この方は私より少しばかり先輩の世代です。
戦争の時代に、既に生を受けて、その後の苦難の時代を少年として生き、日本が経済大国になる中身を作ってきた世代に属する人です。

その軌跡の中には単純に「成功=称賛」という図式にならないことも多々あると思います。
しかし、とにかく日本の近代史の、いくつかの疾風怒濤の時代を駆け抜けてきたことは確かです。
その人たちが、ただ静かに老いるのではなくて、獲得してきた知性や人のつながりを生かして、ますます新たに事を企てるエネルギーを発揮しているのです。
そして、そこにはかつての「猛烈社員」「エコノミックアニマル」と称された、ひたすら経済的な利益を追究し、一歩でも半歩でも競争相手を出し抜くと言う様な生き方ではない、落ち着きのある、しかし、情熱のこもった人生の楽しみ方と社会とのかかわりを作っているのです。
高齢者と若者の間にくさびを打ち込んで、年金制度の改悪や社会福祉・社会保障制度つぶしに利用しようとする政治家や「政治評論家」が蠢いています。
が、今、高齢者はかつてのそれとは違い、新たな地平で社会や青年との共同関係を築こうとしているのです。

この先輩たちの静かな熱のある「一家言」とその行動には、無視すべからざるものがあります。

私はこの人の世代のずっと後の方で、もそもそとか細く動いている者ですが、「新時代の高齢者像」を実現すべく頑張りたいとは思っているのです。
- 2016/01/31(日) 00:00:36|
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「人の写真を撮っている」というと、大概の方は「若い女性をモデルにして撮る」ことを思い浮かべるようです。
それは無論、私という人物からそういうことを連想するのではなくて、「人を撮る」という言葉から思い浮かべるのです。
ポートレートといえば、それはほとんど若い女性を写した写真だと受け取られるのです。
しかし「肖像写真」といえば・・・。
作家や企業の経営者など、世に知られた人を撮る写真家がいます。こちらは「肖像写真」という言葉が似合うようです。
「日本肖像写真家協会」というものもあって、ネット上でもその会のメンバーの写真を見せていただくことができます。
こちらのイメージは、少し堅くて暗くて男性を対象としたものが多い・・・のではないかと思います。

私はこれを敢えて区別する必要は全くないと思うのです。
ある方が、周囲の人の関心が多少とも私のしていることに向けられるようにという配慮から、「蒼樹の撮っている写真の九割は働く女性が対象で、そのうちの九割が若い女性のものだ。」と紹介してくれます。 そうなると80%が若い女性の写真を言うことになりますね。
むろん事実は大きく違うのですが、そういう紹介で「どれどれ・・ちょっと見てみようか。」という好奇心をくすぐってくれるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういう写真は手前の目にピントを合わせるのが普通ですね。
でも私の場合は、どうかすると向こう側の目にピントを置くことが多いです。意図はあるようなないような。

この方は、ある楽しい『会』の時にご一緒させていただいた方で、同宿した翌朝に「撮らせていただけますか。」とお願いしたのです。
この方が働いておられた会社では数年に一度社員名簿・紹介のために全員の写真を撮るのだそうで
「年によってうまく撮ってもらったなあと思える年と、そうでないときがあって・・・・。」と、こうしてカメラを向けられる経験は幾度もあったようです。
しかも、そのカメラマンは私のような「もどき」ではないプロカメラマンなのです。

私はこういう男性の写真を撮るのが好きです。
何しろ撮影率53%以上が男性です。
(・・私が出会うことができるような「外」におられるのが、男性が多いとうことなんでしょう。)
日本の高度経済成長の中を国内外を縦横無尽に駆けてきた男たちの(いや、できることなら女たちも)顔や体躯を撮りたいのです。
- 2016/01/30(土) 00:02:27|
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いくらか人体を連想するオブジェには半面にハングル文字がびっしりと書かれている。
「しかし とか そして とかいう接続詞がいろいろ書かれているんです。」とのこと。
「耳なし芳一かと思った。」

「そういえば『お茶』も『接続詞』につながるかも。」とわたし。
「ある生活の流れをいったん止めて気持ちを落ち着けて気を抜き、そしてまた再び生活に戻っていく。その時の一一旦の休止と再開が『そして』になるのか『しかし』「にも関わらず」になるのか。 お茶も生活の接続詞かな。」

いつも書くことですが、私は留学生に特別な関心があります。
まして日本に来てくれて学んでいる学生たちには。
日本政府のあまりの振る舞いに、もう何年も前から日本への留学生が欧米へと希望を変えている傾向があります。
日本の学生が中韓で学ぶという例は多くはないでしょう。 これでは東アジアの平和の礎は築かれません。
中韓に行っても学ぶべきものがあるのか、とか中韓の人間に来てほしくないなどという近視眼的で狭量な発言を目にしますが、そういう19世紀~20世紀前半的な発想では平和で安定した東アジアを作ることはできません。

この人は韓国に帰って制作を続けるつもりだというので「せっかく日本の文化を知り言葉もも身に着けたのだから日韓友好の力になってね。」とお願いしました。
「勿論です。」という心強い返事でした。

私自身が狭い狭い経験しかしないで今日まで来てしまいましたので、本当にこういう人が羨ましいのです。そして、ぜひ経験の成果を出してほしいなあと願わずにはいられません。

私がカメラを出して撮り始めると、このギャラリーの女性スタッフが「プロのカメラマンだから、すっかり任せて撮ってもらったらよい。」と何度も言うのですっかり困ってしまいました。
プロだったらこんな写真は撮りませんからね。

でもプロじゃないからこういう機会にこういう写真を撮るのだという面もあるのだから、それもまた悪くないのです。
DMにお名前を書いてくれています。
- 2016/01/29(金) 00:00:36|
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日本に留学して陶芸を学んできた。
韓国でも陶芸を勉強したのだそうですが、日本人の作品を見て「こういうものもあるのか。」と思い立って大学卒業後日本に。

昨年3月に別のギャラリーで個展をされているときにお会いして、作品についていろいろな質問をしお話したことがある。
そのことを互いに「う~ん、確かどこかでお会いしたように思うのですが。」と少しずつ記憶の糸を手繰って、「そうですよね、あの時に…。」とようやくたどり着いた。

あの時には陶製のオブジェだった。
甕棺のような形を作って、韓日の墓制を意識したような作品だった。

その時の記憶がよみがえったせいか、とても親しげにいろいろな話を聞かせてくれた。
留学してからの悩みや克服。
写真には、はっきりとは写っていないけれど写真の展示もある。
鴨川を写したものが多い。 心象が出ていていい作品だ。
「鴨川を散歩しながらいろいろ考えました。そして慰められました。 ソウルには鴨川がないから寂しい。」と。

