今年も多くの方々に協力していただいて人物写真ばかりを撮ってきました。
音楽家の方々の写真が少しずつ増えてきました。今度あるフルーティストに撮らせていただけないかと思っています。来年早い時期にはどうかな。
彫刻や絵、陶芸の方たちにももっと出会って撮らせていただきたいものと思っています。
職人さんたちとはもう一歩踏み込んだ写真になればという思いです。
人数はごく少ないですが、若い女性の方にも撮らせていただきました。ほんのわずかですが今後も発展的に撮らせていただけそうな方にお会いできました。
二度目三度目になる方々も何人か出て来ました。

そんな経験の中で、撮らせていただいた方に本当に喜んでいただけて、私のこんな行為を感謝してくださる方さえおられました。うれしいことです。
何より私が楽しんでいます。

ドイツ旅行の際にミュンヘンで味わったストリート写真の楽しさ。それを日本に帰って味わうことはできていません。おそらく今後も難しいと思います。 日本の精神的風土が妙に歪んでいるような気がして怖気づいています。
たくさんの方々の写真も見せていただきました。上手な写真はたくさん見せていただきました。
けれども、その大半はあまり私の感興を呼び起こしませんでした。何故かと言えば「主題が弱い」からでした。
(こんなことを言うのはちゃんと写真集・・・・つまり本気で撮っている人の写真・・・・を見ていないからだと思います。それにネット上でもよい作品は探せばたくさんあります。)
その点は私自身の課題でもあります。

今年、結局のところ新しいカメラを選びきれませんでした。
今は、どうもキヤノンの5D系になるような予感です。わたしはOVFを諦めることができそうにないからです。そうはいっても金銭的な理由でずっと今のソニーα900とキヤノン5Dを使い続けるのではないかと思います。
ほとんどマニュアルで撮れていますしね。

来年は・・・・、それは新年に書けばいいことかな。
鬼が笑うといいますし。
私のここ5年余りは写真が切り開き、写真が作ってきた景色です。
新たな知人も増え、人との出会いのチャンス、体験もくれました。何よりワクワクと挑戦の課題をくれました。
そうして、このブログを訪ねていただいている皆様に出会う事で、またなにくれとない話を聞いていただけることで、毎日を過ごせています。
今年一年もまた、拙ブログにお付き合い下すって本当にありがとうございました。
もうすぐ今年も過ぎ去っていこうとしています。
皆様には良いお年をお迎えください。
では、また来年お会いしましょう。
- 2016/12/31(土) 00:00:51|
- 工芸
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こうして高橋さんに何度も撮らせていただいて、ようやくいくらか人物写真になってきたかなあという気がします。
それはKさんについても同じことが言えるのですが、「撮ることを告げてから撮ったのでは自然な写真が撮れないでしょう。」と言われるような意味での「自然な表情の人物写真」ではない人物写真を目指したいものと思って、撮っています。

ほんのひと時手を止められて一緒に「最近のカメラ」談義をしました。
写真を撮ることの面白さ、楽しさをとてもよくご存じです。
それで、「レンズを試しに来ました。」とお伝えしても嫌な顔一つされずに制作を続けてくれます。
仏像や面についてもいろいろ教えていただいています。

面に魂が籠っていくということが言われますが、そういう空気が漂っていて、何だかその言葉に得心が行くように感じます。

はたして写真にも魂の籠った作品ってあるんでしょうか。
無論、ありますよね。

今日のレンズは「カール・ツァイス ゾナー180ミリf2.8」、カメラはキヤノン5Dです。
- 2016/12/30(金) 00:00:15|
- 工芸
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「メメント・モリ」
古代ローマで意味されていたように、「遊びをせんとや生まれけん」の精神で。ちょっと違ったかな。
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」はこれまで幾度となく引いてきた言葉ですが、正月三が日を過ぎるころには大概忘れます。
それで年末に思い出して、今年は三が日の後にも意識したということにしておきます。

使ってみたくなったレンズがあり、はたして使い物になるのかどうか試させていただきました。
そんな理由で撮りに来るなんて失礼もほどほどにせよと怒られそうですが、この方のご厚意にすがります。

撮るからにはただシャッターをきって画像を見て鮮明度や光量落ちなどを確かめるというのではなくて、この人の発している空気に臨むのに使えるかどうかを感じたかったというわけです。

実は今までにも何度も撮らせていただいてきました。
で、この方は私よりもずっと写真やカメラについて造詣が深いのではないかと・・・・。
父上、兄上が深く写真にかかわり、ご自身もかつての仕事は写真のすぐそばだったそうです。

それで私の「撮らせてくれませんか?」に対して好意的に応じていただけているんじゃないかと。
般若の面を作っておられます。
こうした面には基本的な型があるんだそうで、型紙・・・というのかどうか知りませんが・・・・を当てながらの作業です。
面の図もあって各部位間の詳細な寸法もあります。
だからと言って元の面の持つ迫力は勿論のこと、ただ形だけでさえ直ちに再現できるといったような簡単なものではありません。

こうした摸刻から多くのものを学び撮っておられるのだと思います。
昔の絵師たちは模写を重ねたのだそうですが、そういう意味があたのでしょう。
「学ぶ」は「真似ぶ」だという事はよく言われることですし、学ばなければ発展も創造も危ういです。
- 2016/12/29(木) 00:00:45|
- 工芸
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せっかくこれを書いていますので、ついでにカラヤン指揮のヴェートーベンの第九を聞いています。
ただ、カール・べームの方がいいなあなんて思いながら。
カラヤンさん、そんなに急がないで・・・と。

間違い探しのような2枚ですが、これがずいぶん雰囲気が違うように見えるところが写真の面白さですね。
どちらを採るか、難しいところです。
が、わたしは・・・・。

いろいろに撮っています。
そして様々な違いを見つけてみます。
デジタルになって1カットに入魂しないで撮るようになって・・・とその弊害が指摘されます。
私もそういう意見に共感するのにやぶさかではないのですが・・・。
フィルム時代は一カットが高価でしたからそうしないではいられない面もあったと思います。そういう事情もあったのだという事から生まれた側面を無視して、そういうことをあまり美化しないほうが良いと私は思っています。
被写体のジャンルによっても違うのですし。

音楽家もいろいろな音を何度も何度も探りながらもっと良い音を見つけ出すのです。
こうだろうか、ああだろうか、もっと良い絵はないかと自らダメ出しをしながら繰り返せるのはデジタルになっての恩恵ではないかと思います。少なくとも私にとってはそうです。

