撮影からアップまで時間がかかりました。
ですから背景の紅葉の様子は今ではずいぶん変わってしまいました。
この頃はまだ「ようやくあちこちで色づいてきたねえ。」という感じで・・・・。

久しぶりに持ち出したレンズです。
このミノルタのレンズはいいです。やはり私のお気に入りですね。
このところ少しワイド気味に撮る傾向がありましたから新鮮です。

この人のファッションスというかコーディネートは好きですね。
長いスカートと帽子は私の注文です。無論お持ちの服を知りませんから、具体的にどんな服で来てくれるのかはわかりません。
でも「スカートは長めがいいですね。帽子が似合っていたから・・・・。」とお話して「分かりました、それでは考えてみます。」と言うことで・・・・。

どうしたって目立ってしまう魅力的な顔立ちですから今までに他の人から「写真を撮りたい」と言われたでしょ?と聞きますと、こうしてフォトマヌカンをすることはなかったのだそうです。
「周囲にたくさん綺麗な人がいて」ご自身は特に目立つことはなかったと謙遜されますが。
そして耳寄りな情報・・・・・大阪には美人がたくさんいるんですよ、とのこと。
これを聞いては出張らなくてはいけませんね。

今日で2度目ですが、少なくない行き交う人たちの中で撮っていてもとても落ち着いてポーズをしてくれていますし、少しずつ変化をつけて提案してくれます。

フォトマヌカンとしてのセンスもお持ちのようです。
- 2016/11/30(水) 00:00:57|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
晩秋ですね。

以前お目にかかって写真を撮らせていただいたことがあります。
覚えてくださっていました。そしてその時に見ていただいた若い女性七宝職人さんのことも「今はどうしてる?」と気にかけてくれていました。
伝統工芸のほとんどの分野で若手がいなくて後継者が途絶えてしまう現実的な心配があるからです。

帯の下絵を描かれています。
珍しく?私よりいくらか年下です。
「いつも年かさに見られてしまうんですが、案外若いんですよ。」とご本人。

この下絵のようなデザインだと「織るのが難しくなる」のだそうです。色違いの横糸が多くなりしかもそれが錯綜すると織ったときにデザイン通りの切れが無くなることがあるんだそうです。となりあう糸の重なり具合というか、隣り合う具合というかそれが難しいんだそうです。
この絵はご自身の創造です。
こういう絵を描くためには様々な名品の意匠を学ぶ必要があります。そのためにご自宅には大判で分厚い資料がずいぶんたくさん「貯まってしまいました」とのことです。
ご自身が無くなったら「もう下絵は焼き捨てられてしまうんだろうなあ。活かしてくれる人があれば・・・。」と遠い未来を眺めて言います。

そういうものを引き継ぐ人がいないので結局廃棄されるだろうとおっしゃるのです。
そこで「そういうものは国有の財産として、世界に公開したらいいんじゃないでしょうか。」と申し上げました。
京都の西陣で引き継げないんだったら人類の財産として、世界に公開するのです。知的所有権云々などと言っているル場合じゃないと私は思うのです。そうして世界のどこかで誰かがこの方の意匠を継承して発展させる、そういうことを構想してよいと思うんです。

なるほどそれもいいなあと好意的に受け取っていただけました。
「ただし堀川さんの名前は敬意を持って表示するんです。」
こういう下絵は買い取られていきますが、その通りに使われるとは限りません。
ある着物の展示会で見た時に下絵の本画とそれを織って縫った着物とが並べて展示されていました。
紙に絵の具で描いたものと実際に絹糸を染め、降り、金彩などを施したものではおのずから風合いや光沢が違いますが、明らかに色を変えたり、例えば花の一を微妙にずらすなどされていました。
それが見事に成功しているので受賞もしていたりするわけですが、本画の方が落ち着きがあていいなあなどという場合も、人の好みによって生じるわけです。

知的所有権がやかましく言われていますが、人が生み出したものは人類の財産だという考えもあります。排他的に利益を得ないと承知しない資本主義の論理とは違う世界もあるんです。
京都の伝統も世界に開いていかないと早晩衰退してしまうんじゃないかと、それを恐れます。
- 2016/11/29(火) 00:00:41|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
来年の5月の下旬(23日~28日)に4回目の個展(6回目というべきかなあ。)を計画しています。
今年は3月にギャラリ高瀬川四季AIRさんでの小写真展を、9月に京都ファインダー倶楽部のグループ展に参加をしたのですが、あまり広くはお知らせしなかったので「今年はしないの?」「次は何時?」と声をかけていただくことが、たま~にあります。
私のような者の写真展を待っていただいている方がいるなんて、まさに、文字通り、望外の事なんですが、しかし、一旦世に向けて個展をした以上は、そういうことになるようにがんばるのが筋でもあるわけで・・・。
身の程も弁えずにやるんです!(と力みかえることもないのですが・・・)

これまで撮らせていただいた1100人の方に対する「義理と人情」から言ってもやるわけです。

それに何より若い方も年配の方もそれぞれ一生懸命な人たちにお会いすると安穏としていたんではいけないなあと思わされるからでもあります。
70歳になってこれからの15年計画を立てたという方の話も聞きました。
それからまたある方たちは某美術大学の学部通信課程に入り、院まで修了して絵を描き続けて全国公募展へ・・・・。驚きですよ、まったく。

そうしてこうして目の前にいる「素敵な人」の話を聞いて、やっぱりいろいろ考えさせられるわけです。
他面、そもそも「素敵な人たち」を見つけるのがとても楽しいですし、そのうえ写真に撮らせていただくというのですから、やめられません。

- 2016/11/28(月) 00:00:29|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
写真の可能性、ポテンシャルは随分広範囲にわたると思っています。

「若い女この写真を撮っていてはだめ何じゃないですか。そんな場合じゃないでしょ?!」と、私が加えてもらっている写真集団の、最近とみに注目されてきている方から言われてしまいました。
その人の「写真」はとても深い思想を表現しています。ですから私も注目していますし、期待もしています。
が、その方の作品を「写真」というジャンルに振り分けていいのかどうかは議論の余地があります。
私自身は「写真」と言ってもいいし、敢えてそういわなくてはいけないものではないものだとも思っています。
区分はともかく作品として注目に値するものです。

それでその人私の写真を見て「それではだめだ。」と言ったのですね。

皆さんもよくご存じのハービー山口という方がおられますね。
よく引かれる彼の言葉です。「良い写真とは?女性のポートレイトは写真家からのラブレター、男性を撮った写真は自分のヒーローやライバルへのファンレター、子供の写真は未来予想図、老人の写真はその国の歴史を物語っている。」
他にも珠玉の言葉がありますが、こういう写真を撮りたいですね。
(でも言葉の「男性を撮った」という部分には「女性」も入れたいし、主語そのものを男性だけではなくて女性にも拡張したいですね。)