異国に来ての勉学にはいろいろな悩みや寂しさや迷いがあった。それが鴨川の景色に滲んでいる。
写真も独特な紙を選んで自分でプリントイている。 表現者の心がある。

もう2月には帰国するというので写真を撮ることにした。
このギャラリーでは一度ならず撮ってはいるがいつも苦戦している。とにかく暗い上に光が黄色いから。
「でも、まあ記念にはなるでしょう。」と私。

今回もオブジェとしての作品もあるのですが「実用の器を作りました。」
「お茶する時間。」というのが今回のコンセプトで、二人展出品のもう一人の方もカップを制作展示されていた。
- 2016/01/28(木) 00:00:51|
- 陶器
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言い古されたいいかたですが、「一月は行く・・・」
昨年暮れに「早一年が過ぎてしまう」と言う様な事を書いているわけですが、もしも、こうしてブログを続け、何らかの記録が残らないとしたら、「えっ?! もう一月が・・・。」と気づいた時に呆然としてしまうのではないかと思います。いったい何をしてきたのだろうかと。

この人と会ってからもすでに2週間が過ぎます。
この間、楽しい懇親会もあり出会いもありました。音楽会にも行き、ゆったりした歓談の時間を薪ストーブの前で過ごしました。
それらは私にとって、とても楽しくも有意義な時間でしたが、それにしても時間は残酷に過ぎていきますね。

どうも若者の時間と老頭児の時間とは異なったものであるようです。
物理的時間と心理的時間との間に大きなギャップがあるようです。
・・・・・・・・・・・・
この人に前向きで旺盛な意欲がなければ、この目は撮れません。
人を選んで撮るという事はなかなかに難しさを含んだことだと思います。

目下、愛機は入院中ですから、次善のトゥールで頑張らざるを得ないのですが、そうなればそうなったでそのよさを活用しなければならないわけで、良い勉強になります。
それに一番使いたい好きなレンズが使えるわけでもありますから、災いを転じたいと思います。
こういう空気感はこちらの組み合わせのほうが得意なようです。

でも、トゥールがいくら良くても、それだけで絵になるわけではなくて、フォトマヌカン自身の持つ魅力が、やはり決定的ですね。

素人の自己満足写真にとってはなおさらです。

見かけほど暗い場所で撮っているわけではないのですが、
ほの暗い街明かりの中で・・・ということで。


- 2016/01/27(水) 00:00:34|
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ふとした出会いから、こうして写真に納まってくれると同時に私のブログのことや個展のことを気にかけてくれるようになった方です。
たまたま昨年就職されたその職業の関心からも、「話を聞きたい。」と言ってくれるので、若い方との交流を求めている私としては大歓迎の方です。

普段は忙しい方ですから、なかなか京都にまで足を運んでいただくのは難しいのですが、こうしてやりくりした時間を見つけてくれます。

1年前には京都にいたのですから、別段京都が珍しいわけでもないのですが、・・・・私自身もそうでしたが・・・・学生の頃に興味関心を持つ京都は案外狭い範囲なので、こうして歩いてみると「へ~っ!」と新鮮に見つける場所やモノがあるのです。

観光の人が一番先に訪ねるようなところでも生活者としては「行ったことがないんです。」という様な事も。
40年以上も京都に住んできた私自身がそうなんです。

とても真面目で、しかも健康な好奇心旺盛なこの人は、私の知ったかぶりに耳を傾けてくれますから、つい調子に乗ってしまいます。

東京などに行っている若い友人たちにも案内したい場所、誘いたい集まり、対話したいこと・・・・がたくさんあります。
この人も普段は他府県で頑張っていますから、そういうことをしてあげるチャンスがないのが残念です。

でも青年というのはどんどん飛び立っていくのですから仕方がありません。
我々老頭児も、・・・・・取り残されていく…のではなくて・・・やはり自分の人生をどんどん歩いていくしかありませんね。
- 2016/01/26(火) 00:00:17|
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人が何によって生きがいと生活の張を得るか、それは様々でしょうが、この方は「しなちく」に後半の人生をかけている(?)と言ってもよいのでしょう。
お勤めをしていたのですが、その最終盤から、本来はご自分や友人知人のために作っていた「しなちく」をお商売として販売し始めたのだそうです。
「楽しみながらおいしいものを作る。 それを喜んでくださる人がいる」
この事をうれしく思う気持ちでお店を続けてこられたのですが、数年前にお店を閉じることになったのだとか。

今は「お取り寄せ」専門店として製造販売を続けておられます。
私は元来「しなちく」が好きでして、しかし、いろいろなお店でいただくものになかなか「美味しい」というものに出会えず。
いえ、もちろん「美味しい」というお店は2,3あるにはあるのですが。
知恩寺の手作り市にいつものように出店されているこのお店の「しなちく」はおいしい!と言えると思います。

この「しなちく」を作り、喜んでもらえる人に販売することで人生の楽しみを得たといいます。
こうして生まれる出会いに「スリル」があるといわれます。
おいしいものを仲立ちにして、多くの人と出会い、交流する醍醐味をそうおっしゃいます。

前の仕事は、ずいぶん違った仕事だったそうで、「だから写真の事とか写真のこともよく知っているよ。」とのこと。
ドキリ!!
海外に出向かれた経験も豊富で実に流ちょうに英語を話します。

今日も中国からのお客さんが散見されますが、香港からのお客さんが目立ちました。
するとその流ちょうな英語で巧みに話されるのですが、その姿が実に生き生きとして若々しいのです。

同年輩の知人たちの暮らしぶりに比べてご自身が張りを持って生活できているといいますが、そのカギがこの「しなちく」。
欧米の人にもその英語力で進めるのだそうです。
が、「見たことがないので食べようとしないのを、英語でうまく説得していったん食べさせる。そうすればうまいといって気に入る。 ただしパンと一緒ではうまくないよ、ご飯で食べなくちゃだめだといってね。そこは正直にね。」
今話してるのは台湾からの若い女性たちです。

私に向かって「おいくつかな。少し上ですか?」と言われる。
販売担当の女性が大笑いをして「何言ってるの! ずっとお若いわよ。 そうでしょ?!」と。
7,8年ほどは、私の方が後輩なんですが・・・・。
まあよくあることです。 ・・・・が。 7,8歳も先輩から「年上か?」と言われてもなあ。
それだけこの方が精神的にお若いという事なんでしょうけど。
事実この表情は「お若い!!」

負けずに頑張りましょう。
- 2016/01/25(月) 00:00:11|
- 手作り市
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実は今日とても楽しそうな集まりに参加します。
その集まりの中心人物やおそらくお集まりになる人たちとは、私がこうして写真を撮るようになることで知り合った方々です。
そして、今日も又新たな人にお目にかかることになり、歓談することになると思います。

旧職時代の交友関係とは大きく変わってきました。
旧職時代から続いて親しくして頂いている方々との関係もこれからますます大切にしていきたいと思っていますが、私の怠け癖のある視野を開いてくれる新たな出会いもまた大切にしていきたいと思っています。
その怠け癖を少しでも楽しく活動的にしてくれるのが他ならないこの写真ですから、精進してよりよい楽しみになるようにしていきたいと思います。