ただ、たくさん撮っておけば、その中にいいものがあるだろうとか、後でなんとでもなるさというのもありますね。
こういうのはどうなのか・・・・。

クリスマスの日に演奏をするんだそうです。
若い時に楽器に出会えた人は人生を豊かにできますよね。本当に羨ましい。
フラッシュモブの映像などを見るとそう思います。
音楽は自分を深め楽しませるとともに人を喜びに包みますものね。
こういう感動を写真で・・・・といっても・・・・・可能なんでしょうか。
- 2016/12/28(水) 00:00:34|
- 音楽
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お見かけしたのは19日でした。
「クリスマスの日に演奏するんです。」とのことで猛練習です。
クリスマスや年末、そしてニューイヤーのコンサート。
私は、残念ながらそういう場所で生演奏を聴いたことがないのです。

と、そういえば遠い遠い記憶をたどればヴェート―ベンの第九を聴いたことがあったような。
そうでした。第一楽章が始まったというのに、それをチューニングだとばかり思っていたくらいの頃でした。
確か学生の頃でしたね。
でも今はそういう機会が滅多になくて・・・・・。
おや、チャイコフスキーかな れれ?!シュトラウスかな…なんてくらいです。
第2バイオリンですから門外漢の私にはますますわからないわけで・・・・。

スコアが2冊ありましたから両方だったかも。
少なくともチャイコフスキーであることは演奏しているご本人から伺いました。

私は小学生の頃「学芸会」の器楽演奏で、主旋律以外のパートをなぜ他の皆が演奏できるのかその理由がわかりませんでした。
それは長じても同じで、とても合奏や合唱ができる能力はないなと思いました。
中学3年の時に合唱部の顧問が「夏休みには合唱部に参加しろ。」と命じたのは、私の一生にとっては大変ありがたいことではあったのですが、その勇断には今でも不思議を感じています。
- 2016/12/27(火) 00:00:40|
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約束の時刻をほんの少し早くライブハウスに到着しました。
そこで「松峰さんの写真を撮りに来ました。」と告げますと、どうぞどこからでも・・・・、「カメラマンさんの多くははその辺りから撮ってますよ。」と教えていただきました。
お客さんが入っていればまあここが最良の場所だろうなあと思いました。そこに荷物を置かせていただいて・・・・。

マイクの位置と床が少し剥げて歌手の立ち位置だろうなあと想像させる位置が微妙にずれていました。
私はその少し剥げた場所で撮影の調整をしていますと、どうもちがうようで、「歌手はここらあたりに立ちます。」とマイクの前をさして教えていただきました。
松峰さんの前にライブをした方の立ち位置に、マイクも照明も設定されていて、どうやらそれをそのまま使うようです。

それにしても京都・東京を度々移動して公演をされているようで、なかなかのご活躍です。
ネット上で検索すると華やかなステージの様子が見られます。

人生や大人の恋の物語が切なく語られるのですが、それを客席の一人一人に向かって言葉一つ一つ手渡しで伝えるように歌われるので、こうした広くない会場ではより効果的だろうなと感じました。
まるで「あなたとのあの辛い別れ。それでも私は締め付けられた心を抱いたままあなたとの再会を待っているのよ(なんて言う詩が実際に歌われたわけではないのですが)」と目を見つめられて歌われては、男たちはコロッといってしまうんじゃないでしょうか。

そしてこうした朗読はエモーショナルな気持ちを、今度は心の奥深くに静かに沈めて定着させるような効果を生んでいます。
- 2016/12/25(日) 00:00:55|
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私はいつかの個展の時にやりたいことがいくつかあります。
その一つは私の写真とその被写体となっていただいた職人さん作家さんの作品の展示、そして音楽家の演奏の共同です。
これは少々大きな夢で、どうも写真が食われてかすんでしまいそうですが、実現してみたい構想です。2,3の方の協力してもいいよというお話もあるのですが、それだけの方々の気持ちが重なる瞬間を作ることができるのか、そこが問題ですね。
そしてもっと近い構想としては音楽家のコーナーを作ると言う事です。
今年9月の京都ファインダー倶楽部の写真展に「古楽アンサンブル」の写真を出させてもらいましたが、それに加えてジャズ・パースンや路上パフォーマー、そして今日ご紹介するシャンソン歌手などを加えてのコーナーです。

すでにたくさんの素敵な写真をお持ちの松峰さんに「今度リハーサルの時に撮って」いいですよと言っていただいたのはうれしいことでしたが、単純には喜べないなあと高い山を感じました。
まあどうしたって自分が楽しいと思うような撮り方しかできないのだから変に気負わないで、この際は機会は活かすべしの精神でお邪魔しました。

松峰さんはシャンソンの歌詞をご自身で訳されていたのですが、いつしかそれをご自身が歌われるようになった方です。
フランス語には勿論ですが日本語にも造詣の深い方です。

京都の四条河原町からほど近いところにシャンソンのライブハウス「巴里野郎」があって、そこでのライブのゲネプロを撮らせていただきました。
客席には関係者しかいない中で本番さながらに気持ちを込めてリハができるのはやはりプロだなあと感じ入りました。
朗読と歌で構成されたステージです。

以前お会いした時に、冒頭に書いたような構想をお話して、いつか機会があればとお願いしていたのです。
が、これもまた先に書いた「古楽アンサンブル」の写真を見ていただいて、これなら撮てもらってもいいだろうと言う印象を持てっていただけて・・・・。
私は、シャンソンはまず言葉ありき、物語(詩)ありきの歌のような印象を持っています。
そして歌手は、その詩を演じるように歌う。
シャンソンに限らず歌はそういうものだと思うのですが、表現の仕方としてそれがシャンソンには濃厚に表れていると。

まあこれも、私のいつもの文字通りの「一知半解」でしかないのですが。

ですから、そういう瞬間をとらえようと・・・気持ちだけは・・・・がんばってみたのです。
衣装も含めて華やかさのあるステージなんですが、敢えて「物語(詩)を歌う」姿に焦点を絞るためにモノクロ・セピアにしてみました。
- 2016/12/24(土) 00:00:49|
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今日はイブイブ。
私の・・・めったにない・・・調理担当日です。今回はうまく話を進めて(というか家族を丸めこんでというか・・・まるで私が家族を喜ばせるために一生懸命考えたようなふりをして)、ほんの少ししか作らずに「美味しいお店があるから」と、そこにお願いすることにしました。できるだけお金もかけずに。
私が作るのは何時も「名前のない」料理です。だって、思い付きで作るんですから。ですから二度と同じものは作れません。

私の人生そのもののようです。
アドリブ人生。
私は絵は描けないとよく口にしますが、こんなアドリブ人生を送るような人間に絵を描いたり彫刻をしたりなどできるはずもありません。
それで写真を撮っているなどというと一生懸命写真を撮っている方には叱られるかもしれませんが、実のところそんな感じです。

