上賀茂の手作り市は出店の場所によってとても寒いところと日当たりが良くて暖かいところの差が大きいです。
(夏は、だからとても涼し場所と酷暑のところができるという事ですね。)
主催者が出店場所を指定します。

一方、百万遍・知恩寺の手作り市は「自由競争」で場所取りです。
「自由主義の弊害」が露骨に表れているケースもちらほら見られますね。
自由がそのまま公正公平になるには「自由を「放任」してはいけないということがよくわかります。

小さなお子さんにそそぐ眼差しはやさしく暖かいです。
ふと自分はどういう顔をしているのだろうか、と考えます。
でもそんなとき鏡を見るわけでもないし、写真を撮ってくれる人がいるのでもない。
そうなると自分の普段の表情、人に向けるまなざしを自分で知ることはできない。
そういう意味でも写真を撮るという事には意味があるのかな・・・と。

手作り市に来て出店者やお客さんを見ていると人生の様々を思う。
実にいろいろな人生が出会っているから。

私自身は「市」に来ているにもかかわらず「買い物」も「販売」もしない。
ただ人探しに来ている。
もし人あって分類するならば「雑」に入れられることだろう。

何がどうしてだか知らないがお馴染みさんからはいつの間にか「センセイ」と呼ばれている。
「センセイ」と言われるほどのバカでなしと言いたいところだが、「八目」のアドバンテージは無論のこと何の役割も果たさない「岡目」である。野次馬である。
それで、せめてのことに、ぱちりとシャッターボタンを押して人々の人生の行き交う場所に一点を記すのである。
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- 2017/03/31(金) 00:00:32|
- 手作り市
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『絵本なクッキー』 なかなか良いネーミングですね。
そして、実際のクッキーは、まさに『絵本なクッキー』なのです。

手作り市でお会いしました。
この人の笑顔が、これまた絵本の印象なのです。

この日私は135ミリを持ちだしていましたので、お店が並ぶ間を行き交う人ごみの隙間をぬって、反対側から撮ります。
こういう時、撮影を受け入れてくれた人からあまり遠くから撮ると、「なんだ、あいつは盗み撮りをしている。」と勘違いされる危険が無きにしも非ず。
お客さんに微笑みかけるこの笑顔がなんともいいですね。

AFが使えませんのでMFで撮るのですが、私の視力では暗い時だけでなく明るすぎるときもピントをとらえられません。
でこうして横に回って光の角度を変えないと・・・。

少し厚手のテントの中は暗いしそのうえテントを透過した光を浴びて色かぶり(この時は鮮やかな赤です。)・・・・、外は日差しがたっぷりで、内外の明暗差が大きいのです。

外の何か・・例えば道路やお客さんの白っぽい服・・・・がレフ板の役割を果たしてくれる時が狙い目です。
小さなお客さんに向ける笑顔はことのほか素敵です。

笑顔は素敵だと一般的に言いますが、その笑顔にも人柄が出ます。
( 大阪でヘイト幼稚園を経営し、子供には「(日本民族は)真心・誠心・正直・おもてなしの気持ちが他の国の人たちより強く深い」のだから、あなたたち日本民族の一員は朝鮮人中国人の悪意に気を付けろなどとあまり「おもてなし」の心の無いことを教え、自らは「上から」の力で小学校建設に対して公正な手続きをゆがめてでも便宜を図るように圧力をかけよと政治家などにねじ込む、あの人の笑顔などは逆にとても「おぞましい」印象を与えるのは、まさにそのことを証明するでしょう。)
この人の笑顔は何てすがすがしいんでしょう。
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- 2017/03/30(木) 00:00:00|
- 手作り市
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この方の勉強の中心はこの周辺に関する歴史にあります。
現在、豊国神社がある辺りはもと豊臣秀吉の命で建立された方広寺でした。
「方広寺の敷地はこの博物館は勿論のこと蓮華王院の地まで含む広大なものだったようですよ。」とのこと。

この周辺の歴史的な蘊蓄が一杯です。
このお茶目な人懐っこそうな表情を見てください。
外国からのお客さんも何の違和感も不安感もなく話ができますね。
私もそうでした。

こういう言い方は、多少語弊がありますが、さすがに国立博物館の守衛に立つ人は違うなあという感じでした。
ここに立つことに誇りと仕事の喜びを感じている・・・・それが感じ取れます。
それは人生的に幸せなことですね。

- 2017/03/29(水) 00:00:39|
- 人物
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この日は日差しのある幾分寒さの緩んだ日でした。
それでもじっとしていると・・・・まだまだ2月ですから。
東山七条の国立博物館です。
すぐ南側には「三十三間堂」で知られる蓮華王院本堂があり、北側には豊国神社、耳塚(鼻塚)があります。

博物館のこちら側はしばらく工事のために塞がっていました。そのためにその間は三十三間堂のある南側から出入りしていましたが、本来の正門はこちら。
今は南側から入ってこの門から出るという流れになっているようです。

とても気さくに話しかけれらる方です。
私も、こちらが開いているんだなあ、そういえば余りこちら側の印象が残っていないなあとのぞき込んでいたのです。
そして今度の撮影のロケーションとしてはどうかと。

それで声をかけていただきました。
外国からのお客さんがとても多いのだとか。
それでとても実践的な英会話力でとてもとてもフレンドリーに声をかけていらっしゃいます。
たまたま尋ねられた場所が「アイ ドンノウ」
「金比羅?・・・・・この辺には思い当たらないなあ。」
でもスマートフォンの地図を一緒に見て何とか助けてあげようと・・・・。

私も思い出すことができませんでした。
「安井金比羅?!」
後で調べて、「ああ、あの縁切り縁結びの・・・・・。」

最近は韓国語や中国語も勉強していくらかお役に立てるようになりましたと謙遜されていました。
こうして勉強して実地に役立てられて、この仕事が楽しいとおしゃっていました。
その勉強は無論、外国語会話だけではありません。
- 2017/03/28(火) 00:00:37|
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どうもお断りになることが難しい雰囲気になってしまったようで・・・・。
たまたま京都の写真家・甲斐 扶佐義氏のことが話題になり、また私の過去写真も見ていただいて「人物を撮る」ことに話が及んだために、私に「撮らせてもらえますか?」というチャンスが生まれ・・・・う~ん、断りにくいなあ・・と。