雲が上空を流れていきますから、一瞬後には光の条件が変わります。
マニュアル設定が追い付きません。
絞り優先オートの設定などを使えばきっと安定した写真が撮れるんでしょう。
フィルム時代は、おおむねレンズの選択と絞り、シャッタースピードそしてピント合わせしかできなかったのに、今ではホワイトバランスにISO設定まで選択できますからより複雑になりました。(まだほかにも選択できる項目のあるカメラが多いのですが)
そのために組み合わせの楽しみと失敗の可能性が膨らみました。
が、それだけの選択をほとんど同時に一瞬で決められるかどうかという事になると・・・・・。

キアノンはやはり頬の赤みが強めに出ますね。
ですから1枚目くらいの設定でないとかえって不自然です。
このカメラとレンズの組み合わせではAFが使えませんので、MFで頑張ります。
このくらいの時間帯でも、明るいレンズで開放にしてしっかりと対象を見て、いくらか絞って撮れば何とかなりそうです。

適正露出とはなにかと言うことがありますが、すこし日が傾いた寒い日の感じはこれくらいがいいのかなとも思います。
いかがでしょう。

そしてまだ残る夕日の暖かさをとらえて・・・。
というのはほとんど後付けですが。
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- 2016/01/24(日) 00:00:12|
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着物がとてもお好きで「機会を見つけては着物を楽しんでいるんです。」とのこと。
ですから着こなしもとても自然です。

髪飾りも和装を意識したもので目立ちすぎないで奥ゆかしくていい感じですね。

着物を着られる方は、洋服でこそ可能な活発で、いそがしく、落ち着きのない時間ではなくて、緩やかな時間を持てる心があるのかもしれません。
服を着るにも時間がかかり手間がかかりますからそれを厭うようなせかせかした気持ちではいけないんでしょうね。
私の旧知の素敵な女性がとてもシックに着物を着ていますが、それを見ると時として私の前のめり過ぎる心を諭されるように感じます。

もうほとんど死語になったような「そこはかとない」と言う様な風情があります。

私は洋服が私たちの生活にすっかり定着しているのには積極的な理由があると思います。ですからそれを否定しようとは決して思いません。
でも、一方で大事な選択肢として着物にも残ってほしいと思います。
最近、仮装のような、変身願望の実現のような身に合わない落ち着きのない和服姿が京都の町に散見されます。
「いやそれはお隣の・・・・な国の観光客だよ。」と言って済ませない現実が多いです。日本の若い女性たちの「和服姿」にも相当にひどいものがあります
むろん和服産業界としては、それでも着てもらった方がいい・・・のは正直なところでしょう。
私も100%否定してしまおうとは思いません。

京都市長がよく着物を着て議会に登場したりします。
しかし、そういうパフォーマンスよりも学校から消え去っている和室や茶室について考え直すことの方が必要じゃないかと思うのです。
学校で着付けの時間を設けるべきじゃないかと思うのです。
「道徳」の時間などは百害ありだと私は思っている・・・・その百害を薄めようと、少しでもましな時間にしようと現場の先生方が四苦八苦していることはよく分かっていますが・・・・のですが、そうした時間があるのならば男女とも着物の着付けを学ぶべきだと思います。

私は日本最高とばかりに独りよがりな愛国主義と改憲キャンペーンをしているS紙やY紙などと軌を一にしようなどと金輪際思いませんが、和装文化は継承しつつ改革できるだけの厚みを作るべきだと思っています。
これは教育場面でだけできることではなくて、そもそも国民が着物を着られるゆったりした時間やそういう楽しみの機会を作ることができないほどに追い立てられ働かされている労働の現状を変革しなければ行けないと思います。賃金についても然りです。
・・・・・・・・・・・・・
お~っさむっ!!
まだまだ日の入り早いです。少し陰ると寒さが体に沁みます。
撮影に協力していただいて風邪を召されてはいけません。
先を急ぎましょう。
- 2016/01/23(土) 00:00:50|
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西陣の職人さんたちの姿を写真に撮っていると、すらっとした和服姿の若い女性が会場に入ってこられました。
それまで会場を沸かせていた女性たちのほとんどが50歳を過ぎたくらいの人たちばかりでしたので、その方の姿が目を引きました。
とても熱心に見ておられたのですが、和服についての知識も豊富なようでした。
何より着物を着なれている感じでしたから普段どのようなことをされている人なのかについても興味津々。

声をかけると、幸いなことに用事はすまされていて、お急ぎではないとのこと。 撮影についてご理解いただけて会場付近で撮らせていただけることになりました。
興味があってこうした和服に関することを見たり聞いたりすることもお好きだとか。
茶道なども嗜まれるとのこと。

職人さんたちを撮るつもりでは来たものの、こうしてチャンスを得られてみると、「この辺りに和服姿が似合うロケーションはあっただろうか。」とまごつくこと暫し。
少し足を延ばせばいくらでもあるのですが、この辺りはコンクリートが目立って・・・・。
苦心の作です。

正月の街の風景の中で「和服姿の女性」を撮りたいというのは年の初めに頭にあったことでした。
が、それができそうで、しかし、実現しないままでしたので、幸運なことでしたが。

バックや羽織っているものをさっと脇に置いてくれます。
その手際や立ち居振る舞いが・・・「おや?! この人はフォトマヌカンの経験がある人かもしれない。」と思わせました。
そこでお尋ねしてみると、「ええ、ずっと以前に少しだけ・・・。」とのこと。

なるほど、さもありなん・・・・。

「左手を帯紐辺りに・・・・。」といっただけでこのポーズ、この手指の表現です。
- 2016/01/22(金) 00:00:19|
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この方は「金彩」の方です。
布にブルーのフィルムを張り、それをマスクとして使います。
ですから、金彩を施す個所をナイフで切り抜くわけです。

フィルムは切っても、ナイフの刃は布の糸を切りません。
ナイフの刃はひらりひらりと舞いを舞いますが、息をつめた作業です。

こうして切った個所に糊をぬり、そこに金箔を置いたり金粉を撒くのです。
今、切った個所のフィルムをピンセット様のものでつまみとっています。
これもまた布地の表面を傷めないように慎重さが求められますが、見た目にはまるで無造作にどんどんはがしていきます。
ここでも技能の高さが発揮されます。

どうにかして職人さんの技能の高さ、作業の緻密さを伝えたいと思いながらシャッターを切るのですが。
私としては、このカッターナイフの先と職人さんの目をはじめとする表情にできる限りの神経を使うのです。
そして一枚目の表情とこの写真のカッターが同時に一緒に撮れればなあと・・・・自宅に戻ってから・・・・写真を映し出したモニターの前でため息をつくのです。

ここは「みやこメッセ」という平安神宮の近くにある建物です。
私にこの企画があることを教えてくれた職人さんは今月26日から3日間実演されるそうです。
ひょっとしたらフェラーリを描いた着物地を見せていただけるかもしれません。