この人の鼻筋と口が素晴らしい・・と私は思って。
写真に独特な格調を与えてくれるように思います。
ですから大人の品格のある写真が撮れる人ではないかと思うのです。

背景に決して負けないのです。
きれいな紅葉があってもその背景からこの人がポップアップしてくるのです。そういう力があると思います。

幸いなことに「この次は和服で撮りましょうか。」という話も出てきていますので、鈴木画伯に負けないような写真を撮りたいと思います。
(と言っても、以前から書いているように写真ではとてもとても絵にはかないませんが)

それでも写真には写真の強みもあるはずで、それが何かをもう少し探求してみたいとは思うのです。
ウム、今そのヒントを突然思いつきました!
書いておかないと忘れてしまいますから書きつけます。
絵は何もかも自分で書かねばなりません。万葉の女性にはそれにふさわしい背景も(ありのままという意味ではなくて)自分自身で描くのです。それが強みだし、それだからこそその技術やセンスを称賛されもするのですが、別に言えばその人の技量の枠を越えては描けないのです。
しかし、写真では・・・・、有無これを「借景論」とで出も名付けておきましょう。

なんだ、ただの借りものじゃないかということにならないように熟したやり方になるかどうか、そこが問題ですね。良いフォトマヌカンがいてこその取り組みです。
来春が楽しみです。
- 2016/12/23(金) 00:00:08|
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ここは狭い道なんです。
自動車の離合もなかなか難しくて昔はよくトラブルになっていました。
そんな場所で撮っていれば私たちが交通の邪魔になります。
度々土塀に張り付かねばなりません。

二人でペコリと「ごめんなさい」の挨拶です。
「フォトマヌカンのあなたが僕の命を握っているんです。」とはよく言うセリフです。
撮影開始の時の「諸注意」の一つです。

気を付けているつもりでもついファインダーの世界に夢中になります。それで後ろから来る自動車には勿論のこと停まっている自動車や側溝・川に落ちないかをこの人に見てもらわねばなりません。
それなのに「横向いて、上向いて」と・・・・。
そういうわけで命の危険を顧みずに撮っているというわけです。大袈裟ですね。

誰も褒めてはくれませんが、・・・。

大概は、まず足元をしっかり定めて、撮ります。
でも、ずるずるっと気持ちに任せて動きますからね・・・ファインダーを覗いたままで。
殊に単焦点レンズの時はそこが・・・・つまり自分が動く・・・・勝負どころですから止むを得ません。

この時は、後ろは斜面だけれど立木があるから大丈夫・・・そう思って撮りました。

で、この人も、自分の役割をしっかり受け止めていてくれますから
・・・「後ろ来てますよ。 後がありません」・・・・・・無論大丈夫、何事もなく・・・・。
- 2016/12/22(木) 00:00:00|
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街の中には特に注意をひかない場所やモノがあります。
それはたいていそれ自体が目的や目標にならないからです。単なる途中の景色なのです。
そういう事にいちいち気を停めていたのでは目的地に達しませんし神経が疲れてしまいますよね。

でも、その普段気に留めない景色やモノに気を停めると、これがまた面白いのですよね。
私の場合はロケハンの中で見つけるのですが。

ロケハンの目的はおいしそうな料理の有りそうなレストラン探しでも、かっこいい服や靴を探しているのでもないのですから、周囲の人たちとは関心が違うのは当然ですね。
ですから、知人に「京都に行くからどこかいい店を教えてくれよ。面白いところはないか。」と聞かれても「随分繁華街を歩いているそうじゃないか。」と問い詰められても彼らに役立つ情報はまるでないわけです。

「ほら、何とか言う湯豆腐のおいしい店があるだろう?」「何とかいう老舗、この前TVでも紹介されていた」「庭がきれいだって雑誌に書いてあったぞ。一度くらいはいっているだろ?」なんて言われても、実に困るのですね。

「うんこのビルの向こう側には面白い壁があるぞ。」「和服ならあの川沿いで撮って見たいなあ。それなら案内するよ。」というのなら多少の見聞があるんですが。
これじゃあ友達も私を当てにできませんね。
「お前、何のために何十年も京都に住んでいるんだ?!」

全くですね。

もっともっといい撮影場所を見つけないと、京都で撮ってるなんて言えませんね。
えっ?! 方向が違うって。
でも、まあ仕様がないとあきらめてもらうほかないねえ。
今の私には写真のほかに能がないんだし、これだけが楽しみなんだから。
・・・・・それも能と言える程かどうかは問題だけれど、それはいいとしても、飲みに行くのは楽しみじゃないんだって。よく言うよ(友人・談)
- 2016/12/21(水) 00:00:43|
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けれど、ここは写真の背景にいいなあと探した場所でも、実際にフォトマヌカンに立っていただかないと、イケるかどうかわかりません。
その人に合わないとダメですしね。

ちょっとした頭の傾けかた、顔の向き、目線のへんかで写真の雰囲気は大きく違います。
背景と響きあう調子もグッと変わってきます。
これは、その場でやって見ないと分からないというのが正直なところです。

実のところフォトマヌカンにおんぶにだっこですね。

この方はわたしより写真モデルの実際とか撮影の状況をよくご存じです。
ですから「コートの下は薄着ですね、寒くないですか?」と何度も尋ねると、モデルさんたちが暑くても寒くてもがんばっている姿を見ているので、こういう我慢は当然だと思って・・・・、という返事でした。
でもちゃんと寒さ対策はしてるんですよ、とのこと。

私は「撮るよ!」とか「ワン、ツー、スリー」だなどと声をかけません。いつの間にか撮っているというのがいつものケースです。
それなのに、不思議なことに、
時にシャッターを切る度に目をつぶられる人がいます。
この人は、ほとんどそういう事がありません。
その違いは何なんでしょうね。

私と呼吸を合わせるように目を閉じる人もいるんです。
ただ、その時に、いけないことをしたとか、失敗だあと強調しないようにしています。それは大概その人の私に対する親切な気持ちがそうさせているのだと思っているからです。(その理屈は省きます。)

- 2016/12/20(火) 00:00:40|
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その人がどんなファッションで現れるのか。
私のしているような撮影のしかたでは、待ち合わせの場所にその人が現れるまでほとんどわかりません。
「マフラーをしてきてくださいね。」それだけがお願いしたことでした。

ですから、すべてが行き当たりばったり、出たとこ勝負。
イメージも、描きたい像もあったものではありません。
第一この前は浴衣でしたし、お会いしていた時間はほんの2,3分の事でした。

ですから事前にロケハンをするにしても、単に引き出しを増やしておく程度の意味しか持ちません。
むろんいつかだれかで、ここを背景に撮りたいなあという場所を見つけておくという事はたのしいことですが。
「黙って座ればぴたりと当たる」という八卦に学びたいぐらいのものです。
それにしてもこの人の年齢を5歳くらいは確実に間違って推測していました。
私の見る目は、実際のところあてになりません。