それが少しばかり戸惑いの表情にもなり・・・。
以前から「20歳前後の女性じゃなくて、もう少し人生経験を積んだ年齢の女性の魅力を撮れ!」と言われていたことや、甲斐氏の被写体が、そういう年齢層の女性であることもあって、自分でも機会をとらえようという意識が働いたのです。

実際、個展のために写真を整理していると数は少ないのですが、魅力的な30代40代の写真があるのです・・・・が。
振り返ってみるといろいろな事情でこの年齢層の女性を撮る機会が、ことのほか少ないのです。
この写真などは個展にも出したいものです。

ここは本業はお酒屋さんなのですが、こうして絵や写真のギャラリーも兼ね、奥には立派なホールがあって音楽や落語の会も催されるようです。
オーナーがとても文化的な事業に積極的なんですね。
そうしてこの方はそうした催しの際にはカメラを持って撮影係も務めているようなんです。

今、ここで写真の「二人展」をされている一方の方が横から「撮られる人と撮る人」を撮影しています。
写真を見せていただきましたが、「ありゃ~、やられたなあ。」という腕前です。

撮影の横にギャラリーがいるせいか私のかかわり方がよくないためか、まだ硬さがほぐれないまま終わってしまいましたので・・・・・ということを口実に、ぜひまた撮影の機会をいただけたらと思っています。
- 2017/03/27(月) 00:00:13|
- 人物
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ペインティングを学ばれたとプロフィールに書かれていました。
それにしてはずいぶん版画的な表現だなあと思ってみていましたら、版画でした。
やはり抽象表現です。

この時期は学生さんたちがあちこちで作品展をしているわけですが、やはり院生のものは一味違います。
ただ上手に絵が書けたという事ではすみませんから当然と言えば当然ですが。

そういう意味では、私の写真ももうそろそろ上手に撮れたというところから幾許かは踏み出ることができないと、今後楽しみがないですね。

そんな身に合わないことを考えているものだから基本さえ見失うことがよくあって、せっかくのチャンスを生かせないことが一再ではありません。

先日ある方たちの写真の二人展に出かけた時に京都の写真家・甲斐 扶佐義氏のことが話題になりました。
私より一つ年長の甲斐氏は1970年前後の政治活動から写真家としての活動も含め京都の著名人もお一人です。
彼の「美人」たちを撮った写真はよく写真雑誌に人物写真として紹介されたりポートレート写真として掲載されるのとは一味も二味も違ったものです。写真集には「知的な美人」が満載です。

彼の活動や経営するお店の醸し出している幾分アナーキーな雰囲気はそこここに見えますが、思いのほか端正なものが多いようです。
「彼の前ではどうして女性たちがこんなに魅力的な表情をするんだろうか?」とギャラリーのオーナーさん・・・・写真集の持ち主・・・・は言うのです。
羨ましい限りですね。
- 2017/03/26(日) 00:00:12|
- 絵画
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このギャラリーでは比較的若い方たちの作品を見せていただく機会が多い。
今回も院1回を終えようとする若い方たちです。
この方は油彩で抽象画を描かれています。

私は前から抽象画についてわからないことがありますので、問いかけてみます。
さすがに院で学ぶだけあって問題を正面から考えておられました。

そしてやはり、私の様に制作実践の無いものでは想像がつきにくい、制作の中での感覚体験があるようです。

写真でも同じなんでしょうね。
入門書などでは構図について三分割や黄金比のことを説明していますが、実際の写真撮影の場面では、大概それらからずれますね。
しかし、だからこそ印象的な写真になるという面があります。そして、それは、そういう基本理論からどれくらいずれるのかは、ファインダーを覗いていると今たち向かっている世界の方から「もう少し右、ちょっと下、それじゃあ行き過ぎ・・・・。」みたいに教えてきますね。

でもそれを聞きそこなったり、既存の枠組みに自分自身が押し戻したりして、「残念でした!」という結果に・・・・私の場合は・・・・なるわけです。

こういう学生さんや若い作家たちは「大家」と違って、制作上の経験や感覚、あるいは自分の試みや、その成功・失敗について率直に語ってくれます。
それがうれしいですし、私にとって良い勉強になります。

私が絵画や彫刻の専門家でないから、彼らとしても逆に話しやすいのでしょうね。
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- 2017/03/25(土) 00:00:05|
- 絵画
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ブログのカテゴリー・音楽には記事数で190ばかりあります。記事数ですから人としては延べという事ですが、ですから多分60くらい音楽関連の人の写真があるという事ですね。
1000余りの人の中で60では割合としてあまり多いとは言えないかもしれませんが、私としては撮りたいジャンルの一つです。

今度の個展のために写真を探すのをどこまでさかのぼるか難しいところですが、比較的最近の範囲でチョイスしようと思っています。
写真自体は常識的なものが多くて、多くに既視感を感じられると思います。
撮れるということ自体が今の私の到達ですからあまり贅沢なことは言えませんが、そこが課題ですね。

ある方と知り合えたことで今後少し音楽をする人を撮影するチャンスが増えるかもしれません。それはとてもうれしいことなんです。
でも、そういう時に先ほどの「常識」的な絵面を越えられるかどうかが、それは大きな問題ですね。

演奏家たちに「そう、こういう感じだよね、演奏している気分というのは。」とか「なるほど、こう見えているんですね。」と新たに気づいてもらえるようなものを撮りたいものです。

それに、自分の感動や憧れの気持ちが素直に出せる写真にしたいですね。

あるとき音楽家たちを撮っていたら「撮っている蒼樹さんの様子を撮りたい。」と言われました。
しゃがみこんだり、いすやテーブルに登ったりするものですから、面白かったんでしょうが、お行儀は悪いですね。

でも「普通」からほんの少しずれたところに、いいアングルがあるんですよね。

そして、今だ!!ここだっ!!と思った直ぐ後や前にいい場面があったりするんです。
だから写真は面白い。
- 2017/03/24(金) 00:00:07|
- 音楽
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出町柳です。
お二人は京都の人ではなくて、今日ライブのために来ているんだとか。ライブ前の練習を兼ねて。

