皆さんの地方ではいかがですか?
えっ?! いえ、曼珠沙華の咲き方です。 今年はいつも見るところで「咲いてないなあ」と印象を持っていたものですから。

「彼岸花」が一般的名称なんだそうですが、この花の撮影は存外難しいなあと感じています。
「鮮やかな赤い色」という印象ですが、時に毒々しいほど赤い色も、また別の時にはくすんだ赤い色の時も、なかなかきれいな写真になりにくいようです。
みなさんのブログを通じて見せていただくと、よく上手に撮られるなあと感心することが多いです。
秋の状景で撮りたい・・・・、ちょうどこの辺りに白い色の曼珠沙華が一叢あるのに気づいていましたから、お誘いしてそれを背景に撮ります。

曼珠沙華は彼岸花と言いますし、球根に毒があったり、いささか色が毒々しかったりして悪いイメージをお持ちの方もいますので「曼珠沙華を背景にしたいのだけど、大丈夫ですか?」とお尋ねします。
幸いなことに「特に嫌な気持ちはもっていません。」とのことでしたし、却って喜んでいただけました。

誰かがお地蔵さんにお供えしたという花ではなくて、自生の花です。
赤い色ではなくて良かったかもしれません。着物の色と喧嘩しませんからね。
周囲に空間がある程度あったほうが「季節の状景」を感じさせるかもしれません。
あまりアップなだけだといつもの写真になってしまうかもしれませんね。

三条大橋・・・という景色ではないのですが、ちょっと郊外で撮ったと言っても「へ~、そうなんだ。」と思わせてしまうかもしれません。
これが繁華街のすぐそばなんですから、面白い。

お二人の個性が現れた着物のチョイスですね。
お店のアドバイスもあったのでしょうか?(勝手にレンタルされていることにしてしまっていますが)

お店の予約時刻まであとわずか。
遅れてはいけませんから急ぎます。
撮影は楽しんでいただけましたでしょうか。
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- 2016/09/30(金) 00:00:23|
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京都はちょっと違った町。
着物で歩いてみたい、そういう街です。着物で歩いても違和感のない街ということもできます。
「観光ですか?」
「いえ、遠くから来ているというわけではないんですが、着物で歩きたくて。 それにこれから床で食事なんです。」
おお、なんと羨ましいこと。

先ほどまでお二人で撮りあいをされていましたので、ちょっと声をかけてみました。
こうした着物を着た素敵な人をときどき見かけますが、実はほとんど声をかけることはありません。ずっと以前に台湾からの和服の似合う三人の方を撮りましたが、それは観光記念撮影のお手伝いがきっかけです。
今回も、まあそういった感じでしょうか。

お持ちのカメラは背面液晶で構図を決めておられましたので、背後を通る刹那、つい覗いてしまいました。ごめんなさい。
それで10メートルほど先まで行ったんですが、つい戻ってきて「小さな親切余計なお世話」になるかもしれないところを思い切って・・・・。

おそらく他の観光都市でもそうなんでしょうが、着物のレンタルショップがとても増えました。
この方たちはレンタルかどうか聞きませんでしたが、ですから、着物姿で歩く若い女性はよく目につきます。
でも、おそらく過半は外国の方です。・・・・それが案外、といったら失礼ですが ・・・・洋の東西を問わず、思わず「いいね」してしまいそうな人をたまに見かけます。
で、逆に日本の人の中にそういう人を見つけたいのですが、これがまた案外に・・・・。
で、思わず、このお二人に声をかけたという・・・・そういう弁解ですが・・・・訳なんです。

秋の風情で「素敵な人」を撮りたいという思いがあったことも事実で、撮りたい願望が亢進していたという事情もあったわけで・・・・と、何でこう弁明を繰り返すんでしょうね。

こうして出合い頭のチャンスだとロケーションを選べないのが難点なんですが・・・・。

- 2016/09/29(木) 00:00:42|
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昨日、「もう神無月が目前ですね。
あれほど暑い暑いといっていた夏も、迷走したり数珠つなぎできたりする台風の不安と被害の話題に耳目を集めているうちに、もう暑さのかけらをかすかな気配としてしか残していません。」なんて書いていましたが、
記事が予約されていたせいです。
実際は暑さがぶり返し、しかも湿度が高くて、自転車で走るとぐっしょり汗をかきます。体力消耗です。
8月の猛暑と比べれば、何ほどのこともないはずの気温なのですが、一度下がってからの逆戻りは応えますね。
皆様ご自愛ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「習い性となる」・・・・・、という位に「習えばよいのだが、それができないのが凡人の凡人たるゆえんでしょうか。
先の「習い性となる」と「習慣は第二の天性」というのは同義ではないのじゃないかと思っているのです。
前者には積極的意味があり、後者には受動的なニュアンスがあるような・・・・。まあ敢えて言えばというか、そんな感じがするという事ですが。
これも私の「念仏」の一つ。

別にも念仏があって「無意識の意識化、意識の無意識化。」
これがが練習の極意だと思っているのですが、
そういう「念仏」を唱えてもうまくならないのが現実です。
念仏百万遍…じゃなくて「性」となるほどの意識的練習ですね。

ところで、
その一方でフジXT-2について、もたもたしていたらソニーからα99Ⅱが出ちゃいました。
ソニーですから?やはりEVF なんですが、 随分と、改良は進んでいるようです。
ところでソニーのαシリーズの2006年からのヒストリーを示した図には2008年発売のα900は載っていません。
フルフレイムの代表がα99なんですね。
ソニーはα900の存在を評価していないんでしょうか。ソニーからすれば鬼っ子というか傍流という事なんでしょうかね。もし、そうだとするとソニーにはOVFへの期待はほとんど全くできないようですね。
糸鋸をひく右腕に「力が入りますね」と話しかけると
「いえ、右腕は糸鋸を垂直に上下に動かすだけで、それほどの力は要らないのです。むしろ材料の方を固定する左手の方に力がいるのです。」
平らな材料は写真に見るような作業台において固定できますが
「こういうデザインの場合には固定の仕方が難しいんです。半分浮かせたままのこぎりを引かなくてはならないこともあって・・・。」
半球の材料の一点を台に押しあてて、しっかり指でつかんで固定するわけですから、なるほど力がいることでしょう。