写真ムーブメントの中のほんの一部分を進んでいる私です。
- 2016/11/27(日) 00:00:25|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
京指物師。
この場では名刺入れを作っておられた。
木の枠を裏表から木の板で挟んで作る。
言えば簡単な作業だ。

しかし、こういう職人さんのものづくり魂にあうと、それが簡単ではない。
まさに職人芸の生みだす名刺入れに代わってしまう。

第一、材料の木が違う。
古民家材や神社仏閣の改修によって「廃材」になったものを使う。あるいは神代木とか「埋もれ木」などを使う。
ですから木材そのものの色や風合いがそもそも違うのです。
古木でも鉋をかけると木の香りが漂います。この時もヒバを削ってくれました。すっかり枯れ切ったかと見える気を削るとたちまち芳香が立ち上ります。
こういう気を探し求める力が違います。
いつでも材木屋に並んでいるようなものではありません。

そして技が違う。
名刺入れに入れた名刺はふたを開けて逆さにしても落ちてきません。
名刺の寸法ぴったりですからです。そしてだからこそ入れるときに何の難しさもないのです。
この絶妙さは不思議でさえあります。鉋の冴えです。

木の枠を裏表から板で挟んで接着する。・・・・・文字すればこれだけのことに古木の持つ色の深みや手触り、先ほど言った寸分狂わない作り。今日の職人の伝えてきた文化が凝縮しています。
ですから例えば海外出張のビジネスパースンが、これを赴任先で取り出せば、ただ名刺を交換するだけの場面でこの無事ネスパースンの背後に日本の重層した文化を語らせることができるのです。

日本人形やセンスをプレゼントするだけが能じゃない、というところでしょうか。
- 2016/11/26(土) 00:00:47|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
セーヌ川にはこういう紅葉の枯葉は浮かぶのでしょうか。

このギャラリーは高瀬川沿いにあるのですが、桜の花の咲くころばかりでなく、新緑の頃も、そしてこうして紅葉の頃もとても楽しめます。
このロケーションについてはどうですか?
ずいぶん気に入っているようです。

実はこの人のフェイスブックには素晴らしく魅力的なこの人の写真が掲載されています。
うまい写真です。この人の魅力がよくつかまれています。
この人の作品の紹介のために撮られた写真もカメラマンが撮っているようです。ですから写真に対しての知識や見る目は相当お持ちだろうと思われますので、いささか緊張します。
先日イタリア人の若い女性とも撮影のお約束をしたのですが「私も写真を撮ります。」と言われて動揺してしまいました。
ヨーロッパの人は写真を高く評価し、優れた鑑賞眼をお持ちだと感じていますので、よい交流にできたらなあと思うのです。

太陽は南中点をほんのわずか過ぎたところですから、こうした逆光のポジションを選ぶと少々難しいことになります。
今日のレンズにはフードもついていませんし。
個展中のお時間をいただいているのですから長く引っ張ることもできないので、もしこれが依頼を受けて撮るようなプロの場合だったらと思うと・・・ノンプロの道楽で良かったと思うのです。
(この緩さがあなたの写真を足踏みさせるんだという声が周囲から・・・。)

被写体自身がこんなに魅力にあふれた人の場合(撮らせていただく大概の場合にそうなんですが)撮る側の出番とはどういうものなんだろうかといつも思わせられます。

今日は秋晴れの穏やかな日です。
こういう日にこういう場所でこういう方に出会って写真が撮れる・・・・リッチな生活だなあ、と「小市民」の幸福かな。

おや、新しいお客さんが来たようです。
ほんのしばらくの幸運な時間でした。
- 2016/11/25(金) 00:20:21|
- 服飾
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
着物地を現代に生かそうという試みには様々な人が取り組んでいます。
日本の伝統的な織物業や和服産業を維持・発展させるためにも相当な革新を試みないと西陣も友禅も元気な声はますます聴かれなくなるだろうということは誰でもが言う事です。そこに海外の人のセンスがとても大きな役割を果たすだろうという事はこれもまた少なくない人が指摘するところ。
しかし、現実は「言うは易く行うは難し」

フランスから来られています。
「ボンジュール」

と声をかけますと、フランス語で応えてくれました。そして作品についての説明をフランス語でされようとしますので、大慌てで「フランス語はまったくわかりません。」と・・・・・。
「そうですか。では英語でいいですか?」
「う~ん、それも・・・・・・・。」
でも他に仕方がありません。

いま彼女は和服を羽織っています。白のハイネック、と白のスカート・・・・。
全く違和感のない、オシャレ感満載の上品なコーディネートです。
海外から来られた方が東寺や北野天満宮の「市」で和服を物色されて、「えっ?!そんな風に着てしまうの?!」ということがあります。
「それじゃあ着物が台無しだ・・、着物はね・・・」
こういう発想を少しばかりわきにおいて彼らの受け止め方をみとめてみることが必要ではないかと思います。

すでにこの人のようにフランス人として日本の意匠や織物の技術を消化し、しかも日本に片方の軸ををしっかり根差してフランス人としてデザインする人がいるのです。
そういうことに堪えない日本文化は、博物館の中で生き残るしか道はありません。そういうことに耐えてなお光るだけの文化的質を証明しなければ、「和風」の流行だけを喜んでいてはダメだと思います。

そういうことに日本の若手作家たちも、老練な職人たちも挑んでいますが、私の見るところ、寡聞にして、未だし…の感が否めません。

リュック、手提げかばん、傘などが展示されていますが、この人はファッションデザイナーとして既に評価のある方だということを帰宅してから知りました。
そんな方に「写真を撮らせてください。」とお願いしてしまう私は一体・・・・・。
- 2016/11/24(木) 00:00:54|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
こんな風に年を重ねられたらいいなあ、・・・・そう思いました。
「撮っていただけるの?! うれしいわ。」
一瞬間だけ戸惑われていましたが、こうお返事をいただきました。

別の会場で傘寿を迎えた幼馴染6人展を見ました。
油絵、陶芸、書、写真などそれぞれの作品を持ち寄っておられましたが、いずれもお世辞ではなく素晴らしく高度な出来栄えのものでした。
小・中・高と同窓で、退職後また京都に戻ってきた幼馴染の会です。
お仲間のお一人をこの夏見送られたという事ですが、とてもうらやましいお付き合いだなあと思いました。

この六人展を繰り返すたびに同じ小学校の地元の同窓生も駆けつけてくれて「同窓会になるんだよ。」とおっしゃっていました。
私は故郷を離れたままですから、こういうことは到底望めません。
長年お願いしている中学の同級会も、もう6、7年開かれないままですし、小学校、高校はその気配もありません。
それにしても傘寿を迎えられた人たちの作品とは思えない勢いのある力強い作品が並んでいました。
この方の作品の瑞々しさもまた然りです。

こういう諸先輩の姿を見せていただくと「もう年だし。」などというのは10年、いや20年早いと言わねばなりません。
おっと、待ち合わせまであと5分しかありません。急がねば。