カッターを持つ指先に強い力が入っていないのが分かりますね。
写真に撮ってみてそれを実感します。


どうしても寄ってしまいます。
- 2016/01/21(木) 00:03:19|
- 伝統工芸
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ある方から「西陣の職人たちに出会うチャンスがあるよ。」というメールをいただいた。
以前、その方ご自身やその方のお師匠の写真も撮らせていただいたことがある。
ありがたいお知らせに「おっとりカメラ」で出かけた。
するとそこには親しくさせていただいている型切の職人さんもおられ、さらに以前撮らせていただいた女性の友禅の絵描き職人さんにもおられて久しぶりにお目にかかることができた。

こうして撮影のチャンスをいただけるのはうれしいことです。
この方は「紋や」さん。
この方の脇には「紋」の全集のようなものがありますが、石判刷りなんだそうです。
「石判でないと、この細い線が途切れなく印刷」できないのだそうです。
お家に伝わる古い資料だそうです。

この会場に来られるお客さんに喜んでもらおうと「紋」入りの小さな団扇を作っておられます。

これにお客さんの名前を入れていただけるのです。
こちらは友禅の方。
「手描き友禅」の絵師というわけです。

私が撮影をお願いした時刻がもう間もなくこの場を閉めるという頃でしたので、数枚しか撮れませんでした。
数枚撮影したところで片づけに入られました。

人の性格はそれぞれですが、職人さんたちの性格はその違いを濃厚にしたようなところがあります。
「昔ほどではないがなあ」というお話を伺ったこともありました。

片付けのために筆を洗っておられます。
- 2016/01/20(水) 00:00:44|
- 伝統工芸
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この手作り市会場ではいつも音楽が演奏されている。
今日のこの『絵』のライブもそうだが、手作り市を上手に盛り上げようという本部の工夫がある。
この人たちに「出店料」はない。

私も夢物語としてこうした場に「写真展」を「出店する」ことを妄想している。
写真を見ていただいて「投げ銭」をいただく。あるいは「お代は見てのお帰り」にする。

まあ、根が怠惰だから実現はしないだろうが、そういうことをしなくちゃいけないなあという気はある。
三条大橋の下でゲリラ的な写真展もしてみたい。
この年で、若いおまわりさんのお叱りを受けるのも悪くはないか・・・・な?!

あれこれの大学のキャンパスでは立て看板が整然と大人しく並んでいるが、それがなぜだか寒々しく感じる。
『芸術は爆発だ~ッ』 なんて言った人がいるらしいが、
公募展などで見る写真も絵もこじんまりしているし、発表の仕方もおとなしい。
書を捨てて街に出よう の精神かな。 自分一人で文字通り「独り相撲」をとるのもまた楽しからずや。
撮る瞬間のとっさの判断が難しい。
判断して決断して実行しても…j結果が伴わない。
どうすればよかったのか? サルでもするという『反省』をする。

でも大概、正解が見つからない。
時間はないがボチボチ行くしかない。

ボチボチ「行っている」時が楽しい。 それが人生と言うモノかな。
- 2016/01/19(火) 00:00:00|
- 絵画
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私の父親は申年生まれだった。
そして私は寅。
それを幼い頃、「五黄の寅」だと言って「将来は・・・。」などと言われた。
丙午の年には「女の子が生まれたら可哀想だ」といって出生数が有意に減った年がある。
男の方だって「殺されちゃ叶わない」とでも思ったか。
よく言われることだが「人工衛星が火星や冥王星まで飛ぶ時代に・・・何を言っているんだ。」と、私も思う。
同じ五黄の寅年に生まれた男子が同じように威勢良く生きられるものか。
しかし、人は大概自分に都合がよいことは受け入れる。そのほうがご機嫌がいい。
そういうわけで???何故だか神社に行けば必ずこの干支の絵がある。
神社詣でと干支の人に及ぼす影響を信じる心性は共通だからだろう。 神社も、こういう蒙昧な知性や理性がよりどころだから、こういう習慣を保守したがるのだと私は思っている。
まあ、こういう風俗習慣はなかなかに根強いから当分廃れはしないだろうが。
で、いろいろなイベントでも正月気分をもり上げるために干支の動物が登場する。
斯くいう我が家にも、ある画家からいただいた猿の色紙が掛けられている。
亡くなった父を思い出すよすがとしてもちょうどよいとばかりに掛けたものだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この大鳥居から北に行けば平安神宮。
最近改修工事で公園部分が拡張されたが、そこで開かれるのが平安楽市。 出店数が大きく増えた。

会場でおなじみの出店者の方々と新年のご挨拶をしながらぶらぶら歩く。
すると。

現在は日本画を描いているのだそうだが、「こういう絵を描く人はいないかと公募があったので・・・、動物や花などの絵はよく描くので・・・。」とのことでした。

若い作家たちが機会をとらえて自分の絵を見てもらうのは悪いことじゃないと思う。
「誰に似てるのぉ?」と3,4歳くらいの男の子の声。
「誰だろうねぇ?」と母親。
う~ん、まだ猿の顔というより人の顔になっている。
まだこれからの書き込みだろう。

それにしても好天が続く。
陽の光を受けていると上着一枚を脱ぎたくなる。 それでも日が陰れば・・・寒くないとは言わないが、いつもの耐え難いような「京都の底冷え」はない。
出店者にとっても観光客にとっても体は楽だろう。

ただ、寒い時にこそ・という商品は苦戦する。
喜んでいる人ばかりではない。
入院させた愛機の修理代が「・・・・・。」だそうで、大いに頭を抱えている。
そうかといって新たなモノを買うお金はなおのことないし。困ったことだ。
今はキアノンの5Dでしのいでいるが、私にはどうにも使いにくい。
ファインダーが暗いし、クリアではないからピントがつかめない。何しろAFが使えなくてMFだからご覧のように被写界深度を深くして誤魔化している。

がんばって、あと15年は写真を楽しみたいから・・・・などと何歳まで生きられるのか・・・・いつか次のカメラを検討することになるのでしょうが、どうか、いいファインダーのカメラが作られてほしいものだと思う。
- 2016/01/18(月) 00:00:15|
- 絵画
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この左手に「奨学金を無利子で」という意味のプラ板があった。
本当にそうだと思うし、大学をはじめ高校でもあまりに学費が高すぎる。
せめて奨学金を無利子にして貸与すべきだし返済期限も大幅に長期にすべきだ。

こどもたち、青年たちに学びを保証できない社会が発展するわけがない。
希望に満ちた世相を作ることができるはずがない。
ここに若い男女がマイクを持ち、ビラを手にし、またシール式投票板をもって活動をしていた。
この背中を見せている女性も一緒に行動する仲間だ。