のこぎりをひく音だけが静かな空間に聞こえているという雰囲気を撮りたいと思いました。
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- 2016/09/28(水) 00:00:00|
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もう神無月が目前ですね。
あれほど暑い暑いといっていた夏も、迷走したり数珠つなぎできたりする台風の不安と被害の話題に耳目を集めているうちに、もう暑さのかけらをかすかな気配としてしか残していません。

私事で言えばドイツ旅行も、半年以上ああでもないこうでもないと構想していたグループ展も、記憶の箱の隅の方にすっかり片付いてしまっています。
ですから過去にだけ心を砕いていると、いつの間にかすべての未来を失ってしまいそうです。

そんなことを考えるのも、年齢のせいでしょう。
この人のような若い時には、まだほとんど何も終わっていないし、はじまってもいないと感じられたものでした。
すべてのことが未来にあるのだと・・・・そう感じていたのだと思います。

しかし、私は、いつでも「『今』は人生で一番若い時だ」という、とっても素敵な言葉を忘れないようにしましょう。
そうなんですね。そうなんですよ。

だから私の写真はこれからうまくなるんです。 ハハ。

もう十月です。
次の個展を構想しましょう。
さて、何時がいいでしょう。 それまでにどんな写真を撮りましょう。 これまでのどんな写真と響き合わせましょう。
これからもっと良い出会いがあるに違いありませんから、思いもよらない展示になるかもしれません。
楽しみですね。
- 2016/09/27(火) 00:00:48|
- 工芸
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手描き友禅です。
この道「30年と少しかな。まだそんなものだ。」そうです。
通常、例えば大学卒で就職すれば30と数年で定年退職です。十二分なキャリアです。
でもお隣の型染めの方のキャリアが何と六〇年ですから・・・・まあ、それに比べれば「ようやく一人前」ぐらいの年数となってしまいます。

勿論、実力実績は「ようやく」一人前などというレベルをはるかに超えていますが、職人の世界にはこういう事が多々あります。
でどこまでもどこまでも技術の高みがあるということになります。
それに職人さんの場合漫然と何年かやっていられるという甘い世界ではありません。

師匠から独立して、自分の仕事を世に出した時「次はこいつに仕事を依頼しよう。」と思わせる仕事でなければ、そのあと何年も何年も仕事は回ってこない。そういうものだそうです。
いったん仕事について「よし」と認めれれば仕事が集まるし、そうでなければ遠ざけられる。
ましてかつてのようにたくさんの仕事があるわけではないのですから、なおさら厳しい。

そういう三十年あまりなわけですし、そこで六十年続けて来られたことの意味は想像できないほどです。
自営の方たちは多かれ少なかれそういうものでしょうが、こういう高価な商品を作るにはなおさらのこと。
「仕事の出来ん者に回す理由はない」訳です。

しかも京都のようなところではライバルも多いのですし。
厳しく揉まれるわけです。 京都の職人の仕事という看板への責任もあるわけですから。
(むろんその看板におんぶにだっこのケースもないわけではないのですが。 例えば・・・・工芸の分野ではないですが・・・・マンション建設など、京都で仕事をしている、京都の景観を作っているという現在と未来に向けての責任と誇りのある仕事がどれほどみられるか。はなはだ怪しいものです。
大文字が見えます、鴨川に近い山紫水明・風光明美などと売り込みながらその景観をぶち壊しているのが大方のマンション建設です。その最たるものが下賀茂神社元駐車場に立つマンション。梨木神社境内のマンションなどなど。)

テレビ番組などで安直に上澄みだけをかっさらて番組を作り、京都を甘やかすのもとても悪い影響を与えていると思います。

京都はどこに行こうとしているのでしょう。
- 2016/09/26(月) 00:00:58|
- 伝統工芸
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でも、多分、出すとしたらこの写真だと思います。
撮るときによく見ているつもりなのですが、ちっとも見ていないのだなあということが撮れた写真を見て分かります。
ですから「見て心を動かして撮る」のを信条にしているようなことを言っていますが、実態は相当かけ離れています。
それにレンズの癖なども、ツァイスはいいなあなどと言っているくせに実は分かっていないのです。
「撮れちゃった。」ことが多いのです。
この人の目と口元の表情はレンズの手柄でしょうね。

そのことでよく画家たちと話します。
「意識性と偶然」という事ですね。
こういう問題意識を持てるということ自体が写真をやっていてよかったなあと思えることです。それで他分野の方たちと話ができるのですし。

1枚目と2枚目を比べて、2枚目の良さは前髪でしょうか。
1枚目は目の上が、少しごちゃごちゃしてますね。
筆に絵の具を含ませる時から神経を使います。
絵の具の量、筆先のそろい方・・・・絵画でも書でも同じですね。
それでも、こういう時がせめてもの話しかけるチャンスです。
撮影許可を撮るときには、こういう瞬間までじっと待ちます。
そしてそれまでこの作業の巧みさと魅力をじっくり味わいます。

先日日本画を学んでいる学生が「構図に迷いがあるんです。今、構図についていろいろ勉強しています。写真でも構図はずいぶん重要なんですよね。」と話していました。
そうだと思います。
でも、私の写真は大概、三分割論や黄金比論から外れています。こういうのは安定とバランスの構図です。そういうことを明示しないで説明する入門書の多いこと。
映画やテレビドラマを見ていると素晴らしい構図が出て来ます。むしろそういうものを見て感情が動く構図を参考にします。
そこで動く感情の種類と構図の関係こそが大切です。