いつもですと「申し訳ありませんが、本来ならお写真をお送りするところですが、なんせ年金生活者ですので、ブログの写真をコピーしていただけますか(E・メールをいただければ写真を返信に添付させていただきます。)とお願いするのですが、
ご住所をいただいています。

「ぜひまた次の絵を見せてくださいね。」
とお願いして、待ち合わせ場所に急ぎました。

この方らかは後日丁寧なお礼のお手紙とともに手作りの手毬が送られてきました。
写真を知人友人に見せて「自慢」してくれるのだそうです。
喜んでいただけて、うれしいですね。
- 2016/11/23(水) 00:00:07|
- 絵画
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
結婚して50年目を祝うのを金婚式というのだそうです。
この方はそれを記念してこれまで描きためた日本画の作品の個展をされました。
もともとは十余年前に「川の流れを埋め尽くす『花筏』のきれいさにうっとりしているとき、さっとカワセミが飛来して、その全体の光景に息をのむ美しさを感じた。」のだそうで
「それを何とか絵に表してみたい」と思われたのが事の発端だったそうです。

良い先生と出会えたのも幸運だったとおっしゃいます。

個展のコンセプトは『[片目の絵]と目が合って・・・・日本画」とされていました。
「(亀岡の)自然からの贈り物と目が合って、楽しく描いて」来られたと案内の文にあります。

ご自分で「自画自賛」だとおっしゃっていますが・・・・いろいろな絵画教室などのグループ展、あるいは退職記念の個展などを見てきた私からいわせていただくと、ご自身のみずみずしい感動にとても忠実に描かれているという印象が強い、魅力的な絵だと思いました。
よくある「上手な絵を描きたい」という欲が見えない気持ちの良さです。

山野を背景に画面の中央に空に向かってはねるアユが書かれている作品がありました。
「ちょっと太り気味でしょ?!」と「あれアユなんですよ。」とちょっと心配そうにおっしゃるのですが、どうしてどうして立派ににアユです。
「あのアユ、私なんです。」

ちょっと太り気味という意味でご自身だとおっしゃったのではなくて、空に向かって力強く気持ちよく跳ねているアユの姿が私なんだという意味です。
こうして生きて来て、絵にも出会い自然の素晴らしさを見付てその感動をこうして描くことができて、金婚式を迎えて、個展ができる。「とても幸せです。」とおっしゃいます。

その表情を見て、これは撮らせていただかないと・・・・と思いました。
この10分後には人に会う約束のある私でしたが、お願いして撮らせていただきました。
- 2016/11/22(火) 00:00:18|
- 絵画
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
世の中には楽器の演奏も素晴らしく、しかも複数の楽器を演奏できて、絵も描ければ写真も撮れて、スポーツにも力を発揮できる。
世にいう学力も高くて知的好奇心が強く、読書量も人一倍で社交的なウイットのある会話が堪能。そういう人がいますね。
俗に「天は二物を与えず」というのはあまりあてにならない格言です。

「二兎を追う者一兎も得ず」
「器用貧乏」
などの言葉で子供たちを委縮させるのは良い教育だとは思えません。

昔「デモシカ教師」という言葉が人の口の端に登りました。
「意欲を持ってやりたいと思う仕事がないから教師に『デモ』なろうか、大して勉強もしなかったし学力も高くないから教師に『シカ』なれない」
優秀で意欲的な学生ならば民間の大企業にこそ就職する者で、残りかすのようなものが教師になるのだと揶揄したのです。
しかし、私は「教育でも他業種『デモ』、どのような分野であれ力を発揮する能力があるが、高い志と強い使命感があるので、右顧左眄しないで、例え給料は少なくとも教師『シカ』目指さない」という「デモシカ教師」を何人も知っています。
人の可能性・能力は安く見積もってはいけません。 そう思います。

しかし、政治の貧困は子供たちがそうした能力をはぐくむ条件をぶち壊しています。
奨学金を利子付きで貸し付けるなんて!!
義務教育段階の一切の学校関係費を無償にできなくて何が先進国なのか!!

子供たちが音楽に親しみ、演劇に人を学び、ダンスを楽しみ、絵画的表現を身に着ける・・・そして生きることを存分に楽しむ力をつけることができる。そういう教育が学校になければ、到底先進国とは言えないと私は思うのです。

「あそびをせんとや生まれけん」
人生の中で遊ぶ力を育ててる、それが教育だろうとおもいます。
それには先生が締め付けられ追い立てられているようではいけません。
先生たちが学『芸』、『芸』術を楽しんで知的で落ち着きのある笑顔をたたえている、そんな学校でなければ、人生を楽しめる子供たちが育つはずもありません。

- 2016/11/21(月) 00:00:19|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
『芸術の秋』だからというわけではないのですが、このところ拙ブログには楽器を演奏する人の写真が増えています。
半面やはり『芸術の秋』だからこそ、こうして楽器の練習をする人に多く会えるのでしょう。
大学の学園祭に向けての練習のようです。 この人のステージはいつなんでしょう。

先ほど向こうでサックスの練習をしている学生に会いました。彼もジャズをしているんだそうですが・・・・・。
「たぶん同じサークルの人だと思います。」

音楽に全く無縁であったというわけではないそうなんですが「トランペットは大学に入って初めてなんです。」とのことでした。
この人の背後を自転車で通り過ぎる刹那、沈もうとする太陽の光がこの人に射していて、これはいい!!と自転車を停めたのです。
まだ新しそうなトランペットが輝いています。
川の東を走ってきて正解でした。

撮りたいと思ったときのイメージはモノクロでしたが、この人の服の選び方もなかなか良い感じですし、秋の陽の、黄色味がかった感じもまた、撮りたいイメージでしたのでカラーにしてみました。
それでもやはりモノクロの良さも・・・・。

トランペット奏者と言えば両頬を風船のように膨らませているイメージを持っていました。殊にジャズトランぺッターは・・・。
が、世界にはすこぶる美形の有名な女性トランぺッターがいて、その人が吹くのにほとんど頬が膨らまない。 初めて動画で見た時に、こうい吹き方もできるんだと知りました。
最近中高の学校のブラスバンド部は過半が女性のようで、当然のごとく金管も女性が担当するわけで、やはりそんなに頬を膨らめていないのでしょう。
音楽の経験がない私の認識があまりに一面的だったのですね。

写真が撮れるのと(撮れないということがある?!)、楽器の演奏ができるのとどちらがいい?
それはやはり楽器の演奏でしょう。
羨望を込めて、私はそう思います。
- 2016/11/20(日) 00:00:56|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
私は在京(ふつうこの言葉は「在東京」の意味で使うのでしょうが)外国人の暮らしぶりをよく知りません。
おそらく様々なコミュニティーを形成しているんだと思います。
出身国別のつながりもあれば、同じ国からの人でも来日の目的や、あるいは「貧富」の階層ごとに違うのかもしれません。
外国に行けば大概、日本人会なんてものがありますし、瀋陽に行った時には日本人教師の会なんて言うのもありました。
大手企業のエリート駐在員と、中小企業の海外出張組とは別のコミュニテーを作っているなんて言う話も時々耳にします。

