだけでも梅小路、百万遍知恩寺、岡崎公園・平安神宮前の平安楽市、糺の森の「森の手作り市」、上賀茂手作り市、北山のクラフトガーデンなどなど。他にもいろいろあります。
私はそのうちの四つ、五つほどに出かけます。
で、いろいろなモノづくりの方々とお話をして元気をいただいているという訳です。

そこにはお馴染みになった方々もいる代わりに、『初めまして』の方も見えます。
今日ご紹介する方たちは「手作り市では『初めまして』」ですが、「あれ?!ここでお会いするとは・・・。」という旧知の方です。

向かって左手の人は独特な色遣いの人物画を書かれる方です。その色遣いがモデルとなって描かれた人の人柄をうまく表現しているのです。
数年前にこの方の個展会場でお目にかかり、その後フォトマヌカンをしていただいてとてもいい感じの写真を撮らせていただいたことがあります。それは個展でも展示させていただきました。
しばらくお会いしていませんでしたので「えっ?!」とお互いに顔を見合わせてしまいました。

右手の若い女性が妹さんだと紹介していただきました。
「初めまして、よろしく。」
お客さんにまっすぐに向けた眼差しがこの人の心根の良さを物語っていると私は感じました。
Tシャツも制作販売されていますが、・・・・お気づきですか?

「姉」「妹」という文字をデザインして「今日に向けて作ったんです。」とのことです。
仲がいいんですね。
それに決断と実行。 私に欠けている要素です。

- 2017/10/22(日) 00:00:14|
- 手作り市
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この日の前日も下鴨の森で手作り市があり、笑顔の素敵な人だなあと見ていました。
その時にはお話もしませんでしたけれど・・・・妹さんとお二人で出展されていました。
そしてその時には私は旧知の別の姉妹と話していたのです。

今日は妹さんはおられません。
「妹が出るのはレアなんです。」とのこと。

ずいぶんセンスの違うアクセサリーが並んでいますので、半分は妹さんの手になるとしても?????と。
「家族みんなが作るんですよ。母も妹も・・・・。」という事でその謎が解けました。

実はこの少し前にソニーα900に付けられる85ミリの単焦点レンズを購入しましたので撮りたくて仕方がなかったのです。
しかも、こういう感じに。
この方がお客さんに向けて笑うとそれはそれは素敵な表情になるのです。
で、その瞬間を撮りたいのですが、さすがに「撮らせてもらえますか。」とレンズを向けられた直後ではなかなか思うような表情にはなりません。
それでも・・・・。

50ミリだとお店のすぐ前に立って撮ることになりますが、85ミリでは通路の反対側のお店の前に立つことになり、ちょっと近所迷惑です。
でもいいんですよねこの画角。
それに明るい。 f1.4ですから。

ですが、後ピンになるんです。このボディーとの組み合わせの問題でしょうか。
先日ある職人さんを撮らせていただいた時にピントがほぼ全滅でした。その時は別のズームレンズでしたが、自信を無くしました。
ただこうしてみるとカメラのピント調整機構に狂いが出てきているのかもしれません。

このレンズのピントリングのトルクも悪くありません。
ですから使いやすいレンズだとは思うのです。
もう少しいろいろ撮ってみないといけません。
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- 2017/10/21(土) 12:00:27|
- 手作り市
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この方とお話をしているとき・・・・「この人に撮ってもらうといいよ。」と横から声をかけてくれる方がいました。
写真家で手作り市でポストカードを販売されている方です。
その方の写真はもう本当に写真好きという感じで、多分四六時中カメラを持って放さないという方なんだろうなあという作品が多いのです。
しかも色の感性がとてもスマートでオシャレでいいのです。
豆腐の作品などいつ見ても唸ってしまいます。むろん猫くんたちの表情や仕草も、よくぞこのシャターチャンスでというものがいっぱいあるのです。

そのおかげで撮らせていただけることになりました。
この手作り市の会場に入るとすぐのところにその写真家のお店があり、今日は久しぶりに写真談義をしたところだったのです。
私はその方と比べてキャリアも腕もとても及びませんが、写真の話を楽しくさせていただける数少ない方なのです。
この日は「ピント合わせの裏技」を教えていただきました。

なるほどそういう手があったのかと「目から鱗」でした。
今度一度試してみます。
きっと困った時には助けになる方法だと思いますので。
何しろこのレンズは❓後ピン傾向にあるらしいし、私の視力は絶望的。
ソニーのこのカメラはのAFはもうすっかり二時代以上前の性能ですし。

この写真の人もなんですが、前日お店にいた妹さんも雰囲気のとても良い方でした。
でも手作り市での再j会は難しそうです。
親子や姉妹で出店されている方が少なくありません。ご夫婦でというのもすてきですが、何か「いいなあ」と思います。

こんな笑顔のお母さんだったら子供さんもうれしいですよね。
お店の名前はお子さんの名をとっているのだそうです。
お母さんであるこの方のお名前同様とてもユニークな名前です。

- 2017/10/21(土) 00:00:15|
- 手作り市
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経糸のところどころを縛って染料が入り込まないようにしています。
黒いのは自転車のチューブだそうです。
伝統工芸も生活の中で生きているのです。職人さんたちは身近なものから「何かうまく活用できないか」と工夫を凝らしています。
先日絞り職人の方に、今ではすっかり当たり前のように使われているある素材を初めて考案したのは実は私だ、と話していただいたことがあります。