だからもっと学ばねばなりません。
絵を見に行っても彫刻を見ても、学ぶことだらけです。
写真展に行って参考になることは少ない。正直、そう思います。

自分にないものをいろいろな分野から学ぼうと動機づけてくれるのも写真です。
ありがたい趣味です。
自分にはできていないこと、分からないこと、知らないことが山ほどあって、他の人たちがいろいろ教えてくれる。そう思えて、興味や関心を他に向けることができるという事は、私のようなものぐさが活力を失って萎まないためにとてもありがたいことだと思うのです。
- 2016/09/25(日) 00:00:34|
- 陶器
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キャノン5D+バリオゾナーで撮りました。
このカメラのファインダーは今一つ、いま二つですが、やっぱりOVFだから、こういう組み合わせで楽しく撮れます。
写真を撮るという事の全体の中で何を大切に考えるかで、道具の選択は変わります。
ネット上にフジXT-2よりフジXプロ2がいいという理由を一所懸命書いている人がいましたが、こういう議論の立て方はあまり意味がないと私は思います。
同様にファインダーについてOVFがいいか、EVFがいいかを何をどう撮るつもりなのかの前提抜きにあれこれ比較して言う事にも意味を感じません。
私にとって、OVFはカメラ選択の上で大切な条件です。 今の私にとっては、海の魚やサンゴをガラス越しに実像を見るのと、撮影して再生した映像をテレビジョンできれいに見るのとどちらを選ぶかという問題です。
それでも年とともに視力が怪しくなり、フォーカス合わせサポートしてくれる点でEVFは頼りになるのですから(拡大してくれたり)、それがより重要なことになれば、私の畏友とともにEVFを選ぶことになるかもしれません。
そういうことです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この建物の受付で「あっ!先日来られた方ですね?!」と声をかけられてしまう位に、おなじみになってしまいました。
伝統工芸大学校卒業予定者の卒業制作作品の展示などもあり、ここはとても楽しめる施設です。
今日は土日ではないので、既に卒業して職業的に活動されている人たちの実演です。

公開実演という事で・・・・・制作にとってはお邪魔ではありますが・・・・いろいろお話を伺いながら、やがて制作に集中していただいて、写真を撮ります。
この方の絵付けなどは筆先を震わせてもいけない神経の使い方をするのですから、こちらもまた息をつめます。

それでも随分と図々しくなりました。
この時は28ミリ-85ミリのズームですからいいのですが、50ミリの単焦点の時にはよほど体をつんのめらせて迫ることがあります。

レンズにもカメラ本体にも手ぶれ防止機構はありませんから、自分の呼吸も整えねばなりませんね。
止まったら震えますから、流れのなかで撮ります。

動きの激しいものについていきながら撮るときには、最近急速に進歩している手ぶれ防止機構はありがたいでしょうね。
メインに使っているα900には初歩的なものがついていますが、やはり恩恵を受けているなと感じることがあります。
私の場合はどうしてもというほど必要ではありませんが、時に不安定な姿勢で体の流れる刹那に撮ることがありますから、あって邪魔にはなりませんね。

もっとも今日のようなときはしこを踏んでいるような…はたから見れば不格好に見えるかもしれない・・・・格好で撮ることが多いのですし、床に膝立ちしたり、お尻を床に付けて撮ることも稀ではないのです。
アングルを変えるたびに、安定した姿勢が何より重要ですからね。
ですから背面液晶のパネルにタッチしてピントを合わせてシャッターを切るということなど想定もしないのです。

上の写真と下の写真を見比べて、なぜどのように印象が違うのか考えます。
もし私が個展にどちらかを選ぶとすれば下の写真を選びます。
こういうことをしていると飽きませんね。
写真て面白い。
- 2016/09/24(土) 00:00:47|
- 陶芸
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ギャラリーをお尋ねして偶然にも、長いこと気にかかっていた絵の作者にお会いできたのですが・・・・。
「実は先日、F.Kという写真家が来てバチバチと撮っていったよ。」というので、「撮らせていただけませんか。」という言葉が喉から先に出られませんでした。
・・・・・そのF.Kという方は京都だけではない広い範囲でよく知られた方で、写真集もたくさん出しておられます。私より一歳年長なのですが、先年の火事でモノクロフィルム200万コマを焼失したという方です。200万コマ!!! 50余年で1万余人の人を撮る!!・・・・

で、最初お会い日にはすごすごと退散しし、思い切ってその翌日にも伺いました。
すると前日にもまして歓迎してくれて、私の『撮りたいのですが』という申し出を一も二もなく快諾してくれました。
どうやらギャラリーの方が、前日私が帰った後に何やら私について補足してくれたようでした。

この方は、ご自身の作品を手にもって毎月同じ日に四条河原町の交差点に無言で立っておられます。
ああ、なるほどそういう事の出来る人だったのか、と思いました。
はじめただ一人で立ち続けるうちに3年たった今は他に20人近い芸術家たちが自らそこに来て立つようになったのだそうです。
「立っておられる姿を撮らせてもらってもいいですか?」とお尋ねすると、「どうぞ、他の仲間もご紹介しましょう。」とのことでした。

「正面から撮られるのは苦手だから、話しているときに、知らないうちに撮ってくれたらいいよ。」とのことで、お言葉に甘えました。
お話をするのもお好きなようですが、こうしてよく人の話に耳を傾けます。
おそらく「教え子」にも人気の先生だったのではないでしょうか。

ご覧になってお分かりだと思いますが、この方の手指は、表情豊かに動きますが決して相手に対して攻撃的な姿をとりません。
絵にも気づくべきことに目をふさいではならない、この現実の不安に正面から向き合おうというメッセージが見てとれるのですが、それが声高でなくユーモアにあふれ、いたずら心満載なのです。
それに加え「哲学的思考」に満ちているという印象があります。
今日の多くの中堅若手(だけでなく大御所たちの作品も然りというべきか)の作品に欠けているか乏しいのは、この哲学的思考です。現実との対峙も悶えも希薄です。