普段は別の仕事をしながら・・・。

対岸にも声が届いていました。
それで飛び石を伝ってこちらに来たわけです。

一眼レフを持った若い女性二人連れが、やはり飛び石を伝ってこちらに渡り、岸に腰を下ろして歌を聞いています。
そしてパチリ。
私はそれとは別に「撮っていいかな?」と声をかけて・・・・。

5月の個展に向けて少しづつ写真の整理をしています。
音楽関係の写真を一つのファイルにまとめようと集めているのですが「思いのほか下手だなあ。」と感じています。
思いのほかというのはそもそも不遜だと言われるのは承知の上ですが、時々、「なかなかイケてるなあ。」と自画自賛する機会があることを喜んでいたものですから、なんだ、全体を見ればこんなものなのかと思うわけです。

その時その時にチャンスをくれた人たちには申し訳ないなあと思うばかりです。
もしフィルムで撮っていたら・・・・疾うに財政的に行き詰って「写真、止めようか。」なんて思っていたかもしれません。
- 2017/03/23(木) 00:00:42|
- 音楽
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高校時代の旧友から電話があり「君が写真を撮るようになったのはなぜなんだ?」との詰問がありました。
「哲学少年、哲学中年、そして哲学老人。(それが君だと思っていたのになんという変節ぶり!)」という事でした。
従弟たちの反応もまた同じようなものですね。
まあ、そうした人たちの思うところも理解できないわけじゃなくて、ごもっともと答えなくてはいけない面があるのですが。

私のブログにお付き合いいただいている方にはお分かりの通り、私がそれなりに「哲学写真愛好者」だということをわかって頂けると思います。妙に理屈っぽくてくどくどしい文章を書くところなど。
ただ、「人間にとって最も本質的なものは人間である」とK/マルクスが引いているように、その人間に関することに常に哲学の触手を伸ばすのは哲学の使命ですからね。
しかし、彼に言ったのですが「僕は研究者タイプではなくて、市井の実践者だからね。」と。

彼には納得しにくいようでしたが・・・。

リタイア後の三期五か年計画の話をしたら、「自分の計画は・・・・。」と話し始めましたが、私の周囲にいる人は彼を含めてどうもみんなまじめですね。
いえ、無論、肯定的な意味で言っているのです。

「まじめ」だとからかわれたり、面白くないと疎遠にされたりする傾向のある昨今だからこそ、「まじめ」は大切にされるべきだと私は思っているのです。
私が撮っている方たちのほとんどは皆さん基本的にまじめな方たちばかりです。
だってそういう人を選んでいるのですから。

人を小ばかにしたり、笑いものにすることが大手を振り、『うまくやる』のが成功者の秘訣のように言われたりして、またそういう者が何か物を言うに足る者だとしてちやほやされることに対するアンチがこのブログの隠された趣旨なんです。

ですから、旧友たちよ。どうか大目に見てやってください(笑い)
- 2017/03/22(水) 00:00:57|
- 工芸
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先ほどまで削いだ竹の長さをそろえるなどの下準備をされていましたので、「編み始めたら撮らせてくださいね。」とお願いして・・・。
今日はコースターを編むのだそうです。

編んだ製品も竹の風合いのままで感性とするものもあれば、漆を施してまた異なった趣味にするものもあります。

「経糸」と「横糸」を編み合わせていくという点では織物と共通するわけですが、多くの場合に立体にしていくところが竹細工の得意とするところ。

京都の竹が素材として扱いやすいのだそうです。
こうした工芸では水や土、あるいは寒暖や、乾燥湿潤などの天候・気象などといった自然条件が大きく影響しますし、そもそもそうした産業の誕生や発展、製品の特質に影響します。
得られる素材の違いも大きいのだろうと思います。

- 2017/03/21(火) 00:00:06|
- 工芸
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故郷の街に「旧見付小学校」という5階建ての洋風日本建築があるのです。
そこのあたりを歩いていると年配の男性が「桜が満開だから見ていかないか。」と声をかけてくれました。それは今からおよそ一か月ほど前の2月20日の事ですから、「桜が満開?」 いかに温暖なこの地域だからと言ってまさか・・・・、と思ったのですが、案の定、早咲きの「河津桜」でした。
確かに3本見事に咲き誇っていました。その方がお孫さんの小学校入学を記念して植えた木だそうです。

その方が「何年の生まれだ?」とお聞きになるので答えますと「なんだ俺の方が10歳上だな。」とおっしゃるのです。
そのお元気なこと。
私の従弟のうちの一人はすでに80歳、昨日書いた私の育った家のお隣のおばさんは90歳だという事です。
皆さん、それはそれはお元気で、私のように立ったり座ったりの度ごとに「よっこいしょ」などとは言われません。
社会的にも貢献しつつ毎日マメに動いておられます。
刺激を受けますねぇ。

さて、写真の1枚目と2,3枚目はカメラ・レンズが異なります。やはりだいぶん特性が異なりますね。
春の陽光の中では上のカメラ・レンズが、少し妖しい空気を出すには下のカメラ・レンズがいいでしょうか。
しかし、私はまだまだ撮って見なくちゃ分からないというレベルですね。

大分、肌の色も口紅の色も赤くなります。
陰で撮っていますから色も飛ばないのでなおさらでしょうか。
デジタル写真に詳しい方々はRAWで撮って、こういうところを調整するんでしょうね。




- 2017/03/20(月) 00:00:42|
- 人物
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この写真たちを掲載するのは私にとってもこの人にとってもも少しばかり意味があるのじゃないかと思い、敢えてアップするのです。

今たまたまチャイコフスキーのバイオリン協奏曲を聞きながらこの文章を書いているのですが、
う~ん、関係ないかなぁ。

このブログが、私が思い入れている程には、また私の一連の写真がもつ意味は、これまた私が思い入れているほどには大したことではないにもかかわらず、しかし、自分史的にはそれなりの意味があるのでして・・・・。

まあまあ、そんなに鼻の穴を広げないで、静かに落ち着いて・・・・・。

針小棒大、大山鳴動、大言壮語・・・・・・。
言わぬが花・・・・。

それにしても、ネット上で見せていただく様々な写真作家たちの写真の素晴らしいこと。
写真がもつ世界の高さや深さ、多様性や複雑性を見ると、その端っこの方にしがみついていることのワクワク感がいや増します。
すごいなあ、ああいうことができるんだと思うと、うれしくなりますね。