でも撮って良い感じの写真になるかどうかは何とかわかるつもりです。
それでお願いしているわけなんですが、これは間違ったというようなことは今までないとおもいます。
この人のこれまでの人生の流れの中で、ちょうどお会いしたころに「私も写真を撮ってほしかった。」という局面だったそうです。
なんという偶然でしょう。 というか、そういう偶然が重なったからこうして撮れているわけですが。

実年齢よりもちょっと大人びた落ち着きを持った人です。
ですが、当然のことですが私よりずいぶん随分お若いのですから、いろいろな点で感覚が違うはずです。
それでも、ああここで撮ったらいい写真になるだろうなあと思っていただいたり、楽しそうと感じてもらわないと写真が撮れません。

それでやはりロケハンが大切になります。
ですから私の街歩きは、大方の通行人とは見るものが違っています。
ちょっと不審者かもしれません。
これは以前にも書きました。
が、路地裏にまで入っていくときや、建物の細い階段を上っていくときなど、間違っても個人宅などではないことを確かめるようにはしています。でもそのためにきょろきょろしていること自体が怪しいですよね。
- 2016/12/19(月) 00:00:32|
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私は時々偉そうあまたでっかちなことを書いていますが、写真を自分の意図通りというか、イメージ通りに撮れためしがまずどありません。
というより、そもそもイメージなどというものもあらかじめ持っているのかさえ覚束ない始末です。
つまり描くなどということがほとんど全くできていないわけです。
そもそも写真はあるものを撮るだけの事しかできないのだから、現実に対して自分のイメージを押し付けることはできないのかもしれないという原理論さえあるかもしれません。

まあ、そういうことはさておくとしても
実際のところモニターで確認して初めて、そうかこういうことになったのか・・・・と見直すわけです。
それで、意外にいい感じだなあとか、えっ?!こんな風に写ってるのとかいうふうになるわけなんですね。

この人のビジュアル的な良さについても、こうして何枚も写真を見直して次第次第に分かって行くというのが現実です。
当日の現場で直感的に「これがいい!」などと思って撮っているときにはほとんど全く気付いていないことがたくさん見えてきます。

そしてまた画像としても予想外の結果になることが多いです。
ですから、私は到底プロにはなれないし、依頼によって期待に応えるなんてことはできない相談だなあと思うわけです。
上3枚の足元をどう画面に入れるのか入れないのかについての画面効果の予想も出来ていませんでした。

話は変わりますが、私たちがここで撮影をしようとしていると一群の人たちがカメラをもって集まているのが見えました。
どうやらモデルさんを囲んだ撮影会の様でした。
一人のモデルさんに十数名が取り巻いています。そういう集団が二つ。
アシスタントの女性がレフ板を傾けています。
ここで撮りたいという場所に先着をされていて、どうやらしばらく近づけません。

それで私たちは、ここで撮り始めました。
皆さん凄いカメラをお持ちです。
縦位置グリップをつけ、70~200ミリかなというレンズをつけ、ストロボも付けている方がたくさんいます。左右両肩からかカメラを提げている人も少なくありません。一脚をつけている人もいます。
かくいう私も形ばかりは2台態勢ではあるのですが、実際羨ましいような装備です。

参加している人にはそれぞれの課題があっての事だろうと思いますが、あれでは思い通り撮るのは難しいことだろうなあと思いました。
私のような気が小さい人間には場所取りさえままならないと思います。
そういえば高校生の頃でしたか、地元の公演で撮影会があって、綺麗な女性を囲んで大人に混じって撮ったことがありました。たった一本持っていたレンズが50ミリでしたから、二重三重に取り囲んだ大人の背中越しではとても撮れたものではありませんでした。
それにしても一人の女性に群がる男たち・・・・ふと冷静に見た時に、私はこの輪には二度と入るまいと思ったことでした。

そういいながらも今度、舞妓の店出しを、群がるカメラマンたちに混じってとることになるのです。
「私はあれがとても苦手なんですよ。」といったのですが。
まあそれも体験のうちですね。
- 2016/12/18(日) 00:00:48|
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つい先日ある小さな集まりがありました。
「フルートの夕べ」と題した集まりで、演奏が終わったあとにワインパーティーがありました。そこにはおよそ20人ほどの人たちがいましたが、もし、そこにいるはずの主人公が参加していれば3人の人が被写体になってくれたことになります。撮らせていただいた時期はそれぞれ違います。

そしてそこで私が撮った麻谷氏の写真を見て「あれは素晴らしい!!」と握手をしてくれた方がいて、いずれその方も撮らせていただけるような話になりました。
「点」が「線」になり始めているかなというのが今年の特徴です。
偶然の出会いから、やや背景・縁のつながりのある出会いになりつつあるのです。
そこがこれまでの5年とは違う今年の傾向です。

この事は同時に、少しお会いする人のジャンルが狭くなっているということでもありますから、その功罪を意識しながら進む必要を感じています。

こうしてお会いする方と多くの場合は深い交際ができるわけではありません。
たった一度だけの二度とない出会い。そういうケースが依然として多いのは間違いありません。ですが、そこにやや厚みが出てきた、重なることが出来てきたという事は言えそうです。

とりあえず私の世界との窓口はこの写真しかないのですから、どっち道ますます多くの方に出会って、その素敵な人をカメラに収めていくことに変わりはありません。
そうしていくうちに、もしより豊かな、あるいは有意義な意味がある方向が見えてくれば、自然にそれにしたがうまでです。

とにかく写真は楽しいのですから、それが苦になることはありません。
カメラとレンズは、私にとって魔法の道具ですから。

その魔法が私を未体験ゾーンに連れて行ってるかもしれません。
いえ、既に十分ワクワクする魅惑ゾーンに案内してくれています。
- 2016/12/17(土) 00:00:07|
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街を歩くとクリスマスの飾りつけが一杯です。
クリスマスの心は、まあ別として、飾りつけや楽しい会食はもう定着していますね。
昔のように勤め人のおじさんたちがへんなとんがり帽子をかぶって繁華街を千鳥足で歩くような姿が減ったことはありがたいことです。そのかわり年齢層がぐっと下がって若い人たちが少々はめをはずす姿はいささか・・・・。
木屋町辺りは「おじさんたち」には近づけません。
そんな季節ですね。

「今年はどんな年だった?」
TVなどでの話題になります。大して本質的な話を取り上げるのではなくて、大概世間の表層の話ばかりです。
何日か前に恒例となった清水管主による今年を象徴する漢字一字の揮毫は「金」でしたね。少々大方の人々におもねった選択だなあと思いました。むしろ第3位の「変」の方がふさわしかったと私は思いましたね。