作品に「深刻ぶった」ところはありませんが、「深刻に考えている」ことが伝わります。
作品の力ですね。

とにかくここでの皆さんの会話が明るいのです。
この方の絵のように。

しばらく少しばかり萎えていた「撮りたい心」がまた力を得てきたように感じました。
- 2016/09/23(金) 00:00:19|
- 絵画
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ギャラリー巡りは私の楽しみの一つです。
「絵を描かれる方ですか?」と聞かれることがあるけれども「見せていただくのを楽しみにしているだけです。」とお答えしている。
もし、なお「何かされているのでは?」と尋ねられた場合には、モゴモゴと「写真を撮って楽しんでいます。」と白状するのです。
さて、この方はすでに長年芸術分野で教鞭も取ってこられ、作家としても実績を積まれてきた方です。
実は、私はギャラリー巡りを通じてこれまで何度かこの方の作品を見せていただいていたのです。特徴のある絵ですから遠目にもそれと分かります。

私は様々なギャラリーを訪ねて絵を見せていただく時に・・・・これまでも何度も書いている通り・・・・・落胆して会場を出ることが多いのです。
専門の画家たちの絵を見てのことです。
(むろん趣味として絵を描くことを楽しんでおられることが分かる会場では、それはそれとして鑑賞させていただきます。
そして、ご自身の時間を豊かにされているのは羨ましいなあなどと、私自身の写真に比べての充実ぶりに感心することも少なくないのです。)

そうした中で、この方は特異な作品を描く数少ない画家のおひとりでした。
ご本人は存じ上げないのですが、作品を通じていつかどこかでお会いできたら、是非ともお話を伺いたいという気持ちが積もっていました。
堀川通の出水を西に一筋入ったところに「ギャラリーかもがわ」があります。
時々寄せていただいていましたが、この日「あっ?!あの作品だ。」と思わず中に足を踏み入れました。

するとどうやら奥の部屋で来場されたお客さんたちと、くだんの作家さんが楽しそうにお話をしているようなのです。
こういう時にはいつも気おくれがして、つい機会を逃してきた私でしたが、少しづつ足を踏み出す努力をしてきました。
この時にもお邪魔を覚悟で、談笑する方たちの近くに行きますと、「どうぞこちらへ。お茶でも飲みませんか。ビールもありますよ。」とまるで旧知の者のように招き入れてくれました。

私は、せっかくのお誘いでしたので椅子に掛けると、「実はこの絵を今まで何度か見ていて、作者にお会いしたら確かめたいことがいくつかあったのです。」と話しました。
するととても興味深そうに耳を傾けてくれて、作家さんのお隣の・・・・長いお付き合いのあるような・・・・方が、「先生、想いの通りに受け止めてくれる方がいましたね。よかったですね。」と言ってくれました。

私のような素人が一知半解にものをいうのはずいぶん憚られるのですが、この方にお会いした瞬間に広い懐を感じて思わず思っていたことを口にしました。

集まっているお客さんとの親交の深さを感じさせる会話が続いていました。
こういう人たちが時間を割いて個展に集まってくれる人というのはどのような方なのでしょうか。
時々、話がどちらに向き、何を話そうと必ず自分の活躍話に結び付け「こんなことをした、あんな著名人と知り合いだ、そんなことは疾に知っている」と話す人がいます。
人の作品の話をしているときに、いつの間にか自分の作品を取り出して並べて話を盗ってしまうような人も。
私は何が嫌いと言って「偉そうぶる人」が一番嫌いです。牽強付会、我田引水の人が嫌いです。
自分にそういう面がないとは言えないのでなおさらです。

その点、この方はその真逆の人格のように感じました。
- 2016/09/22(木) 00:00:55|
- 絵画
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様々なイベントや公共機関の掲示などで掲示物や張り紙に大きく拡大されて印刷された文字が見られます。
ワープロには実に多くのフォントがあります。楷書のバリエーションというのかどうか、明朝などの見慣れたものや行書体や草書体も見られます。 中に勘亭流の文字も見ることができます。
よく年賀はがきなどではいかにも印刷文字では面白くないと考えてか、行書体のフォントをよく見ます。ところがそれが実に下手というべき文字なのに使われているのには少々驚きを感じます。

その一方で「味のある文字」という事で、丸まった字や妙に崩した文字が氾濫しています。
色紙などによく見ますし、「あなたの印象を言葉にします」「とか「素敵な言葉を書きます」とかいう場合は大概、楷書や行書、草書ではありません。「個性的」な文字です。
いわゆる「書」という世界でも、古典の臨書から離れて創作的で表現的な字を模索する傾向があります。それはそれで、私は大いに賛成なのです。
ですが、一般的に言って、手書きの文字の多くが惨憺たるものだという事にも考えるところがあります。

万年筆は、一面ではもうすでに筆記具ではなくなっているように思えます。
書きやすさを度外した豪華なつくりを追求したものなどは、まあ趣味で持つ人、持つことの満足を求める人、自分の飾りにしている人もいて良いのですから、全面的に否定はしませんが、そもそもそれをデザインし、作る人が、文字を書くことについてどう考えるのか、自身が書くことをしているのか大いに疑問を感じます。
それで、無難にワープロのフォントを使うことがあまりに増えていると思います。
学校や美術館などで、そうしたモノを見ると個々の職員の感性や文化についての思想を疑ってしまいます。
手間も惜しむのでしょうね。

ある別のギャラリーで、自分の描きたいイメージに相応しい手書きの文字をフォント化するという展示をしていました。これはこれでとても面白いことだし価値があると思います。
ですが、手書きの文字を鑑賞できる文化がすたれてほしくはないし、書く美しさを育ててほしいと思います。

フォントは一定の大きさのマスに均等に詰められた文字です。文字は単語となり、単語は文となります。多くの場合文字が一人独立はしていません。他の文字と列をなしています。ですから皆が同じ大きさでは文字の列は美しくならないのです。
それでワープロのフォントを並べた掲示はどことなく違和感があるのです。リズムもなければバランスもありません。
仮名の散らし書きなどとは対極です。