特別特許をとるわけではなくて、欲しいという人に考案したモノを実費で分けてやっていたら、いつの間にか昔からあった技術の様に普及してしまったとおっしゃっていました。
江戸時代の農業技術などは・・・・大名の政治によっては国外持ち出し禁止などと閉鎖的独占がされるものもありましたが…様々な、例えば「農業全書」などの書物や行商の商人などのもたらす情報、あるいは伊勢参りなどでの見聞などによって技術や知識は全国に広まったのです。
オッと、話があらぬ方に・・・・。

この地味で単調な繰り返しとも思える作業をワクワクしてされているのです。
この地道な仕事、ほんのわずかな工夫がもたらすものによって生まれるものをイメージし、心が弾むのですね。
強いられて仕方なくするのであれば一年と堪えられないでしょう。
でも、・・・・・。

自分が一歩、いや半歩進めばそれだけ西陣絣をより高度なレベルで継承発展させられる。そういう自覚がおありなのだと思います。

自分個人が作家・職人としてどう評価されるか、如何に成功するかという様な尺度を越えた者の仕事する喜びだと思います。
仕事が楽しい!! と繰り返しておっしゃっていました。
こうして手仕事ができるのは「人として生まれてきたからなんだ。それがうれしい。」とも

自分が生きて仕事をしていることと、「類」としての人がこれまで生きて仕事をして来てこれからもしていくことを自覚的に重ねられる人が感じることのできるワクワクだろうと思います。
私もそうあることを念願してはいるのですが。
そういう気持ちのこもった写真を絵を、見てみたいですね。 いえ、撮りたいですね。
- 2017/10/20(金) 00:00:08|
- 伝統工芸
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「職人」という言葉からは時に意固地で偏屈で自尊心が高く・・・・・などなどのイメージが浮かびます。
ある分野に特化して長年技を極めてきた自負心や自分の腕があればだれにも何も言わせないという自信と自尊の感情がそういう形となってあらわれている方もないとは言えないかもしれません。
ですが私がお会いすることのできた来た方々の多くはそういうイメージとは程遠い方々でした。
そこには時の流れの反映もあるだろうし、同じことですが社会の中での職人の置かれた立ち位置の変化という事もあるかもしれません。
この方からは「現代の職人」というイメージが沸々と湧きます。
ポジティブで全く肯定的な意味合いにおいてそう言えます。
この方の師匠は

この道に60年以上携わってきてなお絣に対する情熱が溢れんばかりの方です。

絣について話し始めるととどまるところ知りません。
私は興味深く耳を傾けるのですが、時々口を押えて「話し過ぎてませんか。」と気にされる。
普段よほど話に夢中になって奥さまなどから「あんたもういい加減にしないと。」とか「また始まったよ。お客さんが困っているよ。」なんて落語にも出て来そうな場面を思い浮かべてしまいます。
つい先日経験したとにかく何に付けても自分の自慢話に結びつけてしまう鼻もちのならない長話の人との会話。
でもそういうものではないのです。
自分が発見した、自分が初めて、自分がやったなどという事を言いたいのではなくて、見つけた事実そのこと自体を聞いてほしい、知ってほしいという情熱がなせる業なのです。

私はそういう話、そういうことを話したがる人は嫌いじゃないです。

職人さんが陥りやすい体験・実感偏重の思考を大きく免れている方です。
こだわりの強い職人さんの性向が探求心に生きていると言えるかもしれんません。
貴重な方だと私は思いました。

話は変わりますが、この師匠の写真を撮らせていただくとき、どういう訳かさっぱりわからないのですが、まるでしっかりした写真が撮れないのです。
ファインダーを覗いてもこれでいけそうだという確信が持てる瞬間がほとんどなくて、しかも何が悪いのかさっぱりわからない。
結果は案の定、惨憺たるものでした。
写真は撮り直しが利きません。
その時、その場は二度と返ってこない。それを撮るところに写真の良さとはかなさがあるわけで、その時撮り切れないでは今まで一体何をしてきたのかということになります。
それで翌日はレンズを替えて出かけました。
- 2017/10/19(木) 00:00:41|
- 伝統工芸
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「誰かがやらないと・・・・。」
印象的な言葉でした。
葛西郁子さんとおっしゃいます。 学生の頃に西陣絣の職人さんを紹介されて仕事を見に行き出会ったのが絣を意識した初めだそうです。

京都で「絣」をされていて組合の所属されている人数が、なんと7名なのだそうです。
そのうえご高齢だったり病気がちだったりで実働は4名ほどなんだそうで、その方たちは70歳以上なんだとか。
そうであれば数年後には西陣絣は途絶えてしまいます。

そんな状況の中で「誰かがやらないと・・・・。」という思いを強く持たれてこの世界に入ったのだそうです。
ただ、それは義務感だけの話ではなくて、「とにかく面白いんです。この仕事。」と本当にワクワクを体いっぱいに表現されるのです。

そしてそれは「師匠との出会い」が決定的だったのだそうで、師匠のお話をされるときは目をキラキラさせてまるで恋人についてはナウ少女のようです。
実はその師匠に当たる絣の職人さんに、昨日ここでお会いしたのです。
その方から実に様々な・・・・例えば絣という技術の発生とそれがいつごろどのように日本列島に伝播したのかなど・・・・・お話を伺うと同時に「実は一人弟子を育てたんだ。」ということを、この絣業界の継承が危機に陥っているというお話の際に聞かせていただいたのです。

それで、まあ、そのお弟子さんについてのお話が、とにかくべた褒めで、「明日はその弟子がここで実演をするから是非おいで。」ということになったのでした。
それで今日、ここで師匠の「べた褒め」が少しも誇張でないことを知ったという訳です。

絣に対する情熱と思い入れ、愛情が半端ではないのです。
これは素晴らしい!!