およそ、手が届かない遥かな達成があるという事は、これから私が絶対に退屈することはないという事ですから。
自分が写真作家であれば、感心して憧れていればいいという訳にはいきませんが、・・・・・・・・・。

例えば、あそこまで行かないとプロとして飯が食えないとか写真家として一人前と認められないなどと言う観念によって急き立てられるのは、職業写真家になろうとか、写真作家として名をはせたいなどということを夢見る若者です。
そういう事から自由な人間は悠長なものです。
自分の成長の一階梯一歩ごとを楽しめばいいのですから。

ただ、しかし、そういう事であれば、高い頂を現実的に目指す醍醐味を味わえないという事でもあります。
腰が引け、いいわけがある取り組みからはそれなりの果実しか得られないわけで。

私はそういう意味で、余りに唐突ですが、アイススケートの本田望結という子をとても尊敬するのです。
- 2017/03/19(日) 00:00:45|
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故郷の住む私の従弟たちに会いに行きました。
私が幼いころから高校生まで住んでいた家の隣のおばさんが、90歳で元気にお暮らしだという話を聞いたので、その方にお会いするついでにです。
と言っても、どちらも私としては大切な機会です。
その時に・・・・郷里から京都は遠いので写真展も見てみもらえないので何枚かをファイルに入れて持っていき、無理強いにでも見てもらいました。
「まさか写真を撮るようにに・・・・それもこんな若い女性の写真を撮るようになるなんて想像もしなかった。」と異口同音に言われました。

私の両親とも大変親しくお付き合いしていただいていた隣のおばさんは、私の子供の頃のことをとても良く覚えていてくれて、なんと私が生まれて初めてもらったラブレター事件もはっきりと記憶しておられました。
勿論、両親の事もあれやこれや話が尽きないのでした。

おばさんも従弟たちも私の重いファイルを繰って写真を見てくれたのですが、何故又こんな年を重ねてからこういう写真を撮るのかが、またこういう機会を得られるのかが不思議でたまらないようでした。
実際は私はすでに高校生の時には「こういう気」があったのですがね。

でも、その一方で、仕事とは大きく違う分野で一生懸命取り組めるのは、「おまえらしい」とも。
従弟の奥さんやその娘さんからは「やっぱり(写真を趣味にしているだけあって)普通の人が撮るのとは違うね。」

こっちの町でも写真展をしてくれればいいのにと言われるので
今度、同級生で水彩画をしている友人と相談して二人展でもしようかな…と返事をしておきました。
いろいろな意味で「思えば遠くに来」てしまっているので、どうかして人生の座標軸、原点にいる人たちに見てもらいたかったので、・・・・この時に持って行けなかった他の種類の写真も見せたかったのですが・・・・・一応、ある節を越えたなあと思うのです。

今度は中学や高校の同級生たちに見てもらいたいものだと思っています。
果たしてその機会は訪れるのだろうかなあ。
- 2017/03/19(日) 00:00:05|
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写真を撮るときには世界の外に出てしまう。
内側にいない。世界に内在できなくなってしまう。
「天才アラーキー」はどうだったんだろうか。

奥さんとベットにいて、交わりあいながら写真を撮った時に彼のセックスは内在的な感情の中にあったんだろうか。
彼の写真を見ると、撮る行為を含めてセックスしているようにも見えるが、彼の意識は実際にはどこにあったんだろうか。

楽しい集まりの時に「おい、みんなで写真を撮ろう。」ということになって皆が横列に並ぶ。
カメラを手にした私はそれに向き合って、ファインダーをのぞく。
楽しい空気が充溢し、破裂する。 それをキャッチするカメラマンはどこにいるのだろうか。
写真を「撮る」は「撮られる」と一対にならなければ成立しない。

皆の破顔一笑はレンズを向けていてこそだし、レリーズボタンを押した瞬間に起こる。
カメラを持つ者との関係でできる空間にいてこその高揚感と緩和の楽しさ。
なのに時々写っていない自分の居場所を見つけたくなる。

写真は私の目だから、そこには「わたしが」見たものしかない。
そういう意味では私が確かに存在している。
でも、この現実とはどのように関わっているのだろうか。
それが問題だ。
写真の現実に対して私は誰・何者なのだろうか。
- 2017/03/18(土) 00:00:38|
- 人物
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この人には以前もお会いして写真を撮らせていただきましたが。それを覚えていてくれました。
私がお渡ししたカードを見て「やっぱりそうですよね。」

今はほとんど仕上げ段階の金彩をしています。
華やかで高級そうな、いい感じの猪口ができますね。
マットな黒色が落ち着いていいですねぇ。

伝統工芸大学校の「卒展」を見せてもらいながら、立ち寄りました。
若い学生たちの卒業生作品ですが、思わずうなるような出来栄えのものありますし、これはすぐに買い手がつくなというものもいくつもあります。

他の芸術系大学の・卒業・進級制作展でも同じことを感じますが、この2年とか4年を本当に充実して過ごしたんだなあと感じさせる作品と、技術云々ではなくして思いが定まらずに過ごしてしまった残念な時間を感じさせるものもあります。
それぞれの人生の一階梯ですが、双方に「頑張れ」と声をかけたくなります。

この人は卒業後ある陶器の会社で働き、既に独立していますから、職人としての名前を持っています。
私のような「なんちゃってアーティストネーム」ではありません。
非常に細やかな線を描くのですが、タヌキの背の毛で作った筆を使います。
お腹の毛で作られた筆もありますが、背の毛の方が弾力があってこの場合には適しているのだそうです。
金彩は「金粉」を使うわけでが、「金属ですから1年くらいで筆先が擦り切れて使えなくなります。」とのことでした

。
- 2017/03/17(金) 00:00:23|
- 陶器
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ふと、あるCDをトレーに入れて聞いてみる。何気なく選んだCDはかつて中国瀋陽に連れていったもの。
一挙にその宿舎の窓を開けて冷たい空気を入れた時の感覚を思い出す。
その時には急遽買い求めていったノート型パソコンの小さなスピーカーで、しばらく後には仲の良い双子の学生がくれたこれまた小さな外付けスピーカーで聞いた。
今日は自宅のオーディオで。
「盛年重ねて来らず」・・・・・、まだまだこれから新たな「盛年」を迎えたいものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