次の機会にはぜひ『実演』をしながら展示販売をされることをお勧めしました。
画数の多い漢字、少ない漢字。漢字と仮名。その組み合わせを美しく見せるために線の太さ・細さ、色摩の梅方、字の大きさなどなど、様々に工夫をしているから手書きの分は美しいし、味わいがあるのです。
こういう人が、「いい字だなあ。」と感じさせる文字を書いてくれてこそ、私たちの感性も磨かれますし、刺激を受けます。
どうか次の機会にも出店してほしいものだと思います。
- 2016/09/21(水) 00:00:47|
- 書
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「京都アートフリーマーケット 2016秋」の会場でお見掛けしました。
ここは「アート」と銘打っているだけに他の手作り市とは幾分趣が違う出店が期待されます。
それを楽しみに出かけました。

勘亭流の書体で「直筆した作品」を展示販売されています。
この字体を書ける人が少ないからでしょうか、またワープロのフォントの中でしか見たことがないからでしょうか、多くの方は「ワープロで書いたものを」デザインしてプリントしたモノだろうと思い込んで、あまり注目しないで通り過ぎてしまうようです。
昨年の教訓を踏まえて「手書き」だという事を掲示しているのですが、それがとても控えめで・・・・。

もともとは継続して筆を執ってたというのではないのだそうですが、ある時から勘亭流の師匠について学んで身に着けたのだそうです。
と言っても書き方を具体的に習ったのでも師匠の指導で書いていたのでもなく、ひたすら下働きのような仕事を手伝いながら「見ていた」のだそうです。

勘亭流は江戸期・安永年間に岡崎勘六という書道指南が始めたという事です。
歌舞伎の招きなどに使われるあれですね。
太い文字で、線と隙間とのある種の緊張感のある魅力的な文字です。で、意外にチラシなどに多く使われているケースを見ます。

私は最近、多くの場所で手書きでない、こうしたワープロの印字・フォントで描かれたものを見るにつけ、つい首をかしげてしまいます。
なぜ自分で描かないのだろう、と。
そのせいで毛筆の字を見ないばかりか、いわゆる手書きのレタリングの字もあまり見ません。
どうも安直だなあと思いますし、これでは文字に対する感性はどんどん貧弱になるなあと思います。
出来合いのフォントもデザイナーが精魂込めているのですから、一面ではよくデザインされていますから、まあそれなりの見栄えもしますし、誰からも「下手だ」と言われる気づかいはありません。

でも、これでいいのかなあといつも思います。
- 2016/09/20(火) 00:00:12|
- 書
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フジのXプロ2は魅力的なカメラだと思います。
ドイツに行く前は本当に悩みました。 実際には決断できないで、手元にあるX20で撮ってきて、「この発展形で撮りたい!」と随分思いました。
でも、結局自分が撮るのはポートレートなのでXt-2に傾いています。
それでも「(XT-2の)ファインダーが、ファインダーが・・EVFだしなぁ。」とつぶやきながら決断できずに、ずるずると日を送っています。
- 2016/09/19(月) 00:00:38|
- 状景
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毎月15日は百万遍の知恩寺で手作り市が開かれます。
今度もまた素敵な人たちに出会いました。
「手作りコーヒー・サーバー」の販売をされています。
写真の方は「首謀者」の弟さんで今日はお手伝い。
というか協力ですね。
何を販売しているのかがいまひとつわかりにくいというので黒板に「コーヒーサーバ
手作り」と書いていたら、この市にはたくさんの海外からのお客さんが来ますので・・・・。
そこで英語でも書いておこうと、書き終わると間もなくそれに呼び寄せられるようにお客さんが・・・・・。
ところが?その人たちはドイツからbのお客さんで・・・・無論会話は英語でできるのですが・・・・せっかくだからドイツ語でも、同じようなことを書いてもらえないかと頼んだところ、快く引き受けてくれて・・・・・。
そこで私はつい最近ドイツに行った経験を活かして、ドイツ語で「写真撮ってもいいかなあ。」と・・・・いえたわけでは勿論なくて
英語で頼んだのですが「シュアー」と快諾してくれて・・・・。
相当に頭を悩まして書いていました。
できるだけ適切な表現をと悩んでくれたのですね。
いいなあ、こういう感じ。
- 2016/09/18(日) 00:00:09|
- 手作り市
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ドイツでは自転車が盛んに使われていました。
この人の自転車のハンドルは面白いですね。
日本でも自転車店に行くとさまざまなバリエーションのものが見られますが、ぜひ街乗りの際にはそれにふさわしいものに載っていただきたいと思いますね。
自転車を軽くしたいのかどうか、分かりませんが、スタンドなしの自転車を所かまわずチェーンで括りつけて、近くの有料の駐輪場にはおかない人が目立ちます。幅の細いリムだったりして「枠に入れてリムがゆがむのは嫌だ。」とか本人の理屈はあるかもしれませんが、勝手な理屈です。

足が長いとこういう場面でもかっこいいですね。
私は自分自身がショーウインドウに映った時に、おやおやこんな風なのかと改めてがっかりすることが多いです。
- 2016/09/17(土) 00:00:12|
- 未分類
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この建物もまもなく改装されるそうです。
その際には、職人さんを大切にした良い常設の「公開実演」の場を設けてほしいものです。

先日のファインダー倶楽部の写真展では「君の写真は、君自身の写真になっていない。こういう写真ならほかの誰かでも撮れる。君だから撮ったという写真でなければダメだ。」と指摘されました。
その言葉が頭に残っています。

こういう指摘は、当を得ている面と「落とし穴」になる面とがあると思っています。
今の私には前の意味が大きいですね。
しかし、「君だから撮ったという写真」というのは、その言葉ほどやさしいものではなさそうです。

この職人さんたちの「職人技」を支えている数十年の地道な修練を思うにつけそう思います。
「職人と芸術家は違うよ。」などという人もいますが、そういう事もまた一筋縄ではいかないように思います。

そこで私はいつも「楽しいから、ワクワクするから撮っている」という事を忘れないようにしようと思っています。
何しろ私のは「道楽」ですからね。
- 2016/09/16(金) 00:00:41|
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職人さんにお会いすると、時にその方が私のことを覚えてくれていたりする。
いつの間にか、そういう風になっていることに気付く。そういえばもう5年余り撮ってきているのだなあと。
でも、甲斐扶佐義氏は10000人以上を撮ってきているのだから、その十分の一にしかなっていない私は、文字通り足元にも及ばない。