ところで、たまたまこの記事を書いている日にもイタリアから日本に来て働いているという方とお話をしました。
お国から日本に来て学ぶ学生たちをサポートしているのだという事で、日本語学習の難しさや指導の工夫すべき点について話し合いました。
海外から来ている人にお話を伺うと学ぶことがとても多いです。
日本人が持っていて容易に反省しようとしない「常識」を疑ってみることができるからです。
こうした人たちとのほんの立ち話程度の会話からも学ぶこと刺激を受けることはたくさんあります。

私には好きな「アイリッシュ・パブ」があるのですが・・・・そういえば「好き」だなんて言いながら最近行ってないなあ・・・・、また誰か誘っていこう・・・・・そこが好きな理由の一つが、在京外国人のたまり場だからです。
いつも書きますが私は外国語がまるでダメなので、彼らと話すことができません。ですが彼らの自由で快活な雰囲気が好きなのです。それは自分にない要素なのでなおさらなんです。

「You are cool.」 「You are cool, too.」

続きを読む
- 2016/11/19(土) 00:00:48|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
最近、京都でも欧米の方をよく見かけます。
でも見かける方が旅行者とは限りません。むしろこういう場所では日本で学んでいたり働いている人が多いのです。ですから当然長期滞在です。
「日本語、大丈夫ですか?」
「はい、少しなら。」

実は前日ブログアップさせていただいたあの人がここにいるのを見つけて話しかけたのです。
在京外国人が、週末には楽器を持って集まっているんだそうです。
何かリーダーらしき人も教えていただきました。

海外に行けば言葉が通じる人と、時には集まって話したいものです。まして楽器ができれば、音楽という世界共通語(多少誤解を招く表現ですが)で交流できるのです。
前日の彼と話しながら、横にいた「あなたも写真に撮らせてくれませんか?」
「いいですよ。」

前日の彼が「素晴らしい写真を撮る写真家だ。僕も昨日撮ってもらった。」とかなりオーバーな紹介をしてくれたせいもあって、即座にOKしてくれました。
日本に来て「日本語」の勉強をしているんだそうです。
演奏をしているところを、という注文に応じてくれました。

周囲には日本人でこの輪に加わっている数人もいますから、写真はかなりの工夫を要しています。

- 2016/11/18(金) 00:00:53|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
彼は建設作業員が履くようなニッカボッカを履いています。
これは?と尋ねると・・・。
「日本の人はこのズボンを見ると大工さんのようだと言うけれど、私たち外国人から見ればとてもカッコイイ。中にもう一枚履けるし、脚の形が分からないからおかしな歩き方や、姿勢をしても分からないから便利。」だと言っていました。

こういうことはお互いによくあることですね。
アメリカでは下着だったT[シャツが、作業着だったタフなズボン・Gパンが日本ではオシャレなカッコイイ、カジュアルな服になってしまいました。
ジャンクフードもオシャレな食べ物ですしね。
もともとスポーツ用の衣服だったニッカーボッカーズが日本の一部で建設作業用のズボンとなり、それを外国人が「かっこいい」と評価して履く。
それがまた逆輸入されて新たな見方が生まれていく。それもまたいいことですね。面白いなあ。
元祖争いだとか、○○古来だとか、わが国独自だとかいって誇りあうなんてバカバカしいことです。

「9年間日本にいますが、日本語の勉強をちゃんとしてない。だから普通の会話はできるけれど深い意味を伝えることができない。すみません。」という。
日本にきて、日本に生活する以上自分が日本語をしっかり学ぶべきなんだと考えるのは、当然かもしれないけれど、「すみません」と言える気持ちは素晴らしい謙虚さだと思う。
おそらく自分自身がもっと日本人と深い交流をしたいと思っていて、それが思うに任せないので歯がゆいのだろうと思う。
程度はあまりに大きく違うけれど、私もそう感じる。
この人ともっともっと話し込んでみたい。せめて英語ができればなあ。

やはり私が撮っている間、ただの写真用のポーズでない演奏をしてくれました。
一生懸命にシャッターを切ったら、一生懸命に演奏し、制作してくれる。私はこの感覚が大好きです。

彼は間もなくインドに行くそうです。
3か月後に、そこから郷里に帰ったらメールをくれるそうです。
私はその時にこれらの写真を添付して返事を送るつもりです。
また彼の率直な批評を聞かせてもらうのが楽しみです。
- 2016/11/17(木) 00:00:50|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
バイオリンです。
音が不思議でした。
クラシック音楽の奏法ではないのです。中国風な、まるで二胡の演奏のように音を響かせます。
音がうねるとでも言ったらよいでしょうか。

そのような奏法でだけ演奏しているのではないのです。
あえて不協な音も試しているようです。
この人も何かただ者ではない気配を感じさせます。

この「ただ者ではない」雰囲気の人は、どうも本当にただ者ではないようで・・・・。
バイオリンだけでなくダブルベースなどの弦楽器ばかりでなく金管各種も演奏できるんだそうです。
そして映像。
ですから「写真も少し撮ります。」
アチャー、これはまずい。

私がどな写真を撮るのかとと聞かれたので、いつも携帯している写真を見てもらいました。
すると、これまでのどの人より具体的に評価してくれました。
そして、「私が一番好きなのは・・・・・(秘密ですが)・・・・・やはり若い女性ですね。」とのことでした。
「Me too.」

彼は、オーケストラのすべての楽器を自分で演奏するつもりらしいです。それを練習するのは大変なことです。
「ですからそれぞれの楽器のプロパーの人に比べて決してうまくはなれない。けれど私はそれぞれの楽器を自分で演奏して、それを映像と結び付ける総合的な作品を作るつもりだ。」
それが彼の目標なのです。
なんて壮大なんでしょう。
そういうことができる電子楽器があるというのに、敢えて自分で楽器を演奏しミキシングし映像を制作しようというのです。
やはり「ただ者ではない。」のでした。
- 2016/11/16(水) 00:00:39|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
振り返って思い出してみると、彼の所属している大学の学生で、こうして偶然の機会に出会って撮影を断った人はいなかったのではないかと思います。※1
私はそこから(肯定的な意味で)人の形成ということについて、いろいろと考えてみることがありました。
・・・・※1.これは正しい判断ではないですね。断られた人とはそもそもその所属大学の話など聞いていないケースがあるのですから。
そして、こういう風にして出会って撮影をお願いしたケースでは80%以上の方がOKしてくれていましたから、その人の大学うんぬんは何ら関係はないのですね。
ただ、その場でのお話がとても噛み合って気持ちよく話せることから印象が強いのだと思います。・・・・