カメラに露出を任せると思わぬ画像が得られます。それがまさに設計上の「適正露出」なんでしょうが、色々不思議です。
で、ほとんどマニュアルです。
最近の私はフォーカス(ピント)も含めてマニュアルに戻る傾向があります。それでないと面白くない。

普及機はともかく高級機と言われているグレードのカメラはマニュアルで操作するときに快適なように作ってほしいものです。

高機能機と高級機が混同されている気がしてつまりません。
プロが使うからいいカメラだという考え方からも早く脱却してほしいものです。
プロの仕事で撮る写真と良い作品を作ろうとする写真は必ずしも一致しないことはつとに言われていることです。
漁師が使う釣り具や網が、釣りの醍醐味を味わおうとする釣り人に相応しいかどうか・・・。

135ミリのレンズを使いたくて、試みにフィルムカメラに付けてファインダーを覗きました。
カメラはコンタックスRXですが、ファインダーの心地よさ、きれは、今は昔の感が深いです。
カメラはどこに向かって「進化」しているんでしょうねぇ。
- 2017/03/16(木) 00:13:47|
- 人物
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もう少しでこのブログも満6年になります。
ほんの少し前に、もう5年になりますと書いたような感覚があります。
この間には私自身にもいろいろなことがあり、様々な変化がありました。 肉体的生理的には着実に老いていますが、新たな経験をすることで新鮮な思いを抱けることは幸せなことだと思います。
ことにこうして写真を撮り続けていられるという事は家族を含め多くの方たちの力添えのたまものだという事は言うまでもないことです。
改めてお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございます。

私はリタイア後を5年を区切りに、さしあたり3段階で意識をしてきました。今はその第2期の一年目が終わるという事です。
私の周囲には80歳を超えてますます意気盛んという方々が幾人もおられますので、5年ずつの3期計画というのでは消極的ともいえるかもしれませんが、まあ私のDNA的な未来としてはほぼ妥当かなとも思います。ですので、ことに実りある第3期を迎えるためにこの第2期をどう過ごすかがカギかなと思っています。

ただ、やはり大切にしたいことは「楽しいことをワクワクしながらやっていく」という事です。「・・・ねばならない」「・・・・べきだ」はできるだけ置いていく。
「おだてられるに任せて木に登れ!そうすれば豚は豚でも木に登る豚になれる」
「チャンスは前髪を掴め」
などなど、まあ、がらくたのような勝手な格言を身にまとい武装して蛮勇をたくましくしていこうと思っています。

じわじわと真綿で首を絞められつつある日本の現代において私ができることはそれくらいの事ですし、素敵な人たちを見つけてリスペクトする写真を撮ることで「異議申し立て」をしていくのは私にとってはとても楽しい『小さき旗揚げ』なのです。

それに私にとっては随分昔に取り残してきた自分を「おいで君の出番だよ」と言ってあげる行為でもあるのです。
それは自己回復でもあり「終活」でもあるわけですね。

わたし(たち世代)は、こうしたなにかにつけてことさらな意味づけを必要とするところに良い点と悪しき面があるのでしょうが、しかし、今や「軽薄短小」ととさえ振り返ることがないほど、薄っぺらくなっている世の中において、いちいち手触りを確認して生きていくような人間がいても良いのじゃないかと思っているわけです。

このレースの服とレザーのスカート。
いい選択です。
- 2017/03/15(水) 00:00:01|
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先日あるところでこういうことが話題になりました。
ヨーロッパに行くと、日本の芸術大学を卒業して・・・・例えばそれが大学院だとしても・・・・高い技能を持った演奏者でもなかなか向こうの機関に迎え入れてくれない。むしろ東大や京大の別の学部で学び、並行して音楽の勉強をしてきた人の方がチャンスがある、というようなことです。

私は少しそれが分かるような気がします。絵などの学生を見ていて思うことがあるからです。
同じことは写真の雑誌を見ても感じます。

ごくごく乱暴に言えば、テクニークはあってもフィロソフィーに欠ける、あるいは希弱だという事でしょうか。
私はその点若いころから写真に取り組んできていないし、これから「写真家たらん」という覚悟にも欠けています。フィロソフィーは勿論、テクニークもまた備わらないので、自分の事は棚に上げっぱなしでの、トーチカの中からの批評で申し訳ないのですが、そういう事じゃないかなと感じるのです。
この写真のように素人の手慰みモロだしのものをアップしていたのでは、大きなことは言えません。(こういう言い方はフォトマヌカンをしてくれている彼女には申し訳ないのですが)

私は結構、東大生、京大生に期待している方だと思うのですが、東大、京大に行ったからフィロソフィーを持っているだろうと必ずしも言えそうもないところが、残念なところですが。
それは中江兆民の指摘した時分から本質的に変わらない日本の思潮の特徴でしょうから、学生だけの問題じゃないわけですし、他人のことを指摘したら済むというものでもないのです。自分に返ってくるわけですよね。

私が加えてもらっている京都ファインダー倶楽部の創立者の一人であるF氏が「写真は芸術にならない」と言われていますが、単に即物的に「『写真』であるしかない」と言うことだけをいっているのではなくて、周囲の写真を見ていて「写真にフィロソフィーが感じ取れない」という事を言おうとしているのかななんて私なりに曲解をしてもいるのです。

こういうことは、私のように考えもなくボカシたり、ブラしたりすれば何かモノ言いたげな写真になると思っているようなことじゃだめだということで、そことははっきりしているでしょう。

だからこそ、この人のような文化的素養を持つ人との交流が私には楽しくもありうれしくもあるわけで、またほかの若い方、年配の方たちとの交流を通じて、ないものねだりの手探りを続けていこうとも思う動機になるわけなのです。
写真は人を見、人を考える窓ですから、撮り続けることが何かの役に立つはずです。それに、それはとても楽しいのですし。
- 2017/03/14(火) 00:00:16|
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写真は楽しい! そう思う時ですね。
この場所では以前にもこの人を撮ったのですが、その時にはまだお会いして間もないころで、お互い遠慮が多分にありました。