職人さんを撮らせてもらう時、多くの場合に仕事についてお話を伺うから、いくらかの知識ももつようになった。
お蔭で美術館で工芸の作品を展示する部屋にも入るようになったし、着物の展示会にも足を踏み入れるようになった。
ありがたいことだ。

京都に文化庁が移されることで、何やら良いことがありそうなことを行政は宣伝しているが、ことはそう単純ではなさそうだ。
金になる「文化・伝統」にしか関心がない行政だから、いろいろなところに歪があるし、こうした職人さんの未来も明るいとは言えない。
伝統工芸も職人も旧態を保守しているだけでいけないのはもとよりだし、職人さんたちもあがいている。
だが個人的努力で事が打開できるとは思えない。

「日本に京都があって良かった」などと気恥ずかしいようなコピーが踊るが、そういう自覚が京都に本当にあるかと言えばどうだろう。
タコが自らの足を食っているような文化行政だと感じる。
観光に来られた方たちの話を聞くと、「京都はやっぱり特別だから、ここにいるだけでうれしい。」という。
私の郷里の親せきや友人・知人もまた同じような感想を漏らす。
そういう現状からすれば、先ほどのコピーは実によくできtれいると言えるだろう。

だが、現実の京都はどうだろう。
神社仏閣を見る以外に何があるのだろう。
いろいろなところで職人も芸術家もがんばっている・・・・・が、そういう努力に乗っかって、
「文化・伝統」を今日・明日のお金でしか考えない精神が、次第に京都を蝕んでいるように思えてならない。
- 2016/09/15(木) 00:00:35|
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Kポップの代表的なグループ「少女時代」のPVの中に、メンバーたちが扮したマネキンたちが夜になると動き出すというものがありました。
夜のデパートで明かりが消えた後では巡回の警備員は懐中電灯の薄明かりに照らされたマネキンたちの列はちょっと薄気味が悪いかも知れません。が、こんなかわいいマネキンたちがさんざめいていたらそれはそれで楽しいことでしょう。
京都ではマネキンづくりが有名だそうです。

地方の小都市に行って通りの服飾店を覗くとマネキンが見えます。そのマネキンの鼻が少しだけ擦れて白くなっていたりします。
顔立ちやポーズもどことなく「古い」のです。
マネキンたちも時代とともに変わってきています。

最近街の服飾店などで見かけるマネキンには「ここまで奇をてらわなくてもよいのではないか?」と思うようなものがあり、またそのセンスに驚かされるものも見かけます。
しかし、これまでは当然に連想できるはずの「作る人」について余り思いが至りませんでした。

つま先だったときの筋肉の動きまで表現されているとは知りませんでした。
ハイヒールを履かせる都合で爪先立っているんでしょうね。
こうしたマネキンはリアルマネキンというようです。
脚が細すぎなくていいなあと思いました。後日デパートで見たマネキンはちょっとスリムすぎるように感じました。

撮影は許可されているとはいえ、こうした対象に一所懸命カメラを向けているのをはたから見れば、ちょっと奇異に映るかも知りませんね。
でもデパートやブティックでやるよりはましでしょうか。
私は背が高くなくて、マネキンは高身長。
アングルが決まってしまうのは少々面白くないですが、生きたモデルさんとは違う発想が湧いてくるのは楽しいことでした。

頭部、首、肩や胸のライン、・・・・、よくできていますね。
- 2016/09/13(火) 00:00:35|
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高瀬川の四条を少し下がったところに仏光寺橋があります。
そのすぐ下流に、桜の頃と夏の終わりに「床」が置かれます。
ききみずガーデンという企画です。
今回は私自身もグループ展と重なりましたし、企画の内容が世界考古学会のサテライト会場になっていたという関係から、私のお手伝いの出番はほとんどありませんでした。

それでもちょっと気になりますので幾度か様子見に顔を出します。

今回はこんな立派な提灯も下がっています。

そしてこの企画にかかわることで一番楽しいことが、内外の人と交流できることです。
今回は一緒に飲むチャンスはありませんでしたが・・・・。
この人はお国の「公文で日本語を学びました。」とのことです。
「公文」恐るべし。
- 2016/09/12(月) 00:00:51|
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私は自動車をめったに洗うことがありません。
それと同じように自転車も磨いてあげたり、油をさしたりすることがありません。
可哀想なことです。
寿命を長くするためにも快適に乗るためにも洗ったり、拭いたり、油をさしたりは必須なんだろうと思いますが。

この自転車はブレーキワイヤーを換えたし、スタンドが折れて交換しました。
サドルも照明も盗られて付け替えました。
タイヤもチューブも勿論変えました。

でも、このフレームとハンドルが好きなので、・・・・大事にしないのでサビ錆びなんですが・・・・これからも長く乗りたいと思っています。
- 2016/09/11(日) 00:00:02|
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もう何年になるのか。この自転車を手に入れてから。
ざっと15年くらいにはなると思います。
以前住んでいたところが峠・・・というと大げさですが・・・・の向こうだったせいもあって、「出るは良い良い帰りは『しんどい!!』」でしたので、長いことシートに覆われたまま放置されていた時期もありました。
それがこの5年余りは、週に4日か5日は10キロ余りを走る、「アシ」になっています。

私は、歩行者についても自転車についても、また自動車についても「道路交通法は守るだろう。」「お互いの安全に配慮するだろう」「譲り合いのエチケットや互いの礼はまもるだろう。」などという事はほとんど信じないようにしています。
周囲にいる歩行者や自転車に乗る人は、その人が周囲に注意を払っているか、見ているか、音を聞いているか、体の傾きはどうか、仕草から次はどう行動するだろう・・・などなどと常に予測し、多くの場合「悪い予想」を立てています。