政治も経済も、そしてマスコミも「変」です。おかしいです。
でも、私の今年一年の中では、今日の人のように「まっとうで仕事や自分の取り組みに胸を躍らせる人々」に出会えてきたことが何より貴重だと感じることです。
私は、世の中の「変」に対するアンチテーゼのつもりで、この写真を撮っています。

「若い女の子を追いかけてとっいてはダメじゃないですか。そんな場合じゃないでしょう?!」とおしかりを受けた話は以前も書きましたが、そんな場合だから撮っているんだというのが私の偽らざる気持ちなんですね。

社会の初々しい成長点、形成層を確認したいじゃありませんか。
その存在を喜びあいたいですね。

この人は私が今年撮らせてもらった人たちのうちで最も若い人でした。
10代から80代まで、撮らせていただいた方々の年齢は広がります。
30代40代の方はとても少ないです。

20歳代と50歳以上の方々が多数を占めます。
男女比は、もう長期にわたって男性52.8%に対して女性47.2%という位です。不思議なことにこの比率はそう大きくは崩れないのですね。
今日までに実数で1103人の方のご協力いただきました。
実人数の増加のペースはグンと落ちています。1年に200人のペースが150人程度になりそうですね。
そこにはいろいろな事情があるようです。
- 2016/12/16(金) 00:00:14|
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とある事情があって私のブログのごく初めの頃を覗く機会ができました。
そこには当然ながら私が撮った写真があります。当時はまだフィルムで撮った写真も混じっています。
コンタックスRXにツィアスレンズをつけたり、キヤノン・ニューF1にFD85ミリをつけたりして撮るのを諦められずにいたころです。
ですが、今にしてみれば拙い写真だなあと思わず削除したくなりました。
しかし、被写体になってくれた方々のご厚意を思えば。
で、ふと気づいたのです。5年前の写真を見て「拙いなあ。」と感じられる自分であることに。
おやおや偉そうに!と思わぬでもありませんが、さすがに5年余りも撮ってきて何ほどの進歩もないとしたら、それはそれで悲しいものがあります。
さすれば、これから10年間継続すれば、あるいは今日の写真を見て、この人には「せっかく撮らせてもらったのに、当時はまだまだへたくそで申し訳なかったなあ。」と思えるようになるのでしょうか。
この人の力もお借りして、そうなればいいなあと・・・・。

写真は「短型詩(俳句かな?)」 絵は散文(小説?)かななどとも考えるのですが。
いい写真を見せていただくとそれに収まり切らないものも感じるし。
- 2016/12/15(木) 00:00:15|
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ポートレートの出来不出来はモデルが80%を握ると言われます。
写真の出来の悪いのをモデルのせいにするという言い訳の言葉では勿論なくて、いいモデルを得られれば写真の成功は決まったようなものだという乱暴な楽観論でもないわけですが、モデルの占める割合が大きいことは体験的にもよくわかります。

その点、私はとても恵まれていると思います。
そこで、あとの20%をもっと何とかしろよと言われそうですが、果たしてその通りですね。

「モデルの比重が80%論」が正しいか否かについては議論の余地が十分にあると私は思っているのですが、何より・・・・ただキレイに撮ってくださいね。記念の写真がほしいんですというのではなくて…多少とも一緒に良い写真にしましょうと思っていただける人かどうかということが肝心です。
その半面として撮り手に対してどういうイメージを抱いていただいているか、そこもまた大事な点だと思います。
そういう事からすると、私自身を振り返って、未だしの感が相当深いことは事実です。

ところで、ここは私のとっておきの場所の一つなんです。
ここまで来て撮りたい思いは何時もあるんですが、いろいろ条件がそろわないと実現しません。

晩秋の京都を一人歩く風情は出ていますでしょうか。

演歌っぽくじめじめドロドロさせたくはないのです。

華やいだ観光地ではない京都を歩く静かな気持ち、それが出るといいなあ・・・と。

ちょっとここでいつもの自分を振り返ってみて・・・・。
- 2016/12/14(水) 00:00:27|
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とあるワイン・パーティーでこの人を紹介していただきました。
ある日本画家のモデルをされたのだそうです。その絵を私も確かに見たはずなんですが。
私はこの人のすぐ近くに最初の席をとったのですが、その横顔を拝見して「なるほど日本画家がモデルをお願いするだけの事はある。」と納得しました。
そして直感的に「フォトマヌカンにも素晴らしい人じゃないか」と。

その席でパーティーの主催者の方が「写真も撮ってもらったら?」と水を向けてくれて、私がうじうじしているのを、先取りして話をつけてくれました。
それで実現した今日の撮影です。
着物を着ましょうかというところから選んだコースなんですが、その和服姿は実現しませんでしたが、意外や、これがまたなかなか・・・・。

もう紅葉の景色はとおにその盛りを過ぎて、名残がそこ個に見えるだけのいくらかわびしい状景なのですが。

この華やかさの失われた状景の中にこの人が映えるのです。
それが若さというものなんでしょうか。 でもそれだけではないものをこの人が醸し出しているように感じられます。
私はきれいなお顔の阿弥陀仏像を連想しましたがいかがでしょう。

この少し裏わびたような侘しさも漂う情景を楽しんでくれる心が画面の中にすっと入ってきます。

帽子といいコートと言い、今日のコースではどうかなあなどと思ったのは私の感性の貧しさでした。
- 2016/12/13(火) 00:00:07|
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カテゴリは通常で言えば「絵画」にするところですが敢えて「人物」に。
この人の笑顔は実に人懐こいのです・・・・、

が、一たびアイディアに没入すると・・・・・・。

先ほどまで私とふたりでトランプがトランプを並べ、舞妓が花札を並べてお手つきをする・・・などという寸劇に興じていたのです。むろんシナリオは・・・・・。
花札ではお手つきもおかしいから百人一首の札を並べてカルタ取りでないと…なんて言う私の話は全然聞いていません。

トランプでも花札でもない年齢早見表をじーっと見つめて、すでにその「世界」に入っています。
イメージが湧いてくると描きたくてたまらなくなるんだそうです。
絵に中の「これはどうして描いたの?なぜこの英文が入るの?」と尋ねると「気分、気分」と笑って答えるのですが、それでなくてはならない感覚がしっかりとあるのだそうです。