こうして撮らせていただくときに「練習を続けてください。勝手に撮らせてもらいますから。」ということが多いのです。
すると『撮っている間は一生懸命吹き続けなくては…』と思ってくれる人が多いのです。 そういういい人がたくさんいるのです。
それでうっかりずいぶんご迷惑をかけてしまいます。

これから寒くなるとこうしてふきっさらしでの練習をする人はぐっと減ります。
猛暑の時もそうですね。
でも必ずと言っていいほど、そういう厳しい条件でも練習をする人はいるんです。
本当にお好きなんですね。そして自分にも厳しいのでしょう。

そういう情景を見ただけで、私はその人に話しかけたくなってしまいます。

この人の大学の学祭はもうじきですから、写真部「表敬訪問」も兼ねて出かけてみようかなと思っています。

- 2016/11/15(火) 00:00:58|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
いつものように鴨川を自転車で走っていると対岸からサックスの音が聞こえます。
暫し耳を傾けるとその音の確実なこと。相当練習を積んだ音です。
それで飛び石を渡って対岸へ。

対岸に渡って一段高いところから、再度じっくり音を聞きます。
これは上手だなあ! ただモノじゃない。 そう感じました。
で、音がひと段落した時に拍手をして、・・・・こちらを向いてくれたので近づいてお話を聞きました。

音はとても力があり若々しい伸びがあります。
基礎をしっかり積んだ音だなあと感じましたので、中高でも相当練習したのでしょうね、と聞くと
豈図らんや、ブラスバンド全国大会に度々出場している学校の出身でした。
「練習は相当厳しかったですね。基礎・基本は本当によく練習したと思います。」

納得です。
ただブラスバンドでの吹き方と、今やってるジャズとは違ってくると思うのです。
「ジャズは大学に入ってからなんですが、・・・」
大学ではジャズのサークルに属しているようです。
そして今月には「学祭」でライブがあるという事でした。

練習を中断させてお話を聞いているわけなんですが、その応対ぶりは実に紳士的で丁寧です。
彼の過ごした中高の部活での伝統が生きているのかなと思いました。
- 2016/11/14(月) 00:13:47|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
お客さんが数人周りを囲みました。
よく見るとその中の方が持参したもの取り出して色々アドバイスを受けているようです。
こういう実演の会場ではごくまれに職人同士でいくらかのやり取りをする中で「へぇ~ そこはそういう風にしてるんだ?!」などという言葉が漏れたりもします。
けれどこんな具体的に「角度をこう変えてこちらから鉋を入れれば、この面がこういう風に・・・・。」などという場面は見たことがありませんでした。

教えを受けている方は遠く他県から来ておられるようでした。

「まあ聞いて来ればできるかぎりね・・・・。」
「ところで葬式の時に使う写真を撮てくれないか?」と本気半分冗談半分。
私は「遺影」には笑顔の写真がいい、だからいくらかお元気な時に家族や友人と談笑したり趣味に打ち込んでいるようなとき、こうした職人さんならお仕事をしているときに写真を撮っておくのがよいと思っています。
普段苦虫を噛み潰したような表情の方でも、やはり遺影は笑顔がいいと思います。
「いいですよ。改めて撮りましょうか?」とこちらも本気半分、冗談半分。
後日写真をお届けした時に随分喜んでくださって、この中から選ぼうかなどと大きな笑顔で冗談とも本気ともつかないことをおっしゃっていました。
この方はご自身の人生に正直に向かい合っているとともに、とてもとても家族思いなのだと思いました。確かにその通りでした。

写真には力がある、と私は思っています。
「笑顔の遺影」もその一つです。
ですが、この方がその写真を実際に役立てるのは、ずいぶん先のことになるだろうなあと仕事に対する強い意欲を感じて思いました。
「住んでいるところはそんなに遠くないもないじゃないか。ぜひ立ち寄りなさい。」
「お邪魔したら工房で撮らせてもらうことになりますよ。それでもいいですか?」
「近いうちにビデオ撮りにくるし、少し前には放送局が取材にきて、放送もされた。まあ好きに撮ってみたら?!」とお許しがでた。
- 2016/11/13(日) 00:00:55|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
伝統工芸士のお一人でもあり、昨年叙勲もされている方です。
むろんそれだから撮らせていただけませんかとお頼みしたのではありません。
「職人ていうのは偏屈だとか寡黙だとか言われて敬遠されることがあるけれど・・・・・」そういう方ではなくて気さくで人を気遣って楽しませる方です。

確かにこの方の落款「普賢」が入っていれば、世間はいささか取り扱いも違いますし、お値段も当然・・・・・ですが、やはり問題は確かな「腕」です。
この方の実に個性的で創造的な作品が会場に展示されています。
この場にも茶筅や香盒が並べられています。

清水寺が改修されていますが、その清水の舞台の廃材を活用して線香入れの箱をお創りです。
枯れたいい感じの箱です。
年輪は夏に広く育ったところと冬に密になったところが縞状になってできているという事は、皆さんよくご存じなわけですが、長年使われた木は、その夏に広がった部分がやせて冬の目が凸になっています。
で、逆にそういうところを見れば古い材だなと判断できるわけです。

夏の目がやせていないような若い木を削ると木の香が鮮烈に漂います。
古い材ではそれがありません。

人間の場合も生物的・肉体的には同様のことが言えるでしょうが、違いはやはりその精神ですね。
精神が年齢とともに馥郁と香る人がおられるのです。
そしてそういう精神は「仕事」を通じて形成されてきているということを強く感じます。
- 2016/11/12(土) 00:00:13|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
この写真を撮らせていただいたお店に写真を数枚お届けしました。
好意的に受け取っていただけたのはうれしいことでした。
こういうレンガの壁を設えるお店でお茶を飲んだり食事をしたりするのは楽しそうです。

お店の方にもブログを見ていただいたようです。
ありがとうございます。

イタリアやドイツで感じたことですが、一つ一つのお店が街の景観を形作っているという意識が強いことです。
日本ではバラバラで勝手放題で、そのうえセンスがとても悪い店が多い、というのが残念なことです。
そのうえたまたま良い出来の店や建物は、皆さんで楽しんでくださいという姿勢ではなくて、商売上の優位性、利益を生む条件としてしか意識されていなくて、他の人の利益のために使われてたまるものか的な意識が露骨です。
社会やその地の歴史に、一つ良いものを付け加えようという意識ではないのですね。だから簡単に壊してしまいます。