「師匠からあなたのことは聞いています。」とこの不審人物を警戒なく受け入れてくれたのをよいことにさっさとカメラを取り出す私でした。

皆さん是非とも「西陣絣 葛西郁子」でネット検索をしてみてください。
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- 2017/10/18(水) 00:00:24|
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雪をかぶる椿です。
「線描き」なしですね。

ここでいう線描きとは絵柄のふちを糊を置いて「ふせる(染料が沁みださないように止める≒防染)」ことをしないという意味です。
糊を置けばその枠の中を「塗る」ということになります。

絹布にそのまま日本画を描いているような感じです。
背景などは水を刷毛でふくませて、そこに筆で描いていきます。それをお好みを焼くときに鉄板に油を引くのに使うタンポン様の刷毛で染料をなじませてぼかしを入れます。
照明の色かぶりがひどいのですが、無理やりカラーです。

雪は胡粉を混ぜた白で描きます。
生地の色を抜いて「白」にすると平板な白になってしまいますが、胡粉を溶いたものだと厚みが出て陰影とボリューム感のある白になります。
それで雪のつもった感じがリアルに描かれます。

織り柄のある生地は描きにくいと思うのですが、ぐんぐん描いていきます。
椿の葉の重なりや陰影がどんどん出て来ます。

昔は親方や父親の仕事を傍らでみて、その技術を「盗んだ」のだそうです。
弟子や子に「教える」ということはまずなかったのだそうです。
それで工夫することを覚えたし、技術が身につき、成長する喜びがあった。そして独自の工夫も生み出すことができた。
誰にもできない工夫を考案すると、それで相当な期間独占的に仕事を得ることができたんだそうです。

種明かしをすれば「なんだそういう事か。」というコロンブスの卵みたいな工夫も多いのだそうですが、しかし、それを思いつき一つの技術・技能に仕上げるためには、常に研究心をもって仕事をする気持ちがなければだめだとおっしゃいます。
「日本画の絵画展などに勉強に行かれることも多いんですか?」とお尋ねすると意外な答えが返ってきました。
「まあたまには行くにはいくけれどあまり良い絵は見ない。あんまり感心するとその絵が印象に残ってついつい引き寄せられてしまって自分の絵にならない。だから先生について絵を学んだり、立派な作品に心酔しないほうがいいね。」

同様のことを画家の斎藤さんも言っていました。
考えさせられます。
- 2017/10/17(火) 00:00:01|
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ここは知っている人は知っている出町柳の高野川と賀茂川の合流地点です。
何故か若者たちの中には「三角洲」と呼ぶ人がいます。「洲」ではないんですけどね。
景色の中に写りこんでいる半数ほどの人が外国人です。
中国人の子供二人が夢中で遊んでいます。 先ほど飛び石を跳び損ねて流れに落ちました。膝を打って痛いはずなのに、私が大笑いをして見せたら、痛いような顔もしないですぐにまた八艘跳びを始めました。
子供はこうでなくちゃ。

ギターを弾く若者がいたので、撮らせてもらいました。
私の前にも声をかけて撮らせてもらっている男性がいました。
このギターの青年は「ああいいよ」という感じで応えていました。
で、・・・・という訳ではないのですが、私も声をかけて・・・・・。

私は自転車で走っていて自転車に乗っている外国の方とよく行き違います。
道を譲ったり譲られたり。その際にはとても気持ちの良いアイコンタクトがとれますし、感謝の身振りを見ることができます。
ただ行違うだけの時でも「やあ。」という感じの表情のやり取りがあって愉快な気持ちになることが多いです。
それに引き換え日本人との場合には 無表情、無関心、不作法、無礼、我勝ち・・etc・・・・・うんざりですね。

もう秋の風が吹いていますが、日差しは熱がありますから、水に足を浸したくなる気持ちは分かります。
水辺は人の気持ちを和ませますね。
京都に鴨川があってよかったって感じです。

情景を入れた写真をもう一枚撮りたいから・・・・と、ジェスチャーで・・・・・。
- 2017/10/16(月) 00:00:50|
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私は自分がこういう風には撮ってもらえないので、それが少しばかり残念ですが、狭く「肖像写真」という様な堅苦しいものじゃなくて、また日本的ポートレートでもなくて、ドキュメンタリーなポートレートという感じで追求していきたいと思っています。