私は「芸術家の奇行」をあまり甘く容認する方ではないのです。しかし、私たちに「奇行」と見えても、その人には確実に道理があることが伺われるのです。物事の尺度が違うのかもしれません。
それを「奇行」と言っては理解を妨げるように思うのです。
- 2016/12/12(月) 00:00:17|
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この方は絵を描かれますし、インスタレーションもされます。
ユニークな造形作家でもあります。
「麻谷さん。以前僕を『専属カメラマン』にしたことを覚えていますか?」
「え?! そんなことしたっけ?!」
「やっぱりなあ。 僕はすでにいろいろなところでそれを吹聴してるんだけどなあ。 やっぱりなあ、あの時も飲んでたからなあ。」
「待てよ。そういえば、あの時のカメラマン。撮ってもらたったじゃないか。写真ももらった。一枚だけだけど。」
「やだなあ、一枚だけじゃなくて4,5枚でしょ?!」

久しぶりの再会はこういう掛け合いの様なやり取りで始まりました。
今日は麻谷さんの個展です。 つい先日も妙光寺でこの人の作品を見ました。ご本人は行くえ不明でしたが。(先日尺八の方の写真をアップしましたが、その会場でのことです。)
この人の作品はとても刺激的で私も好きです。

高価な香木を焼いて作品にしたり、韓国やサウジアラビアでは100メートル×30メートルもの赤い布を水平になびかせて風を表現する作品を作ったり。かなり大胆な人でもあります。いたずら心がそのまま大人になったというような面も感じます。

個展会場で「退屈にしていたけど、話してたら描きたくなった。でもここには何もないから白い布を買ってきてくれ。」
「ただの布じゃないほうがいいんじゃない。」
「そうか、それじゃあ浴衣を4,5着・・・。」
と突然無理難題を言うのです。でも描く気は本モノのようで、今はありあわせの紙を探して描いています。
「専属カメラマンは、へたれていても、元気な時でもいつでもどこでも撮るんだよ。」とカメラを向けます。
「それはいいけど、なんかポーズをしようか?」

それで、しばらく「漱石風はどうだ。そうだ漱石で撮ってくれ。 他に何かないか。」
「じゃあ、ダリで撮りましょうか?」 「うん、それもいい。」
などと遊んでいます。
と、そのうちカードを取り出して・・・・、何やら寸劇のようなことをしたくなったようでいまそれに没頭しています。
こういう風にすぐさま「入り込む力」はすごいものです。
- 2016/12/11(日) 00:00:01|
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下賀茂神社の馬場を利用して開かれる手作り市です。
今回はなんとなく、どことなく雰囲気がこれまでと違いました。何でしょう、この感覚。おしゃれ感が減ったかなあ。
そんな手作り市で「素敵な人」を探します。

手作り市での人探しは、まずは素敵な「もの」づくりです。
上の写真の左手上段に青っぽいぐい飲みが見えますね。まずこの色合いと景色が気に入りました。上品で、それでいて華やぐ面もある。
蒼の色もまたとてもいいので・・・・。

備前焼です。
黄や茶色の器は酸化焼成です。蒼の方は還元焼成です。
「窯の中で空気が十分な場所で焼けるのがこちらで、そちらの青い方は空気が少ない場所で焼けたものです。」と分かりやすく説明してくれました。

「どうして備前焼を選んだんですか?」
「う~ん、なんとなくかなあ。釉をかけるものより土と炎でそのまま表現できるのがすきだから・・かな。」
この「なんとなく」は、いい加減な意識ではなくて、言葉には言い表しにくいけれど気持ちの奥深くでこれがいいと感じるものがあったという事です。直感的でうまく説明がつかない、理由は後付けできるけど、その頃はどうだったかなあという感じでしょうか。
どうして写真を選んだんですか?に対する答えも、まあそういうものだと思いますので、共感できます。

この人も京都の伝統工芸大学校の卒業生だそうですが、ここの卒業生は本当にあちこちで活躍しています。
知り合いの若い女性が、もう一度芸大に戻って勉強してみようと思うのだけれどといった時に「工芸分野だし大学院で勉強するのもいいけれど、この伝統工芸大学校も選択肢の一つとして考えてみたら。」と言ったこともありました。
その人は無事に院に合格しました。おめでとう!!
と、話を戻して・・・、
こうしてご自身の制作物を手にするときに気持ちが出ますね。

工芸でも芸術でも可能な限り自身の技能、知識を高めて対象をコントロールしようとするわけですが、しかしなお炎や土の偶然に越えられてしまう運命を持っています。そこにまた醍醐味があるのですし、その偶然の中に美を発見する楽しさがあるわけでしょうね。
人の力と偶然のコラボレーション・・・・これまた写真も同じことです。

お客さんがやってきて「いや~ 好きなやつがあったんだけどね。割っちゃってね。 これいいなあ。」と物色を始めました。

こちらの女性。手にしているものを即断即決。「来た。見た。買った。」でした。
自分がほしいものを極めて明確に意識していて、すぐさま判断を下し、行動できる。素晴らしい!!
そういう力が私に有ったら・・・・、と。
- 2016/12/10(土) 00:00:36|
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「本を読んでもらう場面を考えていたのにうっかり本を忘れてしまったよ。」
そういいますと、
「今読みかけの本なら持っていますけど・・・・。」

本は大好きなんだそうです。
「じゃあ中学高校では図書室のホンは全部読んじゃったというような人なの?」
「あまり好きでない本もありますから・・・・。」
私の中学高校の友人で、なんと大学も同じだった男に大変な読書家がいました。彼は「学校の図書館にはもう読むものがないから、市立図書館に通って・・・・。」など言っていました。
私の通った高校には図書室ではなくて独立した建物で図書館がありましたし、その書庫は戦前からの蔵書が山ほどありましたから、さすがにそれを読破ということはなかったでしょうが、小中の図書室の本については、あなたがち「その話は眉唾だなあ」と言う事はなかったようです。少なくとも本人の心理においてはそう言えるほど読んだんだろうと思います。何しろ百科事典を読んでいましたから。

この人が相当の読書家だという事はその読むスピードを見ればわかりますし、今は写真のためのポーズでいいと言えばいいんですが、ちゃんと気持ちを入れて読んでいるのです。
振りではなくて、実際に読んでね・・・と、そういうつもりでしたが、その必要はありませんでした。
読める人は、いつなんどきでも本の世界に入る力を持っているのです。それはとても大切な力です。
もう口元が「読むとき」になっています。

でも私がカメラを向けながら茶々を入れるものですから集中が乱されます。
でも目をページから話すことはありません。

私が遠い昔に大学に入ったころ。二日で岩波新書を1冊、並行して一週間でハードカバーの専門書を1冊と目標を決めて読みました。
入学当初はまだ大学紛争に入り込まず、「大学では勉強するぞ!!やっと受験勉強から解放されて、経済学や哲学を学べるんだ。」と意気込んでいましたから。
そのペースも安保廃棄闘争、沖縄返還闘争、学部自治会活動、学生学会活動(創価学会の事ではありません。念のため)などなどで次第に崩れていきました。
デモや集会の時にもズボンのお尻のポケットには文庫本や新書本を押し込んで勉強にしがみつこうともがいては、いたのですが。
まさに遠い昔の話です。