ですからこうしたオシャレで計らいのあるお店は貴重で存在がうれしいのです。

烏丸五条を少し上がって東側の店です。

こういう場所だとフォトマヌカンをしてくれる人も楽しそうで心地よく撮影に臨んでくれるので、そこからいろいろな方向に気持ちを移らせることがしやすいのです。
そういう意味でとても貴重な場所なのです。
- 2016/11/11(金) 00:00:49|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
先日ある写真ギャラリーに行きますと、そこにカメラの展示がされていて、関係スタッフがおられました。
私がいま最も関心のあるカメラの一つでしたので、近づいてカメラに触れてみました。
そのカメラは
「操作性を追求したダイヤル類」
「電源がOFFの状態でも設定を変更することができ、次の撮影に備えることができます。」
とその特徴をうたっているのですが。

フイルムカメラ時代には、いったんあるフィルムを入れてしまえばその後に感度を調整することはできませんか。ですから、一般的には絞りとシャッタースピードの二つを調整すれば露出が決まり、ピントを合わせればそれで写真はほぼ決まりです。(むろんレンズの選択やフィルターの問題など他にもいろいろな要素はありますが)

「絞りとシャッタースピード」
これがまず第一歩で最後の一歩と言って良いと思います。・・・・いや、そうじゃなくてフィルムの選択から始まるんだよなどというご意見はまあ横に置かせていただいて・・・。

最近の電気的なカメラでは、まずスイッチをオンにしてから様々な条件を設定するものが大半でした。
それが、また新たにファインダーをのぞく前に諸設定を確認・変更できるようにされた「直感的に操作」するカメラが出て来ました。 私はこれを歓迎しているのです。
そういう点でも先のカメラが関心の的なんです。
カメラボディー上部にシャッターダイヤル、露出補正ダイヤル、感度ダイヤルなどが並び、スイッチをオンにしないで目で見て「直感的に」条件を設定できるのです。
ところが・・・・その設定項目の中に、とてもとても大事な「絞り」がないのです。絞りはスイッチをオンにしてファインダーを覗いてダイヤルで調整してください」とのことなんです。
これっておかしくないですか?

私は是非ともレンズに絞り値を刻印するべきじゃないかと申し上げたのです。
だってスイッチをオンにしなくても設定を目で確認でき変更できるということが売りなんですから、と。
このカメラの製造会社が作っているレンズには絞り値が刻印されているものもないではないのですが、このカメラに相応しいですよと並べられたレンズ7,8本のすべてに刻印がありませんでした。
つまりスイッチをオンにしてファインダーを覗いて、それで絞り値を知るという段取りなんです。
これではコンセプトから言って不徹底ではないかと申し上げたのです。その意味がその方には腑に落ちないようでした。
「ファインダーを覗いて撮っていただくカメラなので・・・・・。」
「????? そのファインダーで被写体をしっかり見て撮るというのがもう一つのコンセプトではあるが、そのことと設定状況をファインダー内で確認すると言うこととはまったく別問題ではないのですか?」
話は少しも噛み合いません。
「ファインダーを覗いているときの没入感と、自然と脇が締まり、体の中心からレンズの先の被写体までが一直線に捉えられることで、あたかも自分とカメラが一体になったかのような感覚で撮影を楽しむことができます。」
というのはファインダー内の数字をあちこち見ていてできることなのだろうか。
昔はともかく、今の私は、この人は理解する条件の無い人だと思えば話をやめます。無理してもお互いにいいことはありませんから・・・。
そう、無理しなくてよかったのです。

すっかりEVFになれ切った人とそうでない者とではすでに根本的に発想が違うのだということに、後で気づきました。
なるほどそういう事だったのか、と。
電気カメラになってEVFになって・・・ということが開いたものは、私の写真観からは別の世界への扉だったのでした。
- 2016/11/10(木) 00:00:08|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
西陣織の図案を描かれる職人さんです。
こうして公開の実演をしてくれています。
海外からのお客さんが多いのでいろいろな言葉で話しかけられます。(この女性はたまたま日本語がお上手です。)

ご自身の来し方にはずいぶんご苦労があって、しかし、今日までこの仕事を続けてこられました。
その内容はここにはむろん書けません。
方眼紙に描いているのは、この図案を縦糸と横糸の関係に置き換えた図面にしなければならないからです。
今ではそうした情報はコンピューターに入力します。
アナログな絵をデジタル情報に置き換えて、織屋さんに渡すのです。

そうした技術的な大転換期を乗り切って来られているわけです。
しかし、きちんと手書きをしたものを基盤に制作していかないといいものはできないとおっしゃっていました。

こうした伝統工芸では、どの分野でも後継者問題が深刻ですが、この分野でも若手がほとんど育っていないそうで、組合幹部としても心を痛めているようです。

でも、最近一人若い女性が、是非とも・・・・やめておいた方がいいよという忠告も聞かないくらい強い決意をもって・・・・職人の世界にはいったのだそうで、満々に笑みを浮かべて、何とかものになるように育てたいねとおっしゃっておられました。
でも、それは京都のこの業界にただ一人の話なのです。 事態はそこまで深刻なんですね。
手にされているのは小学生などの体験学習の時にパンチで穴を開けさせて・・・・横糸の杼を飛ばすためのカードです・・・・作らせたものだそうです。

少しでも体験を通じて興味を持ってくれればと思い、そういう事業にも力を入れているのだそうです。

すっかり話し込んでしまい、最後には「またぜひ。」と握手の手を伸ばしていただきました。

私に年齢を尋ねられて「まだまだ若いなあ。」とつぶやかれました。
大いに鞭撻されました。
- 2016/11/09(水) 00:00:23|
- 伝統工芸
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
川辺に腰を下ろして二眼カメラにフィルムを装填していました。
『カメラ女子』などという言葉がありますが、そういう括りには入らないだろうなあと思って声をかけました。
案の定専門的に写真を学んでおられました。

近いうちにご自宅に暗室を作りたいと目下資金作り中だそうです。
本格的です。
私のようなアマチュアではありません。

けれど同じ写真仲間として楽しくお話しさせてもらいました。
「撮っていいですか?」と尋ねられましたので「僕も撮ります。」とお互いに。
ワンカットずつという感じでしたが、相手はコストのかかるフィルムですし、こちらはデジタル。
しかも年の功は図々しさの違いとなって表れます。

ごちゃごちゃ言いながら数カット余計に撮りました。
「あっ!!白飛びしちゃった!」
「でも女性は白飛びくらいを喜びますよね。」
よくご存じで。 その辺をお分かりなのは当たり前ですね。

写真のお友達ができそうです。
続きを読む
- 2016/11/08(火) 00:00:22|
- 写真
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
美術出版をされていた時に企画発・発行された書物を見せていただきました。
こうした専門書は書画や陶器などの実物を様々なルートで集めたり、専門的な写真家に撮影を依頼したり、確実な鑑定の裏付けを取ったりと大変なご苦労があると思います。
そのうえ印刷も特殊で、色数が多かったりします。紙にもお金がかかります。そのうえ大衆小説のように何万何十万冊と売れるようなベストセラーになるわけではありません。
残念なことに市場は大して大きくはないのです。
それで、単価も高くなりがちです。
発行し、採算をとり、出版社としての経営を成り立たせていくこと自体が難しいことだと思います。