それがこの間に数度撮影の機会を持ったことで、随分お互いの了解が増しました、・・・・と思います。
それで私のへたくそな要求の仕方にでもうまく応えてくれるし、上手に自分を表現し提案してくれます。

彼女には彼女のこれまでの美的体験がある・・・・それがとても魅力的に感じられるのです。
ですから、撮った写真を背面液晶モニターで見てもらうと率直な感想が返ってきて、それが良い刺激になります。

時々は、今私が何を狙おうとしているのかを説明しますが、私は「はい、撮ります。」の合図なしで撮り続けるタイプですので、…ただ、「よしよし」「いいぞ、これだね」なんてつぶやきますが・・・・ポーズしていても????かもしれません。が、その中でも微妙に工夫をしてくれます。
それで、時々モニターを見てもらって「この光を掴みたかったんだよ。このボディーのラインが魅力的だろ?」と示すのです。

「ヒッチコックの、あの感じだね。」なんて本当かなという言葉も口にしてしまいますが、ちょっと物語もしてみます。
賢い人ですから、すぐさま理解し、表情やポーズで答えてくれます。
私はプロのモデルを撮りませんけれど、こういう「素人」と組めると楽しくて仕方ありません。

私自身がじわじわと感覚・イメージを広げていく感じです。
その手探り感が私にとっては醍醐味なのですね。
どこにピントを合わせるか、これまで無自覚だったなあと思います。

数年も後には、この写真などを見て「なんと未熟な写真を喜んでいたのか。」と言えるようになれたら嬉しなあと思います。
- 2017/03/13(月) 00:00:09|
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音楽って不思議だなあと、演奏を聞くたびに思います。
音によって感情や思想を表現するなんてことを人間はよくもまあここまで高めてきたものだと思います。
作曲する人は勿論の事、笛やラッパで人を「感涙にむせぶ」ようにしたり幸せな気分にさせるという事は、もう「魔法」というよりほかないと私は思うのです。

こんな難しいことに挑んで、それを成し遂げる人がいるという事は、人の可能性というか、素晴らしさと言おうか、そういうモノを感じさせます。
そういう事に匹敵する写真っていうのはどれくらいあるのでしょうか。

このリハの後の本番で、私は窓の外に見える琵琶湖の景色を見ながら、なんて贅沢な時間だろうかという思いに浸っていました。

そしてこういうことを企画し、人が楽しむことを楽しみ、人の出会いを喜ぶような人がいることを感謝していました。
私はここでいろいろな人格に接することで、まだまだ知らない広大な世界があるなあと実感するのです。
そして人一人がたどってくる人生というものがどれほど芳醇なものであることよとしみじみ思うのでした。

テーブルに並べられたビール、ワイン、ウィスキー、焼酎、日本酒・・・・一体何本あったでしょうか?
それが気持ちよくすっかり飲まれてしまう心地よさ。

誰一人悪酔いせず、節度を越えて乱れない、それでいて柔らかく開放的な談笑があちこちで花開く時間。
たとえ「あなたの蒼樹という名前はインパクトがないしセンスが古い。写真展のキャッチ・コピーも『素敵な人たちと』では人を呼べないよ。」という単刀直入な言葉も心地よく・・・・。
でも、私は電通、博報堂的な言葉遣いはしたくないのですよ、と切り返し。
- 2017/03/12(日) 00:00:36|
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この方はピアノ奏者なんですが、ご自身のピアノを気軽には持ち運べませんから・・・・・。
昨年、ハープシコードの演奏者を撮って、楽器の移動がいかに大変かを垣間見ました。
リハーサル前の小一時間は演奏者自身による調律の時間でした。

実はこの方、高校が私と同窓だそうで、一回り後輩にあたります。
私の学年にも東京芸大でピアノを学ぶ人がいましたし、3年下にやはり東京芸大で声楽をする女子がいました。私などそういう…芸術系の大学に進むなど・・・・思いもよらいないというか、世の中にそういう選択肢があることさえ知りませんでした。
家庭の文化力≒経済力の差ですね。

研究者になるものや海外に雄飛するもの、大企業・行政の上層部で活躍するものなどなどいろいろいるようですが、画家や音楽家として活躍する人もたくさんいるようです。
私自身は出身高校のことに肯定的な意味ではあまり興味がありませんので、同窓会名簿も持っていませんし同窓会にも参加しません。が、出身者は(多くが関東に向かいますの)関西では珍しい存在ですから、大切にお付き合いしたいと思います。

このメンバーのうちでは年長格になるからというだけでなくて、音楽的見識、技能も高く信頼されているようで、こうした急造のアンサンブルを確実に支えておられます。

要所要所を締める助言をされます。
お人柄でしょうか、若い音楽家たちがこの人のもとに慕って集まっているようです。

前回も一番奥まった処にポジションを置いていましたのでなかなか撮りにくかったのですが、今回は図々しく…同窓の好も手伝って・・・・ググッと迫ってみました。
- 2017/03/11(土) 00:00:23|
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この素敵なログハウスが会場なんですが、本番では最前列の人は演奏者をほとんど1メートルか2メートルの距離にして聞けるんです。

歌い手の人が腕を頭上に伸ばしています。
やりましたやりました、あれですね。 「声は頭のてっぺんから上へ上へ響かすんだぞ! ほらこうするんだ、皆やって見ろ!」と合唱部の顧問に言われました。 「天井からつりさげられている感じで! 声を上に抜くんだぞ!」
そうやって大学のコンパで歌ったら笑われました。いえ、手をこうして頭上に伸ばしたからではなくて声を頭から出したからです。

さすがですね。声が見事に全身から出て来ます。
決して大柄な人ではないのですが、声にボリュームを感じます。
リハーサルですからお互いに合わせながら、確認しながらの演奏です。

今、オーボエの方のすぐわきに立って撮っていますが、こういうことをさせてもらえるのがうれしいところですね。
目の端に「オジャマムシ」が映るでしょうからやりにくいことでしょうが、