その人にちょっと会ってみたいなあと感じさせるような写真でしょうか。
その人の生活や想い、生い立ちのようなものを感じさせる人物写真。

難しそうですね。

そのためには、まず、こうして人を惹きつけてやまない「素敵な人」に出会わないといけませんね。

そういう人はたくさんいるはずです。

「写真」に撮るべきものはこちら側にあるんじゃなくて向こう側にある。
そういうものだと私は思います。
- 2017/10/15(日) 00:00:51|
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これまで何人かの人が銅心さんの写真を撮り、個展などで発表してきているのだそうで、中には銅心さんの半生を書きたいから取材をさせてほしいという人もあったとか。

まあ撮りたい人は好きに撮ったらいいさ・・と、銅心さんは言う。
「ワシが男前ならだれも撮りたいとは思わんだろう。」ともいう。
「案外、味のある顔だろ?」と言って大笑いする。
女性に言い寄られるのは「お前<俺」を確信している様子。 それはまさに事実だから、全く否定しようがない。
しかし、いささかの嫌味もない。

大学の同級生や同世代のかつての同僚が入院した、手術をしたなどという話が伝わる。
私も他人ごとではない。そういうお年頃だし。

銅心さんとも、「お互いなあ。」と話す。
それで「撮れる時に撮っておかないと・・・・。」と言って撮る。
「そうだな、今の内だぞ。」と笑う。

人生の修行は私の数倍。
私が他で得ている人間関係とは違う世界を生きている。
時としてそこで私が感じている「鼻持ちならない感」を、この人には少しも感じない。

いろいろな人が訪ねてくる。
「心だから。気持ちだね。」と・・・・何が人との付き合いで肝心かを話す。

暑い日、寒い日にこうして地べたに座って商売をするのは楽じゃない。
だんだん腰も痛くなるし「年とともに辛いなあ。」ともいう。
「でも、わしが休むとお客さんがどうしたのだろうと心配してくれるし、せっかく話したくて来てもらって居なかったら済まないから。」と自分の決めた時刻までは客があろうがあるまいがずっとここにいる。
人へのやさしさが行動を決めている。
- 2017/10/14(土) 00:00:26|
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私のこのブログにこれまでにも登場していただいている。
カテゴリーは工芸でもいいし雑貨でもよいかもしれないが「人物」とした。

お住まいはもとより本名も存じ上げない。
ただここに来れば、雨風、厳寒猛暑でなければ、大概お会いできる。
ただ、ごく最近はほんの少し確実ではなくなってきている感じがする。

この方は私とほぼ同じ年恰好で、少し先輩になる。
私はこの辺りに来ると回り道してこの脇の通りを走り、「こんにちは。」「元気ですか。」と手を振りながら挨拶する。
するとこの方、・・・・銅心さんとお呼びしているが。他の方は「銅さん」と呼んでいるとも聞く。・・・・も顔を上げて手を振って「オー」とか「や―」とか「元気にしてるよ。おトウさんは?」と返事してくれる。

たまには自転車を立てかけてしばらく話していく。
私がフォトマヌカンをお願いした若い女性を連れてこの辺りを歩くと「わしに対抗して見せに来たな?!」と笑う。
いえ、女性関係では銅心さんにはるかには到底及ばないのです。

銅心さんの女性談義は体験に基づいて深く、教えられ考えさせられることが多い。
昼の太陽のもとで大きな声で話しにくいこともこの人にかかっては何のこだわりもない。
私も或は嘆息し或は大笑して相槌を打つ。 が、その境地は私の遠く及ぶところではない。

銅線で編んだ籠は見事で、それを求める人も多いし、時には遠方方来てまとめ買いするお客もいるそうだ。
銅心さんの存在意味はそれだけではない。
銅心さんがここにいることで救われている人は少なくない。

服はいつも洗濯・アイロンが行き届いて、清潔にこざっぱりしている。
敷物も乱れていたことが無くてきちんと敷かれ、プライヤーなどの道具は手入れが行き届いていつも光っている。
話しぶりは気さくで解放的、決して上品ぶった物言いはしない。だが決して粗暴・乱暴な言葉は使わない。
ほぼ確実に定時の「出退勤」をするから、悩みがあって来る人も肩透かしを食うことがなく信頼される。
どうやら私とは対極の位置にある人の様だ。
- 2017/10/13(金) 00:00:07|
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私がいつものようにギャラリー巡りのために寺町を下っていると向こうから見慣れた人が歩いてきた。
大学の先輩であり大学寮の先輩でもあるその人はこれまた見慣れたタスキをかけて秘書と思しき人を連れて、全く昔のざっくばらんな好青年のままに歩いていた。
「やあ、穀田さん、これからどちら方面へ?」
「・・寺町をね。ずっと向こうへ・・。」と私が今来た方向をさして・・・・・。
「写真撮っていいですか・・・・。」
「どうぞ。 どうしたらいい? こんな風でいいかな。」
「OKです。」