それでもよい絵などの作品を広く多くの人の手に渡るようにしていきたいという願い、後世に残したいという強い願いに突き動かされてこられたのだと思います。
江戸期などの大衆的な印刷物にも素晴らしい意匠やウイットが溢れています。かつて日本はこんなに自由で闊達な精神があったのだということを、こうした書物を通じて知ることができます。
そういうものに注目されています。

実は私には80歳を少し超えた従弟が郷里に健在です。この方とほぼ同じ年恰好になります。
ふと思いたって電話しました。
今でも社会に対する自己犠牲的な活動を献身的に続けています。
その話を実に生き生きと、いささかも驕ることなく話します。
幼い時に戦争を体験し、戦後の厳しい社会状況を潜り抜けて、その中で自己の信念を形成し・実現してきた世代の「骨がらみの思い」を感じます。

私に欠けるのはその「骨がらみの思い」です。

亡くなった父たちにも感じたものです。
もっともっとこうした方々に出会いたいものと思っています。
- 2016/11/07(月) 00:00:09|
- お店
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「ギャラリー高野では、木版画などのアート作品や、オリジナルポチ袋、一筆箋、ポストカードなどを取り扱っております。」
お店のHPにはこう書かれていますが、とてもとてもその範囲に収まらないとてつもなく深く大きなギャラリーです。(勿論、お店の面積や地下室についていっているのではありません。)
「大正14年から京都で美術出版を営む創業家の自宅の一部を解放した小さなスペース。」だと紹介されています。
ご主人は私より10歳ばかり年長の方です。

この方は美術出版を受け継いでこられた方ですから、古美術から大正ロマン、古径や松篁などなどの数々の収集があります。
私が哲学の道を自転車を押しながら散策している途中に、ふと久しぶりに立ち寄ったギャラリーです。以前立ち寄ったのは、もうずいぶん前のことになります。
ギャラリーの前で少し愚図愚図している私を笑顔で迎え入れてくれたのがご主人でした。
そのご主人がお店に飾られた絵について丁寧に説明をしてくれるのです。

このお店にはたくさんの外国からのお客さんが立ち寄られるのだそうで、100に近い国からのお客さんが来ただろうとのことでした。
お客さんが立ち寄ると、なんという国から来たのか、その国の言葉で「ありがとう」はどういうのかなどと話しかけて、また美術について親しく話すのだそうです。
お顔は実に楽しそうです。

私は芸術(絵画)について素養がありませんから頓珍漢なやり取りになっていたのではないかと思うのですが、よいと感じたものはそういい、感じたことは言葉にするようにしています。
それでご主人はとても歓迎してくださって、次から次へと名作・秀作を出して見せてくださったのです。
本物と印刷(相当気合の入った美術書専門の印刷会社のものです)を並べて見せてくれることさえしてくれました。
ご主人が元美術出版をされていたからこそでしょう。

手刷りの版画の作品の見事さに改めて感銘を受けました。
摺師の力はすごいものです。色といい、線といい、グラデーションの表情と言い、現代技術の印刷でも到底及びません。
本物の一枚一枚を手にとって目の前10センチで見せていただけるのは、こうしたお店だからこそです。
美術館ではこうはいきません。
むろん手指の油が付いたり、息がかからないようにフィルムのなかにはいっているのですが。
線の擦れや揺らぎに至るまで食い入るように見せていただけました。
- 2016/11/06(日) 00:00:44|
- お店
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「古いカメラなんです。」と言われていましたが、D300は私のカメラの一年後の販売ではなかったかと、・・・・確かなことではありませんが。
口径の大きなレンズをつけていますね。
一眼レフカメラではキャノン、ニコンが世界を席巻しているという状況は当時も今も変わらないようですね。
でも一眼もミラーレスカメラが増えてきて光学ファインダーも押しやられています。
カメラの世界は良きにつけ悪しきにつけ大きく変化しようとしていますね。

飛び石の一つに腰を下ろしてもらいました。
亀の形をしています。
照れくさそうですね。それはそうでしょう。突然声をかけられて写真を撮られるのですから。

日が傾くのが早くなって、もう光が黄味を帯びていますし、低い角度から照らします。
長身で遠目にもスタイルの良い人ですので顔の表情を撮るにはこうして低くなってもらわねばなりません。

後日メールをいただけば、その返事に写真を添付してお送りする約束です。そのためもあって私はEメールアドレスを書いたカードを渡すようにしています。
それにはブログの検索ワードを書きこんでいます。

夏であればこの人が歩ける時間、写真を撮れる時間に余裕がありますから、少しご無理を言ってもう少し撮らせていただけるのですが、秋も深まってきている今ではそうも言えません。
これからどこに行かれるのか、下賀茂神社かな、 もう急がねばなりません。

私の方が焦ってしまって「謝謝、再見」というべきところを「Thank you. Have a good time 」と言ってしまいました。
こんなに平常心の無い状態ではよい写真は撮れませんね。
- 2016/11/05(土) 00:00:54|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
私はいつも「柳の下のドジョウ」を探すようなことをしているのです。
成功体験というものは得てして人の心理を縛るものです。 私も縛られっぱなしです。
今年、韓国・台湾の若い女性に声掛けをして、・・・・それもとても素敵な人に・・・・写真を撮らせていただきました。
それがうまく行った場所に同じような条件の人が現れるなんて、万に一つくらいの確率もないんでしょうが、期待して足を運んでしまうのです。
( 誤解があってはいけませんので。 最初の写真が一番最後に撮った写真です。)

前回うまく事が運んだのには理由というかある種の傾向性があるからではないかと「分析」してみてもいるんです。
ただやみくもに「柳の下にドジョウを求める」自分を認めるのはちょっとあまりに恥ずかしいので理屈をつけているわけです。

「안녕하세요 」というべきか「你好」というべきか、それとも・・・・・、それで分らないから「Are you Japanese?」 爆笑ですね。
她是台灣人でした。
「私は台湾人です。」と日本語で答えてくれました。
それで日本語はできますかと尋ねると、「ほんの少しだ」と身振りを交えての返事でしたので、以後は英語ですが、私のひどい英語では通じるはずもなく・・・・・。

それでも彼女も覚悟を決めて一生懸命会話してくれました。
私の脳の会話回路が混乱していて「あなたの写真を撮ってもいいですか?」という中国語だけは何度も暗唱していたのに、英語で訊ねてしまいました。人間の意識って不思議ですね。とにかく日本語ではだめなんだと思い込んだところから混戦しているのです。
でも私にとって大切なことは言葉を壁にしないという事です。
この私にとって高い高い壁を少しでも低くすることが長年の課題なんです。