主張・政策について道行く人にシールで賛否を投じてもらう宣伝行動がよく見られる。
これは彼らが自身の訴える政策・主張に大きな自信を持ち得ているからできる活動形式だと思う。
自分たちの主張や政策が国民多数によって共感共有されるという自信が根底になければできないことだと思う。やらせやあらかじめシールを張るようなことを、彼らはしない。

ただマイクを持って「演説」するだけなら一方的に自分たちの主張を垂れ流すことができるが、こうした対話型の行動は一面ではとてもシビアだ。拒否もあるし反論・攻撃もある
しかし、彼らはこうした対話こそ「とても楽しいし、やりがいがある」という。
実際すこしも深刻ぶってはいないし、妙な気負いもない。

たまたま居合わせたカップルも「邪魔だなあ。鬱陶しいなあ。」というのではなくて真摯に耳を傾けながら対話をしていた。
(ご覧のように今日の行動は始めたばかりの様で貼られていいるシールの数が少ない。そこに彼らの・…当然ではあるが・…正直さがある)

彼らに声に声をかけて「写真を撮って君たちの様子をブログで紹介したいが・・・・。」というと喜んで応じてくれた。
ただ・・・・日本社会は表向き言われているほど思想信条について(実質的に)自由ではないから・・・・「顔出しOKですよ。」と確認できた人だけにした。
でも、私も行動しているところを伝えたいなあという思いを他のメンバーからもひしひしと感じたので
「背中を借りてもいい?」とお願いした。

脇を通り過ぎる青年たちも決して無関心な人ばかりというのではない。
私がギャラリーなどで出会う若者たちも、私たちの時代とは違った政治環境の中で暗中を模索しながら様々な問題について自ら問い続けている。
「僕たちの世代は政治的に無関心で行動しないと言われているんですが・・・。」と彼ら世代の実態を内側から突き崩したいという青年は決して稀ではない。
- 2016/01/17(日) 00:00:48|
- 人物
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経糸、横糸とは言わないでしょうが、それぞれの竹をくぐらせることで模様をだし、成形していきます。

このお仕事は「頼まれ仕事」でテーブルに敷くものを作っているのだそうです。

こちらの方は「彫金」の職人さんです。

作業台の手前には簪や透かし彫りの枠に囲まれた手鏡などが展示されています。
細密な加工がされています。

「長年彫金をされている熟練した職人は素材の金属が何であっても・・・・糸鋸で・・・まるで同じ素材を切るようにどんどん切っていくけれど、私ぐらいだと『粘りのある素材だなあ』などといちいち切り方が変わってしまう。」
こういうことも実際に職人さんに聞いてみないと、私のような素人には思いもつかないこと。
熟練した人は素材の性質の違いを手ごたえで分かっていてもそれに瞬間的に対応されて、見かけ上は何御ことも変わらぬようにしていいるいうことなんでしょうね。
写真の場合にも、きっと同じことが言えるんでしょう。
- 2016/01/16(土) 00:00:37|
- 伝統工芸
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この伝統工芸館は烏丸御池にほど近いところにあります。
そこでは素晴らしい工芸作品が見られるとともに、京都伝統工芸大学校の卒業生や生徒さんたちの制作実演を見せていただける。

私はそこでいろいろなお話を聞き、制作の様子を見せていただいて学ばせていただくほかに、幾度も写真を撮らせていただいている。
熱心な見学のお客さんがあるとはいえ、そこまで混雑することもなく、静かに見学し・・・・撮影をもさせていただけました。
お客さんの邪魔になるのではないかという心配も、しばらく待機して様子を見ればやがてチャンスは巡ってきます。

この竹細工の方です。
以前にもお会いしているのですが、その時には竹を薄く削って制作のための素材づくりをされていました。
この「仕込み」に多くの時間を要されるのですし、またこうして見せていただく機会もとびとびでしたので、「竹を編む」様子を撮らせていただくことはできませんでした。
それを覚えてくれていて、撮影を快諾していただけました。

黒竹を編んでいました。
単に機械的に編むのではなくて、竹の肌の色の黒いものやや明るい色のものなどを順に配置することで組み合わせ、網目の妙にさらに色の変化と組み合わせの面白さを加えています。
節の位置も計算づくです。
- 2016/01/15(金) 00:00:08|
- 伝統工芸
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これはこの人の提案です。
いいですね。
ピントボケが、かえって良い感じかなと。

この人の性格だからこそできた写真ですね。

何だかフィルム時代の様な風合いになりました。
このところAFで撮るとピントが奥になってしまってボケるように思います。
そんなことってあるんでしょうか。
私の視力からいって、マニュアルでのフォーカスがあてにならないのは十分承知してはいるのですが、それでもかなり気合を入れても外れます。
視度調整もしてるんですがね。

これ、次の個展に使いましょうか。

ほら、感じが違うでしょ?!
この人と組んで「お金を出してもいいからほしい。」と言っていただけるただけるような写真が撮れるのじゃないか・・なと淡い期待を抱いています。
それにしてもカメラは「検査入院」決定ですね。
- 2016/01/14(木) 00:00:45|
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面白い写真を撮ろうとすればフォトマヌカンをしてくれる人の協力が必要です。
そして、その人自身が、写真づくりに興味を抱いていただけることが。
そういう意味では、ただキレイだとかかわいいだとかいう外見上の条件だけでないものをお持ちの方でないといけないのです。

この人はすまして撮るのも絵になるんですが、案外?「調子に乗る」と面白い面が出るんです。

私はスタジオなどを使えませんから、どこかの地下駐車場とかを利用したいなんて思ているのですが・・・・。
こういう場所をみつけて、・・・・・。

でもこういう撮り方をしていたのでは、成長がありませんねぇ。

フォトマヌカンにおんぶにだっこです。

いつだったかプロの写真家が
「構図については教えられないねぇ。これはもって生まれたセンスだよ。教えてできるのはそこそこのことまでで、魅力ある構図は、その先だね。」とおっしゃっていました。

カメラの性能がどんど良くなり機能も増えてきています。
どうかすれば、こういう構図で撮れば見栄えがいいですよとファインダーに「下絵」が出てきそうな勢いです。
そうなると人は何を楽しむのでしょうね。
- 2016/01/13(水) 00:00:08|
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「人は見かけによらない」ものだというのはいろいろな意味で肝に銘じておくべき言葉。
私のようなものでもこうした「素敵な人たち」に写真撮影をお願いできるというのはその好例なのですから・・・という事が話の筋ではなくて・・・・。
この人は「お酒はあまりいけないほう」なんだそうで、
先日、『会』の「忘年会」の際に、私の正面におられてお隣の方と「痛飲・談笑」されていたのだとばかり思っていたのですが、それは私の勝手な思い込みだったようで・・・・。

そういう事ってありませんか。人の予断というのは案外強固で、「人を見かけで判断するな」ってなかなか難しいものですよね。
でも、「素敵な人」探しは、その外見での判断が相当大きくかかっわっているわけで、・・・・。
そういう意味では、撮らせていただく人探しは、多分に「人相見」の要素もあるんじゃないかと思うわけで、外見を見て外見以上のものを察しないといけないわけで、
・・・・これまで、案外成功してきているといってもいいんじゃないかなと思っています。