ウインカーを出さないで突然に曲がる車や自転車への急な幅寄せをするドライバーは珍しくはないのですから、これまた十分に気をつけなくてはなりません。
市バスなどは天敵だと思っています。
道を開けて先を譲っても、礼をもって応えないばかりか、そのこと自体に気付かない人が大半ですから、そういう事でカリカリしては自身の寿命を縮めることだと呆らめる努力をしています。
そんなわけで自分の自転車のブレーキが甘くなれば事故のもとですので、調整してもらいました。
唐突ですが、
9月8日にフジXT-2が発売されましたね。
- 2016/09/10(土) 00:00:06|
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カメラを持って京都の町を歩くのです。
モチベーションが上がらないのです。
何故でしょう。
見慣れた町だからでしょうか。
もし観光できているとしたら・・・・・とイメージを膨らませてはみても、魅力的な光景に出会わないのです。
あまりにも観光観光しているせいかなとも思ってみるのですが・・・・・。
- 2016/09/09(金) 00:00:03|
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今回の写真展で会場に来ていただいた方の何人かが、「蒼樹さんの写真が見当たらない。」とおっしゃっていました。
会場をぐるっと回って、ほぼ終わりくらいのところで、そうおっしゃるのです。
「職人さんや若い女性たちの写真を見つけようと思って、・・・・それで大概名前のプレートを見なくても、見つけられるだろうと思っていたのだけれど・・・なかったよ。」
私のは入り口の受付の席のすぐ背後にあったのですが。

いつもと違うので見過ごされたようです。
当初の計画の通り「素敵な若い女性たち」の写真だったらこういうことにはならなかったかもしれません。
それに「芳名帳」に記名をしていただいた方々は、ほぼ踵を返して後ろの壁の写真からご覧になって、そのまま奥に行かれてしまわれる方が多くて・・・・。
この辺は行動心理学の範疇でしょうか。

2000人弱の方のご来場があったようです(主催者発表・・・ですが)。

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ブログを見ていてくれる方は「最近アップされているドイツでの写真を出してもよかったんじゃないか。」とも言ってくれました。
「あのビールケースに腰かけて絵を描いている二人の写真が印象的だった」そうです。
なるほどそういう手もありましたね。
- 2016/09/08(木) 00:00:48|
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ミュンヘンばかりでなくベルリンやドレスデンでも感じたのですが、女性のファッションに画一的なトレンドが見られませんでした。
私は女性ファッショにも詳しくはないのですが、メイクも含めて、落ち着きと自律性を感じました。
ファッションやメイクにある程度の傾向性や時代的好みがないはずはないので、私が気が付かないだけだと思うのですが、少なくとも日本で見るような、ある「個性」的メイクがトレンドになるような皮肉な現象はないのだろうなあと、感じました。
河原町や四条で見る若い女性のファッションはあまり楽しめるものが見かけられません。
それに自分の体形や個性に相談しないファッションやメイクが多すぎるように感じています。
それでもたま~に少しずつ成熟しているのかなあとも思うことがないではありませんが。
つま先まで捉えられなかったのが失敗でした。
- 2016/09/07(水) 00:00:58|
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私が個展やグループ展の時に展示する写真は街のプリントショップのチェーン店の一つでしてもらいます。
フィルムを使うかデジタルで撮るかという話のながれで・・・私の写真がモノクロだったこともあって・・・・プリントの依頼先について話題になりました。一つは「暗室作業は大変でしょ?!」ということ、このごろ「モノクロフィルムの現像・焼き付けをしてくれるところが減って不便ですね。」ということなど。
でも「私はデジタルで撮っていてプリントはそのチェーン店の店長頼みなんです。」
「お店はどこなんですか?」 「○○○です。」・・・・絶句、大笑い(そんな店に出してるんですか?! 問題外ですね!!)
でも初日から私の写真を見て「こんなプリントではひどいね。」とかいう声は一つもなく、むしろ「著名な写真家」さんも褒めていたんです。それでもダメなんでしょうかね。 大笑いした方たちも、この話を私がするまでは何も気づかれなかったのですが。
いつも依頼しているお店の女性店長さんは、毎度精魂込めてプリントしてくれているのです。
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- 2016/09/06(火) 00:00:14|
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写真展も終わりまして・・・・・。
色々想うことも増えまして・・・・・。
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ストリートフォトは楽しいですね。
今回の場合、深刻な情景をとっているわけではないし、少なくとも撮る方にとっては。

ある高名な画家の方が「絵の場合にはその一枚で語るべきことを語っていなければならないし、言葉による補足は要らない。けれど写真の場合はドキュメント性があるからそれが必要になる。」とおっしゃっていました。その方自身が写真を撮っています。
私は「?」と・・・。
別のところで久保田博二氏の写真展にいって「この写真の良さはどこにあるんでしょう。」とあるJPSのメンバーの方に訊ねましたら、「この写真を撮った時間、場所、状況が分からないとこの写真の意味を知ることは難しい。」とおっしゃっていました。相通ずることを言われているのでしょうか。

- 2016/09/05(月) 00:00:35|
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文人光画展も今日で最終日です。
この半年いろいろ思いめぐらしてきて、構想も二転三転させてやっとたどり着いたのに、もうおしまい。
個展の時にもそうでしたし・・・例えば旅行の計画でもそうですが・・・・やがて始まってしまい、終ってしまうのです。
そんな当たり前だけど、切ない感じをまた経験しています。
この人たちの撮影についても同じですね。

また次の目標を持たないと、次第に心が萎えていきそうですが、また新たな人との出会いが私を刺激してくれて、『撮りたいなあ。』心が湧いてきます。
それにしてもこんな風に写真を撮れるなんて楽しいですねぇ。

撮っている自分がその場に溶け込んでしまっている写真。
そういうことを言う写真家がいましたが、そういう境地になれると本当に心地よい、そして心ふるえる写真になるのじゃないかなあと妄想します。

でも私の写真は、私のこざかしさが出てしまうので、そういうものにはなかなか近づけませんが・・・。
そして今回は、何に使うかという目的のある撮影でしたから、分かっていないし、そういう経験も技もないなりにそこを意識しなければなりませんでした。が、楽しみきってしまうようになるとまた違ってくるのかもしれませんね。