この人が一眼レフカメラを持ち一人で景色を撮っていたので、どんなことに視線を注ぐのかに興味津々だったのです。
もう一昨年になりますか、やはり台湾の若い女性が一眼レフカメラををもってある国際写真展の会場を熱心に見て歩いていたところを声をかけたことがありました。
その人とは仲良くなって写真も撮らせてもらいました。そういう成功体験があたので、「台湾人」と聞くと仲良く話せるのではないかと思うのですね。

同じことは韓国の女性とも、中国の女性とも経験しましたので、結局、日中韓「台」のどこの国の人でもOKという、実に私に都合の良い結論を引き出しているわけです。
こういう服装をして、いわゆる観光スポットをいくらか外れた場所を、一人でカメラを担いで歩くような人とは、きちんと話せば「訳は分かってくれる」と、私は思い込み始めているのです。

少なくともこういう人は私より断然自律心があり行動力・勇気があると思うのです。
私はそういうえらい若者と接してみたいのです。
という様な理屈をつけていますが・・・・その実は・・・・・。
- 2016/11/04(金) 00:00:15|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:1
すでに11月も3日ですよ、みなさん。 北海道ではずっと前から雪の便り。気温がマイナスですって!!
今年は昨年より寒い冬になるらしいですね。
「もういくつ寝るとお正月」・・・・こたつはまだかなあ。
と、でも、この撮影の日はうれしいことに良い天気でした。
この人と出会った時には学生さんでした。 少し大人っぽくなった感じが撮れるかと期待しています。

髪がショートになりました。
この前は鎖骨の下あたりまでだったかな。その前は
・・・・「記憶にありません」・・・・・
では済まないでしょ?! と、 いえ話は別でしたね。
何とかいい場所を見つけて撮りたい人です。

フォトマヌカンをしていただくに人には「感応力」とでもいうものを持っていてくれるといいですね。
幸い私がお願いする人はどなたもそういう「感」の良い人たちで、周囲の状景を感じ、私の撮りたいニュアンスを感じてくれます。
ただ私の好みがワンパターンなのがよくない点ですね。

以前は「適正露出」をもっと意識して、「適正露出」にするための工夫をしていたのですが、このごろは大概それを外しています。
意図的に外しているか、外れてしまっているかが問題なんですが。

自然や花などが入った状況で「適正露出」にする場合。 人物主体で撮影をするときに露出を適正にする場合。
漠然とカメラの機能に頼るよりはうまくいくやり方を一旦は覚えて、3,4年前には結構その「技」を使っていたんですが、いつからか肝心の場面で、すっかり忘れているんです。
それより話に夢中になったり、「場面」を作るのに気持ちがいってしまうのですね。
ほとんど演出もしていないのにです。

まあ、キャパが小さいと言うことなんでしょう。
この人の目に夢中になっているうちに撮らされているんでしょうね。
- 2016/11/03(木) 00:00:24|
- 人物
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
私がほんの少しの間瀋陽にいた時に公園で横笛と揚琴を演奏している方たちに出会い、その演奏の高度なことに驚かされたことがありました。
その時に私が「写真を撮らせて下さい。」というと ・・・・・私は私が「日本人」であることを伝えていましたので、その直後の一瞬の沈黙は私を緊張させましたが、・・・・・言葉ではなくて素晴らしい熱のこもった演奏で応えてくれたことを思い出します。
私が周囲を回って何度も何度もシャッターを切るとさらに汗を浮かべ体をゆすって演奏してくれました。
「謝謝」と礼を言って去ろうとすると「不客气 不客气」と。
そこが日本のかつての侵略地でありその中心都市瀋陽(奉天)であっただけに、満州開拓団員の息子である私にとっては感慨深いものがありました。
そういうことを思い出しながらこの人の演奏を聞きました。

最近まで施設で仕事をしていて高齢の方たちにこうして演奏した経験をお持ちですので、唱歌や李香蘭の曲などを吹いてくれました。
喉の奥を震わせたり唇を震わせて吹くなどの様々な奏法も見せてくれました。

その演奏の様子を見ていて「演奏の様子」を撮るより、肖像を撮りたいと思い立ち「クローズアップ」してみました。
もう少し手前の手指を残すべきだったなあと後で思いました。

この人のまなざしの向こうにはモンゴルの大草原とそこに吹く風があるように見えました。
大きな自然の中では人間が日々気にし思い煩っていることや、衝突や争いのつまらないことを感じるのだとおっしゃっていました。
こんなに深い思いを刻んだお顔に接すると改めて自分が反省されます。
- 2016/11/02(水) 00:00:48|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
よく人口に膾炙する言葉に 「40歳過ぎたら男は自分の顔に責任がある(Every man over forty is responsible for his face)」というものがあります。どうやらそれは、かのリンカーン米大統領のもののようです。
そしてまた、ジョージ・オーウェルというイギリスの作家は、 「50歳になると、誰でもその人の人格にふさわしい顔になる」ということを言ったらしいのです。
よく聞かされる言葉であるだけに、私には少々『耳が痛い』のです。
しかし、わたしはこうして人物の写真を撮らせてもらっていますから、この言葉に・・・・40歳とか50歳とかいう節目はともかくとして・・・・・は同意するところが少なくないのです。
そして、今日のこの方を撮った時、またこうして写真を見返した時に、やはりその言葉を肯定的に確認するのです。

中国上海出身の方です。もうすでに20年以上日本に済んでおられます。
私よりやや若い方ですから、幼少から青年期にどういう動乱を経験をされてこられたのか幾分かの想像ができます。ご自身もその一部を話してくださいました。
日本に来てからもおそらく並大抵の苦労ではなかったろうと思います。

この方のプライバシーをこれ以上書くことはできませんが、この素晴らしい笛を知りずっと吹き続けたことが、この人の人生を支えてきたとのことでした。

私が鴨川を走っていると上流の方から笛の音が聞こえました。
その音は一音一音に妥協がなく、加えてつながりの美しい吹き方でした。
これは素人ではないなと直感しました。
そしてその音色や曲想はどうやら中国のものらしいのです。

橋の下の河川敷でふいているのですが、私は段丘の上でしばらく耳を傾けさせていただきました。
すると遠目に私に気付いたこの人は、私の方に体を向けて、私を意識して吹いてくれたのです。
小気味よく短い音を連ねたリズミカルな曲です。後で聞くとモンゴルの草原を駆ける馬をイメージした曲だそうです。
曲が終わると、私は遠くから拍手をしたのですが、丁寧なお辞儀をもって応えてくれました。
私は河川敷に降りて行って、お礼を言いつつご挨拶をしたのですが、この方はそれから半生と音楽についていろいろな経験や思いを話してくれました。
この方はこうした笛だけではなく書など他の様々な技芸にも通じておられる方だそうですが、今はこの笛に気持ちを集中されているとのことでした。
中国の大自然、日本の四季・変化の豊かな自然、そういう自然に包まれた心持を笛で表現したいとおっしゃっていました。
- 2016/11/01(火) 00:00:32|
- 音楽
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0