こんな角度からも撮ります。

譜面台の下にももぐりこみます。
演奏する人にも喜んでもらいたい、そういう写真を撮りたいと思うと、つい潜り込んだり、よじ登ったりしてしまうのですね。

- 2017/03/10(金) 00:00:35|
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早いもので、あれからもう一年が過ぎました。
昨年も、「大雪になるので不要不急の外出は控えてください。」と気象庁は繰り返し繰り返し注意を喚起していました。
そして今年は昨年をも上回る降雪が予想される、と。
実際、各地で大雪が降り被害の報道もされています。(お見舞い申し上げます。)
しかし、幸いなことにこの地域では道路の傍に積もった雪こそ残りましたが、コンサートを開くことは可能な、いえ青く晴れ渡った気持ちの良い空になりました。

このミニコンサートに楽しい会食が付きます。
私は他のお客さんに先駆けてこの音楽家たちと会場に着きます。同じ時刻の電車の同じボックスでお話ししながらの到着でした。
というのも写真を撮りたいという私のお願いを聞き届けていただけたから。

昨年は少々編成が違いました。
今年はピアノ、オーボエ、ファゴットにメゾソプラノの歌い手が加わります。
いつもの事ですが本番では撮影は憚られますので、直前のリハーサルで撮ります。
オーボエの音、好きですねぇ。 「魔法」を思わせる音です。

オーケストラを編成する楽器のうち最も演奏が難しい楽器だとも言われます。
学生のころ大学の交響楽団で演奏して、以来、オーボエ奏者になったのだそうです。
かなりの理論家ともお見受けします。
人柄から言っても、ことによったら将来指揮をとることもあるのでは・・・・・と、門外漢の勝手な憶測。

リード楽器は奏者の呼吸を感じさせて、とても人間的な楽器に感じます。
心地の良い音です。
この方が今日新たに参加されるメゾ・ソプラノの歌手。
ソプラノ、メゾ・ソプラノ、アルトと女声は高い声から低い声に分けられることは皆さんよくご存じのところ。
ちなみに男声はテノール、バリトン、バスですね。
(中学生のころのこと。突如合唱部顧問に声をかけられてひと夏の合唱メンバーになったことがありました。以来不当にも自分は歌が歌えるんだという妄想がこびりつくのですが、その一方で、その時顧問の先生に「お前はバリトンだ〔・・・・だからテノールのように高い声も出なければ、バスのように低い声も出ない、どっちつかずの中途半端。・・・・と顧問が言ったわけではなくて自分の未熟な理解でしたが]」と言われて、凹んだ記憶があります。私自身が音楽を知らない故の幼い誤解でした。)
合唱であるにもかかわらず、一人声を張り上げて歌っていたコンクール前の校内でのは発表会。
「人の声を聞いて合わせろよな。」と顧問の指導。
今更ながら穴があったら入りたい。
- 2017/03/09(木) 00:00:38|
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この日は雨、霙・・・・。
ですからレイン・コートを着て来てね、とお願いして。
ここは街中のとあるギャラリーの中庭です。
絵を見に来たついでに「今度写真を撮りに来ていいですか。」とお願いして。

ベンチもテーブルも随分痛んでいて、体重をかけると壊れてしまいそうなんですが、そこがまた何とも言えずに良くて・・・。
秋の終わりには枯れ草が相当に繁茂していたのですが、それはまたそれでとてもいい感じでした。

お客さんは時々ここに下りて来てお茶を飲まれるそうです。そうでしょうね。

ここのギャラリーは著名な作家さんたちの作品を展示することが多くて、よい作品を見せていただけます。
もっとも「いいなあ。」と思っても私には到底購入はできませんが。
ごくごくまれに写真展もあります。 そう、極めてまれにですね。
私の撮影の多くは晴れか曇りの日です。
でも今日は雨や雪が降った状景で撮りましょう、ということで。

私が付けたもう一つの注文のせいで、ちょっと防寒には適さない服装になってしまいましたので、室外に長居はできません。
そろそろ引き上げましょう。
- 2017/03/08(水) 00:00:50|
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「梅~は~ 咲い~た~か~ 桜~は まだかいな 」
梅の便りはもう盛んに伝えられていますが、桜は早咲きのものがちらほらと・・・・。
桜は「ソメイヨシノ」だけのような扱いですが、とにかくそのソメイヨシノが咲かないことには、春、到来を多くの人が確信することはできない現実があるわけで・・・・。

春が来て、積もった雪を「雪かき」しなくてよくなり、雪下ろしの苦労からも解放されて・・・・、水が温み、暑いコートも脱ぎ捨てて、
畑の土も温まって、・・・・。
そういう本格的な春にはまだほど遠い日の撮影でしたが、この日ばかりは春めいて・・・・。
陽光が地球の公転が進んでいることを確実に教えています。

「あそこに上がってくれると面白い絵になりそうなんだけど、ここから石垣をよじ登り急斜面を這い上がるのは難しいなあ。ぐるっと迂回していこうか?」
「大丈夫です。登れると思いますよ。」
「えっ?だってかなり急だよ。それにスカートじゃあ・・・。」

と、私がうじゃうじゃいっている間に、するすると登り始めて・・・・。

元来、スポーツウーマンのようです。

一足早い春を告げてくれています。
隧道での陰影の濃い写真も大好きですが、こういう晴れやかな気持ちの良い絵もいいですね。


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- 2017/03/07(火) 00:00:26|
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ISOを少し上げればこうして隧道の中でも写真が撮れるという事は、現代の写真(カメラ)事情の有難いところではありますね。
昨日のブログで135ミリは被写体の人から遠すぎて・・・云々(くれぐれも「でんでん」ではありませんので)と、書きましたが、
使いたいレンズがあります。

そうすると24,50,85,135ミリくらいを持ち歩かねばならなくなります。
一本勝負!! と決めればいいのでしょうが、私のように街を歩き回りながら、その場その場で撮る場合には、なかなかあらかじめ「これ一本」という訳にはいきません。欲が深いというか、技術的カバー力が乏しいというのか。
もしそれでも一本に絞るということになれば45ミリとか50ミリになる人もいれば、35ミリくらいがいいなあということになるのかもしれません。

それでまあ、私の場合、28ミリ-70ミリというズームレンズが活躍していた時期がかなりあったのですが。
そのレンズが生産されていた時期はオートフォーカスに移行する時期でしたからむろんオートフォーカスに対応しているんですが、さっそくというかなんというか、マニュアルでピントリングを動かすと実にがさつな感じになっているのですね。
この写真は被写体自体もボケています。
ソフトフォーカスフィルターを使う手もあるんでしょうが、こういう周囲のグッズを持ち歩くと、肩が・・・・・腰も悲鳴を上げます。