そう言えば10月10日は総選挙の公示日でした。
こんな会話をしたからといって特に親しいという訳でもなく、彼にしてみれば、そういえばこんな顔が記憶の網の隅の方に引っ掛かるなあという位のものですが。
現在の共産党は志位氏、小池氏とこの穀田さんが顔と言ってもいいかなと思います。
毎日新聞の記事をお借りすると
「国対委員長在任20周年記念、与野党の重鎮300人ズラリ
共産党の穀田恵二国対委員長は30日、委員長在任20周年を記念する祝賀会を京都市内のホテルで開いた。大島理森衆院議長や自民党の二階俊博幹事長、民進党の横路孝弘元衆院議長をはじめ、与野党の国対委員長経験者ら約300人が出席。共産党の集まりに与野党の重鎮が名を連ねるのは異例で、野党第1党の民進党が低迷する中、国政選挙や東京都議選で躍進が続く共産党の存在感が際立つ形となった。 」
「 ♫ 学校(≒大学)出てから十余年 …♪・・」という歌がありました。卒業してから過ごした時間は穀田氏と私とであまり大きくは変わりませんが、方や国会史上に名を残す人となり、方や・・・・という訳です、・・・・。
選挙カーを背景に入れたほうが選挙戦らしいかな。

彼の気さくな性格は人と接するときに如実に現れますが、演説にもよく現れます。
舌鋒鋭いだけでなくいつもユーモアに富み言葉遣いが庶民的なのです。
寺町のなじみ深い商店主らの顔を認めては手を振り握手をし話しかけています。 何も大げさなことはなくて、また下卑た票欲しさからする慇懃さもありません。

共産党が野党4党の共同を唱えて現実的に進めてきたことがいま政治の局面を大きく規定するようになってきています。
自民党などの諸君が野党共闘を野合だ野合だという決まり文句で批判しているつもりになっていますが、すでに60年代から「統一戦線」の模索として理論的にも実践的にも岸に繰り返し寄せては返す波のように熟成させてきた日本民主化の戦略的な方向性なのです。
民主主義を徹底させた果てにしか社会主義の実現はない・・・・どうもそれが共産党の確信のようです。

先の国政選挙では4党連合が沖縄で安倍自民党勢力に対して痛烈な打撃を与えて、日本の平和と民主主義の潮流がどこにあるかを示しました。
にもかかわらず共産党を自党を食い荒らす「白アリ」としか見られない前原氏は、民主党の左傾化に耐えられなくて民主党を解党して党を極右派小池氏の前に投げ出してしまったのです。
枝野氏が立憲民主党を立ち上げるや否や枝野氏の選挙区の共産党候補を下ろしました。
自由党の小沢氏の選挙区も然り。 これが最近の共産党の政治的成熟を示す一面ですね。しかも機敏です。方向性が明確で揺らぎがないからでしょう。(ただ、降りることになった候補者一人一人からすれば他党の場合とは大きく異なって「俺が俺が」という意識から出ているのではないにしても内心はちょっと複雑なものがあるのかなと想像します。家族の同意を得たり自分自身も気持ちを奮い立たせて候補者となることを決めた経過もあるでしょうしね。)
今は憲法に基づき、国民の意思を尊重して政治をするという当たり前の民主主義が危機に直面しています。政権党による国会無視は目も当てられないほどですね。
北朝鮮の核開発・ミサイル発射に対して軍事的恫喝でしか応えることができず日本を敢えて戦争のふちに立たせようという安倍政権が「国難」をもたらしています。
国民の生活は格差がさらに深刻に拡大して圧倒的多数の庶民は「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざり・・・・」を日毎に実感しています。
もはや待ったなしの現状では反安倍勢力で立憲主義を誠実に実行しようとする勢力との共闘は、他の政策や世界観の違いを脇において進めなくてはいけない最優先課題なのだという共産党の判断なのでしょう。
穀田氏も演説の中でこういう趣旨のことをいっていました。
共産党は嫌いだという方もおられるでしょう。しかし憲法九条を改悪して戦争に道を開く政治を止め、森友や加計問題のように政治を私物化するのは許せないという方は安倍政治をやめさせるという一点で共産党を、また市民と結ぶ野党を押し上げてもらいたい、と。

京都では前原氏も立候補する。共産党が獲得する票と前原氏の獲得票の動向は今後の政治の流れを見るうえでも興味あるところです。
立憲民主党の幹事長になった福山哲郎氏(参院)も京都から出ていますが、 京都は再び自共対決の鮮明な街になるような気配ですね。 やはり全国の政治状況を先駆けて映し出す街の一つです。
(因みにこの福山氏。私たちの写真展にふらっと顔を見せたことがあります。その時に国会議員然として説明や案内を求める風もなく、一人の来場者として丁寧にそれぞれの写真を見て回り、特に注目を求めることなく極自然に振る舞っていました。特に面識のない私などは初め彼とも気が付かないくらいでした。好感が持てましたね。それにしても四六時中人の視線を浴びている国会議員というのも大変な仕事だなあと感じたものです。)
その先頭にいるのがこの人だということになるのでしょう。
一しきり演説を聞いて、私は予定のギャラリー巡りに戻りました。
- 2017/10/12(木) 00:00:45|
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出店者が女性のお店はおしゃれな雰囲気づくりに気を配っているケースが多いです。
手作り市への出店も経験を重ねたり情報の収集をしたり、次第にレベルが高くなります。
テーブルやボードを手作りして搬入搬出や運搬にできるだけ負担がないように、かつ出来栄えをよくする努力があちこちで見られます。 私にはできにくい分野ですね。

お二人が胸に下げているアクセサリーはこの作家さんの作品です。
こうした場合出店者が積極的にモデルになるとよいようです。

オジサンが立ち寄ってもなかなか売り上げには結びつかないでしょうが・・・・。
「いろいろな感想を聞かせていただけるだけでもうれしいんです。」と言われたことをよいことに話し込みます。