私は勉強する学生が好きです。

読書する学生が好きです。
- 2016/12/09(金) 00:00:18|
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秋の忘れ物を探して歩きます。
今年の紅葉についてはいろいろ残念な評価もありますが、私はこうしてその季節をとりこんで人を撮れれば秋を満喫したことになります。

続けて私のブログをご覧いただいている方には記憶があるかも・・・。
この人は賀茂川でジャズ・トランペットの練習をしていた人です。
学園祭ではビッグバンドの一員として演奏に参加していたばかりか、ボーカルとしても活躍されていました。緊張が和らいだあたりからの歌声からは、かなりの歌い手と感じました。

京都にはたくさんの大学がありますから街のなかでも比較的たくさんの若者の姿を見ることができます。
そうだからといってもなかなか個人的な接点がもてるわけではなく、若い方との交流の機会は貴重です。
大学の学園祭を覗くと、大きな違和感を感じる姿も見ますし、若い人たちとの間に日常の価値観のずれに苛立ちを感じることも少なくないのは事実です。自転車や歩行のマナーなどについては、いつか大きなトラブルを起こしてしまいはしないかと、私自身に不安を感じることさえあります。
それでも幸いなことに、写真を通じて、こういう風な出会いを得て、若者の・・・当然持っている・・・・・素敵な側面を見せてもらうことができるで、何とかバランスを保つことができます。
こういう眼差しができる人は素敵ですね。

多分基本的な学業だけでもとても忙しい人なんだろうと思います。
その中でも、狭く勉強に閉じこもることなく好奇心をもって生活・活動している様子がうかがわれます。
と言ってもこういう風に写真を撮るのは初めてのようですから、さすがに初めはぎこちないところがあったのですが、
呑み込みの早い人です。

家族に大切に育てられてきたという感じがとても良い雰囲気となって身についています。
- 2016/12/08(木) 00:00:43|
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「カモフラージュのために若い女性の写真を職人さんやアーティストの写真でサンドイッチしてるんじゃないですか?」なんて口の悪い?人に言われたりするんです。
裏が表か、表が裏か…虚実ないまぜ、曖昧模糊。
ブログを見ていただくのに変化があっていいでしょ?!とお答えしているのですが・・・・。

先日あるところで、たまたまお会いしたダンサーさんに「私も撮ってもらおうかな。」と言っていただきました。
ある現代画の作家さんを撮った写真を、その画家さんの個展にご本人にお許しもないままに勝手にはっていたのですが、それを見ていただいての事でした。
とてもユニークなテーマでダンスをされている方です。実際に撮影できることになったとして、その方が表現されようとしていることを写真で私にとらえられるのかなあと、いささか以上に心配です。

それはこうした写真においても同じなんですが、私の場合はまだまだ「果たして写ってる?!」段階なので、はなはだ心もとないのです。
フィルム時代には、「空けてびっくり玉手箱」状態でしたから、そういう恐怖感がいまでもあります。
デジタルカメラを使うようになると、撮った結果をその場で確認できるのは、他のことはさておいて、少なくとも精神状態的にはありがたいことですね。

忙しい中をせっかくこうして作っていただいた時間を無にしないためにも、私のような迂闊人間にはありがたい技術の進歩です。
スポーツ・ウーマンなんだそうです。私が中高時代に少しやっていた種目をされていたそうです。ポジションから言って運動能力は相当だと思います。
学生時代のお友達の中では「盛り上げ」系だったそうですから、コートの中でも大いにチームメートを引っ張ったんじゃないかと思います。

キャンドルデザインをされています。今頃はクリスマスに向けて大忙しなんでしょう。
ファッションセンスも含めて、この人がキャンドルの背後に立っていると、お店の雰囲気が華やいでぐんとよくなります。

- 2016/12/07(水) 00:00:35|
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アメリカ南部のアフリカ系アメリカン人たちの音楽。それがジャズのイメージですね。というか誕生にこそ物事の本質が現れているという見方からすれば、それこそジャズのスピリットの根源でしょう。
ですがKarsten Vogel氏が激しく緊張感のある音を響かせても、それはどうもそうした貧民街とも黒人ソウルともどこか違う穏やかというかある種の理知生徒いうか、エモーショナル感の違いというか、そんなものを感じました。
きっとただの先入見、思い込みでしょうが。

強いスピリッツとたばこの煙、汗が光る黒人たちの輝く肌、そこにアフリカ系アメリカンの生活感情が染みこんだ音楽。それが世界に受け入れられて、その国の人々のスピリッツによって変容・熟成して世界音楽になっていく。そんな感じでしょうか。と同時にそれらのアーティストが自らの背景にある文化性・スピリッツをこめて「多様なジャズ」を生んでいく。そういう事でしょうか。
そういうことをぼんやりと感じました。

私がジャズを吹いたらこうなるんだ。そういうのっていいですね。
私が撮ったらこうなるんだ。
言えるような写真にしたいですね。

来日8年という青年が途中から通訳をしてくれています。
通訳があるとついそれに頼りますね。
それにしてもその青年の語り口は見事な日本語です。流暢という意味だけではありません。語彙と表現が見事なんです。
きっと知的にも豊かな生活をしている人なんでしょう。
ライブ会場は、やはりこれくらいがいい、あまり広くないほうがいですね。
私は相変わらず床に胡坐で聞いています。


- 2016/12/06(火) 00:00:35|
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東京では他の3人と一緒に演奏をしたのだそうです。
ピアノとギターと、それからなんでしたっけ?
尺八と同じようにリードのところで(尺八にリードはありませんが)いろいろな音を出しています。擦れた音とも言えないような音、などなど。

ジャズの演奏の魅力の一つにソウルフルと言う表現があります。
ロック系のそれは私はあまり好みではありませんが、しかし、このソウルフルという言葉はいいですね。ジャズにはそれを期待してしまいますが、この人の演奏は曲の進行に従って強いソウルを感じるようになります。
それにしてもジャズのソウルって何でしょうね。
私には何とも言えませんが、ジャズを聴いていると人生のある断面というイメージが浮かんで愛おしさや哀切さを感じてしまいます。
ジャズについてのレコード会社の刷り込みのせいかもしれませんが。

同じような写真を3枚あげましたが、背後の絵が映りこんでいるか、壁からの距離は同課などで随分違う空気になります。
ジャズの音の場を表現するにはどうしたらよいか、アーティストのイメージにはそれらをどう扱うのがいいのか悩みます。