私のこういう『御託』もこうして撮らせていただける素敵なフォトマヌカンがいてこそです。
この人たちの表情や仕草が画面を支配する大きな要素ですから。
映画も舞台も役者の存在、その演技なくしては具現しないわけで。
- 2017/03/06(月) 00:00:09|
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明るい暖かな日でしたから、ここを選ぶことができました。
人通りが少なくないところですから、この人も安心です。

小さな隧道ですから光も届きますし、ここは写真を趣味にしている人たちがよく撮るところでもあります。
写真はなんといっても「光画」とも言われるものですから、こうして光の効果を上げやすい場所はありがたいですね。

ポートレートを撮っているプロの方で、もっぱら135ミリのレンズをつかい、それも開放でしか使わないという方がおられます。
ずいぶんと潔い判断だなあと思います。 が、私にとっては135ミリは少々被写体の人との距離が遠すぎますし背景を圧縮しすぎて窮屈です。
でもそれだからこそ劇的な画面を作れるという事もあるのですから、そこを追究し掘り下げてこそ自分の世界を生み出せるのかなと思います。

その人は「単焦点レンズ」を使うのが原則だと言われていました。開放f値が小さいからです。
つまりは明るい大口径レンズという事ですね。
私も、今日のように被写体の方との撮影上での関係が安定している時や、ロケーションを自分で選択できる場合にはやはり単焦点レンズを使いたいです。
開放F値が1.2とか1.4の。
最近はカメラで選択できるISO値がとても高くなって、それでもうF値は大きくても(レンズの明るさはそれほどでなくても)「写る」ので、大口径レンズは高価だし重いしということで各カメラメーカーはレンズ生産にも熱心でないような気配を感じます。
重いレンズはAFのために動かすうえでも負担が大きいですからね。
動くものを撮りたい人たちが、AFの駆動も速く速くと急き立てますしね。
それはあくまでそういう分野の方々の要求、願いなのであって、それがすべてではないのに、競いう合うように速くしています。
そのあおりを食って鏡胴が軽いプラスチックになっていくので、MFのリングのタッチが実にがさつで精度感・節度感の無いものになっています。

こういう人物写真を撮っていると人物の顔や体を柔らかくカーブする立体感をもって再現できるレンズやカメラの演算システムがほしいのです。が、そういうことはほとんど話題にならず高精細、高感度、高速などの事ばかりが話題になります。
メーカーもそういう声に押されて?開発の流れはそちらに・・。
というか技術陣の「技術的に今『売り』にできること」の方に流されているような気がしますね。つまりはメーカーの都合かな。
でも、写真はそういうものでだけではないので、もう少しゆったり大きく構えて多様に開発してほしいものと思います。

写真文化の担い手として・・・という事ですかね。
- 2017/03/05(日) 00:00:37|
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日本海側だけではなくて、全国のいろいろな地方で激しく雪が降り積もるという日に、琵琶湖湖岸の、あるログハウスで、それは楽しいミニコンサートと会食の集まりがありました。
わたしは誘いに乗って、スパークリングワインを片手にカメラバックを担いで参加しました。(一人一本または食べ物一品を持参する。それがルールなのです。)

そこでは様々な経歴の方々がお一人で、あるいはご夫婦で参加されていて、このあと数日で、拙ブログ上でご紹介する音楽家たちの演奏を楽しんだのです。
私は、その音楽家たちのゲネプロの撮影に闖入させていただくのにカメラを持っていったのでした。
自己紹介の際に「普段写真を撮っている者です。5月23日から写真展をしますので・・・。」などと話したうえで、「会の間は写真を撮りませんのでどうぞご安心のうえくつろいでください。」と申し上げたのですが、・・・・。

この方はバード・カービングをされている方なんですが、部屋にある薪ストーブでずっとずっと肉を焼いてくれていました。
その風貌を見、寡黙に炎の守りをする姿を見ると、撮らずにはいられなくなって、ついカメラを持ち出してしまいました。
皆さんもこの気持ちをご理解いただけると思います。

この方のこれまで培ってきた風貌とストーブの前に陣取る姿を見て、指をくわえたまま撮らずにいたら、「人の写真を撮っています。」なんて言えませんよね。

この肉、実にうまかったのです。
- 2017/03/04(土) 00:00:42|
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「少し髪を切りました。今はこんな感じです。」と自分のポートレートを送ってくれました。
それは幾分パンクっぽい感じのものでした。
それで私も、少しでもこれまでと違う撮り方をしないと期待に応えられないかなと・・・・・。

まあ、そうはいっても私の狭い常識観念では、たかが知れていますが、いい機会だなあと思って・・・・。

この目の訴求力はすごいものです。
そこに焦点を持っていくためにはモノクロの方がいいだろうなと。
色は結構、邪魔しますしね。
というか、私は色をうまく使えないのです。

「妖艶」という言葉は分かりますか?と聞いたのですが、さすがに知らないようでした。
でも言い換えて説明しようとするとなかなか難しいですね。
「なまめかしくあでやかなこと。怪しいほど美しいこと」と広辞苑にはありますが、問題をますます複雑・難解にするように思います。
これで説明できたと、本当に新村出さんは思われたのでしょうかね。字数制限で涙をのんだんでしょうか。
(もっとも辞書は、ある言葉を引いて新たに出てきた意味の分からない言葉をさらに引き、そこでまた未知の言葉に出会うということを繰り返すことで「分かっていく」ということが身上でもありますから、新村さんは、そのためにこんな分厚な辞書を作ってくれたともいえるのですが。)
それにしても洋の東西で「艶」というのも、おそらく相当違っているのではないかなと想像します。
そもそも「艶」という言葉自体も変遷があるのだし、異なった意味合いを持つのですが、いまではその多くの場合広辞苑の⑤の意味で使うようです。
そして⑤の説明の「色めいたこと」のニュアンスをこの人にわかるように説明するには随分の言葉数が必要になるんじゃないかと。

はたして「セクシー」と「色っぽい」「艶っぽい」は同じなんでしょうか?
- 2017/03/03(金) 00:00:17|
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