勿論、舞台裏は「一見たちどころに人格・品性を見抜き・・・」なんてことではなくて、結構いろいろ話を聞かせてもらい他の人とのかかわり方などを垣間見てお願いしているのですが。
で、「土偶」なんですが・・・・と話を続けると、あまりに話の筋が強引なんですが・・・・こういうものについて「予断」というか「思い込み」が結構あるなあと思っていたんですね。
というか、こういう世界に案外科学的な作法がきちんと貫かれていないことが問題なんですが。

例えばわかりやすいところで「遮光器型土偶」という名ですよね。発掘し発見した人がたまたま抱いた印象で「まるでイヌイットが付けている遮光器をつけているようだ。」と言って命名したわけで、それは単なる思い付き以上ではないのだと思うのでして。
当時の列島人が遮光器をつけていたなんて何の証拠もないわけで、命名されてしまうと逆に「当時はこうした『遮光器』をつけるほどの知識があって・・・・」という事になってしまったりします。
それは縄文式土器の時代も同じことで、この特徴ある土器が出土する時代地層から出土する土器に普遍的に縄文が施されているというわけでもなく・・・・。

また一方では弥生式土器の時代の「弥生式」というのが東京にある地名の「弥生町」から出土したという事で、命名されたわけで、 方や出土地によって命名され、他方は表面の装飾で特徴づけるなんて全く科学的な比較ができないわけです。
技術的特徴にもならなければ、そこから時代の何かがうかがえる命名でもなくて、・・・実にでたらめな命名法だと思うわけなんです。

だから土偶を見て現代の生活的常識から思いついた命名をすると、事実を探求する道を曇らせてしまうことも多々あるわけで、そういうことに対して科学者というのが、きちんと科学的な命名法によって再命名をすると言う様な事をさぼってきているように思われるわけなんです。そういう意味では科学者たちもな案外怠け者だと思うわけで、それによって初学者の学習を妨げていることも多々あるように思うのです。
そのよい一例が「前方後円墳」。
どちらが前か後か分かってもいないし、こういう墳墓にとって何をもって前というか後というかということ自体が大きな問題・謎なのに、既に結論を得てしまって命名されているとうけとれば、このことは疑問にさえもならないのですから。
まあそれは歴史学者にだけ限ったことでもなく自然科学にもよくあることなんですが、
そういう思いつきを「事実」扱いして組み上げたお話を「歴史」にしてしまう傾向を時に見るのです。

だからこの人のように現地の歴史博物館などに通って実物を360度眺めまわして発言することが大切だと思うわけで・・。
正面からの写真資料を見ているだけでは間違えてしまうこと、見落とすこと、思い込んでしまうことが多々あるわけです。
私なんかもよくそういう誤りをやります。
しかも先入見を持ってみると「見れど見えず」なんてことはいくらもあって、
関東ローム層なんかから石器が出るはずはない、列島には旧石器時代はなかったんだと、そういう目で見れば、人工的加工痕を「自然的崩壊」としか見られなくなるわけで、・・・洪積世の地層に見つかる石のかけらを「石器ではないか?」などと思いもしない惰性的な思考に陥るわけです。

そういうことはジェンダーバイアスにも言えることで、これまで男性が蓄積してきた「書かれた歴史」を、女性が改めてそうざらえすることには意味があると思うわけです。

縄文式土器の時代にも土偶にも興味関心のなかった多くの女性や子供たちに歴史を見る扉を開くという大きな仕事をされている人です。
- 2016/01/12(火) 00:00:06|
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「多聞会」という会が主催で縄文式土器の時代について、またその時代のものとして発掘される「土偶」についてのお話を聞く機会があった。
最近むやみに縄文式土器の時代の文化がもてはやされて、現代の混乱を救うのは縄文式土器の時代の生活・精神の在り方だ、などと言われるので、そのことにも・・・・批判的な…興味があって聞きに行った。
京都の町が非常な人出で込み合う日に行われたその会に、私は大幅に遅刻して駆け付けた。

そ~っと障子を開けて会場となっていた部屋の後ろに紛れ込むと、話はすでに・…当然のことながら・・・既にずっと進んでいた。
会場は建仁寺の塔頭の一つ「両足院」。
お話を補足する資料が前の方から順番に回されてきて、お隣の方に手渡す。
そのお隣さんだった方がこの方。

まあ、美人と見れば手当たり次第に声をかけるのだなあという大方のご批判は甘んじて受けましょう。
「歴女」なる言葉があって、戦国武将は言うに及ばず神社巡りをするものもあれば、城めぐりする若い女性もあるという。
縄文弥生の世界にも若い女性が興味を持つのは、悪くはない。悪くはないが・・・・、なと思いながらちらちら見るのだが、古代以前に興味関心があるという事から勝手にイメージする「地味」な感じとは幾分違うような。

そうこうしているうちに話は一段落して「質問はありますか?」という事になり、
さらに、それでは最後に次回への展望も含めて、次の会の講師をしていただく○○さんから今日の話に関連して少し発言を・・・と司会の方が会場の客席に目をやる。
促されて、やおら立ち上がったのがこの方。
なんと「歴女」などというレベルの人ではなかったのか?!

あえて誤解を恐れずに言えば「歴女」的なアプローチとアカデミックな歴史・考古学的な研究との間にトンネルを彫る役割を果たしていると言う様なスタンスの方の様だ。
土偶を「この子たちかわいいんです。」という、こういう言葉を歴史講座で耳にすることなんていまだかつてなかった。新鮮といえば実に新鮮で、一部方面の方は眉をしかめること確実そうなのだ。
そうなると俄然野次馬根性がわいてくるのが私の「悪い癖」。

土偶の掘り出される現場では麦わら帽子に長靴スタイルなんでしょうが・・・・もっともこの方は「考古学者」と言ったような意味では土堀が専門ではないんですが・・・、煌めくアクセサリーにピンヒールが普段の姿。
このギャップが考古学的な土っぽい世界に新鮮な風を吹き込んでいるようなのだ。

そういうことを知ると「その人を知りたい虫」がもぞもぞと動き始める。
たまたま私が人物の写真を撮っていることをご存知の方が、今日の司会をされている方で、会の主催者の中心人物。で、そうなれば「写真撮らせていただけませんか?」となるのが当然の?流れ。
・・・・えっ?! 何が、どこが当然の流れなのかですって。 いや、まあ、その、何です・・・・・。・・・・
- 2016/01/11(月) 00:00:24|
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「日本画」と言わずに「膠彩画」と言っている。
その時点できちんとものを考える人だろうなあと想像しました。
「日本画」に多い花鳥風月も描いてきたのだそうです。
しかし、それにとどまることなく『絵』を描いています。