ましてお客さんの反応は宝です。
ご自身が製作したモノをお客さんが喜んで手にしてくれたらこの上なくうれしいでしょう。
私もブログ上で見ていただいた写真を「いい写真だね。」「気に入りました。」などと言っていただくと少なくともその一日は機嫌の良い状態が続きます。

路面店も含めて、そのお店の方がどのようなおもてなしマインドをお持ちかということ、そしてそれをどんなふうに表現できているかという事はとても大事な要素だと思います。
「商品のクオリティーがよければ・・・・。」という考えもありますが、近づいて手に取っていただく機会を増やすことが・・・・例え情報社会になったとはいっても・・・・・重要であることは間違いないと思います。
その時、商品を見せる工夫とともに、スタッフの印象は売り上げに大きな影響を与えると思います。


撮った写真を送らせていただくためのメールアドレスを書いてくれています。

- 2017/10/11(水) 00:00:58|
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この日は夕方からライブハウスに行く予定でした。
私はそういう場所への出入りの経験があまりありませんので、若い友人を誘ってついていってもらいます。
それで、それを口実に写真も撮ることにしていましたので、今日の手作り市訪問はいつもより早めでした。
「Kirali*」というお店です。
右の方がアクセサリーの作家さん。もう、お一人が販売の助っ人さん。

この方も写真を撮るのがお好きなんだそうですが、夜景の「工場萌え」なんだそうです。
様々な分野に進出するカメラ女子ですが、まだ比較的進出の少ない分野でしょうか。どうでしょう。
なんと四日市などにも足を延ばしておられるんだとか。

あのパイプなどの走る構造物の姿や照明輝く夜景などがお好きなんだそうです。

作家さんの方は「ほらやっぱり写真は人を撮らなきゃ!」と私に肩入れしてくれましたので、それをいいことに「撮影交渉を」してOKをいただいたという訳で・・・・。

空気は幾分ましなのですが日差しは強く、「暑い」一日になりそうです。
テーブルやお客さんの服がレフ板になってくれて助かります。
真夏のテントの下はテントの外に比べて随分と暗く、外との明暗差が大きいのです。それで相当に撮りにくいものです。
けれど、やはりこの時期になると太陽の高度が微妙に低くなっていてこういう現象が起こります。斜めに日が射すせいでしょうか。

ここに並べられているアクセサリーはこの方のアイディア作品です。
なかなかいろいろな苦労がおありだったとかで、その一端をお話しいただけました。
私はとても面白いと思い、いつもの悪い癖で、ついその発展形をあれこれ考えてしまいました。
そのうち、お店にあったある写真からあるアイディアが思い浮かび・・・・・。

「どうです、この技術を生かして・・・・・というようなものを作ってみては・・・・。」
「それはちょっとむずかしそうだけど・・・・。」
「でも成功すれば結構、関心を持たれると思うし、ヒットすると思うけどなあ。・・・・。」なんて無責任に。
- 2017/10/10(火) 00:00:54|
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漫然と見ていると杼が舞うように右へ左へと移されます。
そのたびに鮮やかない糸が模様へと変わります。
それを凝視していても一つ一つの動作をなかなか見極めることができません。

そこを助けくれるのがカメラでしょうか。
この「杼」という道具も機能美の典型のような形をしています。

ただ「美しく」作られているというのではなくて、使い込まれたからこそ備わった美というものも感じます。

調理人の包丁・ナイフが研ぎに研ぎこまれて元の形からはずいぶん違った姿になているのを見るときも、道具は使われてこそだなあと思います。
だからこそ野元さんもこの「機」を取り出して息を吹き込んでやっているのでしょう。

糸の張られていない「機」は機とは言えないですすよね。
カメラもまたフィルムが装てんされシャターが切られなくてはカメラとは言えないでしょう。

・・・・・そうかといって「切らねば」刀と言えないから、ミサイルを発射し、機関砲を打って、破壊しなくては戦闘機とは言えないからと言って「実用」されては困りますが・・・・。

公開実演の場ではありますが、私はこうした方々から多くを学ばせていただいています。
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- 2017/10/09(月) 00:00:04|
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西陣にはとても豪華な織り、綴れ織りがあります。
このかたはその織元。

指の爪をのこぎり状に削って横糸を描き寄せて詰めます。
以前私がある綴れ織りの旗のあるお宅に伺って、着物地を織っているのを見学させていただいた時に「一日にせいぜい1センチほどしか降り進めない」とおっしゃっていたのを思い出します。

足踏みによって経糸を上下します。そしてそこに経糸の何本目かから何本目かに鮮やかに色染めされた横糸を杼で通すのですが、それによって絵柄ができていきます。
実に丹念な根気のいる仕事ですし、また高度な技術が求められる仕事です。

織物の折柄は経糸を横糸が上から覆う形で色を出します。それはちょうど経糸一本を横糸が覆えば方眼紙の一マスが塗りつぶされたというようなイメージです。ですから柄はデジタル信号のように構成されるわけです。
液晶画像が点の集合になっているのと同じですね。
構成要素は□の「点」です。ですから緩やかな曲線を描くのは難しいわけで厳密に言えば曲線ではなくて凸凹したラインになるわけですが、それを見事になだらかな線に見せる技は見事なものです。
「花や葉の曲線は、まあ比較的優しくて真円を描くのがとても難しい。」と言われます。