額の血管、頬のふくらみ、呼吸、口元の緊張や表情、指の形、体の傾き、膝の角度、脚のステップ、カメラとの対面角、お客さんとの関係・呼吸、楽器の輝き・角度・・・などなど余りに注意する要素が多すぎて初めから最後までシャッターを繰り返しきっていたい衝動に駆られます。

そして私自身もジャズに浸って乗っていきたいのです。
写真は何より・・・・・気分ですから。

私はこういう撮影をした写真の水平垂直を直さないことが多いです。
写真が傾いているのは意識的にしているのではなく、ある気分でカメラを構えた時にそうなるし、その時のファインダーの中の余白と被写体とのバランスは覗いているときの気分の表現ですから、それを直してしまうと大概は写真がつまらなくなります。
写真はライブなんですね。
- 2016/12/05(月) 00:00:42|
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Nordic sound
北欧に優れたジャズ奏者たちがいて現代ジャズの一潮流があるらしいことを知ってはいました。
けれど私は音楽についてもまた一知半解にも届かない門外漢ですから、聞いて楽しむ、そして「撮りたい」ぐらいの関心しかありませんでした。
ある日あるギャラリーをお尋ねするとデンマークの女性画家とコラボレーションをされたジャズ奏者がそのギャラリーで演奏をする、投げ銭制だと教えていただき、ぜひ来てくださいとお誘いを受けました。
それがこの方です。

会場に着くなり、私はスタッフの方に撮影の許諾を求めました。「ではKarsten Vogelさんに聞きにいきましょう。」と同行してくれて、お願いすると
「演奏中に撮るのか?」 「Yes.」 「そうか。いいよ、どうぞお撮りなさい。」と快諾していただけました。
クラシックなどでは到底お許しいただけないところですが。

会場の許可をとり、奏者の許しをいただいたとはいえ、今日の演奏を楽しむ方々のお許しを直接にはいただいていないのですから、当然目障り、耳障りな行動をとることは許されません。
私は並んだ椅子の列のいちばん右端、後ろに椅子の無いところを選んで陣取りました。都合よくそこから先は広く床があります。ですから、うまいことに他の方から遠ざかってシャッターを切れます。

デンマークの方ですが英語で曲の紹介やなぜ日本に来ているのか、あるいは日本や京都にはどんな印象を持たれたのかというお話をされます。
ですが残念ながら私には聞き取れません。
でも音楽に浸ることはできます。

曲が盛り上がり音が激しくなった時を選んで数カット撮ります。そしてすぐさまカメラはお腹の下にしまいます。
それでも演奏を楽しみ一方で常にファインダーをのぞく意識で見ていますから、いつの間にか椅子から半分お尻がはみ出て体も背もたれから外れてしまいます。こういう行動も実は後ろにいて聞いている人にとっては目障りなんだと思います。
それですっかり椅子から降りて床にお尻をつけます。

曲と曲の合間に床をにじっていって、やがて2,3メートルも離れていきます。
曲を楽しむときに他のお客さん同様に曲に集中しますが、時期に撮りたい意識が盛り上がてきって次のチャンスを待ち受けて2,3カットまた撮ってはカメラを隠します。

でも時々お客さんから言われます。
「目障りで申し訳ありません。シャッター音は邪魔ではなかったですか?」
「いいえ、写真を撮るのに集中されていて、それも音楽を楽しんでいるようで、違和感はありませんでしたよ。」と。
「あんなふうに写真を撮られるのですねぇ。」
それは低い位置から撮りたいためにほとんど腹ばいになって撮っていたからです。

せっかく奏者にもお客さんたちにもご迷惑をかけながら撮らせていただくのですから。下手は下手なりに一生懸命撮らないと・・・・と思うとついそういう事にもなってしまいます。
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- 2016/12/04(日) 00:00:42|
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ある日自宅に帰る途次で交差点の歩道を渡ろうとしていると向こうから見慣れた顔が・・・。
「やあこんなところで・・・・。」
「今展示会場からの帰りでね・・。」
その方は水墨画をされている方で極めて旺盛に個展もグループ展もされているのです。
今回も普段は非公開の正覚山妙光寺で親しい方たちとの展示会です。
そうか、前回から早1年が過ぎるのか。

今回も前回と同様に寺の庭にシートを敷いて、そこで水墨画を描かれるライブをするんだそうです。
前回はそのライブを撮らせていただきました。

会場には充実した作品が、古びた寺の部屋中に、実に心地よい緊張感とともに展示されていました。
その寺の奥まった部屋は、ここを撮影に使えたらなあと繰り返し振り返る部屋でした。

水墨画を描かれる方と、この人も面識があるのかと思う意外な人の作品がありました。その人はかつて私に「僕の専属カメラマンになれ」と言ってくださった画家です。この人の作品も好きです。
縁というのは不思議なつながり方をしているものだなあ。
縁側に出ると庭を仕切る壁の向こうから妙なる尺八の音が聞こえてきました。
この寺は普化宗ともかかわりがあって尺八を奉納?される方が来られるとも聞きました。
写真の方は冒頭の水墨を描かれる方の同級生だそうです。
「同い年には見えんやろ?」・・・どちらの方の言葉でしょう。

尺八の音は遠くまで届きます。
「力があるんや。川の流れに乗って遠くまで届きますよ。」
技の多いことには驚きます。

人に会いに行ってまた人に出会う。楽しからずや。
- 2016/12/03(土) 00:00:08|
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私が時々お邪魔するお店です。
このお店のオーナーシェフの肉料理は実に美味しいのです。
そして可愛いお店が雰囲気を高めて楽しい食事ができます。
そのお店の窓が私のお気に入りの一つ。

ここで撮らせてもらってもいいですかと、これまで何度も口にしていたのですが・・・、なかなか機会が作れずに・・・・。
実はこの日、何時頃うかがいますからよろしくとお願いしてあったのですが、ここに来るまでについつい撮影に夢中になって大遅刻をしてしまいました。
それでもご厚意で場所をお借りすることができました。

実はすでに休憩の時間で、まさにお店を閉める時刻だったのです。それを無理に入らせてもらっていますから、長居はできません。それに計画より遅れたために陽も予想よりずいぶん傾いてしまいました。この窓に差し込む秋の日差しを撮りたかったのです。
まごまごすればその肝心の陽が無くなってしまいます。集中しないと!!

パターンもあまりあれこれできませんから、思いにあったパターンで通します。

「(プロの)モデルさんですか? さすがにきれいな方ですねぇ。」と奥さん。
少し前に、ご夫婦が思いを込めて改装したお店です。
その気持ちも画面に出たらなあ・・と。

お礼も込めてここで「お茶しましょ?!」の予定でしたが、残念ながら・・・、
ぜひまた次の機会に美味しいお料理をいただきましょう。
- 2016/12/02(金) 00:00:49|
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