私の息子と同じ世代ですが、その世代の課題を自覚しています。
私のような世代の持つ重苦しさというものに対しては敬して遠ざける傾向が若い世代にあります。
が、自分たち世代に何かしら機軸を立てなければという気持ちがあって、私たち世代の言葉にも耳を傾けます。

写真も長年関心を持ちとってきたのだそうで、未だにフィルムで撮っているとのこと、「何十台も分解してきました。」とメカニズムにも強そうです。
ファインダーの重要さにも大いに賛同してくれました。
デジタルカメラになっていわゆるハイスペックな高級カメラでも「ファインダーは今一つですね。」
フィルムカメラのファインダーを覗いている人にはわかるのです。

実は私のメイン機のAFが狂い始めました。 と、思います。
そのためにせっかくのチャンスにこの3枚しか生き残りませんでした。いよいよ困った事態です。
はてさてどうしましょうか。
- 2016/01/10(日) 00:00:00|
- 絵画
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若い人たちは私などの思いもつかないことを考える。
この人はドイツのベルリンのお住まいで、そこで仕事をされているのだそうだが・・・。
正月もまだ4日という時。
年末から年始にわたってギャラリーで個展やグループ展をされている人たちがいるという事自体が私には驚きなんですが・・・・そう思いながら見に行くという私も私ですが・・・・・、この人は親しい友人とお二人で展示即売j会をされていました。

なんとなく会場の雰囲気が「異なる」感じで・・・・・。
なんだろうと覗いてみると、何だか摩訶不思議なものが並んでいます。
「これは布製で手作りの蠅叩きなんです。そしてこれは東ドイツ時代の寒暖計・・・・・。」

ブリキのピストルや薬瓶? くたびれた毛糸のスゥエ―ター ガラクタ市で買い集めてきたような品々です。
(お友達は生け花をされているそうでそこここに花を活けています。)
これらたくさんのものをスーツケースに詰め込んで帰ってきたのだそうです。どうせドイツに暮らしているんだからドイツの香りのするものを持って帰ろうと考えて・・、それもB級品を・・。」

私だったらこなことは思いもよらないでしょう。たとえ思いついたとしてもスーツケースの半分以上をこうしたもので一杯にして帰ってくるなんて・・・。
知り合いのバレーダンサーがドイツにいることを話し、もしポスターに「○○ なおみ」の名前があったら見に行ってあげてくださいと。
海外では同国人と会えることはなんといってもうれしいことです。
(イタリアではそうした同国人に対する懐かしさや安心感を利用した悪い人たちがいるから気をつけてなんて何度も注意されましたが・・・、こうした感情を抱いてお互いに励ましあいたいと思うのは自然な感情ですから)

今夏、ドイツからの若いアーティストたちの写真を撮ることになるかもしれないので、なおさら「ドイツ」という単語に反応しました。
それにしても自由は発想だなあと感じ入りましたし、何より実現していく行動力がすごいですね。
- 2016/01/09(土) 00:00:54|
- 人物
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重厚な作りの建物を生かしてレストランがあります。
そのレストランの若きシェフ。
フロアースタッフに「お席はどちらになさいますか?」と尋ねられてシェフの技の見えるカウンターへ。

いつでも、見たい撮りたいモードですから、お店にはお邪魔かも。
けれどこのお店では以前も素敵なスタッフを撮らせていただいて、今度も「どうぞどうぞ」と快諾していただいた。
若いスタッフたちのきびきびした動きが好きだ。

今回はたまたま「あれっ?!○○さんですよね。お久しぶりです!」と一人の若いスタッフに声をかけられたところから、一層「どうぞ」の雰囲気になって・・・・。
かつても今もくりくりした魅力的な目をした若い女性スタッフが、旧知の人だと分かるのに時間はかからなかった。

私は良く冗談で「この店の採用条件には容貌の良さが入ってるんじゃないか?」というほど男性も男前ぞろいですし、女性たちもも力的です。
「いえ、そんなことはないと思いますよ。」と別のフロアスタッフ。
若い世代のスタッフが多いせいかきちんと撮ることに対しては案外抵抗感が少なく、「有難いと思います。」とさえ言ってくれる。

勿論、客が込み合わない時間帯だからこその話だが。
この店の料理はおいしいし、ボリュームもたっぷりなので、きっとまた行くことになるだろうけれど、その時もまたきっとカメラを手放さないことだろうと思います。
- 2016/01/08(金) 00:00:42|
- 料理
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年末から年始にかけての写真展だそうです。
同じ建物の4階では、同じ期間に「木喰」の彫った仏像を絵に描いた作品の個展がありました。
三が日に写真展が開かれているなんて・・・・実は・・・・想像もしていませんでした。
ある人を撮る撮影のロケハンのために街歩きをしていたついでに、今後の予定を確かめるために立ち寄ったのです。
人は休みなく活動しているんですねえ。
「おっ!! 職人の手だ!」と、それらの作品に見入っていると
「それは私のものです。」と声をかけてくれました。

写真でも絵画でも、グループ展で、その人の作品御前になった時に作者が声をかけてくれることは、・・・・ないのではありませんが・・・・いつものことだという事はありません。
私はぜひそうあるべきだろうなあ、そうしないではいられないはずじゃないかなあと思っているのですが。

バイオリン制作の職人さんたちをその工房に訪ねて撮影されたそうです。
しかもご自身がバイオリンを練習し始めるほど親密に交流して。
「いや音楽にはならない、ただの音です。」と謙遜されていましたが。

職人を撮る経験は私にもありますから、いつも持ち歩いている写真を見てもらいました。
大阪や京都の有力な写真グループをご存じで、よくよく調べ、知ったうえでこのグループに加入されて活動しているとのことでした。
私が、昨年とてもルーズな、しかし魅力的なグループに加えてもらったことを話師ながら、なぜ大半のグループには入ろうと思わなかったのかをお話しすると、「わかるわかる」と共感してくれました。

お嬢さんをかわいく撮りたいという思いから写真を始められたそうですが、写真に対する意識は相当高いと感じました。
イタリア生まれとのことですが、それまでどういう仕事をし、どういう生活をしていても、すぐに芸術に入ることができるという国民的素養というものを感じました。
私があなたを撮りたいというとすぐに快諾してくれて、写真を照らす照明の下に立ってくれました。

この会場は何時も暗くて撮りにくいのです。しかも今日はカメラがキアノンの5Dで、しかもf3.5からの暗いズームレンズをつけているのです。
このところピントを外しっぱなしで大いに凹んでいるところでしたが、どうぞどうぞ撮ってみてください、と励ましていただいたので撮りました。
背面液晶モニターでは「やった!!相当いいぞ。」なんて思ったカットも大ボケでした。

この人ならピントを追い込む時間をちゃんとまってくれたのになあと後悔しました。 この写真もピントが来ていませんね。
いいポーズに、黒く沈んだ背景に聡明そうな額や、雄弁に語る指先が浮かび上がったいい写真になるはずだったのになあ。
しかし、小一時間交わした写真談議は実に楽しく有意義でした。
ぜひまたお会いしたい人でした。