真円が描ければ、「まあ一応の水準に達した職人とみられる」のだそうですが、そこがスタートともいえるんだそうで、本当に良い職人の技術はその先にあると言われます。

公開実演の場には伝統工芸士さんたちをはじめ各分野で京都を代表するような職人さんが役割を引き受けておられます。
「この会場のほこりにまみれて保管されていたこの機が可哀想で、やっぱり器械は動かしてやらないと・・・・。」ととおっしゃってすっかりきれいに磨かれていつくしむように機を動かしておられます。
この機はあくまで実演のためのもので幅も長さも短いのですが、綴れ織りの原理はよく分かります。
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- 2017/10/08(日) 00:00:07|
- 伝統工芸
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今回の写真は、ほとんどのカットで大きくトリミングをしています。
私は従来、ファインダーでフレーミングをしたら、後でトリミングをしないということをガチガチではない原則としてきました。
まずはフレーミングに注意を払うということを意識してきました。

そのために「視野率100%」のファインダーに価値を置いてきたわけです。
けれどもそのことに絶対的な価値があるわけではないことは分かっているつもりで、たま~にトリミングをしてきました。
しかし、考えればカメラに設定されている画像の縦横比などというものを無条件に受け入れなくてはいけないなどという理由は全くないわけで、プリント用紙も工業規格でカットされているわけでし、その規格に自分のイメージを従属させる必要も必然性も全くないわけですね。

京都ファインダー倶楽部の写真展の時に書家の上田氏が書の用紙を使って表現していました。
通常使われている印画紙のサイズとは全然同じではないのです。
形式は内容に即さなくてはいけないのですから、様々な縦横比或は形状があって、当然ですね。
こういうことに無頓着ではいけないのだと思って、画面を見ていて結果的にことごとくトリミングすることになりました。

私の写真に対する数少ない褒め言葉のうちに「構図がいい」というのがあります。
写真の方からも絵の方からもそう言っていただくことが一再ではありません。
もし本当にその褒め言葉が当たっているのならば既成の縦横比や四角形であることにとらわれずに構図してみることも楽しいかな、やってみる価値があるかなと・・。

彫刻や陶芸作品などはそもそもフレームがないものがほとんどなんですから。

すでにいろいろなことが試みられていますが、写真展のつまらなさを克服するためにも挑戦してみて良い課題だとは思っています。
- 2017/10/07(土) 00:00:27|
- 染色
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数日後にこの場所に行くと石積みはすっかりなくなっていました。
誰がどういう理由でとりはらったのでしょうね。
河川管理課の人たちかな。
まるで墓地みたいで気味が悪いなどと苦情が入ったかな。

これが引き金になってたくさんの人が流れに入るようになってしまうことを心配した誰かが、どこかに通報というか苦情を言ったのかも。

私も一緒になって写真を撮っていたら、その場で通報されたかもしれませんね。
まあゆったりと楽しみしょうよ。

「So nice !」と大きな声をかけると「ありがとうございます!」とやっぱり大きな声で返ってきました。

私の横にきた初老の外国人男性が何かクラシカルな感じのカメラでこの二人を撮っていきました。
キヤノンの5DマークⅣやニコンのD850なんかに24-70ミリかなにかをつけているんじゃないところがいい感じだなあと思いました。
街歩きにあの一眼レフカメラってかっこ悪くありません?
自分で首にぶら下げている姿をショウウインドウの中に見つけた時に「なに、これ?!」って思っちゃいます。
でもキヤノンニューF1とかコンタックスRXの時には、どう?!かっこいいだろと思っていたんですがね。
いや、ボディーの事だけじゃなくて最近はやたらにズームレンズがついているところにも何か大きくて鈍重な感じを与える要因があるかなと・・・・。
道具はかっこよくなくちゃいけないなどと・・・思う事もなくはない。
- 2017/10/06(金) 00:00:57|
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少し以前から気になっていたのです。
三条大橋のやや下流の河原に石が積まれているのです。
この頃は、幾分渇水気味の鴨川ですから(約一か月前の話です)その気になれば川に入り中央辺りに行くのはたやすいことです。
この辺りの川床は石を敷いていますから、小石が沢山あるようにも見えません。ですから、かなり意識的に石を集めたのだろうと思います。
誰がしたのやら。
幾人かの人が「よし俺もしてみよう。」「私も一つ。」なんて思って増えているのかもしれません。

あるいは誰か一人の仕業(作品)なのでしょうか。
今日はこのお二人が参加?です。 積まれている石の塔の形状がこれまでのものとは異なりますから、あとからの「参加」組でしょう。
目を引くのは二人が外国人だというばかりではなく、ハンサムな若者と美形な女性だという点です。それで一層人々の関心を集めているのでしょうか。

繁華街の真っただ中ですから多くの人の目を集めることは当然予想するところですが、もし私たちがセーヌ川に行って…流れは鴨川よりも深いですから同じことをという事ではありませんが・・・・こういう風に遊べるかと言ったら・・・・。
私はそのことに興味を抱きました。

見られていることは自覚していますし、サービス精神も旺盛です。
でも([関西の言い方をすれば)いちびっている」とか「悪のりをしている」「調子に乗って」「目立ちたがり」という風は少しも感じられないのです。
印象は「愉しんでいる」のです。 それがとてもいい!!