ひとまず「普通にちゃんと写せているんだろうか。」と心配しながらの撮影ではとてものことに、私が屁理屈をこねているようなものは決して撮れないことは確実で、それはこの人たちの練習量とその質を傍で見ていて強く思いました。
小さなころから一日8時間も練習を続けてきた人たちが、今日のレコーディングや演奏会に向けて、さらに自分を磨きこんでいく姿には心打たれるものがあります。

音で対話し、リードしていくばかりでなく、全身で伝え、受け止めていきます。
これはモデルの撮影の時にも通じますね。
「いいよ、きれいだねぇ、かわいいよ」なんていう声掛けを「大事です」と書く入門書が多いのですが、それも軽視できないには違いないのですが・・・・・う~ん、ちょっと違うかなあと思うなあ。
- 2016/09/04(日) 00:00:18|
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ドイツ旅行の時にも、彼の地で懸命に自分の目標に向かって努力し、活躍している若者に出会いました。
私のブログで何度も触れた海外からの留学生の姿を重ねてみると、こういう若者には「ガンバレ!」という気持ちがより一層わいてきます。

写真は、様々な目的のために使われるはずですから、いろいろな撮り方をします。

この写真から感じられる人柄の人がどんな演奏をするのか、曲を奏でるのかを期待してもらえるとよいのですが。

先日、あるバ―でカウンタに並んで写真や動画についていろいろと話を聞かせてくれた若者がいました。若者と言っても私に比べてという事で、来日20年というマレーシア人の男性です。40歳前くらいなんでしょうか。
舞台などのプロモーション動画などを制作しているようで、スチール写真も撮るけれど、コンピューターグラフックスが主たる仕事のようです。

まだ実現していないものをあらかじめ表現して、その舞台にかかわるアクターやスタッフのイメージさえある方向に喚起することができる仕事で、それが首尾よく行った時には無類の達成感を感じるといっていました。
CDジャケットなどに使われる写真や絵もまた、まだ聞いていない音楽に対して期待を膨らませ、イメージを掻き立てるわけですから似たことが言えるなと思いました。

そういう視点から手元のレコードやCDのジャケットデザインを見るとなるほどすごいなあと感じます。
音楽喫茶などで、かけられているレコードのジャケットを立てかけている店がありますが、それは単なる曲目紹介以上の効果があるように思います。
こういうデザインを首尾よくできる人の才能はすごいなあと。
ですからそういうことに使ってもらえる写真になっているかどうか大いに心配です。

先ほど触れたマレーシア人男性との話のすぐ前に、別の場所でルーマニア出身の美術評論家と話しました。
彼は写真についても造詣が深く、今年行われた京都グラフィエに参加していた写真について極めて辛辣な評価をしていました。
私は同感するところが大いにありましたから、ずいぶん話が盛り上がりました。

こうして会った人にも、今度のこの京都ファインダー倶楽部の文人光画展のフライーヤーを差し上げてしまいました。
どんな評価をしてくれるのか、日本人とは違う歯に衣着せない批評を期待できると思います。
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- 2016/09/03(土) 00:00:38|
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今日は京都ライカで開かれる久保田博二写真展のレセプションの日です。
あるから肩からお誘いいただいて出席します。前回はビートルズの写真を見ましたが、その席でとても素敵な出会いがありました。今日もまた素敵な人に出会えるかも・・・・。
チェンバロは三橋桜子さん。
この楽器は非常に繊細で、わずかな移動や気温、室温の変化で、あるいはしばらくの演奏で調律が必要になります。
三橋さんはご自身で調律しますが、アンサンブルとしてのリハーサルも前にチェンバロの調律が相当な時間続きます。

私はピアノなどの鍵盤楽器を演奏する方をどうやって撮ったらいいのかいつも迷います。難しいです。

ボーフム交響楽団のチェリストであるセバスチャンは明るい性格の紳士です。
やり取りの中でいつも笑顔が出ます。
いつも苦虫を噛み潰したようなドイツ人・・・・ばかりではないことをドイツ旅行で見聞きしてきていましたから、「案外」ではなくてよかったです。

セバスチャンもこのエマヌエルも今回の演奏会のフライヤーでは学生時代のものではないかとさえ思われる若い写真を使っていました。
なるほどそれで写真を撮る必要があったのかと合点が行きました。
二人とも髭の無い青年でしたが、今や・・・・・。

- 2016/09/02(金) 00:00:49|
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CD収録のためにリハーサルをしています。
マイクなどのセッティングはもうすでに終わっているのですが、収録する各曲の演奏の入念な最終確認をしています。
その合間を縫ってこうして個撮もします。

プロフィールのための写真も、ただパスポート用の写真のようなものにしたくはないし、その一方できれいなドレス、タキシードを着て綺麗な照明の中で美し微笑んだり、いかめしくしているような、よく見るタイプの写真にはしたくないというのが私の思いでしたし、この人たちの希望でもありました。

演奏家だということがメインになるように。
この4人の良さ、本当に、お互いの音をよく聞くという事です。
そして少しでも違和感があれば、すぐさまお互いに意見を交換します。それはこうしたアンサンブルでは当然のことではあるものの、それが曲想にとてもよく表れているように思われました。

このフルートの方は廣岡マルリサ由紀子さんです。
このアンサブルのリーダーで、曲の在りようをリードしています。
演奏の時にはコンサートマスターですから、とても細やかに目配りや表情、体の動きで指示をしています。
もう長くドイツで学び、演奏をしてきています。
このアンサブルの共通語はドイツ語です。
この写真も気に入っていたのですが何度も何度も選考を繰り返しているうちに、いつの間にか脱落してしまいました。
たくさんの写真から何度も候補を絞て散ると時にこういうことが起こります。
また別に個展をするようなときにはぜひ見ていただきたい一枚です。

この人たちの奏でる音に酔って思わずシャッターが止まることがあります。
けれど逆にファインダーの中の世界に集中すると案外音が消えて行ってしまいます。
でも音を聞かないとこの人たちの呼吸を見失います。
音を聞き、曲を感じながら撮ろうとはします。残念ながら今の私では努力目標です。
- 2016/09/01(木) 00:00:56|
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