尻込みしないで、撮る!!
う~ん、まだまだ弱いなあ。 頑張ろう。
- 2016/01/07(木) 00:00:38|
- 写真
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「そうそう、そのままそのまま。もうちょっとで・・来るからね。」
モニターを見てもらって、ほらこうなるよ。これを待っていたんだよ、と。

もう一回やってみるからね。
う~ん、今度は・・・・・・と。

じゃあ、もう一度、いいかなぁ。 もうちょっと、もうちょっと我慢してね。
・・・・・・。
と言っておいて、私が待ちきれませんでした。タイミングが早過ぎました。

モニターを見てもらうたびに一緒に喜んでくれたり、失敗を残念がってくれたり。

やあ、今日はお疲れさまでした。ありがとう。
と言いながら最後まで撮影チャンスは続きます。

あちこちから引っ張り凧・・・になる気配のこの人に「また撮りましょう。」はいつ実現するかわかりませんが、
この人によって、これまでの人たちがそうであったように、私の写真を少しずつ押し上げてもらえる予感がします。

では、またね。
- 2016/01/06(水) 00:00:01|
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昨日は、ほんの少し寂しさの混じった笑顔でお別れしました。
で、今日は、この笑顔でお会いします。

私自身は、十代二十代の頃に帰りたいかと聞かれれば、帰りたいとはいえません。
それは以前にも書いたように、画家の「いわさきちひろ」さんと同じような心境だからです。
今もあのころの事情を原因とした夢でうなされることがあります。
よくも、かろうじて…ひとまず外見上は・・・人並みにここまで来れたものと自分の人生を危ぶみます。
そして、そうした体験を通じて多少とも身に備えたものは、自分が選び、努力してとにもかくにも「能力」というべきものになったのですから・・・・職人が長年の手入れで、自分に合った道具を手に入れたように・・・良くも悪くも自分があるのですから、それを振り出しの白紙にしようなどとは到底思えません。
若いという事はまぶしくもあり羨ましくはあっても、そうだからと言ってそこに戻ろうとは思はないのです。
そして現実の若者に対しては、愉快で晴れやかなだけでない青春期を生きている後輩として共感し応援していきたいのです。



同じような写真が並びますが、おそらくこれからしばらく私の写真はこういう方向に進むのかなと思います。

つまり、・・・と言葉にしてしまうとお終いなので、・・・・・。
「うん?! 何か面白い感じがするなあ、何かいい感じだ。」と思って言うただけるように工夫をしながら撮っていきたいと思っています。
これが、いいかな。

この上下の写真の良い点を重ねられたらいいんですが、その時に咄嗟に両方を意識することがなかなかできないんです。
そこは感性として練っていかないとダメなんでしょうね。

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- 2016/01/05(火) 00:00:47|
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「フェイスブックをやってないんだって?!」と、ある方にあきれられてしまいました。
今時、少しでも自分のしていることを世間に知ってもらいたいと思う者で、フェイスブックを使っていない者なんていないよ、とのことでした。
「それじゃあ個展に来る人が少ないのも仕方ないなあ。」とも言われました。 やったからって来るというわけじゃないけど、やってなかったら話にならない、のだそうで・・・・。

私は撮らせていただいた方に対する責任というか、なんというか、できるだけ良い写真として撮る努力をすることと、撮った以上はより多くの方に見ていただくことに努めねばならないと思ってはいるのです。
ですから、こうして皆さんに見ていただけるというのはとてもありがたいわけでして・・・。
まして「拍手」も累計45,000ほどもいただけて。
それもこれも撮らせていただいた方々のお蔭なわけで・・・。

ここではわざと髪を編んでもらっています。

三つ編みの女の子と武骨な鉄の構造の組み合わせで

何を撮ろうというのでしょう?

「乙女」らしさをモノクロで撮るには・・・・どうしたらよいかなあ。
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- 2016/01/04(月) 00:00:29|
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私が除夜の鐘を撞く音を聞いたお寺から、最初に初詣の様子を見た神社までは、歩いて1,2分と離れていません。
小さいですが歴史的に古くかつてはかなり広い神域をもっていたという神社です。たくさんの方々が参拝に来ておられました。

北野天満宮にもまた平野神社にも、そしてここ今宮神社にも多くの人がお参りに来ています。
そしてたくさんの人が神に手を合わせ、おみくじを引き、絵馬を書いて奉納しています。
人はなぜこうして「祈り、頼む」のでしょうか。

人がこの世に生を受けてたどる道はそれぞれですが、神に詣でる人々の笑顔の波に紛れて、それぞれがどんな苦悩を抱えているのかを想像すると切ない思いにとらわれます。
それだけにこの人のように健康そうで生き生きと働いている若い人を視ると、何かこちらまで幸せな感じを抱きます。

こうした人を今年もたくさん見つけられるといいなあと思います。
外国から京都に来て働き・生活されている人を撮るという昨年の目標も引き続き追求したいことの一つです。
何が尊ばれなくてはならないのかが混乱し、時に逆転している現代に、お互いが人に対するまなざしをまっとうに立て直すことが必要だと痛感しています。

学生の写真展で、学生たちに言いました。
「これらの写真を見て君たち現代の学生が何を見つめ、それをどう見ているのかをおじさんは見てるんだよ。」と。
同じことを自分にも言わねばなりませんね。

たくさんの写真の撮り手とその写真を通じて会話をしたいものです。

ですから今年もできるだけ写真展にも足を運びたいと思います。
絵も彫刻も版画も・・・・・見せてもらいたいと思います。
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- 2016/01/03(日) 00:00:32|
- 働く人々
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初詣にはいかれましたか。
私は無信仰ですし、幸い神頼みしたくなるような事態にも陥っていませんので、自転車で「初詣風景」を社会見学です。
食べて飲んでばかりではお腹が出てしまいます、脚力が落ちてしまいますからね。
ここは今宮神社の東側。あぶり餅で有名なお店です。

つい先日こちらの店がTVで紹介されていました。
道を挟んで、元祖と本家を争っています。
天皇家や上賀茂社家に匹敵するんじゃないかというほど長く続いているそうです。 こちらは創業以来1000年だそうです。
でも、もちろん私の狙いはそこに働く人。
この人は「かざりや」さんの方。創業から400年の「本家」の方ですね。

とにかく正月元旦で、初もうでの人出ごった返していますから、忙しさも半端ではないわけで・・・・。

声をかけるのもはばかられる感じですが、エチケットはエチケット、
「写真いいですか。作業の様子を撮らせてください。」
「どうぞ。」とにっこり。
そのあとは、もう振り向きもされません。当たり前ですよね。

撮る位置を変えたりアングルを変えたり・・・・そんなお邪魔なことはできません。
お客さんにだって迷惑です。
みなさん整然と列を作って長い時間を持っているのです。

- 2016/01/02(土) 00:00:28|
- 働く人々
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