だから「ウケ狙い」の媚態もおふざけもありません。
見ていて一緒に楽しめる感じです。 上手くやれよ、倒すなよ、と。

二人にカメラを見せて「撮るよ!」とジェスチャーで示すとピースサインで答えてくれました。
カメラに望遠レンズがついていないのが残念です。・・・・・という私の意識が本当に「ザンネン」です。
私も靴を脱いで流れに入って近づけばもっといい写真が撮れることが分かっているのにそれをする勇気を持てない。これじゃダメですよね。

私はすでに川底の石がとても滑りやすい状態だという事を知っていますので、衆人環視の中でこけたらどうしようなどと考えてしまうアカンタレです。
写真を撮るためにかがみこんだり近づいたりするのを見られて恥ずかしいと思ってしまうアカンタレです。
ただ言い訳をすると「この二人の素敵な状景に、ぶち壊しなおじさんの姿を入れないでくれ!」という・・・・もし私が岸から見ていたり、橋の上から見ていたらそう思ってしまう声も聞こえるのですね。
きれいな紅葉の風景を多くの人が楽しんでいるときにその絶景の一番いいところにカメラを持った人が三脚を据え付けるみたいな無粋をやるのは恥ずかしいですからね。
- 2017/10/05(木) 00:00:43|
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彼の深いチョコレート色の肌が青空を背景に映えますね。
雲の形も悪くはないんじゃないでしょうか。

彼のような肌色の人の魅力を写し撮るためには、「女性の肌は白く、ほの赤く」という固定観念だけでポートレートを撮っているわけにはいきませんね。
ですからカメラの「ポートレート」設定は日本のメーカーの日本人設計者の作ったものだということを相対的に位置づけて意識して撮ることが必要かな。
以前ポーランド人写真家の写真を見て、これはフジが作る少々濃厚な色づくり設定がマッチするんだろうなと思いました。
多分その設定で日本庭園を撮ると、一般的に期待される日本的情緒は出しにくいと思いました。

石積みや鉄骨で造形された街並みを撮るばあいと、木造で植栽豊かな日本の伝統的家屋を撮る場合には、おのずから色づくりも違ってくるように思います。
(油彩ではヨーロッパの画家たちに到底及ばないのだから、我々がもつ、この列島の上で培われた感性で見聞き、そして描けばいいのではないかという考え方もまた一つではありますが。
でもそれだと私自身の世界は広がらないように思えますので、やはりその地域ごとの感性や思想に学ぶ側面も大いに持ちたいですね。
どんな地域の人々にも長い間に培われた価値ある感性や思惟があるのですから。)

そしてそれらは違いを豊かに持ちながら、しかし国境を越えて共感しあえるものを持つのだと思います。だからこそ彼の叩く太鼓の音に列島に住む人々の心が揺さぶられるのでしょう。

オリンピックや様々な競技の世界大会の報道を通じて私たちはいろいろな肌の色の人たちの魅力を見ています。
一部の超のつくプレーヤーにだけ注目するのではなくて、世界の人々を見たいですね。
そして狭い排他的な自国偏重の「応援」意識に埋没するのは避けたいものです。


彼が服を脱いで流れの中に進み入るのを見て「泳ぐ気なの?!」と思いましたが、ジンバブエでは泳ぐ機会はめったにないのだそうですから、「泳げない」のです。
世界水泳に黒人の姿がほとんどないのはそういう事ですし、「世界一」というのもそういう含意のものです。


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- 2017/10/04(水) 00:00:37|
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二か月余り前に jenaguru Zimbabwe の子供たちのリハーサルを撮ったことがあります。
それはそれは素晴らしいリハーサルでした。まさに感動ものでした。
たまたま今日の彼は同じアフリカのセネガルから日本に来ているミュージシャンで打楽器奏者・シェハタイル・ンバイさんです。
今叩いているのはサバールドラム・ンデールというんでしょうか。

彼は太鼓を日本各地で教えているそうで今日はその生徒さん〔女性3人〕と一緒です。
女性たちが盛んに彼の写真を撮っておられたので近づいていって私も撮らせてもらいました。

最近は京都の町を歩いて(自転車で走って)いて、外国から来られた人の姿を見ても、ごく自然な感じがします。
というのも観光の方も実にリラックスして歩いていますし、京都に暮らす外国人も少なくないからです。
日本ではまだ・・・・いえ、私はという言う意味ですが・・・・・外国から来た人たちを目の前にして、ましていざ話すというような状況だと俄然、緊張してしまいます。

しかし、それも一昔ふた昔前に比べれば随分変わってきているのじゃないでしょうか。
日本人自身若い時から海外に行く機会が大幅に増えていますしね。
「島国的国民性」もいくらかは成長変化しているのでしょう。大きな視野は別にして。
ちょっとお茶目なところもあります。

この辺がポートレートフォトグラファーとしての経験かなあ。 エヘン。
写真がうまいかどうかじゃないですよ。5分前に知らなかった人にここまで近づいて撮ったということです。
- 2017/10/03(火) 00:00:05|
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